日露戦争講演(1)

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)
  このテキストは、数年前に某所で講演した内容とほぼ同じものである。さいきん日露戦争に興味を持った人たちのために、何かの参考になれば幸いです。


 きょうは、「形になっているものを他人の言葉で理解しただけでは歴史を研究したことにはならない」という、至極あたりまえのようなお話を致そうかと思っております。

 主に武器弾薬のお話を致しますが、こうした形になって残っているはずのものが、案外正しい意味付けが、日本人じしんによって、なされておりません。その理由をみなさんに考えていただけたら、と念じております。

 明治の初めに大勢の日本人が西洋に留学致しましたが、その頃のフランスに留学した生徒が覚えてきたのが、「人の覩ざる所をば覩よ」—“Ce que lon voi, Ce que lon ne voi pas. —なる標語でありました。

 フランス語でも英語と同じように「見る」という動詞 voir が「分る」という意味も持ちますので、その言うところは、「人の解せぬところを解せよ」となるのでしょう。

 ですが、そもそも意味がちゃんと把握できていないと、モノが目の前にあっても、まるで見えていないのと同じである。そういうことが、人間の社会には、しばしばある。

 つまり、見えていてすら、分らぬことがあります。

 まして、見えないところを人に言われずして理解するのは容易なことでは、ありますまい。

 楽ではないが、これができる国民とできない国民とでは、やはり競争の結果が全然違ってしまいます。

 さあそれでは果して、近代以降の日本人は、これまで何千人がフランスに留学して帰ってきたか知りませんけれども、西洋人に比肩するくらいに、見えないところまで見えるようになったか?

 どうも、私には、そうは思われない。それは、戦争のパフォーマンスに、端的に現れていると思うのです。

 さらに問題なのは、現代の日本人自身が、その格差にまだ気付いていない。証拠が目の前にあるのに、分らんのであります。

 これを皆さんにお示しするには、最も形として、また実績として把握し易い、武器の話がよかろうと愚考する次第であります。

 徳川幕府が外国に港を開きまして、とにかく一日でも早く西洋に追い付かねばならんという意気込みで明治新体制がスタート致しましたが、岩倉具視を団長とする一行がまずアメリカとヨーロッパの文明の進み具合をつぶさに視察しようじゃないかと出掛けまして、現地で一様に感じましたことは、「これなら40年か50年で追い付けるじゃないか」だったという。

 大いに高をくくったのであります。

 確かに蒸気機関の模造品は、40年どころか1年で日本人は自作してしまいました。

 しからば西洋の蒸気機関を凌ぐ高性能の蒸気機関を、日本人は何時造れるようになったか。日露戦争前か、明治末か、大正年間か、昭和の戦前か、戦中か?

 じつは、戦後の現在も、かろうじて肩を並べている程度で、決して追い抜かしてはいないのであります。その肩を並べられたのも、ようやく昭和50年頃でありまして、単に追い付くだけでも、明治維新から120年近くかかっている。

 皆さんは蒸気機関というと休日に山奥の観光地で走らされるSLぐらいしか思い浮かべられないかもしれません。

 しかし、第二次大戦中の軍艦の動力は、9割以上、スチーム・タービンであります。近年の豪華客船『クイーン・エリザベス2世』号も、敢えて燃費の良いディーゼルではなくて、わざわざスチーム・タービンを動力に採用しました。その方が客室が静かになるのと、最高速度が出せますので有事の際に兵員輸送船として徴発したときに、より兵隊が安全になるわけです。

 それから、火力発電所のボイラー。将来は、天然ガスでガスタービンを回すのが主流になっていくと思われますが、今までのところは多くが脱硫のC重油でスチーム・タービンを回して発電しております。中国などでは逆にこれから石炭火力発電がたいへんな勢いで増やされるはずであります。

 ま、要するに、ピストンがタービンに変っただけで、蒸気機関の時代は19世紀から一貫して続いているのです。

 日本は明治末に英国のビッカーズ社から戦艦『金剛』を買ったのを最後に、総ての軍艦を国産に切り換えた………ことになっておりますが、主機関、つまりエンジンに関しては実はそうではなかった。

