旧資料備忘摘録 2020-4-25Up

▼田辺平学『空襲下ドイツの工場防空』川崎商工会議所pub. S17-7-1
 戦時産業叢書の第一輯。

 S16-12の講演録である。
 著者は東工大教授だが、S16-4-17に東京を発ち、シベリア経由でドイツ入り。が、6-22独ソ開戦。やむなくリスボン→NY→米船に乗って上海→10月に東京着。

 途中、ハワイが防空設備に狂奔しているのを見た。
 米から帰る最後の日本人の船だというので、ハワイではサーチライトを集中したり、航空機の編隊で示威した。

 独では、イギリス軍の本物の焼夷弾を全国に回付して、実物教育をしていた。
 なんと空襲被害は全部、国費で復旧し、死者は戦死者扱いであった。
 これほど大衆に媚びる体制だったのかと驚く。

 英軍機は、毎晩空襲に来ていた。炸裂弾1に対して焼夷弾を8~10倍、混ぜて落としている。
 最多は125kg爆弾だが、稀に250kg爆弾や400kgも落とす。
 一発835kgの「空中魚雷」と呼ばれるものを、ベルリン、ハンブルク、ブレーメンに落としもした。時計仕掛けのものもあり。

 焼夷弾は工場地帯用は1発125kg。人の背位もある。油脂焼夷弾も。
 ベルリンに落としている焼夷弾は、1.7kgのエレクトロン、テルミット弾。

 ドイツでは人口4000以下の小さな町村には、警報を与えない。

 ドイツでは地下退避が原則なので、窓のテーピング等、みたことない。
 その代わり、1枚板のショーウインドウは、縦長のもの多数枚に、交換しつつあり。

 英は、トリノ、ミラノ、シシリー、ナポリを爆撃しているときも、まだローマには爆弾を落としていない。

 独政府は、旗屋にソ連の小旗をたくさん註文し、モロトフが来るという噂を撒いてから、開戦した。
 さすぎに独国民でその日、浮かれた顔をしている者はなかった。

 プランメーシッヒ=計画通り。独政府の戦果発表で、よく使う。

▼『Shanghai Under Fire』1937
 上海にあるPost Mercury Co., Federal INC.USA 刊。5刷。定価2ドル。
 防災専門図書館蔵。

 解説文は9月23日のことをもって止めている。

 例のT-26の写真。“A captured Chinese tank”. カステン破れ「危険ニ付触ルナ」の貼り紙がしてあったと分かる。
 しかし日本で流布している写真ではこの貼り紙は修正で消されていると思しい。

▼陸軍乗馬学校・抄訳『魯国騎兵学校ノ長途騎乗』M27-12
 ※原典はドイツ兵事週報。1891~92の学期における、ペテルブルク方面での研究をドイツが報じた。
 ※これを訳したのは、大陸の冬季の馬の扱いに興味があったためのようだ。

 長距離ほど、騎手は正しい姿勢を維持しなくてはならない。騎坐は静定していなければいけない。
 英式速歩のマネをして体を前傾させてはならぬ。馬の前脚の負担となり、馬がすぐに疲労する。

 馬種、いろいろ試した。
 ハズレがないのは「ウラル種」である。
 キルギス種は退化している。
 ドーニー種は持久力なし。

 カルパチアン種(カフカス北部産)は体型は良いが弱い。
 英種半血とヲルロートラーブ種は善い。

▼『相模海軍工廠』同刊行会pub. S59、非売品
 接収に来た米軍は、ウィルス濾過マスクにのみ関心を示し、他は何の調べもロクにせず。そもそも民間の化学工場だと思っていたようだ。

 大11、艦政本部一部に、化兵担当部員1名を置く。

 大12、本田海軍少佐が、艦政本部で化兵担当となる。

 大12-4-1、海軍技術研究所、誕生。化兵研もできる。「化学兵器研究室」。それまでは燃料研。担当所員はたった1人。

 大13、特殊化学兵器研究費、成立。

 S5-8-19、科学研究部第二科が平塚出張所に移転。
 S9-4-1、目黒に化学研究部が新設され、科学研究部を理学研究部に改む。

 S8、「特薬」製造実験工場、建設。
 S9、「化学研究部」に昇格。

 S17、寒川に土地・建物 買収。
 S18-5-1、相模海軍工廠に昇格。

 S19、長野県上田の高等蚕糸学校に、化学実験部を疎開。

 WWI後、陸軍の久村砲兵少佐が、独の毒ガスを研究。海軍では大11に本田少佐か、久村中佐の指導を仰いだのが始め。

 WWI後、英国は元首相バルフォアを委員長にして、ケミカルインダストリーを育成すべく、企業大合同をすすめた。それがICI。

 海軍の2号1式マスクは、陸軍のマスクより密着性があり、三角眼鏡で、吸収缶は大型。一酸化炭素除去用に、米国ホプカライトを真似た褐色剤を追加できる。おそらく世界最高性能。

