2010-2-6JSEEO設立大会に於ける兵頭演説骨子

 みなさま、いろいろありがとうございました。
 冒頭演説そのものは、近日中に、実験インターネット・ラジオ放送局にて、ライブ音源が確認できるようにしようと思います。
 とりあえず以下、要点。
●間接侵略とは何か
 昭和29年6月制定の「自衛隊法」の「第3条」に「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略 及び 間接侵略に対し わが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。」
 とあるが、その定義が無い。
 この時期、あきらかに日本国の周囲は、直接侵略もはばからぬ 危険な勢力だらけであった。
 そんな環境下での「間接侵略」としては、日本国内では具体的にはどんな様態が想定されていたのかは、「自衛隊法」以前の、法律の文脈を探ってみるとよい。
 朝鮮戦争が進行中であった昭和27年8月1日施行の「保安庁法」の「第61条」に、「内閣総理大臣は、非常事態に際して、治安の維持のため特に必要があると認める場合には、保安隊又は警備隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。」とあった。
 さらに「保安庁法」の「第70条」には、「……左の各号の一に該当すると認める相当の理由があるときは、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。」としていて、その「2」には、「多衆集合して暴行若しくは脅迫をし、又は暴行若しくは脅迫をしようとする明白な危険があり、武器を使用する外、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合」と説明していた。
 自衛隊法の「間接侵略」のイメージとは、この「多衆集合」した「暴行」や「脅迫」が、非常事態と 連動したものだったのだろう。
 具体的には、中共軍が朝鮮半島を制圧してさらに北九州に上陸せんとする、そのタイミングにあわせて大阪や東京で反政府暴動が起きる――といった事態。
 スターリンは昭和28年3月に死ぬまで、沿海州と樺太の間の海底トンネルを囚人に掘らせていた。
 樺太から北海道へ侵攻しようという意欲を死ぬまで持っていた。
 昭和27年10月には米空軍の偵察機が歯舞上空で撃墜されている。
 国境のすぐ向こうまで、強い外国軍がやってきていると承知することで、国内の「第五列」も元気づくわけ。
 昭和25年8月10日公布・施行の「政令第260号」、すなわち「警察予備隊令」。時期は、朝鮮戦争が勃発してから 2カ月経っていない。
 その「第1条」には、目的として、「この政令は、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため 警察予備隊を設け、その組織等に関し規定することを目的とする。」と。
 「第3条」には、任務として、「警察予備隊は、治安維持のため 特別の必要がある場合において、内閣総理大臣の命を受け 行動するものとする。」と。
 ここで「治安維持のため特別の必要がある場合」と言っていた事態が、要するに保安庁法の「非常事態」であり、また自衛隊法の「間接侵略」なのであろうと考え得る。
 自衛隊が警察予備隊として発足した当時は、間接侵略対処こそが唯一最大の目的だったのだ。
 日本に対する直接侵略の危険が急減したと確認されたのが、昭和31年2月のフルシチョフによるスターリン批判。当分、ソ連と中共の合作戦争が、ありえなくなった。
 日本にとっての脅威は、戦略核兵器の脅しを背景にした政治工作や、間接侵略の方に、ますます重点が移った。
 朝鮮戦争のさなかに日本国内で華々しく活動を開始した反日工作勢力も、夢をあきらめられず、社会主義政党の中に紛れ込んで、機会をまった。
 「間接侵略」という表現を初めて採用した「自衛隊法」がつくられた昭和29年には、わが国の内部に、モスクワと北京がそそのかす暴力革命の危険が、確かに潜在していた。
 軍事的、外交的、経済的、もしくはなにかそのほかのきっかけで、日共に煽動され、ふたたび第3国人をコアな活動家として送り込まれた労働団体等が、反政府武装ゲリラと化し、国内社会を混乱におとしいれ、近隣共産軍に日本への干渉を呼び掛け、それがついに警察力では鎮定できなくなるという事態を、昭和29年の自衛隊法第3条は、想定していたのだと、解釈してよいだろう。
