沖ノ鳥島調査団──ようこそ、禁断のリゾートへ

(2005年4月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生 より
 日本財団が主催した「沖ノ鳥島調査団」に、兵頭は『新潮45』用の記事取材のため参加してきました。リーフの外からでは撮れぬアングルの写真を中心に、ご報告します。

 門司港から、日本サルベージ(株)の巨大曳船『航洋丸』2000トンが離岸。2005年3月25日、なんと吹雪まじりである。帰りもここになる筈だったが、伊豆で座礁した居眠りタンカーを救出するために、晴海客船桟橋に変更になろうとは、まだ知る由もない。

 15~17ノットで60時間航海して沖ノ鳥島に到着したのが28日早朝。9時頃に日陰で気温を計ったら30℃あり。上陸調査は翌29日も朝から夕方まで行なわれた。

 『航洋丸』全景。端艇やゾディアックを5隻搭載し、専用ダイバーも擁し、ゲスト50人が楽に宿泊できる。フィンスタビライザーは無いが、サイドスラスターあり。これでもう少し高速だったなら揚陸艦になると思った。

東小島

日本最南端の東小島の上空に浮揚し、国旗掲揚。背後の白波はリーフエッジである。ちなみに4月1日に帰宅したら復員兵なみに日焼けボロボロ髭ボーボーで、函館空港で完全に浮いとりました。
ようこそ禁断のリゾート・沖ノ鳥島へ。売店、トイレはありません。
東小島の護岸に設けられている船着場。船虫が一匹もいない。蟹だけがいる。こちらを向いている人は同行S新聞社の記者さん。
満潮なので護岸の一段目は水浸しだ。正面は1988年頃に建設省が造ったと思しい「観測施設」。その上空は巡視船『しきしま』の搭載機エアロスパシアル。海保と日本財団とはツーカーである。
円盤型の護岸は中曽根内閣時代の87年に工事が決定され、89年に竣工した。ステンレスの鉄筋が縦横に入っているがテンションはかかっていない。それが長年の風波でボロボロに傷んでいるのだ。
さっそく経済活動。千円札を差し出しているのは『新潮45』の本チャン記者だ。背後のテトラポッドは鉄製。なぜかフジツボがまったく付いていない。
満潮時に僅かに海水が「岩」の周りを囲むように、この溝が切られているのだ。
強風で何かが吹っ飛んできて「御神体」を破壊してしまわぬ用心に、チタンの柵が。
8億円する純チタンの防護ネットは99年に被せられた。ちなみに温度差発電のインド洋での実験プラントも8億円くらいだとか。とにかく台風時の風浪パワーはものすごいらしい。宮古島に90mの風が吹き、風力発電塔が倒れた教訓が思い出された。手前は兵頭の釣り用長靴。
兵頭が指さしているのが「東小島」の臍。その脇に白いもので埋められている穴の痕があった。かつて日章旗を掲げたポール孔だとのこと。
立つこともできぬ空間で、これを撮影するためにはひたすら匍匐して進退せねばならなかった。前後の狭苦しい溝が、唯一の出入り口となる。

北小島

こちらは北小島。護岸一段目の船着場側にだけ、珊瑚の死骸の礫が溜まっている。大嵐の波で打ち上げられたものだろう。そして他の場所では強風のため、礫はすぐに吹き飛ばされたのだろう。十字架状のオブジェは、もやいの柱。
北小島から観測施設を見る。その右側は東小島。左側には作業台基盤が見える。
北小島もリーフの近くにあり、潮騒が聞こえる。
北小島には防護ネットは被せられていない。しかし天然の猛威がいかなるものかは、護岸コンクリートの表面を見れば一目瞭然だ。
そろそろ干潮なので内部はドライだった。
内部には礁湖底から吹き上げられてきた珊瑚礫が堆積していた。
熱心に撮影しているのは某公共放送のクルー。
蓋で隠されていないと、御神体もあまり有り難くない?
シュノーケルをつけて船着場から泳ぎだした『新潮45』記者。サメは見かけなかったが噂は聞いた。このあたりの水深はせいぜい3mくらいか。各種熱帯魚とナマコ、ウニなどはいるらしい。海藻とヒトデは見当たらず。
黒っぽく見えるところが隆起岩や珊瑚の群落。干潮時にはその上に腰掛けられる浅さとなる。

作業台基盤

 ここは作業台基盤。円堡状護岸が東小島や北小島と類似だが、御神体は無い。帝国海軍が昭和13年に97式大艇用の基地をつくろうと、ここにケーソンを数百埋設して、まず灯台を建てようとしたのだが、未成のまま放棄。それを戦後、建設省が再工事して、一時は気象観測タワーを建てた。現在はヘリパッドと、各種耐候実験の残滓があるのみ。手前は何か植物の耐久テストをしたものらしいが、完全にミイラ化していた。

