旧資料備忘摘録 2020-4-24Up

▼防研史料『満州に於ける歩兵戦術を論す』M45-1
 ※版元は、戸山学校通りにある、軍需商会。

 交通が最も便なのは、冬季である。

 コーリャンは8月中旬に最大に達す。
 乗馬者の頭を数尺、抜く。

 満州の村は、圍壁は礫石を畳積し、屋壁は石土を以て構成。結氷期に小銃弾では貫通しない。
 沙嶺堡、高力屯で実証されている。

 ドイツと日本は、善射主義。
 ロシアはスワロフ主義、すなわち銃剣第一とす。日露戦争後も変えておらず、新操典でますます強調している。

 露軍の野砲の弾は、義州で7000m届くことが確かめられている。
 速射砲が、7000~8000mも届く。

 ひるま、こっちからロシア軍に迫ると、いたずらに全滅を招く。
 よって、遼陽以降、夜襲銃剣突撃によって露兵を陣地から追い出す必要があった。

 敵の野砲の射程が長いので、昼間、平坦な開闊地では、開進を開始する距離を、敵から5~7km付近とせねばならない。
 4kmに近寄ると、敵の砲兵威力は圧倒的となる。※榴霰弾のみが念頭されていた。

 1904-10-12、「ヅーシンリン」の戦闘で、日本の速射砲兵は、ロシア砲兵に対しては敢えて沈黙。ロシア第35連隊の1個大隊が、行軍縦隊で3000mまで近づくのを待って、翼次速射。3分間に大隊(700人)のうち72人を死傷させた。

 普墺戦争と普仏戦争では、砲兵戦は2000mから始まり、ライフル小銃は800m未満で使われた。
 日清戦争、北清事変では、2000~3000mで砲戦開始。

 日露戦争では、3000~4000mで砲戦が始まり、小銃射撃は、1500mまで効力があった。ときには砲兵に対して2000mで小銃射撃した例もあった。

 今の榴霰弾の毀害がおよぶ正面幅は、野砲で22m、山砲で15mであるから、小隊と小隊は、25m以上、間隔をあけるべきである。少なくも敵前4000~5000m内に入ったら。

 遼陽の計算。1個師団を1万人とすれば、1個師団の正面は日本軍で2700m、露軍で1800mである。
 1mにつき、日本軍は4人、ロシア軍は5人だった。

 沙河では、1個師団の正面負担が、日本軍は1mを3人で。ロシア軍は1mを5人で。差が開いた。

 奉天では、1mに日本兵が2.5人、ロシア兵は3.4人。

 日露戦争で、日本の砲兵は、距離3000~4000mで射撃開始した。
 ロシア歩兵は、最大2000mから一斉射撃。日本では1200~1300mから。

 平時の教育では、攻者はライフルを1000m以内で射つように教えていたのだが……。原則に背いていた。
 日本軍の指揮官としては、無駄と知りつつも、兵隊の士気上、どうしても1200mくらいから発砲させてやる必要があった。
 ロシア兵のように2000mから小銃を斉射してきても、こっちが隊形を密集させていなければ、まったく恐れる必要はない。

 普仏戦争の緒戦でドイツは、シャスポー銃のために損害が多く、途中から「散開」ということに目覚めた。

 今、歩兵は、1分間に8発、7秒ごとに1発、射てる。

 集束弾道の被弾地は、三十年式歩兵銃に在りては中距離以外に於て、大約350m乃至200mにして、近距離に在りては更に之より増大するものにして……。
 つまり現用銃の着弾のバラつきは、縦方向に最大400m近くある。

 ロシア軍のタマは、中距離以上では2人貫通しなかった(p.49)。

 26連隊の戦役意見集。
 わずかな掩体でも、現用の榴霰弾丸子は、防げる。
 30cmの土盛りをつくっておくとないとでは、榴霰弾射撃を受けたときに、天国と地獄の差が出る。

 夜襲を1個師団で実行しても、敵兵と格闘しているのはせいぜい1個聯隊の将兵。あとは、ただ跟随したのみ。

 夜襲を初めから横隊でやろうとしても、混乱して、団子や縦隊になってしまった。三塊石山。

 ロシア軍の三線陣地は、後ろに行くほど強大で、さらにトドメの予備がある。

 満州では、11月下旬~4月初旬は、大連でもマイナス14度とか15度になることあり。
 5月初旬~10月初旬までは夏で、ときどき大雨。特に7~8月の地面は最悪である。

