霊巌洞リポート

(2007年6月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2007年6月23日午後、熊本市郊外の雲巌寺(曹洞宗・雲巌禅寺)を訪問することができた。

 写真の五百羅漢は、1779年以降の奉納だというから、1643(寛永20)年に60歳の宮本武蔵が『五輪書』を書き始めたときにはこんなものはなかった。
 1枚の遠景に見えるピークは、地図によると、おそらく河内山(363m)であろう。熊本市郊外の最高峰は金峰山(665m)で、雲巌寺は、その金峰山の西麓にある。

 五輪書の冒頭序文によれば、武蔵は「岩戸山に上」ったことになっている。岩戸山とは、この岩戸観音がおさめられている霊巌洞のある低山のことだろう。
 寺のパンフレットによると、今の「岩戸の里駐車場」があるあたりに見晴らしの良い場所(黒岩展望所)があり、そこからは有明海と雲仙岳が見えるようである。武蔵が戦場で負傷した、因縁の地の方角だ。

 岩戸観音は、文献上では有名なのだが、現状では厳重に格子戸で囲まれていて、目で見ることはまったく不可能だった。邪推すれば、摩滅が著しいのであろう。

 洞窟は凝灰岩質で、南西方向に開口しているから、旧暦10月10日の寅の刻だと、早朝4時前後の、月明かりの有明湾上空が望めたと考えられる。
 霊巌洞の開口は大きく、奥行きは深くない。だから平安時代以前から、蝙蝠の巣窟のような、陰気な場所ではなかったのだと想像できる。冬だから、不快な虫なども少なかったはずだ。

 本道から通じている小径は今では舗装されているけれども、大昔はずっと細い道だったのだろう。しかしご覧のとおりの南西向きの山の斜面なので、明るい感じだったろう。

 この寺は、熊本城からはかなりの道のりがある。タクシーだと30分かかるそうだ。しかも、大寺ではない。武蔵は、地元の者でもなければ誰もよく知らないような、さびしい場所を、わざわざ選んだ。さらには、13歳と16歳で勝負に勝ったとする兵法者も、誰も名前も知らないような者である。
 この無名の場所の選定、そして自分が斃した有名人の名前を敢えて出すことを避けている書きぶりは、意識的である。

五百羅漢と霊巌洞
霊巌洞への小径
霊巌洞俯瞰
霊巌洞を望む


(管理人 より)

 兵頭先生は、熊本での講演会の折にこの場所へおでかけになられたそうである。
 講演会もそうだが、先日の[観光ツアー]にも私は参加できなかった。
 世界は、優しい私に優しくないのだ。しかし、いつかは機会もあるだろう、それを期待する。