interview with──E先生の手紙

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです。尚、『手紙』中の『草々頓首』等の位置がおかしい場合、全て管理人のミスです)

管理人:師弟関係…重い言葉である。一人ぼっちでは生きていけないもの。
さて、一人で生まれてきたような我らが兵頭流軍学開祖 兵頭ニ十八先生にも「師」と仰ぐ、「E」で始まるあの御仁がいる事は周知の事実だ。
しかし、その期間何が起こりまた何が始まったのか──についてファンは殆ど知らないのではないだろうか。私は知らなかった。
そんなわけで今回のインタビューである。
前回と同じく、「貴様一体何処でこんなインタビューが出来たんだ?」という余計な詮索はしないでいてくれるよう希求する。勘の良い人にはわかる筈だから。


兵=兵頭先生
管=管理人

管:今日は、兵頭先生の「論壇デビュー前史」の中でも未解明部分が濃い、故・E教授とのご関係とか、そのへんについて何か、お話しを願えませんか?
 「創作雑話」の番外編ということで。第2回目でいきなり番外というのもナンですが……。

兵:文筆業界の人間関係、師弟関係、派閥関係等は、雑誌の編集者ならカケダシの記者さんでもみんな知悉していることで、私としても何も皆さんになんら隠しだてしているわけではなかったのです。けれども、大学院卒後のE先生と私の間にはしばらく黙約のようなものがあったと思っています。私は、自分の戯作者または評論家としての地位を確立するまでは、E先生との関係を誰にも吹聴しない。そしてE先生も、裏ではいろいろ私に書かせるキッカケを作為してくださるけれども、表では一言も私が弟子だなどとは公言しなかった。私の方は、若い奴によくある、ケチな意地からでしたけどね(笑)。
 例の『東大オタク学講座』の中で、私は初めて公けにE先生のことを語りました。これは計算して語ったんです。それをE先生も間接的に、おそらくは慶應の学生経由でお聴き取りになった。その後、たしか『文学界』の桶谷先生との対談の中かどこかで、さりげなく、E先生は私の名前を「弟子」として初めて言及されたと記憶します。ちなみに、最後に先生が私について公的に触れられたのは、慶應大「最終講義」の中で、東工大の「教務補佐」--これは学内で院生が就任できるオフィシャルなアルバイト職名なんですが--として研究室の掃除を仰せ付けられる者として登場すると思います。台詞が無い「通行人A」みたいですけど。

管:そもそも、大学院ご進学前のご関係はどのような感じだったのでしょうか。

兵:ここに、ずっと筐底に保管していた手紙の束があるので、ひとつひとつをご紹介しながら、説明致しましょう。こんな機会にでもないと、記録に残しておくことができないかもしれないから。
 これが、私が持っている、E先生からの手紙のすべてです。少ないですよね。悲しいです。
 以下すべて、差出人アドレスは、E先生の印判によって押印されていますが、省略しましょう。それから、E先生の手では、撥音「っ」は表記が「つ」とほとんど紛う大きさに書かれているのですが、ここでは便宜上「っ」に表記統一しておいてください。
 まずこれが、私にとっては歴史的な、一枚目の御葉書です。横浜市白楽のアパート宛て。強い雨の日に配達されたために、万年筆の青インクがにじんでしまっております。
 官製はがき。千鳥/84[か?]/86.12.8.12-18/TOKYO/CHIDORIの消印。左隅にペンで「十二月八日」。裏の本文。


拝復、大変素晴しい感想文をお送りいただき、洵に有難う存じました。文字通り一読三嘆いたしました。コピーして「諸君!」編集部に読ませようと思いますので、何卆御諒承下さい。遅ればせ乍ら御礼迄に。一層の御研鑽を祈り上げます。

敬具

管:アホな訊ね方でしょうけど、これを受け取ったときのお気持ちは?

兵:福田和也さんは、まだ無名の時分、E先生が評価していたよと一人の編集者から知らされて電話ボックスで泣いたと告白されておられますけれども、私の場合は、E先生の偉さをこの時期にもまだ何も弁えなかった大馬鹿者、大迂濶者でしたから、『これで運が向いてきたのだろうか』と単純に喜んだだけだったと思います。しかし実際に東工大に呼ばれてナマのE先生に面晤を賜りましたとき、その超一流の人物であることは、2年間の自衛隊体験で人に対する驚きの感受性というものを失っていた私にすら、ほとんど衝撃的なほど歴然としていましたから、私も目黒からの帰路に頭を冷やしに立ち寄った東横線沿いの喫茶店で、思わず泣きそうになったのを覚えています。

管:その「超一流」とは、どんな感じなのでしょうか?