 厚さが15~45センチある凍土は、200mから発射されたライフル弾をストップしてくれる。

 村落で防禦せよ。決して平地を退却してはならない。もし次の村落に下がることができないのなら、村落内にとどまっていた方がはるかにマシである。

 村落を攻め落とすときは、まず包囲によって敵の予備砲兵を村内に収容させた上で、こちらの砲をもって叩きまくれ。

 判断・計画・処置は、どこかへ消失し、指揮官がヤケを起こして自滅したような例が多数あったことは、各軍の戦闘詳報をひもとけば瞭々乎として羅列の文字中に現出する。

 沙河、奉天、遼陽でも、ヤケクソな攻撃のため往々、一部隊が全滅している。

▼『太政類典目録 中』M4~M10
 M6-1-13、信州上田その他、兵員備付ある場所は、当分、営所と称す。陸軍省。

 M11-1-20、体操卒 等級 任命方。
 M8-9-23、黜 等の刑を受けたる者、服役年限心得方。

 M5-7-17、海軍に「秘史局」あった。
 M10-9-1、東大久保村 病馬 緩歩場。

 M5-3-25、銃丸打殺の方法、ならびに 銃手を定む。
 M6-3-5、営倉禁錮の者、禁錮服 着用方。

 M6-12-20、陸軍一等軍医 石黒忠悳 外一名 粮食過給につき謹慎。

 M7-1-15、各種兵携帯銃器等 員数表。

 M4からM9にかけ、海兵水卒→水勇→海兵→水兵 と呼称が変わった。

 M9-11-20、乃木陸軍少佐 禁刑の日 杖刑を施行するにより謹慎に処す。

 陸軍省 伺。
 陸軍少佐乃木希典 犯罪処分の議 別紙擬律案ならびに待罪書 相添 此の段 相伺候也。10月30日陸軍。
 伺之通。11月20日。

 謹慎10日。 熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得 陸軍少佐 乃木希典。
 右待罪書の趣。禁刑の日において杖刑を施行す。軍律正條なし。常律違式軽に問擬し懲役10日。之を謹慎に換へ判決如右。
 《ここに欠あるか?》
 せしむ。軍律正條なし。常律違式に問擬し懲役20日。尚、情法[ママ]を斟酌、一等を減じ、之を謹慎に換へ、判決如右。11月7日。

 乃木少佐 伺。陸軍省充て。
 希典儀、去6月30日 当聯隊下 第三大隊 第三中隊 二等卒 落合鉄[ママ]二郎 辻熊吉、擅[ほしいまま]に郷里へ立ち越し候科に依り 杖刑断決致し、追て心付取調候処、当日、大祓〔6.30と12.31に宮中で行う〕に付、止刑致すべきを不注意より右施行いたし候段、恐縮の至に御座候。依之進退奉伺候也。8月3日。

 乃木少佐 伺。陸軍省あて。
 希典儀、所轄聯隊 第二大隊 第四中隊 二等卒 廣池幸作なるもの 本年4月12日 逃亡の末 同18日 帰投候に付、第二大隊長心得 陸軍大尉 青山朗より処分伺 出候際 逃亡の後、省悟して2周〔weeks〕内に帰投する者と見込み 懲罰令第22條に照し 10日間 ……営倉入申付。追て疑団を生じ更に取調候処 本犯 母兄共に病に罹り 帰省看病の儀 再三本庁へ願出ると雖ども 詮議に及ばざる折柄 母病気一層危篤なるを伝聞し遂に私情に牽かれて規則を破り 帰投を期して擅ままに郷里に帰るものに有之。依て軍律第143條に照し 逃亡に準じて論ずべき乎、思慮の粗漏なるより 失出に及び候段 恐縮罷り在り候。依之進退奉伺候也。5月20日。

 これを11月18日に第1科が議按。

▼『乃木希典全集 上』H6-6
 乃木日記。
 M17-5-5、小沢少将を訪れて帰る。特別射撃のことなり。
 M17-6-10、山県中将を訪ひ、撃剣 槍銃のことを話す。

 M17-7-6、哥利米戦記 要論 を贈る。

▼乃木神社社務所ed.『乃木希典全集 中』国書刊行会pub. H6-7
 ※M17後半~M20初の日記は欠なのか?

