日露戦争講演(5)──野砲用砲弾における町工場の動員

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 有坂成章のもうひとつの功績が、「31年式野砲」という大砲を国産したことです。

 わたくしが2年前に『有坂銃』という本を出しましたときに、この「31年式野砲」がドイツの何という大砲をコピーしたものかはっきりさせられなかったと書きましたところ、長谷川慶太郎さんからお手紙を頂戴致しまして、その御教示によりますれば、ドイツの「1896年式固定砲架野砲」ではないか、とのことでありました。これは1990年にベルナルト・グラーフという人が出しましたドイツ語の本に諸元が載っているそうであります。

 このように、大砲自体は真似なのでありますが、真似でない有坂の大発明もあった。それが、「銑製榴弾」という当時どこにもない砲弾、および、その信管なのであります。

 当時の野砲の仕事は、榴霰弾という、バラ弾を発射する砲弾を撃つのですが、このバラ弾は決して頭上から降ってくるのではなくて、ほぼ水平に飛んでいくものなのです。この辺は今の人はほとんど知識のないところであろうかと思います。

 水平に敵兵を捕捉する砲弾ですから、敵兵が地面に穴を掘ってその中に入ると、もうまるっきり効果がありません。そこで、野砲から榴霰弾を発射していてはもう時代遅れで、野砲からも榴弾を発射しなければならないと気付かれ出したのが日露戦争中のことでした。

 榴弾というのは地面に当って爆発する弾薬で、これなら塹壕陣地を攻撃できるわけです。今の大砲にとっては、榴弾を発射するのはいうまでもない当たり前ですが、第一次大戦以前は、榴弾は榴弾砲という少し重い大砲から発射するものでありまして、軽量の野砲から撃ち出すようなものではありませんでした。それを有坂は、野砲から榴弾を発射できるように、75ミリの鋳物の榴弾を開発しました。これに対してロシア軍は、ついに戦争の最後まで、野砲から発射できる榴弾は開発できませんでした。

 つまり、有坂は、野砲の榴弾砲化という、第一次大戦の列強にさきがける大事業を、一人で、それも戦時中にやってのけているのです。

 しかも、有坂は、町工場でも造れる榴弾を工夫致しました。それを「銑製榴弾」と申します。

 銑製の銑とは銑鉄の銑、つまり、鋳物、キャスト・アイアンであります。

 それまでの榴弾はスチールで造るものですから、とても町工場では造れない。八幡製鉄所のような、本格的な高炉か、特殊鋼用の電気炉が必要でありました。

 しかし、鋳物であれば、クズ鉄を溶かすだけでどうにでもできた。町工場の平炉でクズ鉄を溶かせばよかったのです。

 イギリスは製鉄王国でありましたが、それでも後の第一次大戦ではたちまちスチールが枯渇してしまいます。そこで、はじめて、航空用爆弾に鋳鉄を混ぜることにした。

 有坂は極東の日本においてこの工夫にいちはやく取り組んだわけです。何の見本も、先例もない。今でしたら、これだけでも通産大臣から叙勲申請があっても良いくらいの、すぐれた着想と実行なのであります。

 次に榴弾用の信管ですが、これは発射するまでは絶対に起爆してはいけない。そして何千Gという発射の加速度に耐えなければならない。しかも、柔らかい地面に命中しても絶対確実に起爆しなければならない。

 要するに、精密技術でありますとともに、極限技術でもあるのが、榴弾用の信管でした。

 そんなわけですから、一般に、信頼できる新型信管の大量製作法を確定して立ち上げるまでには、大砲の開発と同じくらいのマン・アワーと設備投資が必要とされておりました。

 ところが日本陸軍は、それを有坂一人にやらせました。

 メッケル少佐の確立しました日本陸軍の人材養成機構は、野戦の指揮官ばかりを増やすものでして、技術者を増やすことにはまったく無頓着でした。

 たとえば村田経芳も、メッケルの人事システムのおかげで、戸山学校の教官として何度も転出しては、再び砲兵工廠に戻るというムダな異動を繰り返しております。そんな杓子定規な人事規定のために、日本の新兵器の開発は非常に遅らされたのです。しかし、こうした技術者の仕事を邪魔するばかりのシステムは、第二次大戦まで改まりませんでした。

