みんな敵がいい。/勝 海舟

 Benjamin Runkle 記者による2019-1-16記事「’What a Magnificent Body of Men Never to Take Another Drink’: The U.S. Army and Prohibition」。
        米憲法修正第18条、いわゆる禁酒の規則は、1919-1-16にネブラスカ州議会が批准したことによって、全米の36州(三分の二)が賛成したことになり、連邦法として発効した。
 禁酒法は、酩酊性アルコール類の製造、販売、運搬を、米国領土内にて禁ずるもの。
  ※提案議員の名にちなみ、ヴォルステッド法ともいう。
 WWI直後、復員の順番待ちで英仏に残留していた米陸軍将兵らは、帰郷すれば、自宅貯蔵分以外の酒は飲めなくなることになったのだ。砲兵大尉のハリー・S・トルーマンも、その一人だった。彼は婚約者宛てに、これから密造酒ビジネスが大流行するはずだと手紙で予言した。
 独立戦争中、連邦軍兵士は、1日に4オンスのウィスキーを配給されていた。
 南北戦争中は、軍隊内は「ドライ」(禁酒)が建前になっていたが、キャンプフォロワーの民間人が兵隊相手に違法ウィスキーを売る商売が大繁盛だった。
 では米陸軍はいつから禁酒(ドライ)の世界になったのか?
 1832年のブラックホークインディアン討滅作戦のさい、イリノイ州のミリシャ部隊は、2週間分の官給ウィスキーを、作戦2日目にして全量飲み干してしまった。
 そのためブラックホーク酋長が15人で投降しようと思ったら、ミリシャ部隊が酔いつぶれていたので、投降のかわりに攻撃することにし、275人のミリシャを全滅させてしまった(スティルマンズランの戦い)。
 この事件を承けて、アンドリュー・ジャクソン政権の国防長官ルイス・キャスが、軍隊におけるウィスキー支給を廃止したのである。
 1890年は全米で節酒運動が盛り上がった。連邦議会は、もし地方の法制で禁酒の条項があるのならば、そこに所在する軍事基地内でも、下士官・兵に酩酊性の酒を提供しては相ならぬという御法度を定めた。
 陸軍中央上層は、ビールとワインくらいなら「酩酊させる」酒類とは言えないんじゃないかと考えていた。しかし、軍事基地内の酒類販売と消費については、それぞれの基地司令の判断に委ねさせた。
 連邦議会は続いて「1901酒保法」を定めた。合衆国によって軍事目的に用いられているあらゆる土地、施設内、輸送船内、酒保、基地内売店にて、ビール、ワインを含む全酒類の販売、取引を、何人たりとも禁ずる、としたもの。
 米国が参戦する1917年、連邦議会は基地外にも禁酒ゾーンを拡張設定させた。すなわち1917-5成立の「選抜徴兵法」の中で、軍事基地の中だけでなく、近辺(国防省はそれを外柵から5マイルまでと通達)においても酩酊性の酒類を売らせぬことにしたのだ。
 ※兵隊を送り出す銃後が、軍営内や遠征先で飲酒の悪習に染まってしまうのではないかと心配をするので、それを安心させるため。
 これに対して陸軍は実際には、アルコール度数1.4%未満の酒ならば、おとがめなしとした。
 さらに、現場では、多数の将兵が、この規則を半公然に無視した。
 パーシング将軍が陸軍参謀総長になるや、彼は毎夕、退庁する前の数時間を、副官・幕僚たちと酒宴して過ごした。
 パーシングが、ジョージ・マーシャルとプルマン寝台列車で旅行したとき、彼らはスコッチを1瓶、携行していた。隣の客車のジョージ・モーゼス上院議員にも、そのスコッチを献杯すべきではないかと考えた。
 そこでスコッチを注いだグラスを持って、ささやき声をかけながら、上院議員の寝台ベッドの緑のカーテンをそっとあけたところ、そこには知らない女が寝ており、「何なのよ!?」と怒鳴られたそうである。