 戦後、わが国の労働運動をこのような反政府過激運動に転換させるよう誘導した張本人は、アメリカ合衆国。
 ダグラス・マッカーサーとそのスタッフは、占領下の日本人民が、昭和天皇のもとには二度と結束できないようにする必要を感じていた。
 そのために、昭和20年の終戦の直後から、米国内の日系の共産党員や、英語の話せる日本人マルキストが、重宝に活用された。
 米国は共和主義国。
 昔からの君主を否定する主義。
 その主義上の親近性あるがゆえに彼らは、君主のもとで固い結束を誇る日本人民を弱体化させて占領政策を容易にするためとあれば、ソ連の手先と分かっている共産主義者を駆使することに躊躇しなかった。
 もしGHQの戦後占領政策に、日本政府がまっこうから反対を唱えるようなことがあれば、米国は、いつでも、日本国内で共産主義者が指導する暴動を敢えて取り締まらせないことによって、天皇制を破壊してしまうことができた。
 天皇を人質にとったこの脅しに、戦後の日本政府は屈した。
 ならば昭和27年に日本が法的に独立したあとの日本政府の喫緊の課題は、ソ連・中共はもとよりのこと、米国が二度と日本国内の反日主義勢力を使嗾して日本国民の団結を破壊することなどできぬように、間接侵略に対する自衛力を構築することだった。
 しかし吉田茂以下、日本の政治エリートは、大きな強い軍隊を一国内で統制する方法を知らなかった。
 西洋政治史の根幹部分を、誰も学んでいなかったからだ。
 昭和20年の敗戦まで、東京帝国大学法学部で、教官たちが、外国の官吏官僚機構と、日本の官吏官僚機構を比較して研究したものを印刷したり発表することが、明治いらい、ずっと禁止。
 せっかく研究してもその発表が禁止されているようなものを真剣に研究しようとする教授は、いない。他の官立大学も同じ。
 かたや私立大学では、政府に就職しようと思う学生が少ないために、そのような研究講座の需要もなかった。
 この人文系の致命的な研究統制があったがゆえに、敗戦後も、日本のエリートの誰も、どうやったら文民政府が軍隊を統制できるのか、自信をもって答えられる者が、一人もいなかった。吉田茂も、アメリカ軍に日本国の憲兵になってもらうしかないのだと考えた。
 エリートの無知のため、旧陸軍省や参謀本部の政治的権力の復活をことのほか恐れねばならなかった大蔵省・外務省・旧内務省その他の文官勢力は、いつまでも不完全な国防体制こそが 戦後の日本にとって理想的なのである――と、心の中で判断した。
 日本を永久にアメリカ軍の庇護が必要な属国とし続けることによって、彼らは安心していられると思ったのだ。
 彼らは、最も必要であった警察官の定員を増員しなかった。
 そして、陸上自衛官の定員をその警察官の人数以下に抑制しようとした。
 なおかつ北京からの教唆に、渡りに舟ととびつき、防衛費をGNPの1%未満に抑制するなどとまで公約してしまい、さらにまたその分母のGNPを財務省官僚が勝手にGDPにすりかえるといった無定見を反復するばかり。その間、一度として、米軍からの燃料および弾薬補給の援助なしに国防が全うできるような体制を構築したことはない。
 戦後日本の歴代政府は、米国の胸先三寸で、いつでも直接侵略および間接侵略を受けてしまうという、米国の属国であり続ける道をすすんで志願している。
●古代からある間接侵略
 間接侵略は、近・現代の発明品ではない。
 わが国は、西暦500年代以前から、間接侵略工作にさらされてきた。
 6世紀の欽明天皇以前のわが国史には確実詳細な説明は不可能。
 しかし、三韓といわれた新羅、百済、高句麗のうち、最も対馬に近く最もシナ本土から遠かった新羅が、シナ本土勢力と結託してさまざまな対日工作を仕掛け、特に筑紫地方や山陰地方の土着勢力に大和朝廷への反抗をそそのかしていたと想像することは、古今東西の地政学の常識と矛盾しない。
この問題意識が共有されていたからこそ、『日本書紀』には 大掛かりな神功皇后の三韓征伐のエピソードが記載されることになったのだ。
 仁徳天皇治世の末頃、わが軍の新羅征伐に呼応するかのように上総で蝦夷が叛乱したと記録されているのも、同じ構図。
 さらに、継躰天皇治世に至って、百済政府が、「大伴のかなむら」を筆頭とする大和朝廷の権臣たちに贈賄することにより、任那領土の三分の一をまんまと割譲させることに成功したと記述されているのは、国史の上で間接侵略工作の危険性を警告せんとしたもの。
