日露戦争講演(6)──黒幕、南部の登場

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 次に、南部麒次郎のお話を致します。

 アリサカ中将は、大砲から小銃まで一人で考えたのですが、有坂の後継者となりますと、さすがに一人ではできませんで、大砲の方面と、小銃/機関銃の方面との二つに分れます。

 その、小銃/機関銃の分野で有坂の後を引き継いぎましたのが、これからお話し致します南部麒次郎。

 彼は佐賀・鍋島藩の出身ですが、この南部さんの経歴はほとんうに謎だらけです。

 もし、全容が明らかになれば、私は、大正から昭和にかけての日本の現代史、特に日中関係史は少なからず書き変えられるだろうと思っております。それほど、政治や外交方面への関与が浅くなかった。特筆すべき武器設計家なのであります。

 現在、日本の警察官が持っております「ニュー・ナンブM60」という5連発の回転式拳銃、これは実はスミスアンドウェッソン社のハンドエジェクターという小型拳銃のほぼコピーでありまして技術的には大したことはないのですが、このメーカーが「中央工業」と申します。【補注:2004年現在ではミネベア大森工場。】

 「中央工業」の前身は「南部銃製作所」と言っておりました。これは、南部麒次郎が中将になって陸軍工廠を退きまして、大倉商事などから資本金を集めまして大正13年に設立致しました。この大倉商事は銀座にありましたがバブル崩壊の余波で平成10年に自己破産を申請致しております。

 南部麒次郎が陸軍を退きました翌としの大正14年、皆さんにも少しは知られているかと存じますが、「14年式自動拳銃」が、陸軍の採用になっております。

 これが「明治26年式拳銃」から31年ぶりに日本陸軍に採用された新型拳銃でありましたが、じつは南部は日露戦争当時から既に工廠の中で自動拳銃を設計しておりまして、これを明治40年、つまり日露戦争後の大不況がはじまりました年に、寺内正毅陸軍大臣に見せていたのでした。

 しかし、寺内は、自動拳銃なんてものは不要不急の品であるといって頑として興味を示さなかった。

 どうも寺内さんは西南戦争で右肘の骨を砕かれておりまして、野戦病院でスッパリ切断されるところをなんとか残してもらい、いらい、敬礼も左手でしていたという将軍でありましたから、自分で南部式自動拳銃を射ってみることができなかった。右利き用の拳銃をたとえ左手で射ってみても、その良さは分りません。さしものプレゼン上手な南部麒次郎も、これにはお手上げだったようであります。

 まあ、普通のガン・マニアでしたら、たいてい、ここまで事実が分りますと、あとは事実そのままを編年体にまとめまして、それで終りであります。

 しかし歴史の研究は、記録から容易に判明する事実を極め終ったその場所を疑問の第一歩として、本当の調査を出発させなければならない。見えないところを見ようとしなければならないのです。

 なぜ、南部麒次郎は明治30年代から自動拳銃を開発して軍に提案しなければならなかったのでしょうか。上から要求もされもしないものを下で勝手に造って逆に採用を働きかけるとは、当時の日本陸軍という官僚機構の中では異例のことではないかと、ここで疑問に感じなければならんのであります。

 私はこの疑問に基づきまして関連しそうなところを手当たり次第に調べていきましたところ、南部麒次郎はただの軍人官僚ではなかったことが、だんだんに分って参りました。

 まず、彼は、近代日本で最初の企業家官僚であったと言っていいと思います。軍隊の中にあって、自動火器という精密工業製品の輸出を日本で最初になしとげたのです。これは、戦後、物作り大国となりました日本の進路を切り開いたのですから、日本の重工業の歴史に刻まれてよい事蹟のはずですが、なぜか今までの経済史家はほとんど注目してこなかったのであります。

 日清戦争と日露戦争との間には、9年間のインターバルがございます。つまり砲兵工廠としては、粗悪な機械で精密な兵器を生産できる熟練職工を引き止めておくために、9年間のシノギが必要でございました。

 明治33年に北清事変が起きておりますが、これはごく僅かの仕事を砲兵工廠にもたらしただけと見えまして、むしろ直後のリセッションで明治34年に辞めていく職工が多かったようであります。