 特薬研究は、陸軍と合同した。
 1、2、3号特薬の製造実験工場を、平塚出張所に建設。

 大口径徹甲弾への応用。
 この種の砲弾では、炸薬量を犠牲にすることなく、風帽内の容積および自爆防止間座の占める容積を利用することとして、一号および二号特薬を応用試製して、亀ヶ首で甲板貫通艦内打込み試験をおこない、いままでの徹甲弾威力に化兵効力が追加されたものを得た。

 ワシントン会議の結果、『石見』は相模湾にて航空機によって沈めたが、『生駒』にはイペリット砲弾の撃ち込みと除毒を、呉で実験した。

 発煙筒:陸軍より伝えられたベンゲル発煙筒を採用し、1瓩、10瓩、30瓩発煙筒、および 発煙浮筐 を制式化した。信号用の着色発煙筒も。

 1号煙薬甲:3タイプの比較実験の結果、無水硫酸式がよいと分かり、これを駆逐艦の艦尾にとりつけた。

 1号煙薬乙:米国が先駆けた、航空機によるスモークカーテン。技研が1号甲を改良した。

 焼夷剤は、テルミット、油、多硫化ゴムの数系を研究。兵器になったのは黄燐系とゴム系。特に多硫化ゴム系は、各種三式通常弾、潜水艦の十四糎砲用の焼夷弾、2式25番3号爆弾、1式7番6号爆弾、27号爆弾に使用。
 上海事変頃、平塚出張所で、1/2/3号特薬を試製開始。防毒面や発煙兵器も作り始めた。

 1号特薬は、クロルアセトフェノンの催涙ガス。
 2号特薬は、ヂフェニル青化砒素のくしゃみ剤。
 1&2号は、艦砲弾に充填する他、瓦斯訓練にも用いた。

 3号特薬甲は、イペリットの糜爛ガス。6番1号爆弾に充填した。
 3号特薬乙は、ルイサイトの糜爛ガス。実験のみ。性能は甲に劣ると判定された。

 4号特薬は、青酸ガスで、陸軍式を採り、陸戦用に実験した。実用はせず。

 1&2号は、いつでも艦砲の弾丸に充填できるように量産された。1発あたりの充填量はわずかなものなので、設備は小規模で済んだ。S13には、海軍技術研究所の化学部の生産量で間に合っていた。

 S19年度末に、特薬の整備は中止された。液体塩素の生産が急減したため、続けられなくなった。

 S2に2式防毒面をつくったが、性能は不満足であった。
 S8に、93式防毒面をつくった。COにも対応する。これが終戦まで整備された。

 97式防毒面、独立式呼吸用酸素防毒面、簡易防毒面もあった。

 S9に、94式防毒衣。
 その後、98式防毒衣と、そのバージョンである「軽防毒衣」が完成した。

 除毒剤には、3号~6号があった。これはガス型番に対応するものではない。

 焼夷剤チオコールは、「チャコール」とは無関係。ゴムと結合する可塑剤である。

 3式通常弾子と、25番3号〔エレクトロン系〕の弾子〔の中央部〕にテトリルと雷管を入れ、防弾タンク内で爆発させるものを実験したが、実用に至らず。特に3式弾としては耐圧上、無理があった。

 黄燐の融点が低いために、貯蔵に難がある。そこで黄赤燐にし、衝撃発火するものを考え、13糎焼霰弾と「ロサ弾」(中口径で低速)に実用された。径20ミリ、長さ50ミリ、60グラム。

 中口径砲弾に充填する、クシャミと催涙の小缶を、3万個作ったが、使用の機会なしと認め製造を中止せり。
 航空基地対航空基地の戦いが激しくなると、イペリット爆弾4万3000発を製造したが、原材料と戦局の関係からそこで中止。予定では10万個だった。

 3式焼散弾(中口径以上)、25番3号爆弾、7番6号爆弾は、特殊ゴム焼夷剤弾子を使う。
 4式焼散弾と、3番3号爆弾は、黄燐弾子を使う。

 クロルアセトフェノン(催涙)とイペリットは、S19末に製造を中止した。
 催涙弾は、弾丸および爆弾用の型薬缶に充填したが、完成弾の組立は行なわず。
 2号特薬は18年度で生産終了。

 6番1号爆弾2型の特薬缶は、S17年度に、実験用に2000個製造したのみ。

 8糎迫撃砲1号特弾。S19年度に500発つくる。実験用。

 中口径砲用の型薬缶(クシャミ剤と催涙剤)、S17年度で生産終わる。

 3番3号爆弾用焼薬は、17年度まで生産ゼロ。18~19年度に、計16000個(弾子入黄燐焼夷缶)。

 6番1号陸用爆弾(イペリット17kg装填)組立。S18年度までゼロ。19年度に4200個。20年度に600個。

 40kg発煙筐は、18~20年度に製造。
 30kg発煙筒は、18年度までで製造おわり。

 防空凧というのを19年度に500、20年度に2000個、作っている。

 6番1号爆弾は、S12に完成した。
 2式防毒面は、S2である。
 91式発煙器は、S6年。
 発煙筒は、S10年。
 発煙筐は、S17年。
 手投煙壜は、S18にできた。

