由井正臣・校注『後は昔の記 他――林董回顧録』(S45、東洋文庫173)所収の「林董伯自叙伝 回顧録」(執稿はM34)には、林がM4-9に「軍略の書」1部を翻訳して陸奥宗光に提出し、それは今(M34)は山縣有朋のところにある、と書いてある。
この書名のヒントは無いが、林は英語のスペシャリストである。仏語は分からないと自分で語っている。
また、林が西園寺内閣の外相を辞めた後、つまりM42=1909前後に『時事新報』に速記させた「後[のち]は昔の記[き]」(おなじ東洋文庫に収録)の中には、年月が不詳ながら、林が、英国の「ウォルセレー子爵の軍書」を読んだことがあること、そして、そこには、アジア式の変則戦法は、西洋の正規軍相手には通用しないので注意しろ、と書いてあったことが語られている。
この話は、その前段に、黒田清隆が箱館山の後ろをよじのぼってきた奇襲戦法について語り、それは黒田の常套手段だった、と批評したあとに飛び出す。このコンテクストは重要で、かんぐれば、山縣有朋に対してヨイショのメッセージを送っているのだ。
さて、この英国の子爵とは、Garnet Wolseley, 1st Viscount Wolseley(1833~1913) 以外にはいないだろう。
ウーズリーは最後は元帥となり子爵にまでなったが、生まれはショップ・キーパーの息子であったという。これは英文ウィキペディアには書いてなく、手元の『Who’s Who In Military History』による。英文ウィキは、アイルランドに駐屯するスコットランド聯隊の少佐の長男であったとする。
元帥になったのは1894で、それと同時に子爵になったのかもしれない。とすると林は1894以降のウーズリーの正式タイトルを知っていたのだ。まあ、それは職掌柄、当然。
以下、ウィキの摘要。
ウーズリーが英陸軍に勤務したのは 1852 ~ 1900である。
Ashanti campaign (1873~1874) ではアフリカを縦横に暴れた。
ナイル遠征とは、Mahdist Sudan を征伐するもので、1884~85である。
なにしろ効率的な働きぶりだったので、「すべてがサー・ガーネット」である、といえば、すべてが整っている、のジャーゴンとなったほど。
ビルマでは太腿に受傷。その後、中尉に。
ダブリンで静養してから、クリミアのバラクラヴァに上陸。
セバストポル要塞包囲では工兵に配属。3年せずに大尉に昇任。
彼はクリミアで二度も負傷し、片目を失った。
補給廠長として、最後までクリミアに残留した。
レジョンドヌールの5級も貰っている。
ついでシナへ。
バンカ海峡で輸送船が座礁し、将兵は小火器だけで上陸した。
部隊はシンガポールからインドへ転用された。
補給の高級参謀としてシナに対する英仏合同遠征軍に加わる。
※第二次阿片戦争か。ちなみに、「ロジスティクス」という言葉こそ米語だが、英軍には「クォーターマスター」がいたわけである。
太沽要塞と天津を占領し、北京に入城。そのとき紫禁城の破壊が。
帰国後の1960年、ウーズレイは1冊の本を書いて出版した。『Narrative of the War with China』である。
※1860とは安政6年~万延元年だから、函館で捕虜だった林がM3-4に釈放された後ならばこの洋書は自由に手に入ったろう。「東洋人の奇襲など西洋軍には通じん」と書いてあったのは、この本かもしれない。もし山縣が早々とその訳文を入手し、読んでいたら、気に入っただろう。なぜなら新潟戦争いらい、山縣と黒田は作戦が対極的すぎ、互いに反発していたからだ。
ウズリーはトレント事件に関係してカナダへ。
さらに1862、アンティータムの戦いの直後、中佐であったが、臨時に英軍を辞任して南北戦争の修羅場にでかけた。
これは英国が南軍を応援するための、北部における秘密工作任務であった。北部州の中にも「南部=英国」贔屓の人士がいたので、彼らをバックアップしようとした。
メンフィスのフォート・ピロウで1864-4に黒人兵捕虜が虐殺された事件に関与したフォレスト中将について、ウォルズリーは遺憾の意をあらわしている。
ウーズレーは1869=明治2年に、有名なテキストを書いた。それは『Soldiers’ Pocket Book for Field Service』というもので、以後、相当に版を重ねた出版物である。
※じつは林がM4-9に翻訳して陸奥に渡したという「軍略の書」1部とは、これではないのか? というのも、紀州藩は陸奥の肝煎りでプロシア軍制を導入しようとしていた。最新の定評のある基本軍事図書ならば、英軍のものであれ、参考需要があったはずだ。刊行と翻訳のタイムラグがピッタリしている。そしてこの本も最終的に山縣に納められたかもしれない。もしかして、林が2つの本を混同している可能性もあるだろう。
ウズレーはマニトヴァをカナダから独立させようとした騒ぎを鎮定。
このとき、人跡稀なカナダのすごい湖沼地帯を長駆機動する作戦をもののみごとにやりとげた。
※もし海軍将校スコットの代わりにウーズリーのような陸軍の逸材が南極探検をプランニングしていたらノルウェー隊に勝てかたもしれない。まさに得難い人材。
少将のとき、手柄により、男爵になった。
大将になってから、ハルツームのゴードンを救出に向かう。間に合わず。
1894に元帥に。
1897に大病。
英仏海峡トンネル案には、頑強な反対派であった。
ウスレーはその後、1894(明治27)にマルボロ公チャーチルの本、1895にナポレオンの本、そして1903には自伝も書いた。
キャラ立ちしていたので英国の芝居にもそれらしい人が登場した。ギルバート&サリバンの脚本『ペンザンスの海賊たち』に出てくるスタンレイ少将は、彼のイメージだといわれる。
※林は晩年、自分の人生をふりかえると、信じていたことが後で間違っていたと知る、その連続であったなぁ、と、漢詩(本人が書けたとは思えないんだが)の中で愧じている。陸奥宗光=紀州藩=米国と組んで、もういちど政府=英国に対抗した内戦を起こすつもりが、廃藩置県でパー。これは寝耳に水だったらしい。日英同盟だって、林は最初は「できっこねえ」と思っていて、青木や加藤の方が熱心だったのだ。人生は分からんもんだ。