 その一方でシベリア鉄道が開通しております。日露はやがて激突するという見通しは、参謀本部など軍の上層では共有しておりましたから、砲兵工廠の危機感も並ではない。

 このことは、旧陸軍の将校クラブの機関誌であった『偕行社記事』の明治35年1月発行号に、東京砲兵工廠の小銃製造所長の南部麒次郎大尉が寄せておりますインタビュー記事を読みましても推測ができると思います。

 そして、この記事の中で南部は注目すべき発言をしておりまして、職工たちに機関砲や自転車などをこしらえさせている、というのですね。

 自転車はこの頃は、要塞部隊が使っていたようです。要塞の内部は舗装されていますから、伝騎がわりに自転車が使えたようです。

 機関砲というのは、高田商会の斡旋で陸軍が製造権を獲得したホチキス式機関銃です。南部はこの量産を担当した関係で、自動火器とそうでない兵器の目に見えない違いを実感したのだと思われます。それは、1/100ミリ以下の精度です。

 人間の指先は、慣れてくると、金属表面の百分の数ミリの段差まで触覚で感じることができるそうです。しかし、一千分の一ミリ、一万分の一ミリの凸凹となると、いかなる名人といえども、目で見たり指で触って認識できるものではありません。20世紀の機関銃と航空用エンジンには、まさに、この人間の五感では分らないレベルの部品精度が求められたのであります。

 機械部品で一千分の一ミリの精度を出そうと思ったなら、それを加工する機械の方に一桁うえの精度がなければなりません。ところが、工作機械の加工精度に対してお金を出すことの意味、必要を、陸軍上層はなかなか理解ができなかった。安い中古機械がアメリカで売られているのだからそれを買ったら済むじゃないかという認識でした。それも貧乏国としては無理がないので、機械の精度が一桁あがると、機械の値段も一桁高くなったのです。

 航空エンジンのない当時、機関銃担当の南部麒次郎はこの問題を日本で一番よく分っていましたから、単に職工に仕事を与えるだけではなく、その精密な技能を維持させるために、新しく自動拳銃を作らせたかったのだと考えられるのです。

 自動拳銃は、ジョン・ブローニングという人が明治43年に非常に安価なモデルを売り出すまでは、とんでもなく値段の張るもので、しかも、工業先進国以外では製造できませんでした。

 だいたい普通の小銃の単価よりも、自動拳銃の単価の方が2倍ちかくしました。

 これを南部大尉は遅くとも明治35年内には「南部式大型自動拳銃」として完成致しまして、日露戦争たけなわの明治38年の1月から軍人向けに国内販売を開始しております。

 南部と晩年の村田とは親交があったようでありますから、こうした発想の大もとは村田の猟銃ビジネスだったろうと私は思っておりますが、南部の凄いところは、これを輸出するところまでもっていった。

 明治40年に少佐に進級して小銃製造セクションの長となると同時に、南部は自分の自動拳銃を清国市場向けに輸出し始めたといわれております。

 さらに大正年間に入りますと、彼は自分で設計した機関銃を中国の軍閥に売り始めます。じぶんでセールスして歩いた。この機関銃は三脚のついた重いもので、単価は小銃の40倍近いものです。

 要するに自動火器は高付加価値である。しかも、ある程度以上工業化された国だけが特権的に製造できる商品である。この事実に南部は目をつけまして、三井、大倉、高田といった当時の大手武器商社とも連携致しまして、中国市場を積極的に開拓致したのです。

 私は、こういう重工業製品の海外市場開拓を日露戦争いぜんにやったという設計家は知りません。南部が日本で初めてではなかったでしょうか。

 むろん、そうした大胆な企画を展開するにあたっては、彼は陸軍の上司に積極果敢に働きかけております。どうも政治方面の圧力までかけさせている形跡すらある。工業と経済と政治と外交のすべての方面で、南部さんは「日本初」の仕事をいくつかやったのだということが分って参りました。

 たとえば第一次大戦中の、有名な「対支21ヶ条要求」、これにも南部の関与がなくては絶対に有り得ない条項がある。それが第5項です。この中で日本側は、中国は兵器はすべて日本から購入するように、と要求しております。