 大正4年竣工の戦艦『扶桑』は、米英共同開発のブラウン・カーチス・タービンを輸入して搭載していました。これは、大正7年竣工の『伊勢』までそうでした。

 大正9年に竣工して連合艦隊のフラッグシップになった戦艦『長門』の動力は、「技本式タービン」といっておりますがこれもアメリカ製のコピーに過ぎませんで、高速で回転するタービンでスクリュー・プロペラをゆっくりと回しますために「減速ギア」という部品が必要なのですが、これは米国からウェスチングハウス社製を買って取り付けております。二番艦の『陸奥』ではこれをコピーした。

 駆逐艦なら小さいから国産化も早かったかというとそうでもありません。エンジンでは、とじこめる圧力が問題となるのでありまして、日本は高圧のタービンをなかなか国産できませんでした関係上、新鋭駆逐艦の主機にも、その時どきの最新式の外国製を買って取り付け、二番艦以降でそれをコピーするというパターンを繰り返しているのであります。

 大正3年には英国で『浦風』という駆逐艦が竣工しておりますが、これにはもちろん英国製のタービンが搭載されております。

 また大正11年には駆逐艦の『菱』と『蓮』が国内で竣工致しますが、主機は英国カメルレヤード社製であります。

 昭和元年には浦賀で駆逐艦『弥生』が竣工致しますが、この主機はメトロポリタン・ビッカーズからの輸入でありました。

 こうしたスチーム・タービン関連の技術導入は、昭和初期で終りましたが、それは、昭和初期についに日本の技術が欧米に追い付いたから、ではありません。

 満州事変の結果、外貨が非常に逼迫しまして、外国技術を買い求める分野を絞り込まなくてはならなくなった。それで、蒸気機関はもう良いから、むしろ飛行機や潜水艦や戦車や魚雷艇などの内燃機関を買わないと列強の技術進歩に完全に取り残されてしまうというわけで、外貨の使い途がそっちに集中されただけなのです。

 ですから、戦前日本の造艦技術の集大成といえます戦艦『大和』、これは速力があまり出なくて、味方の航空母艦についていくことができませんでした。これに対して、アメリカの新鋭戦艦は空母にピタリとついて巡洋艦並の30ノットで暴れ回っている。岩倉使節団に聞かせたならば甚だ不本意だと思われたに違いない結果が出ております。

 日本人は、40年あれば克服できると思った蒸気機関で、開国から70年経っても西洋に追い付けなかった。「黒船」を、凌げなかったのであります。

 1943年に日本帝国海軍は『島風』という駆逐艦をタッタ1隻、建造しました。この駆逐艦には、特別設計のスチーム・タービンを搭載しまして、40.9ノットの高速を出すことができましたが、蒸気圧そのものは、米国の大戦中の量産型駆逐艦、つまり何百隻もあるごく一般的な艦よりも低かったのであります。

 それでは戦後はどうかといいますと、これもかろうじて追い付いたというところで、まだ追い抜くまでには至っておりません。

 たとえば日本で最初の100万キロワットボイラーが導入されましたのは、昭和49年のことでありますが、このとき東京電力の鹿島火力発電所では、米国のジェネラル・イレクトリック社製の設備を買っております。

 まあ、考えても見てください。原子力発電も蒸気タービンで発電しているのです。原子力潜水艦も、蒸気タービンでスクリューを回している。つまりアメリカは戦後も休むことなく、蒸気機関を改良してきたわけで、この蓄積を日本のメーカーはおいそれとは越えられない。

 じゃあ、その急には越えられない要素とはいったい何なんだといったら、それは簡単には見えにくいところにあるものなのです。

 いま、仮に日本でジェット戦闘機を純国産しようと思いましても、それに搭載すべきターボ・ファン・エンジンは、純国産できません。タービン・エンジンも含めて純国産できますのは、予想できる将来も、中型のヘリコプターと、せいぜい小型の練習機だけであります。

 F-2、つまりFSXとしてアメリカ議会が騒ぎました飛行機も、エンジンだけは初めから米国のを輸入するつもりだった。今、日本で国産できるのは、練習機用の小さいターボファンと、ヘリコプター用のターボシャフトだけで、後は気の利いたサイズの民間旅客機用も戦闘機用もすべて外国製を使うしかない。