 93年にここで耐錆金属の実験をしたらしい。けっきょく、チタンでなければダメだと分かったのだろう。なお、タモ網による釣果はゼロであったので、併せてご報告しておく。

 作業台基盤のすぐ近くに、無人の観測所がある。そこにはリモコンのテレビカメラも複数あり、沖ノ鳥島に誰かが近づけば、バッチリ撮影されてしまう。

フジツボもヒトデも無い海とは、要するにここは「砂漠」ではなかろうか? 2種類の蟹だけが、テトラポッドの隙間でサバイバルしていた。

 消波ブロックは粗鋼製だからなのかもしれないが、塩と日照りでこんなふうに…。ところで87年というと、青函トンネルや本四架橋の完工が決まった年であり、建設省は新たな「プロジェクト」を求めていた。このめぐりあわせがなくば、あるいは沖ノ鳥島は消滅していたのかも…。

観測所

 無人の観測施設は88年頃、旧建設省が直径1.45m、長さ27mの杭24本を打って完成したものという。しかし写真で数えてみると杭の数が足りない。嵐で崩壊したのだろうか。

 各杭の頭にジャッキ装置がある。これで構造物全体を持ち上げたわけだ。高床になっているのは、台風時の最大波高以上とする措置で、一説に13m、もしくは17mのクリアランスがあるという。ただし天然の防波堤であるこのリーフ内に5m以上の波が立つことがあるとは兵頭にはとても信じられなかった。ベテラン船員さんいわく、3mの波が立つこともまず無いと。

 左側の施設はまだ堅牢だが、右側の施設は倒壊寸前とも聞いた。どちらも危険ということで、昇ることができなかった。新しめな通信装置は、気象データを衛星経由で送っているもの。

 飯場の寝泊り小屋のような施設だが、どちらの棟も、過去に人の居住に供したことは一度もないそうである(つまり船中泊のみ)。こちらの棟は、直射日光が窓に当たらぬように、庇が張り出している。窓のどれかが過去の強風で割れたという話も聞いたのだが、確認できなかった。

 床裏。錆び汁が四方に伸びているのは、優勢な風向きを示すのだろう。

 白い側板に注目。風に叩かれ、裏の縦横の骨材が浮き出ている。

こちらの側板は凹んでいない。
杭に近寄る。
これらの捨て杭が何だったのかは不明。切断面から、コンクリート充填円管柱であったことだけは分かった。
このあたりの水深はごく浅い。2mくらいか。
梯子はしっかりとしていた。

 廃墟美をとくとご堪能ください。

 リーフの南西には旧海軍が端艇の入り口として設けた切り欠きが一箇所だけある。観測施設の対角線の延長にそれはある。写真はその手前の礁内海面だが、兵頭にはどうもここが過去に露岩のあった場所ではないかと思えてならない。自然の猛威で横倒しとなり、その上に珊瑚が密生しているのではないか。なお、満潮時に白波の立っていないリーフの上なら、ボートで乗り越すことは可能であるという。

 礁湖の中央よりやや西寄りの海面から観測施設を望む。この付近がいちばん水深が大で、満潮時で5.5mくらいある。US-1A(改)用の水上飛行場を設定するならば、ここだと思った。ちなみに建設省の役人は過去に少なくとも二度、US-1Aで沖の鳥島を訪れている。着水場所はリーフ北西の外縁で、そこから『航洋丸』の端艇でリーフ内に入ったという。

 同じ海面から西側を見ると、2km弱先にあるはずのリーフは目視できぬくらいの広さがあった。このあたりが最も珊瑚相が豊かであるというのだが、わたしには沖ノ鳥島の珊瑚は貧弱に見え、自然保護の特別な価値は低いとの心象を受けた。向こうの小舟は某民放のクルー。

こんなん釣れましたけど

 本船および端艇から船員さんたちがトローリングや投げ釣りをした戦果がコレ。ただし礁湖内ではなく、すべてリーフの外側である。なお前夜に刺し身パーティがあり、めぼしい獲物はそこで消費されてしまっている。釣りは少なくとも「入れ食い」でないことだけはよく分かった。それが傍証として、沖ノ鳥島には海鳥の姿は極く稀である。


以下 提供:雑誌記者様

サンゴの破片

北小島のサンゴの破片にKYとボールペンで書いたのは私です。

兵頭さん


管理人 より
 先生は遂に日本最南端の島へ上陸された。この兵頭記事は『新潮45』へ掲載される。無論、必見である。
 余談だが私にも、先生と北九州で拝謁を賜る好機があったのだが、何せ「”月月火水木金金 ”とかいう歌のタイトルは、意外とノンフィクションだったんだなぁ」と最近思う事も時折ある──まぁ、結構楽しかったりするんだが ── 普通の会社員なもので、全く時間的に不可能だった。涙で前が見えない。無念である。しかし兵頭先生の記事は楽しみであるし、何より、有難う御座いました!
 このページを(えらく他力本願だが)皆様にも楽しんで頂けたら、私は嬉しい。