 禁酒の規則は、若手将校の間ではほとんど守られなかった。
   ※めずらしい誤記がある。in the breach と書かれるべきところが in the breech になっている。breechには「砲尾」とか、帆船時代の艦砲の「駐退索」の意味がある。
 ドワイト・アイゼンハワーとジョージ・パットンは、キャンプ・ミードで一緒だった時期がある。彼らは互いに密造酒作りに出精していた。
 アイクはバスタブジン〔当時の俗語で、じっさいにバスタブを使ったとは思えないのだが、この記者は文字通りに信じている〕作りの名手だった。パットンはビール醸造に長けていた。キッチンの外に保管していた。
 ある夏の夜、このビールを詰めた瓶が高熱のために次々と破裂し、兵舎が大騒ぎになった。
 オマー・ブラドリーは1920年代、ハワイ第27歩兵聯隊の大隊長であった。
 ブラドリーは週に何度もゴルフをプレイしていた。
 彼は33歳になるまで絶対禁酒主義を守っていたが、ある日、ラウンドの終わりに、生涯最初のウィスキーを1杯飲んでみた。以後、彼は死ぬまで、夕食の前に1~2杯の水割りバーボンを飲む習慣に染まった。
 しかしなかには、フォート・ワシントンの地元警察を励まして基地門前町内の秘密酒場を急襲させたアレグザンダー・パッチ歩兵大隊長のような厳格な将校もいたにはいた。
 1941-9に参謀本部の少佐であったアルバート・ウェデマイヤー。彼は少・中尉時代に、飲酒がバレて、昇進を6ヶ月遅らされた前科を有する。
 一般に、上官は、部下が勤務中に飲んだりしなければ、大目に見ていた。
 1926から1932までの陸軍の記録を調べると、飲酒の咎で公式に罰せられた者は、年に平均89人しかいなかった。
 その期間、米陸軍は、パナマ、ハワイ、比島、チャイナに、本土外の基地を持っていた。陸軍将兵の27%もが、そのどこかに貼り付けられていた。
 そして、比島とチャイナには禁酒法が適用されていなかったので、将兵はそこに勤務すれば軍法会議を恐れずに済むと思っていた。
 殊にマニラ市内の「陸海軍クラブ」は名高かった。高級ホテル、カジノ、図書館、集会所が揃っており、東洋一の社交場だった。クラブのメンバーシップは月5ドルするが、そこでは、スコッチ&ソーダが1杯30セントで飲めたのだ。
 天津駐屯部隊の第15歩兵聯隊。その兵隊たちは、WWIでは現役の下士官たちであった。あるいはWWI中は大尉や少佐であったというような者たちが、そこでは下級将校を勤めていた。彼らは階級が下がることと引き換えに、軍縮時代にも現役を続けて、年金資格を得るまで軍隊に留まりたいと志願したのである。
 そこはまずまずの天国だった。歩兵の兵舎から「Bar」と書かれた看板が見える、そんな環境だった。
 1924から27までマーシャルは天津の連隊長だった。俸給日になると、将兵は安酒と安妓を買いに出てトラブルを起こすので、連隊長の心配のタネだった。
 1933年12月、全米の36の州が、憲法修正第21条を批准。これにより、修正第18条は無効になり、飲酒が「違憲」であった時代は終わった。
 ところが米陸軍は、「1901酒保法」を遵守し続ける。また、基地内では1.4%以内のアルコール飲料の売買を許すという基準も保持した。
 WWIIの途中から、米陸軍は、基地内で売って良いアルコール度数の許容限度を3.2%まで引上げた。この基準は、その10年前に連邦議会が示したものだった。
 この規範は1953年まで守られた。同年に「1901酒保法」は廃止された。
 それは「四軍の教練ならびに選抜徴兵法の1951修正」が効力を発揮したことに伴っている。
 それでも海外の戦場では、米軍は禁酒とされた。