兵:私が言おうとしてうまく言えないことを、私の脳ミソに代わって、「つまりそれは……(中略)……なのでしょうね」とか、少しの遅滞もなく、ドンピシャの日本語に表わしてしまわれるのです。圧倒された体験でした。あのような理解力の持主には、その後、一人もお目にかかったことはありません。

管:で、「当世書生気質」の兵頭先生の御文章は、いま、どこにあるのですか?

兵:こっぱずかしくて残しておけるようなものでないから、捨てたと思います。しかしその骨子は、修論や雑誌寄稿その他に、これまでほとんど反映しました。というか、この直感的な「感想文」を理論めかして塗粧するために、私は2年間、東工大で遊ばせていただいたようなものなんですよ。

管:国立大の大学院で、しかも理数系のところに、言うては悪いが二流の私立の神奈川大から、簡単に進学できるのですか?

兵:「イチゲン」さんですと、これは簡単ではないが、指導教官が事前に確定しているという特殊なケースの場合は、話が簡単になるのです。要するに、数学のテストで0点さえとらなかったら、なんとかなると聞かされました。そこから、我ながら信じられないような、数学の特訓が始まったのですよ。高校の微分からやり直し。……今じゃ微積ももちろん、統計学の数式なんて、ぜんぶ笠の台のメモリーから揮発してますけどね。典型的な受験勉強というやつを、いい歳こいて体験しました。
 これは、その頃に頂戴しました、官製はがきです。表側。消印が、鎌倉/62/4.4/18-24とあり、表側左にペンで「四月四日」。宛先は、横浜市白楽の私の当時のアパート。裏側。


拝復、お便り有難う存じました。
日々御精進の由、心強く思います。数学と統計学は必須の関門ですから是非とも突破していただかなければなりません。部屋を片付けると頭も整理されて数学がよくできるようになります。余分なものを捨てることです。
お元気で!

匆々不一

管:なんで、部屋を片付けろ、とかの御説教が書かれているのでしょうか?

兵:じつは、黒電話のベルがうるさいので、靴かなにかが入っていた紙箱の中にふだんは突っ込んでおいたのです。あるときベルが鳴り、あわてて受話器をとりあげようとしたら、当時の電話は重いし滑る。ツルリと取り落として、断線させてしまったのです。直感したのですが、これはE先生からのお電話だったと思います。それで「部屋が乱雑なため、かくかくの出来事がありました」と、こちらから一筆したためたことがありまして、そのリスポンスなのです。

管:次のを拝見できますか。

兵:……これだ。封書ですよ。消印が、千鳥/8×/87.0××××12-18、となっていて、一部判読できません。裏側にペンで「六月七日」。宛先は、川崎市小杉御殿町の2軒長屋です。私は引越しマニアでしたのでね。


拝復、五月十六日付と六月三日付のお便りいずれも拝見しました。「諸君!」は残念でしたが、執筆者と編集者には相性というものもあるのであまり気にしないほうがよいと思います。五ヶ月間修業したと思えばよいでしょう。他の雑誌としては「正論」などは如何ですか?編集長への名刺を同封して置きます。
数学の進み方については三輪君からも報告を聴いています。どうか粘り強く頑張って下さい。毎日必ず一時間づつ数学をやる習慣をつけたらいいのではないかと思います。もし万一東工大の大学院入試に失敗した場合でも、私の研究室の研究生になり、実質的には東工大に通いながら、更に数学の勉強を続けて来年度の大学院入試に備えるという方法もありますから、くれ/\゛も短気な判断で諦めることのないようにお願いして置きます。
今年度は主任という役をやらされているのでひどく忙しいのですが、夏休み前(七月にはいったら)に一度研究室をお訪ね下さい。お電話を待っています。

敬具

  六月七日

○藤 ○

 斎藤 浩 様

管:これはどういう意味なんでしょう?

