▼フランシス・マカラー『コサック従軍記』新時代社1973pub.
1906の原書をM41に参本が訳した「胡朔隊二従軍記」。それを現代語化してある。
▼防研史料『明治44年 陸軍兵器本廠歴史 附録』
▼防研史料『陸軍兵器本廠歴史 附録 明治44年次以降 昭和6年迄』
▼防研史料『陸軍兵器廠歴史 第10編』S7~
さ号車とせ号車の記録が登場する。
▼『昭和16年度陸軍兵器廠歴史』
対米開戦後に工廠が「モーゼル拳銃実包」を大量に戦地補給していることがわかる。
「手投火焔瓶」も制式化されている。南で一段落つけたら、すぐに対ソ戦をやる気満々だった。
▼『偕行社記事 No.296号附録 兵器検査講評類纂』
▼『偕行社記事 No.299』M35-10
▼『偕行社記事 No.714』S9-3
▼『偕行社記事 No.715』S9-4
▼『偕行社記事 No.716』S9-5
▼『偕行社記事 No.717』S9-6
▼『偕行社記事 No.718』S9-7
弥助砲の解説。
▼『偕行社記事 No.719』S9-8
▼『偕行社記事 No.317』M36-7
▼住田正一ed.『日本海防史料叢書 第一巻』所収・藤森弘庵著「海防備論」
初版はS7-7であるが、それをH1にクレス出版で復刻している。
むかし、孟子が恵王に説いた。先づ義理の弁を詳らかにする(義は天下の公道である。利は一人の私である)。国是を定める。その次に、手の下し様(民と楽を同じうす)、という順番だった。
この順番にしたがう。
開戦し、一敗したら、通商しますなどと気を変えてしまうのは、さいしょから通商するより、十倍も禍である。
ロシアと通商して、ロシアを頼んで外国(米国)を防げばよいと論ずる阿呆もいる。強盗に助けを求めるようなもの。外国を頼みて敵を制せんとして、国の立ちしこと、古しえより其のためし無し。
高級官僚どもは、禄だけが大事。妻子を思い、今貰っている高禄をとにかく失わないようにする。天下の安危など少しも思っていない。だから失敗を恐れる。まずい結果になり責任を問われ、左遷されて収入(ポストに付随する足し高と、ポストゆえの莫大な付け届け)をなくしてしまうことをおそれる。ゆえに緊急時にも誰もイニシアチブを取ろうとしない。
「いかなる良法も時勢かはれば随って移しかへねばならぬ也。天下は活物。しからざれば死法になりて、活物を制する事難し。」
「防備の術は攻むるに生ず」。
西洋の「兵士」というのは、皆、わがくにの「中間[ちゅうげん]」のようなものなのだ。無頼・無恥の者をあつめて、軍令をきびしくして、とにかく進退を一にして、隊伍で戦わせている。というのは、兵士はすべて遁げるものだという前提なのだ。遁走させぬように兵を統制して遣うのが、西洋の軍法なのである。
理想的には武士を戍営に土着させるのがいちばんなのだが、わがくには百姓稠密で、とてもそんな余地がない。だから、「無拠常詰」のプロフェッショナルアーミーとし、平日、水戦(=海上戦闘)を操練させる。「武士皆水と馴るゝ様にすべし」。
松前は「満州」とロシアに接している。千島も追々蚕食されている。しかるに武備もいきとどかない一小藩だ。手薄である。
ロシアはますます北方に入植して蚕食する勢いである。
対して松前藩は「蝦夷〔アイヌ〕を虐使して」追々(ますます)人別(人口)が減少する勢い。どうしようもない。
もし蝦夷地を失うと、日本という家に垣根の無いも同然の状態となる。そうなっては、ロシアという盗人をふせぐことはぜったいにできない。
まとまった兵力を配すべきだが、松前藩にはそれに給養するだけの財力がない。となると、文武に長じた諸侯をえらび、その大名に、南部や津軽の領地もあわせてくれてやって、合計で30万石くらいにしてやって移封し、鎮戍させるしかあるまい。加増付きならば、大名家は移封を拒まない。その大名に、「仁恵を加へて蝦夷〔アイヌ〕を存養」させて、人を殖やし、こちらから開拓する勢いに逆転することが、北方防衛の基本方針だ。
そうじて、「固滞」を除き、「実用活機」を主とすることだ。
すべての武家において、中間以下の郎党は、足軽以上の働きをするようにして、「戦士」を増やすことだ。
諸大名に大艦を建造させる。そして、参勤交代をできるだけ大艦でさせる。その大艦には大砲を積ませる。下層デッキにはコメを積んでついでに運べ。商人の商品も載せてやれ。
参勤交代のないときは、これに海浜戍営の将兵を上乗りさせて海戦訓練をさせる。
この準備があれば、もし遠方で凶荒があったときは、自在の海運によって、食料を届けられる。
大艦・大銃は、天下の利器であり、外国人の長所なのであるから、それは採用して、わが長所を増さねばならぬ。鉄砲伝来のときも、そのようにしてきた。
大艦・大銃も、はじめは外国製を学び、やがては、外国もかなわないほどのものを国産すべきだ。
この利器がないとなれば、人胆はおのずから、おくれを生じてしまう。
しかし、彼がまだ知らない火箭、火矢、そのほか焼き打ちの道具をいろいろと工夫し、幾通りもそろえて、敵の不意に出ることだ。
敵の真似をしているだけでは絶対にダメだ。なぜなら大砲の先進国は、大砲防禦の先進国でもあるだろうから。その不意に出ることはできない。
陸上の防禦は、まず「清野」の術(=焦土戦術)で、敵軍をすっかり内陸へひきあげてしまい、敵の艦砲が到達しないところで、疾風の勢いでわが軍が肉薄戦法で急襲することだ。
