中共海軍には、米・日・豪軍の潜水艦が南シナ海に入ってくるのを止める方法がたったひとつしかない。防禦目的での「浅海面用沈底機雷」の敷設である。そして、手前で仕掛けた機雷の位置を精密に記録する能力が、シナ海軍の特設敷設艦(多数の漁船の徴用)には無い、と来ているのだ。
つまり、日本企業がベトナムに工場を造ったって、中共の機雷によって南シナ海が半永久に通航不能になるのだから、投資は結局、回収できなくなるであろう。
中共の公船による侵略(グレーゾーン/クリーピング・アグレッション)を周辺国が阻止するには、平時を戦時に切り換え、警察機関ではなく海軍(海自)が前に出て敵公船を撃砕する必要がある。米国務省の伝声管にすぎぬ日本外務省にはその「切り替え」能力は無い。しかし自衛隊とフィリピン軍にはある。
わが領海内に、主権国家の平時の当然の権利として、機雷を敷設することである(フィリピンも同様)。これを知って、敵公船がわが尖閣(またはフィリピン沖のスプラトリー)の領海を敢えて侵犯すれば、シームレスに平時が戦時にきりかわってくれる。わが外務省がいかに無能でヘタレでも関係はなくなるのだ。
シナ海軍と海警は、習近平の統制下には無い。だから日本(またはフィリピン)が機雷を仕掛けたと聞けば必ず向こうから出てきてこっちの領海に突入して戦争を始めてくれる。そのようにして平時が戦時に切り替わるとこんどは海自の潜水艦のシナ軍港への接近を恐れて彼らが防禦用の機雷をあたりの海面に数万発も撒きまくり、それで勝手に自滅してくれる。アジアはやっと平和になる。シナ人の専制支配から、アジア人民は自由になれるのだ。
インド海軍も、対支有事となって、その必要が認められたならば、その戦術潜水艦によってマラッカ海峡に機雷を撒くことが、簡単にできてしまう。それだけでも、中共はもうおしまいだ。インドはじつは切り札を持っていたのだ。
その場合、日本も影響を被ってしまうが、日本にとってのシーレーンはマラッカ海峡だけじゃないので、我慢することができる。かたや中共は、マラッカ海峡が塞がれただけで、体制そのものが崩壊してしまう。これは全アジアの利益である。
ベトナムやフィリピンには、機雷を撒くことだけに特化したミニ潜水艦を格安で輸出するとよい。コロンビアのコカイン密輸組織や、スウェーデンの一個人、あるいは米国の小型船舶メーカーすら、レッキとした「潜航艇」(数人乗り)を製造できるのだ。せいぜい深度数十mしかない南シナ海に機雷を撒くのには、そのレベルで十分だ。そして中共海軍には、そんな豆潜航艇を探知する能力が、事実上、ゼロなのだ。
魚雷発射機能の無い潜水艇は格安で建造でき、訓練も何もいらない。オフザシェルフ製品として、「売りっぱなし」で済む。メンテナンスも買い手がなんとかできる。そう、トヨタのオフロード車が、アフリカや中東のゲリラに愛用されているようにね。(トヨタのISISをパロディにしたおふざけ動画がすこし前に米国で話題となったが、日本国内のユーチューブ紹介サイトではものの見事に「自己規制」スルーされているようだ。トヨタおそるべし。)
農水省がコメではなくイモを作付けすることで、ある程度の有事カロリー自給を考えよう、と、政策転換した。しかし『兵頭二十八の農業安保論』でも説いたように、日本の近未来の有事とは、LNGは入ってきても、原油は入ってこなくなる(なぜならホルムズ海峡とマラッカ海峡が機雷で閉塞するから)、という事態なのである。
日本のトラクターが電動式になっているならばいざしらず、軽油や灯油で運転される農機はすべて動かせなくなる。収穫品を配送するトラックだって動かす余裕がなくなるだろう。肥料だって一気に値段が何倍にもなる。それらを前提としない皮算用は、すべて夢遊病の世界のできごとだ。
警察は、「ワイヤー付き迫撃弾」を警戒すべきだ。それを山の中の送電線めがけて発射すれば、原発は送電先をうしなって、機械保護のためシステム停止するしかなくなる。迫撃弾は、時限発射式にして、山の中に残置すればよい。(これについては今書店で売られている『Voice』四月号の兵頭記事も御覧ください。)
災害と戦争とテロに対して靭強な日本社会は、山の中に小規模なLNG発電所を分散的に多数建設することで、実現する。電気の地産地消であり、また、広域ネットである。それには、ガスパイプラインの全国構成を先行して急がねばならない。
発電所が多数分散しているなら、有事の巡航ミサイル空襲にだって強い。原発のように海際にあると、韓国軍艦の艦対空ミサイルでも精密に燃料貯蔵プールを直撃されてしまうけれども、山の中の多数の小規模発電所が簡単に全滅することはない。
以下、余談。
冬になると長野市街から南西(軽井沢の方角)によく見える「菅平[すがだいら]高原」という大雪原がある。四阿山[あずまやさん](2354m)の南東斜面なのだが、この「すが」も、「しが」の転訛なのかもしれないと思った。
もしそうだとすると、「しが」はもともと氷のことではなくて、里からよく望める顕著な雪山のことを呼んだ言葉だったのかもしれぬ。