 ところがですよ、考えてみてください。こういう要求をするには、仮にも中国側から買いたいと言われた武器は全部日本で国産品を供給できることが前提になっていたはずです。

 では、当時、日本はあらゆる近代戦の武器を国産できたか。それが、ひとつ、大変微妙なアイテムがあった。

 というのは、日露戦争中に南部が砲兵工廠で量産していた機関銃は、フランスのホチキス社からライセンスを買ったものでした。そのライセンスの契約では、製品の第三国輸出は禁じられていたのです。したがいまして中国に勝手に売ったりすればフランスから訴えられてしまう。

 ここで陸軍が南部に相談したか、南部が陸軍に請け合ったのか、どちらかわかりませんが、絶妙のタイミングで「三年式重機関銃」という、あらゆる部品を南部麒次郎が再設計致しました国産機関銃が完成するのです。これでホチキスのライセンス生産は終了しまして、同時に日本は機関銃を中国に輸出できるようになった。陸軍として「第5項」も要求できる立場になったのです。

 南部さんは今の「中央工業」を立ち上げた創業者なわけですが、自叙伝以外のまともな伝記がございません。

 大正7年の『太陽』という雑誌の6月号、ここに桃澤という退役陸軍砲兵少佐の短い寄稿が載ってございまして、その中で、「政府保護下の私立兵器製造会社」を設立しなければ、日本は第一次大戦のような大戦争に対応できない、と訴えております。この人の理想は、日本版のクルップ社を創ることだったように読まれるのですが、これはじっさいには、例えば、日本製鋼所と中央工業を併せたような組織にしないと無理でありましたろう。

 果して、南部麒次郎には「日本のクルップ」になってやろうというような大野心があったんでありましょうか? 仮にもしそうだったとしたら、それは三菱グループに潰されただろうと、私は想像しております。

 南部さんは、三井・大倉・高田の三大武器商社を糾合致しまして、「泰平組合」という武器輸出カルテルを結成させています。自叙伝ではそのことにはホンの数行、申し訳ばかりに触れているだけであります。この「泰平組合」には有力なメーカーがグループ傘下にありませんでしたために、支那事変の勃発ですぐに武器の供給ができなくなり、機能停止に陥ってしまいます。

 そのカルテルを三菱グループが乗っ取った……というと聞こえは悪いですが、三菱のリーダーシップですっかり解体して組み立てなおしたのが「昭和通商」であります。有名な「零戦」の20ミリ機銃を海軍の山本五十六に斡旋致しまして、そのライセンス生産を日本で実現させたのは三菱商事です。その三菱商事が「昭和通商」の幹事格になった。三菱グループと南部さんとはいつの頃からか商売仇であったんじゃないかと考えることは、可能なのではないでしょうか。

 しかし、日本で初めて国産の航空用機関銃を製造したのも南部麒次郎ですし、南部の設立した工場の優秀な設備と人員がなければ、満州事変以後の陸軍航空隊が必要としました膨大な数の7.7ミリ機関銃や12.7ミリ機関砲はとても調達ができなかったのは事実であります。つまり、97式戦闘機や隼などの活躍もありえなかった。しかし、南部さんは、これについても一言も語ることはありませんでした。

 ここで機関銃のお話から、飛行機と三菱重工のお話に移って参ります。

 といって、まるっきり唐突な展開ではございません。じつは、機関銃と航空機用のエンジンには、大きな“共通点”があるからです。

 これは、第二次大戦の工業技術面での敗因を考察する場合のキー・ポイントであります。そして、なかなか日本人には見えにくいお話なのであります。いまだにこれを分ろうとしない人も多い。「零戦」が精密機械であった、などという括り方は、その代表であります。「零戦」は少しも西洋レヴェルの精密機械ではなかったのだという真相が見えてこないうちは、将来の日本人も、かつての航空戦で訳も分らず負けたのと同じ弱点を持ち続けるだろうと、わたくしには心配されます。

 さて、機関銃と航空エンジンの共通点とは何でしょうか?

