『新解 函館戦争』をいっそう理解するための追加写真_解説

(2012年5月28日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

【ごあいさつ】
 いゃ~、やっと出ましたね『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』……。
 構想から何年もかけた、久々の長期企画となっちまいました(『大日本国防史』のすぐ次に出すつもりだったんですが……)。
 しかも写真取材付きですので、ふつうのテキストだけの書籍の数倍の手間がかかった。でも、それが面白いんですよね。これは文章と図版をセットで構成した人でないと分からない! 文化祭の展示みたいなモンか。
 例によって、本が仕上がる間際になって、挿絵向きの良い写真が撮れたりするんですよ。しかし編集がそうとうに進んでしまったところへ、またゲラを大幅に組みなおしてもらう註文なんか、出せるわけもないので……。昔だったら著者は「惜しい!」と悔しがっただけでしょうな。それが今どきは、インターネットにUpすることで、あとから「増補」もできる次第です。ありがたい世の中ですわ。

 それでは以下に、追加の写真をご紹介して参ります。

南大野の無縁集合墓

 「おほひ神社」からそう遠くない路傍にあります。旧地名は「鍛冶在所」。明治元年旧暦10月24日早朝、大鳥圭介らの部隊を迎撃して戦死した備後福山藩士の千賀猪三郎(20)と松本喜多治(17)は、この集合墓に合葬されています。〔(c)Hyodo〕

福島漁港

 冬季の避泊地によく利用された「福島」村の現況です。手前の海は津軽海峡。左手へ10km強行けば白神岬で、そこより外の海では、船舶は北西風にまともに叩かれます。〔(c)Hyodo〕

矢不来の内陸、向こうは茂辺地

 このあたりは中世の「モベツ(茂別)館[だて]」に近く、断崖を登ると意外にもフラットな農地になっていました。新政府軍には、浸透迂回のコースはいくらでもあったことでしょう。〔(c)Hyodo〕

戸切地解説板

 なぜかここのマトモな写真をストックしておかなかったので、挿絵を入れられませんでした。ぜんたいの「結構」がデカいので、超広角レンズじゃないと規模をお伝えできないんですよね。土手の一部だけアップで写しても悲しいし……。あらためて、平面図だけでもどうぞ。〔(c) Hiura Singo〕

干上がった稲倉石

 たまたまダム湖の水位が低い時節に通りかかると、このような写真も撮れます。ロックフィルダムの片翼を依托している、昔の岩盤質の崖面の一部が分かると思います。松前藩はそこを防塞に利用できると考えた。〔(c) Hiura Singo〕

謎のガトリング銃弾

 『開陽』はガトリング砲を積んでいなかったはずなのに、なぜか『開陽』をサルベージしたら、その実包も数発、出土したのだそうで、復元『開陽』内に摸造のガトリング砲ともども、展示されています。それにしても、よくガトリング砲のだと同定できたなぁ…というのが素人感想です。ガトリング砲の口径はいろいろあったんですよ。スネルが河井に2門売ったガトリング砲の口径だって、じつは分かってないのだ。ガトリングが最初に発明したときは実包は「無起縁」のごく特殊な銅管で、それをホッパーで給弾したことは確か。そして日本にはその初期型に近いものが売り込まれた可能性があるでしょう。他方、スナイドル系の「有起縁」15ミリにも、製造地別の薬莢長バリエーションがあったんじゃないですかね?〔(c) Hiura Singo〕

かもめ島テカエシ台場跡

 現状のご紹介のみですが……。鴎島のこちらと反対側にあるもうひとつの台場跡の方は、「快晴で無風で暑くも寒くもなく、次に行くところもないので時間はやたら余っているし、カラダは運動を欲しているな」という奇特なコンディションでもないと、「ついでに行ってみようぜ!」という気に、どうもならんところでして……。せっかくたまにはるばる江差まで来ても、いつも「あっちはやめとこう」となっちまう。スイマセン。〔(c) Hiura Singo〕

かもめ島の南端をみる

 その「反対側にあるもうひとつの台場跡」を望遠しますれば、こんな感じ。1年のほとんどは、荒涼たるものです。〔(c) Hiura Singo〕

鷲ノ木海岸_北から南を

 この写真が欲しかった! 撮影するためには、非電化の函館本線の線路をまたいで汀線まで歩いて出る……というだけのことなんですけど、どうも単独撮影行ですと「村人から不審人物と思われやしないか?」との危惧が先に立ち、足が止まっちまいます。この日は同好の士のカメラで撮ってもらいました。2人連れなら、わざとらしく高声で「説明的会話」をしながら歩き回れますから、怪しくはないですよね。〔(c) Hiura Singo〕

鷲ノ木海岸_南から北を

 同じ岸ですが、目を左に向けますと、こんな様子。釣り人の背後に、小さい河口があります。榎本はその河口を目印に上陸したはずです。この写真を撮ってからさらに後日、地元の歴史愛好家が、〈上陸したのは此処〉と示す木柱を植立したようです。以前にあった類似の木柱は、腐朽してしまったのです。〔(c) Hiura Singo〕

寒川地区を見下ろす

 函館山稜線道路を歩いていると一箇所だけ、このようにずっと下まで見下ろせる箇所があります。書籍には、類似アングルの別な写真が使用されています。〔(c)Hyodo〕

弁天台場跡の函館どっく

 拡大すると、海保の巡視船を乾ドック内でメンテナンス中なのが見えるかと……。〔(c)Hyodo〕

両入江と五稜郭タワーの位置関係

 タワーはずいぶん左寄りに見えると思いますが、真上からみますれば、五稜郭は、ちょうどふたつの海から等距離に位置しているのであります。〔(c)Hyodo〕

乙部町宮の森公園から上陸点を俯瞰

 画面下に見えています植生、これが「イタドリ」(または「オオイタドリ」)です。日本中に生えてるそうですが、特に北海道では競争相手が少ないのか、繁茂しまくり。春先に根もとを掘ってみれば、その生命力の秘密がわかります。何を言いたいかというと、北方防衛は、住民が厳冬も余裕で越せるような「一次産業」をまず考えてやらないと、成り立ちっこないのですよ。ロシアはもっと北方でそれに成功していた。イタドリのように「拡散して根付き、地下の根を木質化させて越冬し、春にダッシュで伸長する」というサバイバル&征服術をマスターしていたわけです。〔(c) Katagiri Yasuaki〕

元和台の崖と人工海浜プール

 写真は、熊石のある方向を望んでいるわけです。熊石まで行く途次には「柱状節理」が露出した海岸があります。〔(c)Hyodo〕

薬師山から木古内町俯瞰

 木古内の近くの道をとおりすがりますと、低地との堺をなす顕著なピークが目につきまして、それが薬師山(72.9m)。この山は戦場とはならなかったろうと思いますが、両軍ともに、見張りを置くのには格好の高所だったでしょう。合戦は、木古内高校とパークゴルフ場の中間あたりが激しかったそうです。この写真ですとフレームの右外になります。〔(c)Hyodo〕

新解 函館戦争 表1 再校

新解 函館戦争 表4 再校


新解 函館戦争―幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する


(管理人 より)

 出た。『新解 函館戦争』。私は今回もamazonで注文しました。なんでかわかりませんが、今回は届くのが遅い。でも、良いのです。早く読みたいですが、前作の大傑作兵頭本『日本人が知らない 軍事学の常識』を再読すれば良いのです。


日本人が知らない軍事学の常識