兵:後に『諸君!』に三連載されることになる核武装論文の原形が、このときは何ヵ月か保留された後に「没」になってるんですよ。まさにE先生の仰る通り、こういうのは「相性」だとしか思えません。一般に、雑誌の編集部の人事異同で、それまで書いていた人が載らなくなり、それまで載らなかった人が書くようになるという現象は、よくあります。私が『SAPIO』に書かないようになったきっかけも、担当編集者が『週刊ポスト』に移られたからでした。引き継ぎはないのですね。もちろん、その逆もあることなので、その呼吸をE先生は予め教えてくださっているわけです。
あと、今でもこの件で覚えていますのは、文藝春秋社のような立派な版元ともなると、没原稿にもちゃんと稿料をくれるんですよね。五万円くらいも貰って、そこから1割の税は天引きされている。そうしたことの一いちに、感動したのを覚えていますよ。

管:「三輪君」って、誰ですか。

兵:私は東工大のE教授の研究室では最後のたった一人の院生だったわけですけれども、じつは先輩が一人だけ居られまして、その方です。○井○之○先生の研究室に所属されてたんですが、○井先生が青山に「割愛」されました時に、E先生が博士課程から引き取られた形で……。この東工大はえぬきの三輪先輩に、田園調布の御下宿にて、私は数学の家庭教師になって戴きまして、入試0点は免れた。だから、やはり恩人の一人であります。
また、「短気を起こすなよ」というご警告にも、改めて恐れ入ります。私は「TANK短気たぬき」という異名もあるくらい、見切りが早いのです。

管:う~む。お次はこれですか。

兵:官製はがきで、消印が、鎌倉/62/7.27/8-12、となっている。表左側にペンで「七月二十五日」。川崎市小杉御殿町の長屋宛です。

拝復、出願手続きを終えられた由、なによりのことと思います。小生七月二十七日(月)より八月末日まで、軽井沢の山小屋で過します。住所と電話番号は次の通りです。

〒389-01
長野県軽井沢町○ヶ滝○○○
(〇二六七)○○-七七○○
なにか御連絡いただくときには、上記にお願いいたします。頑張って下さい。
身体を大切に! 

敬具

管:軽井沢の別荘ですか。

兵:私はその別荘とやらには一度もお邪魔したことはないです。が、軽井沢というのは、長野市のガキ共にとっては、学校のバス遠足でちょくちょく遊びに行くところでありまして、敢えて言わせていただければ、なにを好んでお金持ちの人々はこんなところに別荘を買うのか。もっと長野県には他に良い別荘地がありますぜ、と言いたいところなんですけど、E先生にいわせると、やはりそこは避暑地での「要人」との会合が一つの目的であったので、他のリゾートではダメだったのです。当時の軽井沢は、長野市からよりも、東京からの方が、時間的には近かったかと存じます。

管:次のは封書ですね。

兵:消印が、千鳥/87 11.2.12-18、と見えて、裏側にペンで「十一月一日」。宛先は川崎市小杉御殿町。この時期には、もう進学試験も合格だったでしょう。裏面の本文。

拝復、お便り拝見しました。
卒論に取り組んでおられるとのこと、洵に結構と思います。よいものを書き上げて、大学院での研究の基礎をつくって下さい。卒論が完成したら、一度是非御連絡下さい。本学大学院での研究の心得について、あらかじめお話して置きたいと思います。
そのほか、外国語、漢文等、研究の土台になる基礎学についても、気を許さずに御勉強下さい。大学院入学後に、あるいは学部一般教育の統計学を履修していただくことになるかも知れません。いずれにしても、工学修士になるコースを歩むわけですから、理工系の単位も取っていたゞかなければならぬだろうと思っています。
向寒の節、身体を大切にして入学に備えるようお願いして置きます。御連絡をお待ちします。

敬具

  十一月一日

○藤 ○

 斎藤 浩 様

管:エ~ッ、これによると、兵頭先生って「工学修士」なんですか?

兵:シーッ!それを大声で言うてはならぬ!
 いくら文系に近い研究のできる「社会工学」専攻じゃからとはいえ、数学のロクにできもせぬ工学修士を東工大が送り出したことがあると知れては、関係各位に障りもあろうからのう。国の文教予算を使って、三流の劇画原作者を製造したのかと突っ込まれてもマズい。故に、私も、この肩書は自分からは決して名乗ったりはせんのじゃ。

管:「卒論」は何ですか?