 M20-4-23、〔ジュヘー大尉の?〕講義あり。※歩兵大隊は「三百歩以内に近く非ざれば連発筐を用ひしめず」というのは、例のチューブ弾倉の小銃の単発用/連発用セレクターのことだ。22年式村田連発銃はまったく仏式を踏襲しているのだ。

 M20-4-28、今日より書取を始めたり。※教官が仏人なのだとしたら、これは仏語の書き取りか?

 M20-5-7、〔ジュヘー大尉から貰った?〕「装填左肩担へ銃へ直に装填する法」「肩へ銃より填発法」。※後者は、シングルの連打だ。1発づつ、薬室に指でこめる。チューブ弾倉内の実包は、突撃に移るときまで用いない。
「装填弾を抜き取る法および連発単を脱除する法」「構へ銃」etc.

 M20-5-13、中隊を、プロトン、半プロトン、および セクシヨン に分割する法。※ここから、講義がフランス語であると分かる。てことは、このジュヘー大尉もフランス軍人なのか?

 M20-8-14、人質を取ること、分遣哨、その他。

 ※M21-4からM24-12まで、欠。

 M25-1-27、夜鼠 殊に驕る。
 M25-3-6、今夜に鼠を捕ふ。※リアルの齧歯類とは限らぬ。日記には必ず符丁がある。

 M25-5-22、書、佐藤中佐に送り、銀盃 写真の礼を陳ぶ。※対清出征がいつでもあり得るので、写真を撮っておいたのである。当時の軍人は、内外緊張時には皆、そうしていた。

 M25-9-23、両児に素読を授く。※ふたり亡くした方も在る。
 M25-10-31、集作、プラウを使用す。※実弟。

 M25-12-8、本日、第一旅団長、拝命。

 M26-5-19、本日、吾妻嶽、破裂。※火山噴火。

 M26-5-21、書を梶山鼎介に送る。「地は裂くる山は崩るる太平のなまけ武士めはまた高鼾き」

 M26-6-7、朝、鞘師の謹蔵来る。太刀製造を命ず。

 M27-2-19、ひさびさに有興。※乃木日記では、「興アリ」は、芸妓をFuckしたという暗号。

 ※このあたり、刀関係、撃剣も頻出。あきらかに出征が迫る空気に興奮していた。

 M27-3-2、寺内に、士規七即 を贈る。
 M27-3-25、有興。※長州の親しい者たちとどこかに繰り出したときに、しばしばこうなる。

 M27-5-15、砲兵工廠に銅像の下地を見る。後、連発銃製造を見る。
  ※大村銅像はM26-2-5竣工とされている。その翌年に、何があったんだ? この砲兵工廠は、大阪ではなく、東京の砲兵工廠である。

 M27-6-6、有詩 肥馬大刀云々。
 M27-6-26、高行、旅団に来る。拳銃の事なり。 ※業者?

 ※M27-7後半~M29-9末、欠。戦争中は日記がないのか、それとも……?
 ※M29-10中~M32-11中、欠。

 M33-1-1、「静子」と表記。
 M33-11-11、誕生日の小宴で、有興。

 ※M33-12~M34-6、欠。

 M34-8-8、室内銃弾を買ひ……。
 M34-9-3、本日 語類第八 を見了わる。夜、発声。※『山鹿語類』。そして謡曲だ。

 M34-9-10、夜、虫多し。
 M34-9-13、御堀傳造、海軍及第の報。 ※恩人の故人の遺児か親類? 海兵32期(つまり山本五十六と同期)、最後は少将。博恭王附武官も務めた。S7に予備。

 M34-9-28、浅田飴 静子用。

 M34-12-4、小笠原憲兵中佐……来る。
 M34-12-20、「摩擦術」「マツサージユ」。※仏語の勉強か?

