自動車教習所を閉鎖させるのはおかしいだろ?

 たとえば大型免許があればトラックドライバーに雇用される見込みのある人が、それもできなくなってしまうではないか。
 免許取得後に遠方に転居して就職する予定だった人はどうなるんだ?

 自動車教習の座学はオンラインでできるし、路上教習はマンツーマンで教官が生徒宅を巡回すればいいだろ。柔軟に考えられないのかよ?

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 COREY DICKSTEIN 記者による2020-4-24記事「At least 18 USS Kidd sailors have tested positive for the coronavirus」。
   単艦としては米海軍の2隻目のアウトブレーク。イージス駆逐艦『キッド』艦内で18人が新コロ陽性。

 水兵1名が23日にサンアントニオの治療隔離施設まで空輸されている。

 24日には、「サザン・コマンド」でふだんは麻薬密輸取締り作戦用に待機している部署から、8人の医療評価チームが乗り込んできた。
 『キッド』は非公表の港へ行き、乗員をすべて下船させて陸上の隔離施設に入れ、艦内を消毒する予定。

 アウトブレーク1号艦の『セオドアローズヴェルト』ではけっきょく840人が陽性だった。
 総員5000人のうちの、840人だ。

 『キッド』のクラスだと、乗員の総員は330人くらいと思われる。
 ※単純に比率をあてはめると、モタモタしていたならそのうち55人は罹患しかねない。

 米海軍は、すでに港に停泊中の他の26隻の米艦の内部から、それぞれ少数の新コロ陽性者が報告されていると公表した。個々の艦名や人数の詳細は非公表。

 海軍全体では、24日時点で1445人が陽性である。

 また、米軍全体では、3919人。この中には空母『TR』の罹患者もカウントされている。『TR』から出た1名の病死者は、41歳の兵曹チャールズ・ロバートであった。

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 H I Sutton 記者による2020-4-23記事「Satellites Track Chinese Aircraft Carrier In South China Sea」。
   最近のマニアはおそろしい。なんと中共空母の刻々の洋上の位置を、民間の衛星写真だけを手がかりに、把握してしまっているのだ。

 写真には、航跡が写っている。それを仔細に吟味すれば、スピードも針路も推理できる。空母艦隊がどこへ行こうとしているのか、概略、知れてしまうのだ。

 とうぜんながら、シナ空母はAISは切っている。

 一部の商用衛星の撮像は、インターネットで無料で公開されている。
 ある空母がいつ出港したということさえわかれば、その速力から、未来位置の限度が知れる。その限度内で写真を検索し、海面を拡大して捜索したらいいのだ。いちど洋上で所在が把握できたなら、あとは、ウェークを頼りに、次々に推定していくだけだ。

 このマニアたち、4月10日に、青島軍港から330浬の海面を検索した。南下するだろうとの予想を立てて追跡を続行し、4月21日に南シナ海に所在する写真にピンポイントでヒットした。それは偶然ではなく、合理的な推定の結果なのである。

 ※わたしは1990年代に日本の資源探査衛星(「もも」とかあのへんの世代)が東京湾を写したマルチスペクトラム写真を見て驚愕した。大小のフネの航跡が、長々と、海面上には残ってしまうのだ。海水が撹乱されて温度が他と違っているから。どんなステルス船だろうが、この赤外線ウェーキまでは消せないだろう。これでは、之字運動などしても、最終目的針路はごまかせないと思った。きっと、わが国は、軍用の写真偵察衛星を打ち上げるよりもずっと前から、敵国の水上艦の動静は、掴めていたのだと思う。

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 WYATT OLSON 記者による2020-4-22記事「Air Force demonstrates ‘unpredictability’ amid pandemic with B-1 bomber sortie from US to Japan」。
     B-1爆撃機が、サウスダコタ州エルスワース基地から30時間ノンストップ飛行して、三沢の空自のF-2、F-15と編隊飛行した。三沢の米空軍のF-16も加わった。

 ※先週、空軍のB-52Hがグァムから去った(ノースダコタ州のマイノット基地へ戻り、2004年から続けてきた戦略爆撃機のグァム常駐を廃止した)ことで、中共に間違ったメッセージを与えてはいけないので、このデモンストレーションがなされている。中共軍は新コロを好機と見て南シナ海でも尖閣でも悪さをし放題になっているので。

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 Nathaniel L. Moir 記者による2020-4-24記事「This Virus Is Tough, but History Provides Perspective: The 1968 Pandemic and the Vietnam War」。
         1968年、インフルエンザの「H3N2」が流行して、その米国内の病死者が、朝鮮戦争+ベトナム戦争の戦死者数を上回ってしまった。(ちなみに1968年の1年だけでベトナムでは16899人の米兵が戦死。インドシナに展開した米兵は同年4月末がピークで54万人。にもかかわらずテト攻勢を喰らっていた。)

 1968年の米国の人口は2億500万人。そして「H3N2」の病死者は100万人を越えたのである。まさしくこれぞ「パンデミック」だった。
 それに比べたら、今の新コロなど、まだパンデミックの序の口にすぎないと言えよう。

 1968年7月に「A/H3N2」インフルエンザが香港から流行した。1957年の「A/H2N2」パンデミックを引き継ぐかたちで。

 これらに付けられる略号のHは、免疫抗原となる「Hemagglutinin(血球凝集素)」の頭文字。H2とH3はそのタイプが異なるのである。
 Nは、ノイラミニダーゼという酵素の頭文字で、そのナンバーが同じということは、1957型と1968型のあいだにNには変化がないということ。

 1918年のパンデミックを生き残った老人だけは知っていたろうが、1957のインフルエンザ流行は、インフルエンザウィルスが、他の細菌症と合併などしなくとも人を殺せるのだ、ということを戦後の米国人に示した。

 インフルエンザウイルスの「H」は、動物の体内で遺伝子配列が変化してしまう。それで、前のインフルエンザの抗体が、無効になってしまう。1957を生き延びた人も、1968には無事では済まなかった。

 1968流行は、香港→米国→欧州と広がった。あきらかに航空旅行者が媒介した。民航が戦後これほど発達しなかったなら、こうした流行は局地的で終わったのだ。
 これはSARSでも言えたし、新コロでもまったく同様なのである。

 われわれは「グローバリゼーションのコスト」を支払っているところなのだ。

 1968インフルの第一波は、米国に対してのみ、厳しかった。死者がおびただしく出た。そして次に英国やフランスへ伝播した段階では、致死率が低下していた。無症状罹患者が多かった。

 ところが、1969~1970に来た「第二波」では、「くすぶり発火(smoldering)」と呼ばれる現象が起きて、こんどは英国やフランスでも「H3N2」による死者が激増した。
 それに対して米国が受けた1969~1970の「第二波」は、マイルドだった。

 ※だから新コロも、いまの段階で一喜一憂していてはならない。来年のシーズンの第二波で事情が一変するかもしれないのだ。ここまでわかっているのに、いまだに「東京オリンピック」などと言っている輩は、もう《公共の敵》認定されて可いだろう。メインスタジアムにただちに隔離療養施設を建設せよ!