 大型の輸送機ですとか、国際線で飛ばす旅客機も、機体はいくらでも設計できます。けれども、エンジンだけは、どこか外国からライセンスを買ってきて製造する以外にない。

 これは、よく、敗戦直後の7年間、日本が航空エンジンの開発を進駐軍によって全く禁止させられたからだと言われるのですけれども、そんなのは大嘘です。

 考えてみてください。7年間の遅れだけが原因であったら、それは7年未満でキャッチアップできなければおかしい。なぜなら、見本が既に外国で出来上がっているからです。

 しかるに、サンフランシスコ講和条約から7年経った昭和35年には言うも愚か、現在は講和後48年、つまり7年の7倍が経過しようとしているのですけれども、日本はアメリカのメーカーが1980年代、7年の3倍くらい前において設計できたような旅客機用、戦闘機用のジェット・エンジンを設計することも、まだできないでいるのです。

 理由を簡単に推測しまするに、日本の技術者の間には、この分野で競争しても無駄であるという共通の意識がありますでしょう。

 次に、鉄砲のお話を致しましょう。

 17世紀後半からイギリスはインドの植民地支配を目指して勢力の扶殖を開始します。と同時に中国に迫って広東を拠点に商売を始める。

 18世紀初めには、ナポレオンに占領されたオランダが極東に持っている植民地も全部奪い取ってしまいまして、次いでシンガポールに極東の経営拠点を建設します。

 準備が整いましたところで1840年、とうとうそれまでの「商人」の仮面を脱ぎ捨てまして、阿片戦争によって香港その他を割譲させた。

 この香港をシンガポールに次ぐ海軍の拠点に仕立てまして、さていよいよ次は日本を狙おうか--というところで、太平天国の乱(1850~)とクリミア戦争が相次いで起った。

 日本の教科書ではほとんど見ることはありませんが、クリミア戦争(1854~6)には、じつは極東戦線というものがありました。沿海州からカムチャッカ半島にかけてのオホーツク沿岸に要塞を築いて立て篭っているロシア軍の守備隊に対しまして、イギリス・フランスの軍艦が香港から長駆出撃を致しまして、これを片端から町ごと焼き払うという作戦。まったくの日本の近海で、こんな戦争が行なわれていたのです。

 その間、日本政府はペリー艦隊(1853~)の対応で手一杯であります。日本の開国がアメリカ単独の手柄となった背景にも、じつは太平天国の乱とクリミア戦争極東作戦がありました。

 さてここからが鉄砲のお話なのですが、いったい、この時期のイギリス軍、あるいは英仏連合軍は、いかにすれば万を以て数えたインドや中国の軍隊を、いずれもわずか数千、数百の兵力だけで苦もなく平らげていくことが、できたのでしょうか?

 これは、ハードウェアだけをいくら比較致しましても、説明はつけられないのであります。

 たとえばインドには良い鉄が出ます。それから、真鍮の原料となる亜鉛も豊かにある。

 こうした原料を使って、西洋式の鉄砲が、あちこちで造られておりました。中東一帯に輸出されるほどに、たくさん造っていたのであります。

 性能も、ほぼ等しい。

 鉛の丸い弾丸を発射する、ライフリングの無いマスケット銃ですから、誰がどのように造っても威力はほぼ同じになります。だいたいヨーロッパでも、ナポレオン戦争を挟んで前後数十年間、マスケット銃の基本性能は進化がないのです。

 これが劇的にパフォーマンスが向上しましたのが「ミニエー銃」という簡単に先込めのできるライフル銃でありましたが、イギリス軍がこれを制式採用致しましたのが1851年。さらに「エンフィールド銃」として大成させましたのが1853年です。したがいまして、太平天国の乱までは、まだどちらも同じ性能の旧式の銃で撃ち合っているといってよい。

 もちろんのことに、フランス軍やイギリス軍がやって参りましたとき、インド人は、侵略者と同じくらいの殺傷威力のある火器と、十二分の弾薬を持っていたことになるでありましょう。

 資源に困らない国で、しかも人口も多いのですから、弾丸を火薬で発射する銃器の総数は、むしろ多かったに違いありません。

 しかし、それでもインドは植民地化されてしまった。—これは一体、どうしてでしょうか?