 続く西暦527年の筑紫の「磐井の乱」は、年号を確定できる最初の対日間接侵略。工作を仕掛けたのは、これまた、最も日本に近い外国であるところの新羅。
 天智天皇が東国の蝦夷の日本国民化を急がせたのも、新羅の間接侵略工作が、東国の反政府活動を刺激するおそれがあったからだ。
●戦前期のナチの間接侵略
 両大戦間期のドイツの対日間接侵略工作は、文字通り日本の明治体制を滅亡させた。
 昭和8年の1月から12月にかけ、ドイツではヒトラーのナチス党が、あれよあれよという間に国家の全権を掌握。
 やがてナチス党が東京のドイツ大使館に送り込んだ武官のオイゲン・オットー将軍は、徐々に在日ドイツ人の思想統制を完成し、昭和11年に「日独防共協定」が成立すると、それを根拠に、日本内務省に、ナチ党幹部のフランツ・ヒューバーを、情報官の名目で常駐させる。
 ドイツ大使館は、日本の新聞に、ナチスのイメージを悪くするような事実の報道が載るたびに、陸軍省や内務省にいちいち苦情を申し入れるようになった。
 すなわち、反ナチ宣伝は、容共だというわけ。それは日独協定違反ではないか、と。
 数年を経ずして、内務省は、ほとんどナチスのエージェントのようになり下がった。日本の新聞にナチス礼賛の記事ばかりを書かせる言論統制に、すすんで没頭するようになった。
 これは、ドイツ大使館からの苦情の申し入れだけが原因であるとは考えられない。
 想像を絶する巨額の賄賂が、外交工作資金として東京で撒かれていたのだと考えると、三国同盟締結までのマスコミ論調の不健全化も、あとから納得しやすい。
 内務官僚は、日本の文官の最高エリートであったくせに、賄賂や接待に籠絡されて、たわいもなくナチスに魂を売った。このように認定されたからこそ、第二次大戦後、GHQは、日本の内務省を解体した。
●冷戦後の世界の現況。シナ軍はハードウェアが脅威なのではない。
 シナ軍には、ハードウェアに重大な弱点がある。
 そのICBMは、ほとんど実戦的な訓練発射をしていない。要するに中共には、米国と正面から戦争する気など、さらさらない。
 絶対に戦えない相手である米国。その米国と軍事同盟を結んでいる日本国を弱体化させるためには、北京には間接侵略の手段あるのみ。
 このハッタリを見破れる軍事評論家が日本国内に少ないのは残念だ。
●マッカーサー偽憲法という敵
 「マック偽KEMPHO」を基本的に奉戴している結果、日本の政府や政治家や役所の幹部には、国家の安全保障に関してやって良いことと悪いことの区別がつかない。
 明治憲法では、国防は国民の義務だった。
 明治維新は、反近代的なシナ文明圏を抜け出して、西欧近代国家になろうとした革命。
 近代主義は個人の自由を増進するので、国民がこぞってその革命を支持し、幕府も藩もあっという間に崩壊し、かつての殿様とかつての武士とかつての町人の権利・義務は等しくなった。
 建前として近代国家とは、全国民がよろこんで合意している契約の表現空間なのだから、その空間の自由を全員で、あらゆる手段で、外敵の暴行から守ろうと奮闘するのは、あたりまえの話。
 しかるに「マック偽KEMPHO」には、日本人の義務に国防の義務があるとの明記がなく、それどころか却って、日本人民には対外的に無防備である義務があるかのような構成となっている。
 国民にもし「国防の義務」が無いのだとしたら、「売国」という言葉も日本人にだけは適用できぬ。
 外国人は善人であり、基本的に悪くないのだから、外国人の利益を図ってやることが、どんなに日本人の利益を損ねるとしても、それは「売国」とは呼ばれぬ。
 普通の近代国家であったならば、必ずや「売国」と呼ばれたであろう数々の醜い行為が、戦後のわが日本国に於いてのみ、堂々と、高位の公人によってなされているのは、戦後のわが国が「マック偽KEMPHO」によって支配された空間だから。
 「マック偽KEMPHO」は、インヘレントな自然権の延長である自衛隊の存在すら、はっきりと禁止している。
 これを「禁止していない」と強弁するのは、日本語の破壊でなくば曲解。
 そのような曲解を重ねて法治国家を運用している日本国政府は、外国政府から「じつは成文法典なんて尊重していない、一夜にしていかなる豹変をも為し得る、シナに近親で 融通無碍な、反近代的な人治国家だろう」と疑われ、信用されていない。
●武器輸出国が守るべき道徳とは?