 M35-2-24、友安少将へ見舞状 書留 出す。

 M35-2-24、英去勢の事、参謀長・獣医部長に談ず。 ※はなぶさ号という私有の乗馬。

 M35-3-28、獣医部長に逢ひ、去勢を謝す。

 M35-4-9、本日、大戦学理 三冊 壱円弐十銭。 ※森林太郎らの訳したクラウゼヴィッツ戦争論。

 M35-4-10、地下に大穴を発見す。
 M35-4-25、午前、寺内中将より拳銃を送り来る。

 M35-5-4、ミウレル B シユヘー に写真を与ふ。帝国ホテルに托す。※ミュラーという名前なのか。

 M35-5-7、本日コンクリート壱個共に全済。

 M35-5-8、山県衛より写真到来。※対露関係が緊張してきた。

 ※乃木が馬でどこかへ行くときは常に馬丁が付いた。単独のときは「馬丁ナシ」と特記している。

 M35-5-21、朝、藤津大尉、拳銃を磨き、持参。

 M35-5-31、朝歩して高橋静虎を訪。語類 壱式を渡し 三十銭払。大戦学理 六の上を持帰る。
  ※『山鹿語類』を私費で印刷して人々に配ろうとしていた。

 M35-6-4、林太郎大佐来る。※軍務局歩兵課長。愛知出身なので旧幕臣系エリートか。大2に営門中将。

 M35-6-23、砲兵工廠に軍刀新造を託し。

 M35-6-25、林太郎来訪。野村子爵来訪。謫居童問 原本持参。借用す。

 M35-7-4、麦コキ手伝。千歯三丁、借る。※これは那須野?

 M35-7-18、西郷元帥を弔したときに、大山元帥、伊東海軍大将、黒木中将、伊知地少将がいた。薩勢揃い。

 M35-7-24、皇孫殿下へ……拝謁仰付らる。御手づから御菓子拝領。※のちの昭和天皇である。

 M35-8-22、誘蛾燈を点ず。※ここに至り、前に出てきた「虫」はリアルの虫だったと納得。

 M35-9-3、途に林太郎氏に逢ふ。

 M35-9-6、梅地氏を訪、軍刀催促を頼む。藤津に拳銃磨代壱円弐拾銭を送り頼む。

 M35-9-17、弓を作る。次郎、矢を作る。
 M35-10-14、両国に、村田煙管を買ふ。

 M35-10-24、昼、元智君、来訪。
 M35-10-27、今朝より電燈仕付。

 M35-11-1、近衛師団司令部に……森林太郎……に逢。※森鴎外は第一師団の軍医部長だった。近衛の軍医部とうちあわせでもあったのか。

 ※11中~12末、欠。

 M36-1-6。※静子の呼び名をまた「室」に戻している。

 M36-1-23、礼寿屋に、室内銃の手入を命じ、水交社 星桜会。※陸軍将官の会。

 M36-2-1、途に杉子爵に写真を促す。彼の使ひ、不在中に持参。帰後、落手。返書を出す。※1-31朝に杉子爵を訪問しているから、そのときに撮影したのか。

 M36-3-3、寿屋に銃の催促。

 M36-3-6、榊原大佐に七書を返す。 ※「武経七書」。

 M36-3-9、浅草に七書を買ひ、帰る。

 M36-3-21、寿屋に、室内銃掃除催促。

 M36-3-27。※タカヂアスターゼ の初出。

 M36-3-28、寿屋に槍を持参を命ず。

 M36-4-3、壽屋の槍、長巻を竹中に持参、鑑定を請ふ。

 M36-4-5、寿屋より赤十字槍持参。長巻および直槍を返附す。※道具屋のセールスの鴨になってたか。

 M36-4-23、長府公の依頼。石を拾ふ。

 M36-5-3、材木町に公に謁し、石九個を献ず。

 M36-5-3、林太郎夫人来訪。玉木縁談、不成立の件。

 M36-5-5、室、杉村、佐々木行。

 M36-5-20、佐々木如亀雄より写真および来書。 ※写真見合を斡旋してたのか。『細雪』の世界?

 M36-5-25、弓町の道具屋に打根を見んとす。あらず、帰り……猿楽町に打根を誂へ。

  ※6-4から6-30、欠。

 M36-7-6、博物館に岩石鳥類の打根を見。

 M36-7-8、伊知地少将、来訪。

 M36-7-14、林太郎氏来訪。玉木縁談の事。

 M36-7-16、林大佐夫人、来訪。増子の事。

 M36-7-17、朝、増子の写真を林夫人に。夜、林大佐を訪、増子

 M36-7-20、寿屋に17円10銭払、紅釼 打根 腕貫用 45銭。

 M36-7-23、打根を持参。寺内大臣に贈る。

 M36-7-24、小笠原島バナナ壱枝到来。

 M36-7-25、鎌次郎、日本橋へ教育史購入 および 写真機械直し。※カメラも所有してた。

 M36-8-8、増子……結婚の事を決定す。※相手は佐々木。

 M36-8-9、御堀傳造……を呼ぶ。

 M36-8-13、御堀傳造と午食を共にす。……日夕、保典と拳銃射撃を試む。

 M36-10-29、菅野大尉来る。天長節日、学生、撮影の事なり。

 M36-11-2、高島子爵 北堂の葬式に会す。日夕前同裳会 伊藤 写真師を連れ来る。明日の相談なり。※観兵式が11-3。

 M36-11-3、本日、寺内大臣、兒玉次長、来会の筈なりしも、不来。2時に写真を撮る。惣人員百五十余。

 M36-11-13、スーピーの波を調す。※レコードのスピーカー?

