中共陸軍は削減。空軍人数は据え置き。増やすのは海軍と戦略支援軍とロケット軍。

 Troy Bickham 記者による2017-7-15記事「Should we still care about the War of 1812 ?」
   1812年の米英戦争で米側はくりかえしカナダ侵攻をこころみたが、ナポレオン戦争中であるにもかかわらず英側はそのすべてを撃退することが可能だった。
 ミシガン準州で、米地上部隊は「降伏」させられた。
 海上では、初期には単艦同士の交戦で米側が手柄を示すこともあったが、全期を通じて英海軍が米海岸をブロケイドし、好きなように上陸して都市を襲撃した。DCも焼かれている。
 1814の後半に英側から寛大な休戦条件が提案された。カナダには南侵可能な歴戦部隊もあり、大西洋の海上権は掌握。米側は事実上の財政破綻。ニューイングランドでは米国から分離独立しようという声も上がっていたほどなのに。
 ところが英本国ではリヴァプール内閣が不人気に陥っていた。ナポレオン戦争のために国民は延々と重税を負担し続けてきた。さすがにもう疲弊していた。
 イングランドの中部と北部にあった工業地域の有権者は、合衆国市場でモノが売れなくなってしまい、対米戦争の長期化には強く反対していた。
 ナポレオンが屈服してウィーン会議が始まると、もはや対米戦争など税金の浪費以外の何物でもないと英有権者は考えた。
 そこで、初期には和平案条項に含めていた、かなりの広さの北米国境地域のインディアンごとカナダへの割譲という条項は撤回され、対米和平が急がれた。
 自由選挙(ただし普選ではなくまた婦人と奴隷もまだ関係ない)で政府が選ばれている国家同士、そして経済的パートナーである国家の間では、戦争など起きはしないのだ――と主張されていたその当時の無根拠な仮説は、1812~14の英米戦争の事実によって、粉砕された。
 選挙によって登板し選挙によって失脚する政府は、必然的に自国の世論に敏感たらざるを得ない。まず世論が外国に対して怒り、自国政府に戦争を求めるのだ。
 当時のカナダは英殖民地だが、選挙で議員が決まる現地議会は存在した。その議会メンバーの中には、むしろ米側に立って英国と戦争しようと叫ぶ者すらいた。
 最初に英国から合衆国へ渡ってきてそこからカナダへ移住した親戚とか、最初に英国からカナダへ渡ってきてそこから合衆国へ移住した親戚などはごく普通にいた。米加国境地帯では緊密な経済関係が築かれていた。
 合衆国は1812開戦後でも、欧州戦線とカリブ海戦線の英軍諸部隊に対する、穀物兵糧の最大の供給産地だったのである。
 今オンタリオ州と呼ばれているカナダ中部の広大な地域は、じつは合衆国が独立した後に合衆国から流入した「新ロイヤリスト」たちによって建設されている。
 これがまた誤解を誘導した。北侵すれば住民が寝返る、と合衆国側では都合よく空想したのだ。
 米政府は開戦時に有権者に約束した戦争目的は達成できなかった。
 カナダ住民はこの戦争によって団結し「国民」化したというのが後世カナダの伝説。だが、実態は、かなりの住民が米側に立って戦闘した。
 マディソンは「第二の独立戦争勝利だ」と国内宣伝に努めた。
 この戦争は、アンドリュー・ジャクソンを戦争英雄にした。一部では「第二のワシントン」だと絶賛。
 このジャクソンが、合衆国にポピュリスト政治や、過去の抛擲を叫ぶスローガン選挙を持ち込む。つまりはトランプ氏の大先輩だ。
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 Shawn Martin 記者による2017-7-15記事「The Birth of Laser Weapons」。
  米軍がレーザー研究に出資しはじめたのは1960年代であった。
 20世紀にはさまざまな化学レーザーが試された。
 酸素-沃素レーザーはパワーが出なかった。
 弗素レーザーとか水素レーザーは化学剤が揮発的に消散してしまう難点があり、かつまた艦艇に簡単に搭載できないくらいに嵩張った。