兵:これは国会図書館と防大図書館に1冊づつ寄贈されている『最近国際関係論叢』という、タイトルの古風で厳めしい割りには権威ゼロな、「神奈川大学国際関係論セミナー」(3~4年生対象のゼミナール)を著作権者とする、1988年2月にガリ版刷りを綴じて50部作った「ゼミ論文集」、そこに収めている数編の駄文のことであります。赤面の至りでございます。ちなみに当時はNEC「文豪」という、同じメーカーなのにPC -98とはぜんぜんシステムが異なる、しかも文豪のくせして少しも漢字を知らぬどうしようもないワープロを使っておりまして、この文集の活字になっている部分の多くは、私がボランティアで打鍵したものですから、なつかしい。

管:次のはまた、官製はがきだ。

兵:消印が、千鳥/63/88.2.1.12-18/TOKYO/CHIDORIとある。表左側にペンで「一月三十一日」。宛先は川崎市小杉御殿町の長屋。葉書の右下隅が欠損していて、表側に「この郵便物は、取扱い中に汚損しました。/誠に申し訳ありません。深くおわび申し上げます。/211 中原郵便局」とタイプされた付箋が貼付されている。

拝啓、奇妙に暖い冬が続いていますが卆業試験はもう終りましたか?二月中旬頃、一度ゆっくりお話する機会を得たいと思います。二月十六日(火)の正午頃は如何ですか。昼食をしながら論文のこと、今後のことを御相談したいと思います。


御都■【以下1~3字欠損】
御一報■【以下1~3字程度欠損】
ば幸甚です。

敬具

管:差出人が偉そうな御仁なので、郵便局でも気を遣ったのでしょうね。

兵:しかし宛先は木造平屋の貧乏長屋なのだから、コントラストだね。その長屋も引っ越して、私は目黒区大岡山のすぐ裏手に拡がる住宅地、世田谷区の奥沢に移るのだ。進学が決まってみると、もうこんな砂埃りだらけの川崎なんぞにゃ住んではいられねえ、と思ってね。

管:(私いま川崎に住んでるんですが…)奥沢といいますと、高級住宅街と聞きますが。

兵:高級住宅街の中にもスラムみたいなところがあるのが日本よ。廃品回収業のオッサンちの木造離れでね。ネズミとの連夜の「化学戦闘」を繰り広げたのは、そこなのさ。

管:そこに早速舞い込んだのが、次の官製はがきですか。

兵:そのようです。消印が、牛込/63/88 7.27.8-12で、表左側にペンで「七月二十三日」。

前略、岩島久夫、波多野澄雄両氏の住所等左の通りです。一筆お礼状をお出し下さい。要件迄に

匆々 不一

〒158
【※所番地、1行略】
【※電話番号と姓名、1行略】
〒305
【※所番地、1行略】
【※自宅電話番号、1行略】
【※勤務先電話番号、1行略】
【※姓名、1行略】

管:このお二方は?有名な方々ですよね?

兵:大学院生は何かの学会に所属する。そして、学会の中には、入会の手続きのために、複数の推薦人を必要とするところがあります。E先生がこのお二人に頼めと仰ったのは、「日本防衛学会」への入会でした。岩島さんといったら、防研の元所長ですぜ。この人一人でも充分すぎる!
 波多野さんは、私は残念ながら面識が無いものの、E先生の薫陶も受けた御方で、大東亞戦史についてはかなりなご権威。私のような小僧には本当にもったいなかったんで。……情けない話ですが、せっかくこうしてE先生のお蔭で入れたこの学会、『戦マ』の辞職後、たちまち年会費の払い込みが滞り、今では名簿からも抹消されている筈ですな。トホホ……、トホホホ……。

管:次は、その『○車○ガ○ン』時代の書簡ですか?

兵:そうなります。官製はがき。消印は、鎌倉/2/6.4/12-18と見える。表左側にペンで「六月三日」。宛先は、白山のマンションです。
本文。

拝復、「戦車マガジン」お贈りいただき、洵に有難う存じました。資料がお役に立てて何よりでした。当方三田、日吉、藤沢の三つのキヤンパスを駆けまわって愉しくやっています。どうかお元気で。取急ぎ御礼迄に認めました。

敬具

管:これは何の意味です?