 同じことは、中国についても言えます。清国には多数の大砲があった。要塞に据え付ける非常に大きなものから、野戦向きのコンパクトなもの、アラビア人がもたらした「フランキ砲」という後込め式の軍艦用の大砲まで、何でもあったと言っていいでしょう。数も、英仏軍の何倍、いや多分、数十倍はあった筈です。アヘン戦争のときには、イギリス軍は3000門の大砲を分捕ったという話もある。

 とうぜん、小銃もあった。やはりマスケット銃ですから、ヨーロッパ製も中国製も、飛んでいく弾丸の射程や威力はほとんど同じです。いやむしろ、篭城用の巨大な火縄銃を持っていた中国兵の方が、威力は勝っていたかもしれません。

 ここでもインドと同じで、ハードウェアの性能と量、それを装備する兵隊の人数だけを比較したら、イギリス軍やフランス軍に、そもそも勝ち目があるのかすら疑われるのです。

 しかし、ごくわずかな軍艦から上陸したごくわずかな兵力によって中国軍は連戦連敗、じつに他愛もなく、城下の誓いを強いられてしまった。

 全体の数字はよく分らないのですけれども、アメリカの初代駐日公使のハリスは、徳川幕府の外務担当の役人に対しまして、中国でイギリス兵とフランス兵はこれまでに数百万人の中国人を殺しているから、そんなのが来る前に通商条約を結べと脅しております。これに対して阿片戦争でイギリス兵が最も苦戦したある1日の戦死傷者の数が180人であったと申します。

 —どうしてそんな違いになるのでしょうか?

 これも、見えない理由があったのです。

 その理由をなんとか見ようとして、幕末に日本人の悪戦苦闘が始まっております。

 まず清国が手もなく破られたのは、イギリス軍やフランス軍が使っている武器が全然違うからではないかと日本人は疑ってみました。

 それで、長崎で幕府の役人をしておりました高島秋帆という人、この人がオランダの軍隊が使用しているという小銃を買い求めまして実際に調べてみます。すると、これが日本に元からあります火縄銃と比較致しまして、飛んで行く弾丸の威力が、特段に強い訳ではないと知れた。

 日本の火縄銃は、弾丸の重さで口径を表わしますが、小さいものは足軽用の2匁半、これが今風に言い替えますと口径11.8ミリ、大きいものは、ちょっと果てしもないのですが、まあ実用的なところで、大勢の武士が練習しておったのが「10匁筒」と申しましてこれが口径18.7ミリというところであります。

 それに対して西洋列強の使用していたゲベール銃、こちらは、筒だけ見ましたらば、日本の8匁か9匁の火縄銃と、これといって異なるところがなかった。

 佐藤信淵は、アヘン戦争のころの英兵の鉄砲は、口径が日本式に表わして8匁、薬の量は6~7匁だと書いている。7匁というのは約25グラムです。

 これに対して幕末の関流という火縄銃の砲術では、口径10匁、薬の量は最大で7匁としていました。しかし銃身長が短いので弾道は湾曲致します。

 それで命中率はどうかといいますと、火縄銃は引金のひっかかりが軽く出来ている。

 「火ばさみ」が落ちますときのバネの力はごく弱いものでして、従いまして、打つ瞬間のブレが生じません。だいたい3匁半までの火縄銃でしたらゲベール銃など比較にならないくらい命中率が高かった。

 それなら西洋式小銃の利点とはどこに存していたのか。

 よく調べてみますと、ゲベール銃にはリアサイト、つまり「後ろの目当て」となります照門が、どこにもありません。鳥打ちの猟銃と同じで、筒先に照星がついているのみであります。その代りにバットストック、つまり頑丈な肩当て銃床がついていた。

 これは何を意味するか?