 まあ、そんななかで有坂成章が東京近郊の町工場を総動員して全く新しい野砲用の榴弾とその着発信管を量産させましたのは、これこそ超人的な努力というほかないのであります。

 これは、海軍の大砲と比べてみれば一層ハッキリするだろうと思います。

 軍艦の弾庫に搭載されます主砲の砲弾、これは、数が非常に限られたものです。

 だいたい、一門あたり、一海戦で射耗する砲弾は100発から200発です。

 つまり、必要とならば、砲弾一つ一つ、信管ひとつひとつを手作りしても間に合うようなオーダーでしかありませんでした。

 ところが、陸軍の使用致します野砲の砲弾、これは何万、何十万と量産して撃ちまくらなければならない。とうてい、一個一個の信管を手作りしているヒマなんぞはないわけです。

 ということはつまり、海軍砲弾、および海軍信管は、家内制手工業で間に合う。

 早い話が、江戸時代の細工物の内職の延長と構えておってもよかった。余談ですが、後の「酸素魚雷」なんかも、まったくそんな感じで造られております。

 これに対しまして陸軍砲弾、およびその信管は、よほど大規模な工場制でなければ、絶対に必要量を補給することはできない。

 ということは、工程管理が必要である。マニュアルも必要である。メートル法も知らない町工場のオヤッサン達でも造れるようにやしさく設計しなければならない。

 こんな苦労は、江戸時代の日本人は知りません。まさに近代工業の最前線に一人で立っていたのが有坂成章だったと言えるのであります。

 本来精密部品であります信管。これも、日本の町工場ではとても作れるものではなかった。

 しかし、対露戦争という国難に際会しまして、町工場を動員しなければとても必要量を確保できない。そこで有坂は、当時、東京とその近郊に一番普及していました機械であります「活字鋳造機械」、これに着目いたしまして、この活字鋳造器でつくれる榴弾用の信管をわずか数カ月で設計するのであります。

 こうした近代的な苦労に比べますれば海軍砲の「伊集院信管」なんてものは少しも偉くはない。

 「伊集院信管」はイギリス海軍の弾底信管のコピーに過ぎません。そもそも発明と呼ぶに値しないのです。有坂の作った信管は外国にもその例のないようなものですが、「有坂信管」などという名前を彼は付けなかった。奉天会戦が切迫していて、それどころではなかったのです。

 しかしこれは本当に例外的な奥ゆかしさでして、いっぱんに明治から昭和にかけての技術系軍人というのはつくづく自慢好きでありまして、外国のモノマネにすぎないものでも、この兵器はオレがある日夢の中で着想を得て作ったなどと埒も無い自慢話に華を咲かせております。ですから、ロクに正体も分っていない「伊集院信管」も、なぜか、名のみ高しというようになっておる。

 それに加えまして、これまでの歴史家は非常に怠慢でありまして、その通俗説のいうところを実際に自分で確認しないで鵜呑みにしてきておりました。

 私は鵜呑みにしませんでしたのでいちいち調べてみたところが、今まで偉いと思っていた発明家が実はぜんぜん偉くはない。大半はホラに過ぎませんで、むしろ兵器に自分の名前をつけるようなマネを恥じた有坂成章のような人物が、本当にど偉い近代的発明を為したのであるということを、ようやくつきとめることができたのであります。

 この有坂成章、日露戦争が終りますと、次の信管のテスト中に、脳溢血でなくなってしまいました。

 脳髄を絞った—とは、まさにこの人のような活動を言うのでありましょうか。