とうだいもとクラッシャー!

 Michael Peck 記者による2018-8-17記事「This Is Where Japan Might Have Gotten the Idea for Pearl Harbor」。
   ※かなり前の記事の再掲らしい。
 英空母による伊タラント軍港に対する奇襲雷撃は、1940-11-11である。夜襲だった。
  たった1隻の空母『イラストリアス』が参加した。護衛は、重巡2、軽巡2、駆逐艦5。
 タラント在港のイタリア軍艦は、戦艦6、重巡9、軽巡7、駆逐艦13。
 イラストリアスが発進させられた航空戦力は、スフォードフィッシュ×21機。
 複座の複葉機。
 速力は140マイル/時と遅いが、航空雷撃にはそれが適しており、じっさい、独戦艦『ビスマルク』もこれで沈めている。
 攻撃隊は2波。まず12機が。つづいて9機が発進。
 各隊とも、半数は魚雷の代わりに照明弾と徹甲爆弾を吊るした。
 イタリア軍は防雷網を張っていたものの、タラント港には水深があり、スウォードフィッシュのリリースした魚雷は、その防雷網の下を潜って駛走した。
 空襲は夜の11時前に始まり、12時前後まで及んだ。
 爆弾は1発も命中しなかった。
 英側の損失は、スウォードフィッシュ2機。乗員2名が戦死し、2名は捕虜になった。
 戦艦3隻に魚雷命中。
 『コンテディカヴール』は着底。終戦まで引き揚げられなかった。
 『カイオデュイリオ』はみずから座礁して沈没を免れた。
 魚雷3本が命中した『リットリオ』もみずから座礁した。
 その返礼にイタリア海軍は、1941-12-19にアレクサンドリア港にミニ潜航艇でフロッグマンを送り込み、仕掛け爆弾によって英戦艦2隻を損壊させた。
 じつは『イラストリアス』には、米海軍のジョン・オピー中佐が観戦武官として同乗していた。
 中佐はただちに報告書を提出している。
 しかし海軍省は顧みなかった。オピーは、真珠湾を訪れて自分の知見を伝えたいともリクエストしたが、却下された。
 米海軍上層は、パールハーバーの海面は狭くしかも浅いゆえ航空魚雷が使用される余地はないとして、防雷網を設置しないことに決めたのである。