日露戦争講演(4)──有坂成章

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 さて、山県有朋によって薩摩出身の村田経芳の代りに陸軍砲兵工廠に送り込まれたエリートが、長州の支藩である岩国出身の有坂成章であります。

 最初は、東京湾をロシア海軍から防衛するための要塞砲の世話係のような形で山県に使われていたのですが、だんだんに武器設計家としての頭角を現しまして、ついには日露戦争の陸戦兵器全般の面倒を見る「砲兵会議議長」という要職に就任致します。

 すなわち日露戦争は、陸戦に関しましては、ぜんぶ有坂が設計した小銃と大砲と弾薬で勝利したといって過言でない。

 この人がまた奥床しいというか、明治人には珍しく自己宣伝をしない人でありまして、そのために私が書きました『有坂銃』という本、これが伝記といたしまして唯一の単行本でございます。どうして遺族の人が没後に伝記を出版させなかったのか、これも謎なんです。

 おそらく、武器の大発明の陰には失敗作もあるのでしょう。その失敗作の欠陥品ために、平時に同胞が何十、何百人と死傷すれば、これは大変なトラウマであります。対ロシアの勝利という大功績をもってもその過去は帳消しにはならない。少なくとも本人は終生、気にしておりますので、国から表彰してやると言われれば金鵄勲章は受けますけれども、自分からはとても宣伝をして威張る気にはなれなかったのだと、私は、想像をしております。

 たとえば、旅順に「28糎榴弾砲」を投入した作戦がありますが、これも全く有坂一人の手柄でした。

 かつてケネディ大統領、成功には何人もの父親が名乗り出てくるが……、とピッグス湾事件の失敗のあとで嘆いたものですが、この28糎榴弾砲の話などはまさにその典型と申せます。「あれを提案したのはオレだぜ」という自慢話が、ポーツマス講和後に無数といっていいほど出ております。そのほとんどはホラ話であります。

 レッキとした将校たちがみんなで大ボラを吹いている。これが明治末期の雰囲気でしたから、乃木大将などもいたたまれなかったのは無理もない。

 詳しい経緯につきましては、小著『有坂銃』をご一読賜ればご納得いただけると思いますが、そもそもあの28センチ砲を日本の沿岸に取り付けさせたのは山県有朋でありまして、その実行を担当させられたのが有坂成章なのです。

 山県は軽い思い付きでこうした要塞を整備させたのではありません。彼はまず手元・足元から防備を固めるという主義の軍人だったのです。

 この沿岸要塞建設のために山県が投入した努力は、調べてみますと洵にすごいものなのです。心血を注いでいた。たぶん元治元年の奇兵隊が英仏軍に敗れた経験がよほど強烈だったのだと思いますが、とにかくそういう次第ですから、日露戦争中にこれを日本の沿岸から取り外すなどということはもっての他だったんです。

 ただ、有坂成章だけが、山県を説得できる男だった。もちろん、28センチ砲の据え付けの仕方を具体的に知っているのも有坂だけなのであります。他の軍人は、要塞砲が動かせるなんて知っていた訳がない。

 まあ、証拠と致しましては、当時陸軍大臣であった寺内正毅の明治37年8月25日と26日の日記、これを見ただけでも、提案が有坂から出ていることは明白であります。

 次に、日露戦争で歩兵が持っていた小銃ですが、これは明治30年に有坂が設計致しました「30年式歩兵銃」というものであります。

 この「30年式小銃」の口径とか全体の寸法は少しも変えないで、機関部の部品を僅かに変更いたしましたのが、有名な「38式歩兵銃」。銃剣はやはり30年式のものを流用しております。

 ですから、日本は明治38年設計の小銃でアメリカと戦ったというのは正しくありません。日本はまさしく明治30年に有坂が設計した小銃で、アメリカと戦っているのであります。

 では有坂銃は、時代遅れのダメな小銃だったか?

