日露戦争講演(3)──マタギ・スペシャル

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 明治41年に日本には泰平組合という輸出カルテルができまして、ここが余剰生産兵器を海外に売り捌く仕組みができました。これによって陸軍工廠では、国軍の需要のない端境期にも兵器をコンスタントに製造できる、つまり、腕の良い職工を常時つなぎとめておけるようになったわけであります。この事業を開始致しましたのが、日露戦争中の小石川の陸軍工廠でホチキス機関銃のライセンス生産を一人で担当しておりました南部麒次郎の少佐の時であります。

 ところが、戦前の銃砲店の商品広告などをよく調べてみますと、既に明治前半の村田経芳が、小石川工廠の設備と人員を活用致しまして、対民間のビジネスを始めていたということが分ってくるのであります。

 南部のように輸出をしたのではなく国内に売ったのでありますが、村田が退役した翌年の明治24年には、このビジネスはうまく軌道にのっていたことは、カタログ類から確実に分ります。

 残念ながら肝心の村田連発銃の生産はうまくいかなかったのですけれども、そうして普及致しましたのが、戦前の全国の職業猟師が愛用を致しました猟銃の「村田銃」でありました。

 名前こそ村田銃ですが、これはライフル銃ではない。単発の、非常に値段の安いショットガンなのであります。

 この猟銃の村田銃、発想はどこから来ているかというと、明治前半には素材が悪いこともありまして単発の13年式村田歩兵銃が部隊で使用中に銃身が曲がったり致しまして故障になる率が高かった。それを部隊におきましてはまだまだ直す技術はございませんから、いちいち製造元の工廠まで送り戻されて来ます。それを修理するセクションもありました。

 しかし、中には修理が全く不可能で、廃品にして、新しいのと交換した方がよい場合もある。その廃品銃の部品を活用して、村田が散弾銃をこしらえてみた。

 散弾銃というのは幕末に開港致しましてから白人の狩猟家が日本に持ち込んで流行らせましたもので、まあおかげでトキ以前にも何種類もの貴重な鳥や動物が大正時代に絶滅してしまうんでありますが、明治10年代ですと、まだ高級な輸入品です。

 べらぼうに値段が高かったので、田舎の職業猟師などはこれを手にしたくともとてもできない。いぜんとして江戸時代の火縄銃で猟をしておるありさまでして、村田はスイス式の国民皆兵制度を理想と考えておりましたから、安い近代ショットガンを田舎に普及させてついでに、射撃訓練もさせてやれ、と考えたこともあったようです。

 それで、最初は廃品の村田銃の機関部---つまり、槓桿を開いて薬室に装填して閉鎖して引金を引いて発火させる、その部分だけを流用致しまして、廃品利用の改造品という形で単発の散弾銃を造って民間の銃砲店に払い下げを始めたのですが、すぐに、18年式村田歩兵銃の生産ラインの一部を使って、まるっきり新品の猟用ショットガンとして受注生産を始めたようなのです。それこそ、口径や銃身長、台尻の木材の素材、安全装置をどうするかまで、客からの注文に応じていた痕跡がございます。

 だいたい、イギリス製の口径12番、水平二連の猟銃は200円以上していたそうですが、村田式の猟銃は、新調なのにたった9円50銭。

 二十分の一の激安というわけで、これは非常に普及致しまして、1950年代まで東北あたりでは村田式の猟銃で熊などを撃っていたことが、マタギの記録などを読みますとよく分るのです。