 日本の火縄銃というのは、これは一人が一人を狙い撃つ、「狙撃銃」であります。銃というものは引金を落すタイミングを自分で決めませんと、絶対に狙ったところへ弾は当ってくれません。

 ですから一斉射撃などというものはそれまでは日本にはなかった。テレビドラマなどでやっているやつ、あれは幕末の「西洋銃陣」、「洋式調練」に他ならないのでありまして、元亀・天正の戦国時代から幕末天保に至るまで、日本の火縄銃にそもそも一斉射撃というものはないのであります。あくまで一人が一人を狙って、自分のタイミングで撃っていた。

 しかしゲベール銃は、文字通りの一斉射撃のための武器だったのであります。

 密集隊形を組んで、指揮官の命令一下、敵の集団に対しまして全員が一斉に発砲します。有効射程は150m以下ですから、とにかく銃を水平に維持すればよい。だから、リアサイトはいらないのです。そのかわり、発射するための火薬の量は多い。火薬の量を多くしますと反動がきつくなりますから、頑丈なバットストックで支えるようになっていた。そうすることで、弾は水平に飛んでいきまして、敵軍を弾幕の中に捕捉することができるわけであります。

 一斉射撃の後は、これまた命令一下、全員が着剣した小銃で突撃します。ただ一回の突撃で、必ず前面の敵部隊を粉砕してしまわずにはおかない。これが西洋銃陣の真髄でありました。

 この密集隊形による一斉射撃や銃剣突撃を可能にしていたハードウェアが、火打ち石による撃発機構です。これは1830年からは雷管に代りますが、いずれにせよ火縄のような「生火」は扱いませんから、射手と射手とが隙間を空けずにくっついて立ち並びましても、何も危ないことはない。

 私は火縄銃の実弾射撃を見たことがございますが、発砲の際に無数の火の粉が風下1mくらいに雨のように降り掛かります。これは銃口から出る火の粉ではございませんで、主に引き金の上の方についております火皿から、横へ吹き飛んで参るのであります。

 だいたい、少なくも2m以上、隣りの射手と離れていなかったら、とてもではないが危なくて装填動作などやっていられない。自分が持っている大量の火薬、すくなくとも500匁以上ですが、それから地面にこぼしてしまった火薬などに不意に燃え移って、ゆゆしい事故を招きかねないのです。

 ここにおいて、西洋軍隊の強さとは、ハードウェアに特別な秘密があるわけではない、運用術が違うのだと高島秋帆は気付きましたから、そこから「西洋銃陣」「洋式調練」といったものが初めて全国に普及して参ったわけであります。

 13世紀にヨーロッパでは、ロングボウというたいへん強力な弓が用いられておりましたが、日本で明治時代に弓をいろいろと研究してみた人によると、強い弓で遠くの小さい的に当てることはできない。つまり、強い弓は一斉射撃でないと意味がない。そんなところからヨーロッパにはすでに近代以前から、一斉射撃のノウハウがあったのだろうと私は想像しております。

 しかし、秋帆にしましても、また、1847年に「三兵タクチーキ」という洋書を翻訳致しました高野長英に致しましても、西洋銃陣のソフトウェアの肝心なところまでは窺い知ることはできませんでした。

 それと申しますのは、戦場の最も危ない場面において上官が自分の命令を必ず部下に聞かせる、ひとりの例外もなく聞かせないではおかないという、厳格な規律を保つ手法であります。

 こればかりはいくら洋書を読みましてもすぐに日本人の指揮官に身につくものではありませんから、長州藩の諸隊のように真っ先にゲベール銃と洋式調練を採用したところでも、実戦になるとたちまち元亀・天正のバラバラ戦法に戻ってしまったのであります。けれども、今回はそのお話は致しません。

 さて、高島秋帆が1832年いらいオランダ人より買い求めました洋式銃や洋式大砲、これは海防に必要であると認められ、幕臣の江川太郎左衛門、佐賀藩、薩摩藩をさきがけと致しまして、輸入や模倣製造が始まります。

 幕府もペリー来航の2年後、1855年にはすべての藩が勝手に洋式小銃を造ってよいと布告を出しまして、その4年後には誰でも大手を振って外人から洋式銃を購入できる運びとなりましたがこの結果、長州藩の諸隊の武力が非常に改善されまして、二度目の長幕戦争はそのまま戊辰戦争に発展して日本の政体は一変することとなります。

