T. Christian Miller, Megan Rose and Robert Faturechi 記者による2019-2-6記事「It’s the dead of night, and the USS Fitzgerald is on a secret mission to the South China Sea」。
事故は6月17日未明であった。
『フィッツジェラルド』の艦長は、翌日の港での訓練時間を長くするために、横須賀への帰港を急ぎたかった。だから混雑海域で低速航行させなかった。
とにかくスケジュールが過密だった。
フィッツは、ABM任務については、乗員たちがまだその技倆に達していないと認定されていた。同艦の主任務はABMなのに。
事故前から、軍艦用のEメール・システムは、秘密用も秘密指定なしのものもどちらも使えなくなっており、しょうがないので士官たちはすべてGメールで代用していた。
ナビゲーション用のスクリーンは、バックアップ電池がなくなってしまった。
航海士官は、手持ち式GPSと紙の海図で、なんとか帰港した。
艦長は日頃、士官たちにこう言っていた。「なにか問題が発生したら俺を呼んでくれ。それで俺のキャリアは終わったと分かるから」。
このジョークが本当になってしまった。
日頃ベンソン艦長は、予定航路より500ヤード以上はずさなければ他艦を避けられないというときは、俺を呼べ、と艦橋当直に伝えていた。しかしこの晩は、1000ヤードの航路変更までは当直将校に任せた。過密訓練スケジュールを余儀なくされており、とても疲れていたので。ベンソンは23時に自室に引っ込んだ。
衝突直後、艦長がブリッヂに艦内電話で「閉じ込められた」と連絡。
艦長室のドアが、艦の歪みのため、開かなくなっていた。スレッジハンマーで外から50回叩いたがダメ。次にアメフトでオフェンスをやっていた6フィート2インチの巨漢水兵も、ドアをわずかに押し広げられただけ。
※スレッジハンマーとともに、ジャッキも常備する必要がありそうだ。さもなくばすべてのドアを真円形にする。
そこでスレッジハンマー水兵は今度はブリッジから筋トレ用の鉄ボール(重さ35ポンド)を持ち来たり、頭上高くさしあげてたたきつけたところ、ドアが開いた。
ベンソンの前任のシュー艦長が、艦内をずんだれさせていた。ベンソンはそれを矯正するべく1ヵ月前に艦長になったばかりだった。
『フィッツ』の乗員の40%は新米将兵だった。上からの人事で、ごっそりと異動させられたのだ。これほど古参が少ない駆逐艦は第七艦隊では同艦だけであった。
さらに海軍は、配乗員数を減らしていた。『アーレイバーク』級に本来必要な乗員は303人なのだ。しかし、それを270人で運用しなければならなかった。
水兵の訓練担当の兵曹長が2年間も空席。レーダーを修繕できる特技者は病気治療のため乗艦していなかった。
2017-2に横須賀を出港したとき、それは短時間の新米訓練の予定だった。
ところが北鮮がまたSSMを発射しそうだというので途中から急遽、隠岐堆あたりでの遊弋が命ぜられた。そうなると訓練どころではなくなる。あたかもピンチヒッターのように、『フィッツ』には次々と臨時任務が与えられていた。南シナ海からグァムにかけて中共の弾道弾発射を警戒していたこともあった。そのたびに、訓練とメンテナンスの計画は先送りされた。
艦長室に突入した水兵は、室内の天井のケーブルが垂れ下がり、そこから火花が雨のように降り注いでいるのを見た。
ベンソンは、頭から流血し、長袖Tシャツにトレーニング用短パン、裸足というありさまで、自室から引っ張り出された。
ベンソンは衝突から16分後にブリッジに立った。そこは停電しており、非常用のランタンだけが薄ぼんやりと灯っていた。
そこに居合わせた将兵の手にした懐中電灯と携帯電話の光が右往左往していた。だれもが茫然とした顔。
だが全身ずぶぬれの艦長は椅子に座ることもできず、ガタガタと震えだしたので、ショック症状になりかけた患者に準じた扱いを受けた。椅子を組み合わせた臨時寝台に寝かされ、誰かがそこでブーツを履かせてやった。
艦長が強く頭を打って、正常でないことは明らかだった。
とても見ているに忍びない状態だったので、皆で、艦橋のすぐ隣にある「シー・キャビン」へ艦長を移した。そこは寝台のある小部屋なのだ。
小部屋で艦長はあらぬことを断続的に口走り、断続的に昏迷した。
副長のショーン・バビット中佐がベンソンに尋ねた。艦が浸水しています、と。ベンソンは応じた。「ショーン、当艦の指揮を執れ(Sean, fight the ship)」。
衝突前から、SPS-67 レーダーの調子がずっと悪かった。周辺の他船の動静がモニターに連続的に更新表示されないのだ。
他船の刻々の位置を知るためには、ボタンを毎時1000回も押し続ける必要があった。その動作は、モールス信号でも打っているかのように見えた。
『フィッツ』のナビゲーションシステムは、「ウインドウズ2000」で動くという古モノだった。他艦はアップグレードされていたのだが。
このシステムだと、AIS情報は表示されないのである。
ナビ用のレーダー SPS-73 は、しばしば、実際と異なった針路を表示した。しばしばフリーズし、再起動が必要だった。アンテナは寿命寸前で、4月に交換を予定されていたのだが、急に北鮮監視の出動が命じられたために、その交換は延期されていた。
衝突の2週間前、1水兵が配電盤を短絡させて火事を起こし、全艦停電したこともあった。
それは4ヶ月連続の航海を終わって横須賀に戻る直前であった。
AIS情報は、ラップトップPCで得ることができた。
それに誰かが気づいて、その方向にサーマルイメージカメラ(視程数マイル)を向けたら、巨大貨物船が突っ込んでくるのがわかった。
だが遅かった。
軍艦を機能させる通貨は、水兵間の「信頼」である。海軍は鋼でできているのではない。乗組員でできているのだ。それも、なかった。
明け方4時37分、海保のヘリがやってきた。このとき、無線の言葉(英語)が通じにくくて弱った。事務系下級兵曹のシンゴ・ダグラスという日本語が得意なやつが一人だけ、『フィッツ』には乗っていたのだけれども、そいつは事故で行方不明になっていた。
海保ヘリから1名がロープで上甲板に降りてきて、ベンソンの担架を吊り上げさせた。『フィッツ』からは、付き添い1名もその海保ヘリに乗った。
艦の動力ポンプがダメなので、ポータブル発動ポンプが持ち出された。艦内に排気が立ちこめてえらいことになったが、これは役に立った。最も深い浸水区画からの排水に成功した。
だが他区画はそれでも間に合わないので最後はバケツ・リレー隊を動員。24人くらいがローテーションで10時間、これを続けた。
8時30分、初めて米海軍からの救援が到来。横須賀のタグボートだった。続いて駆逐艦『デューウェイ』も来着。