 どちらも高温・高圧の爆発反応を、動く部品、摺動部品によって封じ込めなければなりません。

 しかも、不随意に回転が止まってしまうことは、人命に関わるので、絶対に許されない。

 たとえば、機関銃が敵と撃ち合っている最中に突然部品がひっかかって動かなくなってしまったら、大変ですね。

 それが原因で部隊が全滅ということも、ありえます。

 同じように、空を飛んでいる飛行機のエンジン……。これも、飛行機が地上に降りてくるまでは、絶対に空中でエンストなんかして貰ったら困るものです。
 乗っている人間の命に関わるだけでなく、それで一つの作戦が大敗北するかもしれません。

 というわけで、機関銃に要求される工作精度は手動連発式の小銃より一桁高いものでしたし、航空用エンジンに要求される工作精度も、自動車用エンジンよりは一桁高いものだったのです。

 さらに機関銃にも航空機専用のものがございます。これに要求される精度は地上用よりも一段と高かった。と申しますのも、後部座席の旋回機関銃は、これは射手が手を伸ばして故障排除することができます。しかし、主翼についている機関銃、これは、一度飛び上がってしまいますと、故障排除のスベはないのであります。

 それで、ドイツなどでは、主翼につける機関銃には空中で遠隔操作によって再装填ができる装置をつけていました。それは、空気圧力ですとか、電気モーターの力で、不発弾を排除いたしまして、新しい実包を装填できる仕組みでしたが、日本ではこれがなかなかコピーできなかった。そのために、せっかくドイツから優秀な機関銃の設計図を買っておきながら、結局、それを後部旋回用としてしか国産化することができなかったのであります。具体名を挙げれば、MG15(旋回)とMG17(固定)。

 機関銃の遠隔装填装置のようなメカトロニクスの精密工作が日本の工場では造れなかったということは、日本の工作機械の最も質の良いものでも所詮その程度だったという証明でありますから、いわんや小型高性能の航空用エンジンは、量産できるわけがなかったと分ります。

 エンジンがよくても脚が出ずに胴体着陸となって飛行機がまるごとオシャカになった、あるいはゴムの油パイプが不良で、爆撃機が引き返す途中で脚が下りてしまって速度が出せず、敵戦闘機にやられてしまった……、みんな精密工作に関係した「フォース・マルチプライヤー」のネックだったと申せるのでありますが、ここではエンジンのお話だけを致しましょう。

 高度1万mを飛んで参りますB-29を迎撃するためには、戦闘機の機首に搭載するピストン・エンジンは、非常な高速で回さなければならない。しかも、正面面積を小さくして空気抵抗を少なくして、ブースト圧も爆撃機以上に高めなければなりません。

 これを直径の小さな空冷でやろうと致しますと、冷却が部分的に不足がちになりまして、空中でエンジンのあちらこちらが熱で熔けて火災になってしまいます。どうしても迎撃機というものは、水冷/液冷エンジンにしなければならなかった。

 ところが、大正14年に日本陸軍は、おそらくはアメリカの真似を致しまして、航空機の契約を、一社指名から、競争試作方式に切り換えました。

 これがまったく時期過早でありまして、当時日本では内燃機関を設計・製造できる最も体力のある会社は、三菱内燃機製造会社、すなわち後の三菱重工でありましたけれども、この三菱が、せっかくイスパノ系水冷エンジンのライセンスを持っておりまして、これから徐々に国産の水冷エンジンの技術を磨こうかという時であったのでありますけれども、そんなことをしておったのでは、すでに空冷路線に特化して陸軍機のシェアを占めつつある中島飛行機、つまり戦後の富士重工ですが、この中島との競争試作に勝てないのは明白でございました。

 それで、三菱は水冷戦闘機を造ることはすっかり止めてしまう。

 戦闘機に関してましては以後は空冷星型エンジンしか考えなくなったのであります。

 全体に、星型の空冷エンジンには、液冷ほどの工作精度が要求されて参りません。

 これが、水冷エンジンですと、気筒数に比例して曲軸、つまりクランクシャフトが長くなってまいります。これは回転速度が上がって参りますと、1万分の1ミリの工作精度で仕上げませんと、振動で飛行機が空中分解してしまう。

