日露戦争講演(2)──見えない「精度」に投資できなかった近代日本

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 ところで、日本陸軍のために小銃を造っていた工場は、東京砲兵工廠と申しまして、現在の小石川後楽園にあった。ところがこの砲兵工廠の運営に関しましては謎がいくつもある。

 たとえば、陸軍が採用を決めた新型の小銃、これは対外戦争を予期しまして一挙に膨大な量が発注されまして、常備連隊の武器庫にだんだんストックしていきまして、数年後に師団単位で一挙に旧式銃を更新するというパターンが多いのですが、いったいその納入が終ってしまった直後、日本最大のマスプロ機械メーカーでありました陸軍砲兵工廠では、何をやっていたのだろうという、未解明の大問題があります。

 と申しますのも、これが民間の工場でしたならば、設備投資を償却しなければいけませんし雇用者に賃金を手当てし続けなければならない。仕事が急になくなったら一大事でありますから未然に何らかの手を打つはずですね。しかし、官営の工廠ではどうするのか……?

 私に確信できましたのは、そこでは間違いなく、近代日本で最初の不況克服策、といいますか、雇用維持のための新需要の掘り起こしが、工廠独自に手探りで行なわれたに違いなかろうということであります。

 なにしろ当時の日本政府は外貨準備が常に逼迫しておりましたから節約できそうなところは極力節約を致しますこと、極端なものがあった。

 全般に、軍艦・兵器中心の海軍には、随分惜しまずに金をかけましたが、兵隊中心の陸軍は、機械に金を掛け出しますとそれこそキリがなくなって参りますから、革靴を造る機械が足りなくて明治10年くらいまで、まだ一部の兵隊にはワラジを支給致しましたぐらい。

 陸軍工廠の機械投資などもしわ寄せをかぶりまして、アメリカから廃品寸前の、それこそオクリがガタガタになっているような工作機械を種々雑多に買い求めまして、敷地が広いですから数だけはたくさん集めていたような次第だったのです。

 これは何を意味するかと申しますと、ボロい機械で軍用品に必要な精密な切削加工と仕上げを施さねばならなかった。

 およそ、うしろから弾をこめます近代小銃、もし部品に隙間がございますと、発射したときに火薬のガスが後方に漏れて参ります。ガスといいましても、ナマリの弾を4kmも遠くへ投げ飛ばすだけのエネルギーを発生致しますから、これが兵隊の顔面に少しでも吹き付けた日には、軽い火傷ぐらいでは済まされません。運が悪いと鼻の穴が三つに増えてしまった。

 そこで、いやしくも火器の部品の工作は、弾薬の威力が向上すればしただけ、仕上げの精度の方も上げて参りませんと、とても実用にはならない。ところが、今述べましたとおり、工作機械は、アメリカではスクラップ置場で解体寸前を二束三文で引きとってきたような年代物ばかりときておった。

 さて、このガラクタ工作機械を前にしていったい、どうすれば良いか。

 結局、工廠が頼りにできましたのは、機械の欠点をカバーしてくれる熟練職工の腕だったのであります。

 その機械にとことん慣れたベテランだけが、ボロい機械でも精密加工ができました。

 また、生産ラインの出口に老練な最終仕上げ工を置きまして部品のひとつひとつをヤスリでこすって精密機械の代りをさせておりました。

 もちろん、この方法では各部品に互換性がなくなりますから、最も重要なパーツには固有番号が専用のタガネでパンチされまして、兵隊さんが分解掃除などをした後で、他人の銃の部品と間違えて組み立てることがないようにされていたのであります。

 で、新型小銃の大量納入が完了しますと、陸軍省の予算も翌年から減らされますから、この大量に養成したベテラン職工を、砲兵工廠で抱えておくことが最早できなくなってしまう。これが村田経芳はじめ歴代の小火器設計家にとりまして最大の頭痛のタネとなったのです。

 と申しますのは、当時の職工は「渡り職人」です。給与体系は月給の他に歩合給があります。

 仕事がたくさんあれば歩合を稼げますから、全員が競うようにして部品を量産致しました。

 が、工廠に出勤しても仕事がまったくなくないとなれば、その月の歩合給はゼロであります。

 そうなりますと職工は他にうまい勤め口を探して転職するのが常でした。なにしろ終身雇用制なんてものは明治の職工にはありません。退職金も保険もないとなれば、それがむしろ当然なのであります。

 もしそのような状態で工廠に熟練工がいなくなり、その直後に戦争でも起きたらどうなるか。急に職工をいくらかき集めましても、彼らが担当する機械に十分に慣れないうちは、まともな小銃は一梃も供給できないことになるのです。