兵:在米の日系人の、戦中~戦後の写真集をお持ちであったので、複写のためにお借りしたのです。私が東工大を出る直前にね。でもこの時点では、私はもう『戦マ』の正社員。E先生は慶應大学に移っておられた。しかしどうです!
 本当に文字が生き生きとしているでしょう。おそらく、E先生の得意絶頂の頃じゃないかと思うのですよ。私は「割愛」が本決まりとなった頃に、研究室で「これで先生は復讐ができるのですね」と申し上げたら、E先生はニンマリされていた。噫々しかし、その宿願成就が、E先生の寿命を縮めた気がしてならぬ。あのまま東工大におられたなら、今でもご健在であっただけでなく、学部長以上の公的ポストも得られた筈と思われるのに……。「そんなに慶應がいいんですか?」とお尋ね申したいよ。けれども、たぶん、そんなにいいんでしょうな。あのクラスの方々には……。不思議な一致ですけど、どうしたわけか、東工大を「割愛」されて、他所の大学で花が開いた教授というのは、あまりいらっしゃらない気が致しますですよ。

管:次のは……素っ気ないですねえ!

兵:ああ。これですか。平成3年元旦の年賀状ですか。宛先が、今はない神保町の戦車マガジン気付。裏側にペンで本文。

御活躍を期待します

 これは素っ気ない。確かに。しかし、この時期のE先生は、慶應大学内の「政治」をいっしょうけんめいやっておられたのではないでしょうか。賀状が短節なのは、大活躍中である証拠なのですよ。そして私はといえば、とにかくミリタリーオタクの専門知識の吸収に努めていました。一度は何かの専門家になってからでなければ、全国版のオピニオン誌に堂々と評論なんか書けないと思っていたのです。それで、早く論壇にデビューさせたいという親心であったE教授には、「こいつはもうダメだ」と見限られていたかもしれません。

管:次のも、神保町の「戦車マガジン」編集部気付、となってますね。

兵:官製はがき。消印は、鎌倉/3/11.7/18-24と見えます。表左側にペンで「十一月六日」。裏の本文。

拝復、「戦車マガジン」別冊お贈りいただき洵に有難うございました。編集人に学兄のお名前が記されているので感慨無量でした。小生、腰痛治療のために二ヶ月程入院し、一週間前に退院したばかりです。しかし厄介な病気ではなかったので、他事ながら御休心下さい。ご活躍を祈り上げます。

管:この別冊とは?

兵:調べてみてください。初版の奥付から判明するでしょう。……平成4年の賀状はありません。

管:それで、次は平成5年元旦の年賀状ですね。

兵:はい。文京区白山のマンション宛です。裏側にペンで本文。

お元気で頑張って下さい

管:……って、素っ気ないですなぁ!

兵:いいんです。偉い人が、何者でもない者に下される葉書は、この程度で。

管:おや、次は長めの文章ですね。

兵:これですか。消印が、鎌倉/5/9.4/8-12で、官製はがき。表側にペンで「九月二日」。白山のマンション宛ですね。本文。

拝復、お便り有難う存じました。
様々な新分野で御活躍の御様子、大慶至極に存じます。マスコミ界も不況の折からなか/\大変たろうと思いますが、どうか学兄の独創的な持味を生かして頑張って下さい。「さいとうひろし」の名が一層挙がる日を心より期待しております。

管:これは、劇画原作への激励ではないのですか?

兵:そうだったかもしれません。しかし、批評ではないのですよ。これは、完全な無関心なのです。私には、分ります。ちなみに「マスコミ界」とあるのは、平成5年4月に私は「S」という麹町にあった日テレ系の番組制作会社の正社員になって、そうしたことはE先生には逐一ご報告をしていたからです。「S」には8月までいました。そして9月には今度は恵比寿の「M」という会社に転職し、そこでは税理士向けの土地ビジネス関係の特別な月刊誌の編集に携わります。そしてちょうどその頃、「○ル○1○」の私の原作が作品化され始めているのですよ。で、私はサラリーマンがつまらなく感じられてならぬようになったのと、劇画原作に見込みが持ててきたのとで、平成6年2月からいよいよ本物のフリーターになってしまうのです。これは、ながい・みちのりさんという活模範が身近にいらしたので、私も決心することができたのです。