 ドイツのメッサーシュミット戦闘機が積んでおりましたダイムラーのエンジンは、このような精度で加工されていたのです。

 しかし、空冷星型ですと、曲軸はごく短いもので済みますから、いくらシリンダーの数を増しまして、大馬力に致しましても、液冷エンジンほどの加工精度は要求されません。その空冷エンジンのレベルで満足しておった結果として、日本の工作機械は、最もよろしいものでも千分の数ミリという精度にとどめてしまっておりました。

 そのために、あとでB-29の迎撃に液冷エンジンが必要だと気付きましてドイツから潜水艦でダイムラー・エンジンやら設計図やらを運んでまいりましても、とても、日本国内では、その長くて精密な曲軸を削り出すことができなかったのであります。

 つまり、高価な工作機械に投資できる三菱重工のような体力のある企業に、早すぎる競争入札方式で液冷エンジンの路線を放棄させてしまった陸軍の指導方針が、長い目で見ますと、日本の本土防空を不可能にしてしまったのだといえようかと思います。

 さきほど私が零式艦上戦闘機は精密な機械ではなかったと申しましたのもこの意味でございます。製造ロットが10とか100単位であった大戦初期の日本の戦闘機に供給致しましたエンジン、これは、製造ラインの最終工程で、ヤスリを持った職工が、ひとつひとつ擦り合わせ調整という仕上げをしていたのです。砲兵工廠の機関銃のラインと全く同じやり方でありました。

 この擦り合わせという仕上げをやりますと、もう部品の互換性はまったくない。戦地で墜落した僚機のエンジンのシリンダーを持ってきて使おうと思っても、誤差が0.何ミリもあるのではどうしようもありません。こういうのは精密機械とは言えないのです。

 工作精度がこの程度のままで少しも進歩がないのに、シリンダーの大きさをまったく変えないで、ブースト圧と回転数だけ高めようとしたのが、大戦後半に三菱と中島で造りました、いわゆる2000馬力エンジンです。

 いくら星型空冷といいましても、高温・高圧を動く部品で閉じ込めるメカニズムなのですから、ブースト圧や回転数に応じた精度は絶対に必要なのです。しかし、相変わらず、日本の航空エンジンは、最後にヤスリを手にした職工が擦り合わせで仕上げをしていたのです。

 人間の指先は千分の数ミリの段差は触覚できるかもしれないが、もう1万分の数ミリになりますと感じることもできません。しかし、2000馬力エンジンにはそのくらいの精度が必要だったのですから、そんなものが大量量産できた筈は初めから無いのです。

 日本は敗戦後、だいたい7年間くらい、著者の思うがままに戦前・戦中の回想を書いて出版することが禁じられておりました。アメリカの占領政策に、言論・出版の自由ということはなかったのであります。

 それで昭和27年にサンフランシスコ講和条約が成立する見通しとなった頃から、一斉に旧軍の要職にあった人の回想記が出版されます。

 昭和28年のベストラセラーになったのが、奥宮正武・元海軍中佐と、堀越二郎技師の共著の『零戦』という本でした。

 この中で堀越さんは、自分が主張したとおりに三菱重工のMK9Aという2000馬力エンジンを海軍が採用していさえすれば、「烈風」という素晴らしい戦闘機がマリアナ戦の前にも間にあったのだ、と書いています。これを信じる人が今でも多いようです。

 しかし、堀越技師は機体設計の専門家でありまして、発動機がどのように量産されていたのか、工場の実態はまるで知らなかったのであります。東大の工学部の航空科を首席で卒業したような人に、量産の現場は一生涯まったく無縁でした。これは戦前の日本の不思議な伝統なのであります。

 中島の「誉」エンジンを三菱の「MK9A」に替えたところで、製造ラインの最後にヤスリをもったベテラン仕上げ工が待ちかまえていて、一個につき何十時間もかけて調整してもなかなか調子良く回ってくれなかったという実態はまるっきり同じなのですから、「烈風」などというスーパー戦闘機も、絵に描いたモチでしかなかった。日本の飛行機は、最後まで精密産業の産物ではなくして、手作りであった。手作りでは、1万分の1の工作精度は絶対に得られませんので、日本にはB-29を撃墜する方法はなかったのです。これが、事の真相であります。