 ファイバー・レーザーが思い着かれてから、ようやく、開発は前進しているところ。
 『ポンセ』に搭載した30キロワット型レーザー砲は、まだ1マイル弱の射程しかない。
 こいつはイランのUAVや特攻ボートには有効だが、ミサイルのRVには無効。
 げんざい、ノースロップグラマン社が、ONRからカネをもらって150キロワットのレーザー砲を開発中である。
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 まったくニュースじゃないのだが、北海道のJRをどうすりゃいいのか気になって、鉄道再建王であるエドワード・ハリマン氏について英文ネットで確認してみた。
 Edward Henry Harriman(1848-2-20NY生まれ。1909-9-9NYで病死)。
 ハリマンの父は、エピスコパル派教会幹部。つまりユダヤ系でも何でもない。
 先祖は1795に英国から移民してきた貿易商人である。
 少年時代に鉄工所で夏のアルバイトをしたことあり。
 14歳で学校をやめてしまい、ウォールストリートの使い走りボーイに。
 そこには叔父がいたので鍛えてもらい、22歳にしてニューヨーク証券取引所の正規メンバーとなった。
 1879年、31歳でマリー・アヴェレル(Mary Williamson Averell)と結婚した。
 このマリーの父ウィリアムが、NYの投資銀行家で、かつ、シャンプレーン湖鉄道会社の社長だった。そこでハリマンも鉄道に興味をもつ。
 彼は潰れかけていた別な鉄道路線を買い取り、それを再建して巨利を得た。これが彼の最初の大成功体験。
 ユニオンパシフィック鉄道の社長になったのは50歳を目前とした1897であった。
 1898に彼は絵に画いたような大企業の「独裁者」となり、死ぬまでそのようにふるまった。彼の命令が法律であり、それをすばやく実行することが「協働」なのだと称された。
 1901に南パシフィック鉄道の社長にもなったハリマンは、UPとSPを統合しようと図ったが、それは連邦に阻止された。
 それでも彼は次々と国内の鉄道会社を傘下におさめていった。
 既存の鉄道に利益を産ませるためのキモは、ストリームライン化と規格化。複線化への多額投資も惜しまない。
 死の時点で、「太平洋蒸気郵船会社」も所有していた。
 NYTの1905-6-28日号に、ハリマンが家族連れで日本へ出発すると報じられている。それによると予定ではセベラル月も帰らないつもりだった。
 ハリマンは2ヶ月間訪日した。そこで柔術に興味を覚えた。
 帰国にあたって、トミタ・ツネジロウ、マエダ・ミツオら6人の柔術家/剣術家を帯同する。
 1906-2-7にはその一座がコロムビア大学の体育館で演武を見せている。※英文ウィキには「1905」と誤記してあるので注意。NYTの1906-2-4に報じられている。
 1909に死ぬ前年の1908にもエリー湖鉄道を買収した。終生、鉄道ビジネスに打ち込んだのである。
 ビジネス成功の秘訣は、まったく休まずに鉄道の効率化と利潤を追求したことにあり、それ以外の何もない。
 1904にTR政権は彼を米国内の鉄道をひとりで独占しすぎているという咎で法廷に引き出し、分割させようとした。
 1907の新聞戯画。ハリマンは悪玉の独占王として描かれ、政府が羽交い絞めにして制圧している。
 ジョージ・ケナンは1917に『E・H・ハリマンの極東計画』という本を書いている。
 またジョージ・ケナンは1922にハリマンの2巻モノの浩瀚な伝記も書いている。
 毎年、鉄道の安全に寄与した人に贈られる「E・H・ハリマン賞」は1913に未亡人により創設された。
 鉄道王としてのハリマンを知りたい人はモーリー・クレイン著『The Life and Legend of E. H. Harriman』を読め。
 ハリマン本人はエピスコパル派教会墓地に葬られている。
 ハリマン夫婦の間の5人目の子供が、ウィリアム・アヴェレル・ハリマン(1891~1986)である。トルーマン政権下の商務長官。また、NY州知事、駐モスクワ大使、駐ロンドン大使。