管:でも、原作では喰えなくて、またミリタリーに戻ってきた……。

兵:情けないのですがね。次の官製はがきを見てください。消印は、藤沢/7/95.4.17,12-18とあり、慶應の藤沢キャンパスから投函されたのかもしれませんな。そして宛先は、小石川の木造アパートだ。ここはなんと石川啄木が死んだ場所のすぐ近くですよ。いま私は函館にいますから、何か因縁を感じますよ。で、本文。


拝復、此度はお便りを添えて「日本の陸軍歩兵兵器」お贈りいただき洵に有難うございました。“兵頭二十八”というペン・ネームもなかなか風格があり学兄にピッタリだと感心しています。お元気で御精進の趣きなによりと存じます。修論の線に沿った三冊目を特に期待しています。くれぐれも御自愛下さい。

  四月十六日

敬具

管:こ、こんな葉書があるのですか。これではもう、ペンネームは変えられないですわね。

兵:一生変えられません。ちょっと幇間みたいなんですけどね。もう仕方ない。「修論の線に沿った三冊目」が何のことかは、分りますね?

管:分ります!

兵:それで次の封書。なんと内張りが金箔ですよ。消印は、鎌倉/7/11.20/12-18とある。裏側にペンで「十一月十九日」。小石川のアパート宛です。本文。


拝復、お便りと御新著「日本の防衛力再考」洵に有難うございました。早速拾い読みしたところ大変鋭い御論考で、御勉強の実が上っていることが感得され、嬉しく思いました。年内は無理かと思いますが、明年になったら私が主宰している研究会で御発表いただけないだろうかと考えています。その節は事務局から御連絡させますのでよろしく願上げます。
時節柄くれ/\゛も御自愛の上御研鑽下さい。        草々頓首

  十一月十九日

 兵頭二十八様                           ○ 藤○

管:久々に暖かいお手紙ですね。

兵:劇画とはぜんぜん反応が違ってますでしょう。

管:「研究会」って何ですか?

兵:半蔵門に近いPHPビルの某階で月に1回開かれていた、クローズドな、秘密の会合なのですよ。晩メシ付きで、しかも帰りがタク券使い放題だったので、貧窮のドン底にいた私は感激しました。誰がメンバーだったかは言わない方が善いのでしょう。ただ、私が初めて福田和也さんに面謁したのは、この会です。E先生が、引き合わせて下すったのです。

管:あれっ、それなのに、この賀状になると、はまた寂しい……。

兵:平成8年元旦のものですね。小石川のアパート宛。裏側にペンで本文。


御健硯を祈ります

管:ご多用なのですね。きっと。

兵:この葉書は冷たくはありません。平成8年から私がまず『SAPIO』、ついで『諸君!』にも書かせてもらえるようになったのは、もちろん、E先生の裏からのさしがねですよ。これらの編集者がまったく自主的に『日本の防衛力再考』を購読したはずがないですからね。きっとこれ以降の私については、管理人さんがむしろ詳しいのではないですか?
 そしてこの賀状は、私がE先生から貰った、最後から2通目の書簡ということになるのです。

管:すると、これが、最後の手紙ですか。

兵:封書であります。消印は、鎌倉/10/5.5/8-12とある。裏側にペンで「五月四日」。受け取りが6日であったと、兵頭が備忘記入しております。本文。


拝啓、鎌倉はつつじの季節になりました。御健勝の趣きは昨五月三日付「東京新聞」の紙面で確認し、益々御健硯の御様子にて大変心強く思っております。
「新潮」六月号本日落掌、早速拙著「南洲残影」の御書評を拝読、少からず嬉しう存じました。褒めていただいたのも勿論嬉しいのですが、さすがに細部まで一々お調べになった跡が歴然としており、テニソンと外山正一のくだりでは比較文学的手法まで援用されていて、さてこそ東工大のわが研究室の学風を継ぐ書き手と舌を巻いた次第です。
桐野については御指摘の通りで、最後になって漸くその正体がわかりかけて来ました。学兄が他日桐野と篠原をお描きになるのを愉しみにしています。
右、とり急ぎ御礼迄に認めました。時節柄くれ/\゛も御自愛下さい。貴文は必ずや文芸評論家諸君にも衝撃を与えたに違いありません。

草々頓首

 平成十年五月初旬

江藤 淳

 兵頭二十八様

           硯北

管:本当にありがとうございました。

おしまい