 このような最悪の事態を招かないように、当時の工廠ではどのような手を打っていたのでしょうか。

 こんなことに注意して改めて日本の陸軍小火器の造兵史を振り返りますと、今まで見えなかったいろいろな事実が、整合した意味をもって見えて参ります。

 たとえば、単発村田銃の最後の型は18年式村田歩兵銃と申しますが、これは明治17年5月頃から導入が始まりまして、年産数万梃のハイペースで量産を致しまして、だいたい明治19年には全国の鎮台のスナイドル銃だの何だのをすっかり交換してしまっております。

 ここでただちに職工の離職問題が発生致します。

 これは大変だというので、すぐに明治20年の秋に次の新型連発小銃の採用が政府に働きかけられまして、村田も直ちにその開発にとりかかるのです。これが明治22年に完成致しました、「村田連発銃」というもので、いわば、職工を手スキにさせないために、上の方から需要を造ったのですが、やはりその間に小銃製造所の職工が大量に流出してしまった形跡がございます。

 村田連発銃の連発機構は、西部劇でジョン・ウェインが持って出て参りますウィンチェスター・ライフル、あれに内部がよく似ておりまして、銃身の下のチューブから次々に実包を引き出してそれを装填する。これも特段に村田の発明というものではございません。

 当時の最先端軍事技術大国でございますフランスとプロイセンで、このような仕組みの連発歩兵銃が採用されておりまして、それを急いで模倣しただけであります。

 で、この村田連発銃、日清戦争の5年前に完成した訳でありますから、日清戦争ではすべての部隊が持っていても良かった。ところが、どうしたことか、明治27年の日清戦争までには装備更新がぜんぜん間に合わなかったのであります。

 原因は、はっきり指摘している史料はございません。そこで、あらゆる状況証拠を集めまして私なりに推理を働かせますと、どうも量産した銃の部品の精度が設計通りでなかったのだろうと思われます。

 それで、たとえば、少しでも中に砂がはいったりいたしますと、梃子の原理で内部の部品を複雑に動かしておりましたから、逆にレバーが動かせなくなってしまう。

 あたら最新の連発銃を携えながら敵前で一発も撃てなくなって立往生という、由々しい事態が予測されましたから、とてもこれを持たせて兵隊を戦場へは送れないというので、あれこれと改修を試みているうちに遂に日清戦争が始まってしまいました。

 これは、もともと部品の動きがスムーズでないからそんな故障も起こし易いのであります。要するに加工精度が必要水準を満たしておらなかった。

 けっきょく、日清戦争の最後になって台湾方面に投入された2つの師団を除きましては、全部隊が古い単発の村田銃で戦争する羽目になったのであります。それでも清国に勝ったのですから、やはり軍銃一定の効果はすばらしいものであったのです。

 妙なことに、この連発銃の量産と納入の最後の段階まで面倒を見るべき村田経芳本人が、明治23年に、東京砲兵工廠の現場から外されて予備役にされてしまっております。

 予備と申しましても、同日付けで少将に進級して男爵・華族に列する資格が与えられ、第一期の帝国議会貴族員議員の椅子まで用意されたのでありますから、表向きは円満退職でした。

 この人事は、山県有朋の一存で決定されておりますことは疑いがございません。なぜ山県はそんなことをしたのだろうと考えますと、理由として考えられるのは、要するに陸軍兵器の製造はできるだけ長州出身者に任せたい、村田は薩摩出身であるからこの辺で辞めて貰おうという、ただそれだけであったように思われます。

 ここで大事なことは、もし陸軍工廠の工作機械が極めて精度の高い最新型であったならば、村田はプロトタイプだけを完成してあとは誰任せでも不都合はなかったのであります。アメリカと戦争するようになって航空用エンジンや航空用の自動火器を量産致しますときに、この工作機械の精度こそは「フォース・マルチプライヤー」であったと誰もが気付きますが、明治時代には誰一人気付くものはございません。

 なにせ、精度の高い工作機械は値段もハネ上がる。明治人は、精度という見えない要素にはお金をかけられなかったのです。その代りに、そこから生じるいろいろな不具合は、熟練工を抱えることでこれを補わせるという仕組みでとりあえず「軍銃一定」を達成した。

 これが良く分っている村田を工廠から追い出したことによりまして、村田連発銃を製造する時にはそれに必要な熟練工が足りて居らかったのではないかと私には思われるのであります。

 常に仕事を作り出して熟練工に歩合給を保証して引き止めるという大切な工場経営方針が、おそらく村田の退役とともに中断したのであります。連発小銃の部品には単発小銃以上の精度が求められますのに、それに見合った機械投資は不十分で、人間にもお金をかけようとしなかった。それを理解する官僚がいなかったようであります。

 ために、村田がこしらえたプロトタイプと同じ部品精度が量産品の村田連発銃では実現されなかった—とまあ、このようにしか考えられません。

 それでは、村田の在職中には、東京砲兵工廠独自の仕事創出の手は打たれていたかと調べてみましたところ、これが非常に面白い。

 皆さんは靖国神社に大村益次郎の銅像が立っているのを御承知かと存じます。あの銅像が立ったのは明治26年でありまして、東京におきましては最初の西洋式銅像であったそうでありますが、この建設の提案は、明治19年に出されました。それから7年がかりで鋳造したのですが、その鋳造を請け負ったのが、小石川の東京砲兵工廠なのであります。