 M36-11-22。 ※北海道土人教育会というものあり。

 M36-11-27、歯2本を抜き。
 M36-11-29、臼歯をセメントにて填実す。※乃木は総入れ歯ではなかった。

 M36-12-4、荘原右治、藤島氏に依頼せし我母 藤の油画……。室内散弾弐百を大倉店に買ひ……。

 M36-12-29、大塚に長靴を誂へ20円の約。

 M36-12-31、義歯不出来なり。後日を約す。寿屋より保典軍刀出来。

  ※M37-1~M37-10末、欠。

 M37-11-2、保友少将の副官、書状持参。保典の事なり。

 M37-11-15、十八珊[ママ]迫撃砲試験。

 M37-12-12、全身浴をなす。

 ※M38-1-13~M39-8-28が欠。 ※戦地日誌がない。そんなバカなことがあるか。

 ※M39-8-21~12-11も欠。

 M39-11-21、上奏書呈出(福岡大尉をして田中宮内大臣に面会せしむ)。

 M40-1-12、京都停車場に於て田中大臣に会し、同車して上奏書の御決裁を催促。

 M40-1-16。田中から夜に電報が来て、上奏されたと知らされる。

 M40-1-27、陸軍大臣来り、聖旨の趣を伝ふ。

 M40-1-28、朝、山県元帥を訪。兼務の不都合を陳ふ。 ※軍隊精神教育に関する過激上奏に対して、学習院院長のポスト内示でもあったのか?

 ※M40-2-4~M41-5-28、欠。

 M41-5-29、参内。旅順へ差し遣わさる。

 M41-6-1、朝、徳富を訪。 ※蘇峰に祭文の文辞の修正を頼んだか。

 M41-6-6、平穏、午後1時、大連着。

 M41-6-7、白玉山に登り忠魂碑建築を見。

 M41-6-10、白玉神社に玉串を捧げ、式場に至る。

 M41-6-15、門司着船。

 M41-6-23、登院、参内、拝謁、言上。後、写真に記入いたすべきの命を拝す。午後、曾根荒助氏を訪。不在。孫子評林 を贈り、伊藤公爵に届方、頼む。

 M41-7-24、南寮に孫子の話をなす。

 ※M41-8~M45-3-6、欠。
 ※M45-7-23、「兒玉大将年忌」で終わっている。
 ※独語日記の自署は N Noghi 

▼『乃木希典全集 下』H6-11
 独文日記訳文。

 まだ国内にいたM21-9-1から始まる。

 M21-9-27、林〔太郎?〕に手紙を書く。 

 M21-12-1、安田、山路らと酒を飲む、不愉快なり。夜、歩兵14聯隊将校集会所にて招待会あり。山路、安田、川村とともに出席。

 M21-12-14、偕行社で火薬2円を購入。

 M21-12-20、写真代として4円80銭を支払う。

 M21-12-21、遠藤Mに写真を遣る。

 M21-12-22、愛児と玉木文之進に写真を贈る。 ※単身渡独するため。

 M21-12-31、井出、山本夫婦、吉村、村松Tに写真を贈る。山本には歳暮も。

 M22-1-27、中村に武器を贈る。

 M22-1-28、林その他、見送りにくる。

 M22-2-3、日曜、晴れ。午前、小松宮殿下、北白川殿下、伏見宮殿下、および、野村、樺山を訪問す。川上を訪問し、昼餐の饗に逢ふ。途中、小笠原恒道を訪問す。午後、有坂成章くる。午後2時、荘原、佐野、その他来訪、談話す。4時半より久坂、三島、山路、毛利を訪問し、毛利公爵夫人および山中花夫人と談話す。晩方散策し、手袋と巻煙草を買ひ、8円87銭を支払ふ。途中、長山を訪問す。