 ただ、第二次長州征伐で長州側が全員ゲベール銃、一部はミニエー銃を持っていたにもかかわらず、必ずしも火縄銃装備の幕府軍を一方的に押しまくったという訳には参らなかった。

 こういうところなどを見ましても、西洋軍隊のアジア侵略は決して武器の性能にのみ頼っていたのではない、何か目に見えない要素があったからだということが、窺えるだろうと思います。

 この「見えない要素」を、日本人として、否、アジア人として、初めて見極めましたのが、薩摩の貧乏侍で村田経芳という、ほとんど学問も何もない男。明けても暮れても銃と射撃ばかりを研究して一生を終えたというこの若者がもし鹿児島に現れていなければ、日本の近代史はまるで違ったものになっていたかも知れぬという、それほど重要な人物でございますけれども、なぜかまだ謎の部分が多う御座いまして、必ずしも歴史家より正当な評価を受けてきたとは思えない。

 詳しいことは後でお手元の資料などを御一読賜りたいと存じますが、この村田が気付きましたることとは、他ではない。—西洋軍隊の強みは、銃士が全員、全く同じ弾道性能の火器を携えている。発射する弾丸は正確に同じ直径、同じ比重、同じ空気抵抗であります。

 薬室に注ぎ込みます火薬も、同じ工場から送られてきた同じ成分。

 それを、全員が同じ分量だけ正確に計って用います。

 これで、密集隊形を組みまして、一人の指揮官の号令の下、全員が水平に構えて一斉射撃を致しますから、正面150歩以内におります敵は、必ず火網の中に捕捉される。そうなれば、一梃一梃の照準とは無関係に、敵軍の一箇所に全滅的なダメージを与えることができる。そこに一斉の銃剣突撃が続きますから、味方に致しますと一方の血路は必ず開かれる。敵にとりましては一方の備えは必ず崩されてしまうわけである。

 このように規格を一つに統一することによりまして、教育訓練も容易になります。また、弾薬の製造と補給を合理化することができる。

 今の用語でこういうのを「フォース・マルチプライヤー」と申しますが、この場合は、規格統一が「フォース・マルチプライヤー」なのだと村田は気付きました。

 今でも日本人はこういう見えないところを見るのが苦手でございます。ですから「フォース・マルチプライヤー」という英語概念の適切な訳語もございますせん。言葉がないのは概念がないからです。

 不思議なものでございまして、人間は、ちゃんと意味を掴み切れていないものは、たといそれが目の前にあっても、見えないのです。「何だか訳の分らないうちに戦争に負けちゃった、競争に負けてしまった」という場合も、その背景には、まだ日本人が意味を掴み切れていない原因があるのです。それを見ようとしなければならない。

 そこで近代戦史だけに着目致しましても、見えない要素が「フォース・マルチプライヤー」となっております例が、非常にたくさん発見できるのであります。

 「フォース・マルチプライヤー」とは何か? これ、日本語がありません。

 無理に訳しますと「(フォース)力を・(マルチプライ)倍加する・もの」となるでしょう。 が、一言でもって言い替えられる日本語は無い。

 同じ意味の日本語がないということは、どういうことか? 英米人にはあるその概念が、日本人の頭の中には存在しなかったということです。

 尤もこの「フォース・マルチプライヤー」の場合は、英米人が言い出したのが比較的さいきんですから、訳語がなくても無理はないかもしれません。しかし、ある外国語にちゃんと対応する日本語がないのは、これも、戦争を想像する想像力の競争で、日本人が負けてきたことの一つのアカシなのであります。

 たとえばちょっと鉄砲から話が逸れますが、明治末期におきましてこれからは石油の確保が大事なのだと気付けなかったのは、日本の指導者に「フォース・マルチプライヤー」が見えなかったのであります。

 軍艦の数よりも、その軍艦の回転率を上げる港湾設備の方が大事であること、たとえば艦船の建造ドック、修理ドック、艤装岸壁といったものですが、これも「フォース・マルチプライヤー」でありまして、戦前の日本の指導者には分らなかったのであります。