 つまり、あの銅像も、じつは職工対策だったのです。

 砲兵工廠内の小銃製造所、これは大規模なものでして、鋼鉄の原料から部品製作、組み立て、仕上げまで全部やります。そのラインの入口の部分が、鋳造とか鍛造でして、これを工廠では火の造りと書きまして「火造」と呼んでおりました。砲兵工廠の職人はフランスの真似をしたハイカラな作業服をあてがわれておりましたが、ここはほとんど素ッ裸、天井には昔の刀鍛冶よろしく、注連縄がめぐらされていたと申しますが、これは余計なお話です。

 ともかく、大村銅像の製作事業とは、この火造セクションの熟練工の慰留策であったことが、ほぼ判明致しております。鋳造なんて鋳物だから熟練工は必要ないか? とんでもない話でございまして、微妙な熱処理を誤りますと、どんな良い鉄を使いましても、ぐにゃぐにゃの銃身とかすぐに割れてしまうような部品しか出来て参りません。

 で、この火造セクションは小銃製造工程の入口でありますだけに、製造ロット数に必要な鋳造、鍛造を、切削とか仕上げとか組み立てセクションよりも、いちはやく終えてしまうことになります。つまり、最初に仕事がなくなる部門だったのです。だから、一番最初に銅像受注という形で端境期対策が講じられた次第です。

 熟練職人は工廠を辞めて他の民間工場に転職されてしまいますと、次の新装備、たとえば村田連発銃の発注が陸軍省から大量にありましたときに、また、新人職工を募集して、一から、クセのある製造機械に慣れてもらわなければならない。

 そのあいだに何千梃もの不良品が出てしまったというのがおそらく村田連発銃の真相で、つまり、火造部門ではなんとか引き止められましたベテラン職工が、切削や仕上げ部門では遂に引き留められなかったものと見えます。

 では、火造以外には何の手も打とうとしなかったかと調べてみれば、これもそんなことはなかった。

 明治21年に、将校用の拳銃を国産していないのは恥ではないかという意見が、陸軍将校の部内雑誌であります『偕行社記事』という媒体に載っているのが見えます。

 その前にも、兵器廠の記録によりますれば、明治16年、フランスから型式不明の拳銃をとりよせて戸山学校、つまり今の早稲田の近くにあった歩兵学校に支給した。明治19年にもフランスから士官用の拳銃2梃---たぶん「Mle 92」というやつだったと思われますが、これが戸山学校に渡されております。

 そして明治24年にはオーストリア製の「ガセール」(GASSER)という回転式拳銃が参考輸入されておりまして、これを模倣致しまして3年後の明治27年6月に何の前触れもなく「26年式拳銃」というのが制式化されております。

 これなども端境期対策だったと私などは睨んでおるのでありますが、回転式拳銃というやつは、自動火器や軍用小銃にくらべますと、いささか精度が粗くても構わないところがございまして、残念ながら優秀な職工をこのラインで養っていくということは、できなかった模様であります。

 ちょっとこの「26年式拳銃」についてもお話をしておきましょうか。

 重たい割に、弾に威力がない。しかも命中率も悪い--と、あまり評判は宜しくありませんでした。のちの「2.26事件」で反乱軍の下士官がこの拳銃を武器庫から持ちだしまして鈴木貫太郎に向かって屋内の至近距離から3発打ち込みました。死んだと思って引き揚げたら弾はすべて体の中央を外れておりまして、やがて侍従長の傷はすっかり癒えたという。その程度の威力でございます。

 これは26年式拳銃の引金が非常に重いので発射の瞬間に銃口がブレる癖がございましたのと、弾丸がもともと鉛のムク弾でしたのが、ダムダム弾禁止条約を律儀に守りまして、フルメタルジャケット弾に交換した。それで傷が軽くなったらしく思われます。

 では、そんな時代に遅れた拳銃であるならば、大正、昭和の早いうちに製造ラインを閉鎖してしまえばいいと思われるかもしれませんが、そこがお役所でして、関東大震災で小石川工廠が丸焼けになってくれた絶好のチャンスにも、どういうわけですか、この旧式拳銃のラインは、わざわざ復活させられております。そしてなんと終戦近くまで26年式拳銃を細々と造り続けていたようなのであります。

 こういう不合理は、機械も人員も優秀なのばかりを揃えた民間工場を設立しなければとても改善の見込みはないと、後のワシントン軍縮時代に断然奮起致しましたのが、明治20年代にはまだ新米の中尉でありました南部麒次郎でございます。

 が、南部のお話を致す前に、もう一つ、村田の仕事を語っておこうと存じます。

 それは、「村田銃」という名の猟銃---についてです。