 M22-2-6、話家 雑賀の噺を聴く。

 M22-2-17、午前6時半、大地震。吉五郎くる。写真を与ふ。

 M22-2-19、砲兵本廠を視察。

 M22-2-28、十時半、砲兵工廠を視察。※有坂はこの打ち合わせに来たのか。

 M22-3-24、長谷川に別れを告げ、写真を贈る。

 M22-4-4、戦争カルタを買う。

 M22-5-13、奇天斎の奇術を観る。

 M22-5-20、児、直典 死す。

 M22-6-29、宮内省乗馬、躑躅[つつじ]号。

 M22-9-12、愛馬「太刀」、病気に罹り、入厩す。

 M22-9-29、汽車の中で狩猟家・西村Kに出逢ふ。

 M22-12-24、山県内閣成立す。

 M23-1-8、天皇陛下御不快にて、観兵式 御取止となる。 ※対清戦争は厭じゃ の意思表示?

 M23-1-18、夜、子どもとトランプ。

 M23-1-24、兵事新聞社にて、戦争歌留多を買う。

 M23-2-21、朝、大山大臣を訪問し、歩兵第14連隊の古き聯隊旗に関し、談話を為す。

 M23-4-10、吉田少佐 来る。
  ※ジュヘーのスペルは Dufais  だった。

 M23-7-1、矢内を訪問。矢内に写真を与う。

 M23-7-27、桂将軍より辞令書を受領。

 M23-8-17、妹のことに関し森を訪問。

 M23-10-26、車中、墺太利人夫妻と話す。(名古屋~豊橋)

 M23-11-20、乗馬「勢」の毛を刈る。母は熱田神宮へ。東條大尉、来訪。※英教。

 M23-11-23、母に従い養老に到る。日帰り。

 M23-11-27、静子より来簡。

 M23-12-2、静子に100円おくる。

 M23-12-3、静子より来信。夕刻、大田に関し、静子より電報。

 M23-12-7、上京。
 M23-12-10、名古屋へ帰る。

 M23-12-18、児玉と会談。静子より来簡。

 M24-1-3、子どもらと共に熱田神宮参拝。※同居はしていない。

 M24-1-16、勝典に書簡。

 M24-1-21、伊東で静子、保典と話す。

 M24-2-15、大門静一、来る。写真を与ふ。

 M24-4-11、母に従ひ、静子らと共に熱田→伊勢上八代。

 M24-4-17、母と静子、帰京。

 以下、M44-2-14~8-31の乃木大将渡欧日誌。吉田豊彦砲兵中佐が書いたと考えられている。

 ※ロンドンは「龍動」と書く。
 竹田宮にも暇乞している。

 M44-4-17、舞鶴第16艇隊、海軍少佐・水野廣徳氏より著書『此一戦』が郵送されてきた。

 M44-4-19、呉淞[ウースン]通過。清国軍艦『海籌』が碇泊してた。海賊防御のためならん、木造支那船式の砲艦4隻もあり。彩色、装飾。

 M44-4-21、張園愚園……清人の無趣味なるを覚へしめたり。ウィスキーソーダは、「清涼飲料」の名に悖かず。

 M44-4-24、東洋にたったひとつの、オレゴンのケーブルカーに乗る。二十余年前に構築。香港在留民の数、1000余。其の四分ノ一は、賤業婦なりと云ふに到りては驚くに堪へたり。西関光塔寺に到る。磚造の高塔。昔は尖端に金鶏を置いて風向を知ったという。

 M44-4-30、シンガポールは土人小児の発育があまりによいので英人が賞賛している。

 M44-5-2、マレー刀を贈られた。蛇行状の刀身。鍛錬の際に毒素を含めてあるので、刀尖が人体に1寸入れば、被害者はとうてい回復の見込みなしと。酋長以外は直刀を佩用する。
 キッチナーはインド陸軍総督だったことがあるが、土人教育に文学、医学、法律を教えるのは、反乱を増すだけだと。

 ※シンガポール以南、いたるところで乃木は自動車に乗って見物をしている。

 M44-5-4、ペナンでも邦人中の60%は賤業婦。

 M44-6-12、英ハートフォード社では軍艦徹甲弾に黄色薬を使用せず、いまだに黒色薬。鋳鋼弾は、プレスした弾丸の半値。日本海軍向けの14インチ砲弾は、576kg。※径14インチだが、日本海軍は43式12インチ砲と呼んだ。