 飛行機も大事だが、ガソリンの性能、それから飛行場を造成する土工機械、これがフォース・マルチプライヤーなんだと気付いたときにはもう手遅れであります。

 ナビゲーション・システムもフォース・マルチプライヤーでございました。

 レイテ海戦あたりからアメリカの潜水艦による日本側の被害が急拡大致しておりますが、これは、潜水艦がレーダーを積んだだけでなく、ロランという航法システム、これはいまのGPSの地上版のようなものでありますが、このネットワークが西太平洋の米軍占領地に展開されたためでした。

 日本人は、アメリカの潜水艦がレーダーを積んでいることは知っておりましたが、ロラン航法システムなんてものを活用していようとは思わなかった。

 昭和20年に入りまして米軍の艦載機が日本本土を空襲します際にまず岬の灯台を銃撃して破壊してしまう。そんなことをしたらアメリカ軍も夜の目印がなくなって困るだろう、などとこちらでは不思議がっていたのですが、彼らは電波航法システムを利用できましたので、光る灯台など壊してしまってよかったのです。

 ロラン・システムも一朝にしてできたものではありません。ヨーロッパ人は、だいたい18世紀から洋上での経度を正確に計るための精密時計の開発を続けてきておりました。その精密時計の延長上にロラン航法があり、また、今のGPSがあるのです。GPS衛星は精密原子時計を搭載しております。

 ここでも、目に見えない精密さこそが戦いを左右する「フォース・マルチプライヤー」になっております。

 というところでお話は村田銃に帰ります。

 ともあれ村田経芳だけは、西洋軍隊は、軍用兵器の規格を厳密に等しくして、なおかつそれを一斉運用することに心掛けますことによって、百梃の銃、能く一万の烏合の衆をも自在に追い回せるのであると、事の真相を見抜いたのであります。

 欧米人には見えて日本人にはなかなか見えないものの代表が、「フォース・マルチプライヤー」でありますが、しかし、すべての日本人にそれが見えないわけでは決してなかった。この村田経芳などは、それを最初に見ることのできた日本人であったわけです。

 ただ、それだけでしたなら、薩摩藩、もしくは御親兵が、東洋におけるもうひとつのナボレオン式軍隊、あるいはフリードリッヒ式軍隊になっただけで終ったでありましょう。それでは日本は欧米に並ぶことは覚束なかったのであります。

 と申しますのは、欧米ではまさにこの時期、後ごめ式のライフル銃が非常に急速に発達を致します。伝統的な集団一斉射撃から、各個人の狙撃の技量が重視されるように変っていくところだったのです。

 そこで非常に日本国にとって運のよかったことに、この村田という人、空中に投げ上げられた梅干しのタネを銃で打ち抜く、あるいは走っている獣をゲベール銃で打ち倒したという、とてつもない射撃の名人でした。ですから、日本国軍隊が使用する火器を国産の一種類で以て統制するというアジアでは初めてとなる大事業と並行致しまして、鎮台兵に対して、特に狙撃を重視する教練を施しました。

 そのご、日本の工業は、弾薬を無尽蔵に供給できるレベルにはついになりませんでしたから、命中率を追求する村田の主義が全陸軍に定着したことは、日本が欧米軍隊と何年間も戦争ができる一つの条件を整備したといっていいのです。

 後に日本陸軍は「擲弾筒」という超小型の迫撃砲を開発いたしますが、これは第一次大戦で欧米軍隊は小銃の筒先にカップをとりつけて手榴弾を発射した。小銃擲弾といいますが、しかし日本ではそんなことをしたら小銃の銃身が歪んだり部品にガタがきて命中率に悪影響を及ぼすというので、まったく別の発射装置である「擲弾筒」を造らせたのです。

 このように見て参りますと、明治にたった一人の村田経芳という男がいてくれたお陰で、日本は、少なくとも歩兵銃の分野では、岩倉使節団から9年で、世界に完全に追い付いた。以後、一度も遅れをとっておりません。