 日本がいつまでも武器輸出を外交の手段とできない原因もここにある。
 「マック偽KEMPHO」下の空間では、独立した自由主義国家として、輸出して良い武器技術とはどんなものか、輸出してはまずい武器技術とは何か、あるいはまた、輸出してよい相手国はどこで、輸出してはいけない国はどこらへんなのか……等々の判断が、閣僚級政治家や事務次官にも、皆目つかぬ。
 ゆえに、放っておけば、小は機関銃から、大は弾道ミサイルにそっくり転用可能な宇宙ロケットの要素までを、西側民主主義国と価値観を共有しない、あるいは政情がどう混乱するか読めない、某国やら某々国から、いくらでも乞われるままに、格安輸出に応じ、物騒な商売に励みかねない――と疑われた。
 この疑いには、今日なお、根拠があると承認せざるを得ない。
●武器開発はベンチャーが担うがよい
 国家が属国であり、憲法が偽憲法であったなら、どうして政治家や官庁や大企業が、最善の国益の指針を示すことなどできようか。
 現状では、わが国では、武器開発や武器輸出の正しい方向付けも、国家の中枢指導部においては、誰も考えられないようになっている。
 ごく少数の役人が、それぞれの天下り先確保の意図で政策を発信しているだけ。
 大手の武器メーカーも、それにつきあい、働かざる高級社員のためにいかにして無駄なポストをつくり、無駄な仕事を確保するかに智恵をしぼっている。 ベンチャー企業が自発的に兵器を試作し、国家に売り込めるような、法的な枠組みを整備すべし。
●運動は無理をすべからず
 おしまいに、本機構の財政の見通しについてでございます。
 集ったお金以上の支出を続けて行けば、どんな任意団体も、立派に立ち行くはずがございません。
 JSEEOはそもそも、100名以上の賛同者を集められるだろう、との甘い見通しのもとで発足したのでございます。
 この見通しのもとに、練馬区・栄町にワンルームのオフィスを賃借し、事務局の電話とFAXとパーソナルコンピュータを置き、ホームページを開設し、2名の事務局員がかわるがわる詰め、この2名には月々の給与も支払われるという体制を昨年から採っております。
 もし100名以上の賛同者が得られなければ、この体制は累積赤字をこしらえるだけなのであります。
 「設立準備室・代表」という肩書きを目下、名乗らせてもらっておりますこのわたくしは、この火をみるよりも明らかな大赤字の累増を座視することはできません。
 そう思いまして昨月、設立準備室・事務局の池田洋一君に対し、この設立大会直後に栄町の事務所を畳んで事務局の住所を池田君の現住所に移すのが適当ではないか、と説得を試みました。
 が、当機構の設立準備資金を一人で捻出してくれた当人である池田君は、事務所の整理には反対の様子です。
 かえりみますに、賛同者がわずか十数名しか集らないことの第一の責任は、この代表の兵頭二十八の徳の無さに尽きるでありましょう。
 そこでわたくしは、熟慮の末、本日の懇親会終了時点をもちまして、「設立準備室代表」の肩書きを事務局に返上致し、爾今はJSEEOの一「サポーター」となり、間接侵略拒止の言論運動を、北海道から声援する決心をいたしました。
 また、桜林美佐先生と奥山真司先生には、赤字の団体の役員にご就任いただくわけには参りませんので、せっかくですが「発起人」をご辞退くださるようわたくしからお願いを申し上げましたところ、すでにご諒諾をかたじけのう致しております。
 という次第で、このJSEEOは、本日正式に事務局長に就任いたします池田洋一君が当面運営をとりしきる団体として、とりあえず発足できることとなったことを、ここに慎んで皆様にご報告申し上げます。
 本日までの会計収支の詳細は、近日中に、すべての「賛同者」ならびに「サポーター」の皆様宛て、事務局から郵送にてご報告させます。
 そして明日以降は、さまざまなご案内や広報の内容も、必要に応じて書き改められるでありましょう。併せてどうかご注目をいただければ幸いに存じます。
 ぜひとも、新体制の指導組織には、全国から、旧に倍する賛同者・サポーターを得られますような、魅力と包容力のある人物、堅実な企画力のあるスタッフを、お集めいただきたいのであります。
 そうした人選、ならびに新体制の今後の運営方につきましても、どうか皆様からの宜しきご指導を頂戴いたしまして、せっかくのこの「日本安全保障倫理啓発機構」の言論運動の火を、絶やさずに持ち伝えて参ることができましたなら、設立を呼び掛けた者といたしまして、まことに本懐にたえません。
 今日、日本国民が、近代的な「国防の倫理」をなかなか自覚しにくく、そのため、外国の間接侵略工作に関して重大なセキュリティ・ホールを有しておりますこと、この根は、けっして歴史的にも浅くはないのであります。
 この欠陥を是正しようというわたくしたちの運動は、短期決戦などではあり得ません。
 じみちな啓発活動を、長く永く継続する以外に、事態を改善する方法はどこにもないのであります。
 だとしますならば、JSEEOの事務局が財政的に無理を重ねることは絶対に禁物である。
 ありがたくも寄せられた皆様の浄財の範囲内で、運動を1年また1年と継続する方法を考えるのが、期待される任務である。事務局は左様心得てもらいたい。
 もちろん、具体的にどうして行くのかは、明日以降、組織を代表して領導する池田事務局長以下の合議により、智恵を出し合って決定されるべきことでありましょう。