 とんでもないことでありまして、これは世界一進んだ小銃であった。しかも、最も省・資源的な武器であった。

 だからこそ日本は、弾薬補給の戦いでロシアに競り負けずにすんだのです。
 さらに、中国とイギリス、アメリカを同時に敵に回して何年間も戦争をすることができたのは、有坂の設計コンセプトが合理的であったおかげなのです。

 有坂銃がなければ、そもそも日本はアメリカと戦うこともできなかったと私は考えております。いや、その前に、満州の陸戦でロシアの騎兵部隊のために連戦連敗を喫していた筈であります。

 いったい、「30年式歩兵銃」のどこがそんなに優れていたか。

 日露戦争中の全ロシア兵が装備しました「1891年式歩兵銃」は、射距離500mでの最高弾道点が、地表から1.45mでありました。これは、日本兵であれば、200mぐらいのところだと、頭を低くすればかいくぐることができる。すなわち弾道の性能がよくないのであります。

 これに対し、有坂が3カ月で作った「30年式歩兵銃」の、射距離500mでの最高弾道点は、地表から1.2mしかありません。つまり、弾道が水平に伸びる。敵兵は、500m以内では、どこに立っていようと弾に当ってしまう。ですから、歩兵はともかくも、騎兵になりますと、事実上日本の歩兵部隊に近寄ることが不可能になったのであります。

 6.5ミリという小口径弾を採用するのはひとつの賭けでありまして、イタリア軍は先に6.5ミリを採用していましたが、こちらは銃身が短いので弾道性能がよくない。30年式では十分に銃身を長く致しまして、それで当時としましては世界で最も弾が低くまっすぐ飛ぶ、つまり誰が撃っても当て易いライフルになったのです。

 38式歩兵銃が白人兵と銃剣格闘するために長いのだという話が何の根拠もないデタラメな説明であることも、これで御分りかと存じます。事実は、このとき6.5ミリの小口径で弾道性能を良くするために有坂があの銃身長にする必要があったのです。それでも、着剣全長で比較しますと、ロシア軍のライフルより30年式歩兵銃の方が初めからずっと短く設計されています。

 ところで、当時の軍用銃は、弾がよく当るだけではダメなのです。その弾で、馬を一発で倒すことができなければ、戦前の軍用銃としては失格でした。

 明治の日本の最大の脅威はロシアであったことは誰でも知っています。

 そのロシア陸軍の最大の脅威が騎兵部隊であります。

 なにしろ馬の馬格が日本の馬の1.5倍以上良かった。馬の数でも日本などとは比較にもならない。ゼロふたつぐらい違っていたかしれません。騎兵対騎兵ではまったく勝負になりませんでしたから、なんとかこれの相手を歩兵部隊がするしかないというのが日本軍の苦しい立場でした。

 日露戦争前の日本軍歩兵部隊の研究課題は、コサック騎兵の突撃にどう対処するかに尽きていたといっていいでしょう。

 それをやり遂げたのは、秋山好古などではありません。有坂が歩兵部隊に持たしてやった、歩兵銃の威力だったのです。

 30年式歩兵銃の開発過程では、馬の一番太い骨を遠くから射つという実験を、何度もしております。一番太い馬の骨が打ち抜けるなら、その馬はただの一発で倒せる。襲撃をストップできるんです。それを有坂は、6.5ミリというギリギリの小口径で実現しました。

 おかげで、日本軍は、ロシア騎兵の突撃を少しも恐れる必要がなかった。横に一列に拡がって、30年式歩兵銃を撃つだけで、コサックだろうがなんだろうが、1000m以上離れた射距離からでも、突撃を破砕できたのであります。

 鴨緑江南岸で日本軍は初めてロシア騎兵500と遭遇致しますが、衝突しました日本軍の騎兵200がまさに風前のともし火というときに、近衛大隊の歩兵銃の掩護射撃でこれを撃退致しました。以後、日本軍にとってロシア騎兵は何の脅威でもなくなったのであります。あれほど恐れたコサックが日本兵を馬蹄にかけるという事態は一度も生じませんでした。ときどきやられたのは、日本の騎兵部隊だけなのであります。

 殊勲甲は有坂銃にありました。歩兵が有坂銃を持っていたから、少ない歩兵を横に薄く長く展開できた。そこをロシアの騎兵部隊も、突破することができなかったのです。

 さらに有坂の功績は世界史的であります。

 この日露戦争におきまして、勇猛無敵を謳われたコサックどもが最新の歩兵銃に対してからきし無力であると日本軍が証明してやりましたから、それであのロシア革命も起きたのであります。したがいまして有坂の功績は、明石大佐などよりも、遥かにでかいのであります。

 さて有坂の導入致しました6.5ミリ弾は、兵站上も有利でした。ロシア軍の7.62ミリ小銃実包と同じ弾数を用意するのに、より少ない資源しか要しません。弾薬が比較的に軽いですから、推進補給の労苦も少ない。それで、日露戦争を通じて日本軍は、小銃のタマ不足にだけは、苦まずに済んでいます。もしも日本軍の小銃弾補給が、野砲弾や攻城砲弾と同じように尽きてしまったなら、やはり日露戦争は失われたでしょう。