 しかし他方では、航空エンジンや核兵器の分野で、この村田経芳に相当する人物は遂に今まで現れておりません。これは現代日本の不運であります。

 ところで、村田銃そのものは、傑出した銃でもなんでもなかったのです。

 基本的にはフランスのシャスポー銃の模倣でありまして、その際に、コイルスプリング—「つる巻きバネ」というものは高品質の特殊鋼でありまして、当時の日本の工業技術ではなかなか量産ができそうにない。そのバネだけで大きな最新式の工場を建てねばならない。そんな余裕はございませんので、火縄銃時代から国産の技術が完成しております板バネでもって撃針を動かすように工夫をしました。

 これが大正解でありまして、1950年代まで地方で猟師が使っておりました「村田銃」と呼ばれる単発ショットガンは、ずっとこの機構を踏襲している。それほど日本工業の技術レベルにうまくマッチした、すぐれた量産工業製品だったのであります。

 その発想に一人で辿り着いて、自ら偉い人々に働きかけまして、遂に国軍の火器を統一した。

 日清戦争におきまして清国軍はドイツ商社が李鴻章をとりこんで盛んに売り込みましたモーゼル連発ライフルという強力な最新兵器などを多数持っておりましたが、装備は各部隊内でもバラバラ、従って訓練もまちまち、国家単位での弾薬補給も行なわれないという次第で、日本陸軍は村田の開発致しました単発の小銃だけで大勝をおさめておる。これぞ「軍銃一定」の真骨頂であります。繰り返しますが、このように一国の第一線部隊が用います銃器をただ一種類に統一できたのは、アジアでは日本だけです。村田経芳の功績はここに尽きております。

 もう少し、この村田の話をしましょう。

 もし、明治に近代オリンピックが開かれたとしましたならば、エアピストルからスモールボアライフルまで、それから散弾銃のスキートとトラップも含めてになるでしょうが、バイアスロンを除いては、この村田が、射撃系の金メダルを総ナメにしただろうと、わたくしには信じられます。

 横浜には1863年から明治8年まで12年間、イギリス軍将兵1000名ないし300名、加えまするにフランス軍将兵300人が駐屯しておりました。この事実上の進駐軍、日本政府が各種の賠償金の残額を支払い終るまで居座っていたのであります。

 この軍人たちに加えまして、横浜では外人貿易商が軒並み武器を扱っておりました関係からか、若しくは護身のためでもあるのか、自ら狩猟や射的を好む者が非常に多かったと見えます。

 その軍人と民間人の中から鉄砲の腕自慢ばかり200人ほどが相集いまして、明治5年10月の15日と16日の2日間、本牧におきまして「小銃的射会」を催しました。

 この噂をどうして聞いたか、たまたま現在の品川区にございました薩摩藩邸に滞留しておりました村田経芳、自らこしらえた小銃を肩にかつぎ、飛び入りで参加を致しまして、並み居る200名の外人選手をあっさりと斥けて第一等の命中を得た。

 『新聞記事』というタイトルのニュース雑誌が当時ございます。その第68号を見ますと、大会の模様がこう伝えられている。すなわち、「発的場」に於きまして「我国旗を一等に建て」た。そのとき、村田を祝う声が地面を動かした、等と報じられてございます。

 ちなみに第二等はスイス人の貿易商であったそうですが、ともかくも「国際競技会」と名付けられるものにおきまして優勝を果たしましてそれで表彰台のメインポールに日の丸の旗を掲げた日本人は、この村田経芳が本邦の嚆矢である。

 この明治5年といいますれば日本政府は挙げて条約改正をいかに達成するか、汲々としておりましたけれども、日本国でただ一人、村田経芳だけは、白人コンプレックスというものには無縁であった。

 日本人全員が自分のように小銃射撃の腕を高めさえすれば大袈裟な陸軍なんてものを創らなくとも国は独立できるのだ---と身を以て示しましたから、徴兵制の陸軍を創るのにどうしたら良いかと頭を悩ましておりました大久保利通や長州の山県有朋にたいへん気に入られることとなりまして、よしそれならこいつに日本陸軍の小銃のことは任せておいたら良かろうということになった。それから10年足らずで出来上がった村田銃のおかけで日本は日清戦争に勝ち、独立国として世界から認知されることになる。まさに福沢諭吉のいう、「一身独立して一国独立す」を、地で行った男であります。