 M44-6-30、イートンで数ヶ月前から始めた柔道の教授を見る。

 M44-7-5、吉田はシュナイダー/シュネデル社を見学。

 M44-7-18、ルーマニアの歓迎が最も凄みがあった。接待員いわく、農業国だが社会主義者はいない、と。農夫が白衣なので朝鮮みたいだ。国民、多くは裸足。

 M44-7-20、ルーマニア兵は背嚢に銃の托架とする木片を付けているのが、多国と余程、異なる。「銃の取扱、やや乱暴にして、活気を添えんがため音響を発せしむるは英国軍隊と同じ」。ル皇后は、たった一枚しかないという愛孫の写真を乃木にくれた。

 M44-7-23、トルコ人は、時間の観念に乏しい。我が、大阪に類している。

 M44-8-3、メッペン射場で、本邦の註文にかかる二十七珊・2門砲塔の説明を聞く。弾量250kg。※クルップか。
 ここでまた、要塞や軍艦に備える、気球射撃砲を見た。径10cm、仰角75度。おなじく、自動車搭載の6~5センチ砲。仰角75度。

 以下、「山鹿素行先生を尊崇するに至りたる動機」M41-4。

 先生の註釈された孫子が、松浦家にあると聞き、写させてくれと頼んだ。
 文之進氏も、前原が乱を起すと云ふ時、割腹して死なれた。
 「西南の役に十年の二月二十三日の夜、大敗して河に飛び込んで逃げた時、〔士規七則を〕紛失して了った」。

 M14-3-6、村田銃 ならびに ビボーマルチニー銃 弾薬製造式 取調委員、仰付けらる。
  ※この日付、8-6かもしれない。

 M15-12-28、砲兵会議員、仰付けらる。

 ※M44の特大演に顔出していること、全く記録なし。

 以下、解題。和田・金園社『乃木希典日記』の中のM6~13のほとんどは、渡辺求ed.『青年時代の乃木大将日記』が典拠。それらは玉木正之(乃木次弟の玉木正誼の弟)所蔵本だが、正之は生前、所蔵日記のすべてを筆写していた。そのおかげで、西南戦争の軍旗事件の箇所が〔湮滅工作を免れて〕残った。

 M10-2-22、酒を飲ませ、歌を唄わせて南ノ関から高瀬、植木、木葉に行軍。夕6時に、1個小隊弱で布陣。「月中天に懸り、晴光白日の如し。7時から敵襲。次第に激烈化。退却。9時40分すぎに、千本桜に退き、そこで河原林がいないと知って、「驚嘆に堪へず。軍旗を失し、生還する、南の面目ぞ。返戦旗を獲んと欲する者は我に随へと令す。従ふ者一半、拒止する者一半。村松軍曹・檪木軍曹等、泣て我を抱止し、後事の措く可らざるを責む。……」

 この他、渡辺版にあるローマ字日記も、一部残欠オリジナルと校異するに、不忠実な翻刻であることがわかったので、本全集ではカットした。

▼乃木神社社務所ed.『乃木希典全集 補遺』H9-12
 M16-7-5、有興。
 M36-5-3、烏を撃つ。
 M36-5-4、夜、烏を喰ふ。

 M36-5-13、山県元帥の招きを断る書を出す。
 M36-5-17、「シイツ」一枚。
 M36-5-20、室、東京行。

 M36-9-1、「クレツソン」。
 M36-12-9、夜に入り蚊帳を以て雀を捕へんとし、獲るなし、一笑。

 79ページから、乃木日記のどこが欠かが分かる、書誌別一覧表。

 主要人名解説。
 河原林雄太は福岡県出身でM4、軍曹心得。M7、少尉。M8、歩14旗手。M10-2-22、戦死。

 御堀耕助。生年不明~M2。
 本名は、太田市之進直方。
 乃木希健の孫。乃木希次の甥。乃木希典の従兄。太田要蔵直温の長男。太田(毛利)左門や大見ふきの兄。
 文久2の品川御殿山英国公使館焼き討ち事件に関与したので御堀と改名。
 御楯隊総督、萩藩参政を勤め、明治政府にも。
 M2に、山県、従道らと欧州視察。
 三田尻にて病没。その直前に、乃木希典を黒田清隆に紹介した。

 御堀傅造。M14~S22。
 小笠原恒通&キネの息子で、乃木希典の甥。