しかし、百里の内を守ろうとするなら、百里の外にのる(=のりだして攻める)勢いがなければ、守られるものではない。追い討ちだって必要であろう。だから、日本にも、軍艦は必要であるし、その数も、多いにこしたことはない。
特に江戸湾へ闖入するための虎口である浦賀は、そこに陸上砲台だけを置いても、敵艦を江戸から遠ざける役にたたない。大艦を出して欄遮をしなければ。
アメリカに対して交易を断ると、イヤガラセにわが沿岸の海運を妨害されるという日本人がいるけれども、こちらに大艦と火輪船があれば、その心配もない。
台場増築とか、鉄鎖を海面に張れとか、すべて小児の見である。
海堡は、こちらにまず大艦がなければ、孤立無援となる。そこに大砲を置いても、応援の火力が届かなければ、けっきょくは、敵兵に占領され、なけなしの大砲を奪われるだけである。
大艦があれば、日本人は攻撃的な気持になる。「決戦」して敵を防ごうという志が定まる。それに対し、台場とか鎖とか杭とか、そんなものは方針からして逃げ腰であり、われわれの志が臆病になる。その精神状態では、決して外敵を制することなどできない。
そもそも徳川幕府が諸大名に大艦の建造を禁じたのは、地方大名が外国に「通路」して、内証で交易することの弊害ならびに邪宗門の伝染の害が心配されたからであった。
しかし、大艦の運用権を幕府が一手に握るならば、そんな心配はない。だから、「祖法」をないがしろにすることにはならない。
建造費も、平時にこの軍艦に商品を積んでもいいということにすれば、商人が出すだろう。
陣地防禦の類は、たのみにしないこと。それに努力を傾注すると、人々がそれを期待する心を生じさせ、皆が臆病になってしまうから。
是非なく開戦となったら、もう、これまでの準備の悪さを愚痴ってもしょうがないのであるから、とにかく、衆力を一にして必死をきわめて手詰めの戦さをするより外はない。
大船は、堅牢でないならば、敵の大砲1発で沈められる。それでいちどに多数が溺れるだけなので、有利とは限らない。むしろ小型船多数で対抗することを考えるのが当座は現実的だ。
主たる戦法は、大砲で勝とうとせず、乗り移って焼き打ちすること。それを、筏に乗せた大砲で後方から支援させる。
水兵は、腰に「浮き袋瓢」の類を付けて、溺死を予防すること。
……といったことをを嘉永六年七月に書いている藤森恭助、只者ではない。幕末インテリのレベルは今の「軍事評論家」以上なのだ。
▼蜂谷吉之助ed.『藩學史談』S18-6
平沼騏一郎の国本社の機関誌『國本』にS6から6年間連載されたものを1冊にまとめた。この時点で国本社は解散している。解説寄稿者はいずれも、維新前にその藩で教育された人たち。
日本の義務教育は、寛政の改革によってほぼ全国的に「制度化」したのだということがよく分かる。
しかも熱心な藩では、士族は40歳まで藩校に通学する義務があった。
長州には「小者」はなくて「中間」があったが、彼らには剣術も鎗術も炮術もゆるされず、「棒、捕手、柔、拳」などの武技だけが推奨された。中間階級の山縣有朋の悔しさが分かる。
毛利敬親は、田舎の村住まいの諸士は、地方の学校の2里以内(1日往復可能)に在宅しなければならぬとした。ここから、家塾がたくさんできることになり、それがそのまま明治の小学校になった。
「長門の國は、朝鮮女真と相対する海国」という意識があって、『海國兵談』も天保年間に藩校のテキストとして使用している。
諸役には、不学無芸の者は採用しない。人材ならば二男三男でも登傭する。
文武は諸士の本職である。しかし、不才無能のものを厳密な発令で就学させても本人に寸益もないから、席簿を汚すだけのようなことはしない。
宇和島から書生が大坂に遊学すると、どうきりつめても、1ヶ年に10両は必要だった。寛政6年の話。
烈公は幕府に、文武異職はダメだと認めさせた。それで儒者には僧体させないことになった。
弘道館記に「文武不岐」と言ってある。
落第はなく、そのかわり卒業式もない。文武の道に卒業などないのである。 水戸藩では、役人を採用するのに入札をした。今の投票である。
嘉永5年に横井小楠は諮問にこたえて『学校問答』を慶永に上呈した。そこでは、「学政一致」が必要だとされた。従来、学校からは未だ一人の人才が出たことなし。たとえば、簿書に習熟し、貨財に通じ、巧者にて文筆達者な役人はできるが、その役人には修身の思想がない。儒者はその逆。これではダメだ。
修己と治人とは一致しなければならない。こういうことは、橋本左内も『明道館記』に記している。
橋本左内は、キリストの死後、それから「偽帝」(ナポレオン)の前と後とでは西洋世界は一変している、と手紙に書いている。時勢と人情に適合しないと人々の指導などできない、と。左内はまだ23歳だった。
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「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
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また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
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