 ゴム系焼夷剤(三式通常弾と爆弾用)はS17にできた。
 特殊燐(焼夷弾用)はS18に。
 4式防空気球はS19に。
 防空凧 1型、2型 ともにS19にできた。

 3号特薬に樹脂を加え、粘着持久を狙う研究もした。
 戦艦の主砲弾の四分の一は、3式弾(S17-6完成)とした。
 だからガ島砲撃も、じつは不徹底になってしまった。

 『金剛』の主砲で、規定の常装薬で発射すると初速は825m/秒。閉角16度、5~6秒間、スウィープ1000mとなる。零式時限信管を用う。

 S18年に「仮称」が取れた。
 12.7センチAAG用にまで、三式弾は造られた。弾子径は13ミリ。

 『大和』は3式弾を1発も使用しなかった?

 『陸奥』爆沈は、三式弾の自燃発火を疑われた。
 結論。沈没時の茶褐の煙から、原因は装薬であり、3式ではない。

 多硫化重合合成ゴムを、チオコールまたはチオナイトと呼んだ。

 2式25番3号爆弾は、初のテルミット系。完成するやただちに、連日10~15発が、爆弾輸送機で南方基地へ運ばれた。

 艦内火事は、COが多く出る。
 「型薬」は、通常弾の被帽と風帽の間などの空所に装填するもので、1号/2号特薬をベークライト&真鍮の2重容器に納めた。真鍮の方は、精工舎に特注。

 「小銃煙弾」は、ベンゲル煙薬を詰めた4翼小筒で、三八式歩兵銃の筒先に装填して木弾で発射すると自動点火。200m前方に煙幕を展張する。

 3番3号爆弾は、戦闘機から敵爆撃機を攻撃する爆弾。燐充填弾子は、日本精錬(株)の群山および三春工場製。初め黄リン、のち、黄赤半々。

 S17夏に「手投特弾」×1万本作れとの注文。
 4号特薬(青酸)をサイダー瓶に詰めた陸戦兵器だった。終戦時に、燃やした。

 桑原高雄が七科主任になって間もなく、6番1号爆弾の特薬缶に3号特薬甲改1を充填する作業命令が出た。
 甲はイペリット。改1は、イペリットに、メタアクリル酸樹脂(飛行機の風防材)と塩化ビニール樹脂を溶解して粘着性・附着性を付与したもの。

 特薬缶は、円錐形のタイプと、中心管を有する円筒形の二重套管タイプに大別された。
 3特は6科でつくった。

 S18-6、鹿島爆撃場で、「焼夷筒」を実験。5kgのテルミットを詰めたもので、不発弾を処理できるか。まず小型爆弾で試し、6月下旬に、1トン爆弾×2で試した。「仮称1号焼夷筒甲」。

 S19になると、東洋陶器(株)や大倉陶園で試作した陶器製の60キロ1号爆弾も研究した。

 S19末以降、4号特薬噴射器の試作あり。

 4式防空気球。アンモニアを分解した水素を詰めてある。それだけ。心理的に地上銃撃をやりにくくしてやる。S19に360個、S20に100個作った。

 そのアンモニアも無くなったので、「防空凧」をS19からこしらえたわけ。S19には500個、S20には2000個完成。複葉機型であった。

 鹿島海岸には米空母に模したコンクリート物があり、特薬兵器の効果をS17までそこで判定していた。

 4号特薬は揮発性が高いが、液体から気化すると非常に冷えて下に溜まることが分かった。また気化しそこなった液は固体のように冷えて附着した。困ったのは、酸素マスク以外に防禦方法がなかったこと。

 風船爆弾には陸軍の「ふ号」と海軍の「八号兵器」あり。後者は半有圧式だが、全備重量は同じ。放射は、陸軍に任せた。
 海軍の爆弾はそこには搭載されなかった。

 潜水艦から放流する「八号兵器2型」、コマンドー用バージョンの「仮称4式登攀具」があった。※水素バルーンの力で崖を速く登ろうというのか。これは映画に使えるね。

 不定期時限起爆装置として、アセトンと三酸化クロム(0.48%)の接触が最適と分かった。過マンガン酸カリ0.41%だと、もっと長時間にできる。アセトンは、隔離板のセルロイドを溶かし、3離化クロムと反応す。そして起爆部に点火する。数時間がかり。

 催涙ガスは、日本人に効くが、白人には効かない。くしゃみガスはその逆だと言われた。

 8号兵器は、二十匁の絹羽二重にゴムを塗った、贅沢なものだった。
 山人いわく。木の芽どきでなければ、どんなに火をつけても山火事にはならぬ。枯れ葉、枯れ枝も生きているので。

 空気に触れると燃えるエチル亜鉛をガラスに入れた焼夷弾を8号兵器に積もうとしたが、中止。
 3号特薬甲(改1)は、カレーライスに匂いが似ている。
 25番3号爆弾は、トラック島に野積みしておいたら、自然発火した。

 「スラバヤでは、初めはオランダ人は雑役なく抑留していたが、女子供はすぐ帰宅させていた。生活の程度を現地人並に落とす事の出来ない女達は、その邸やアパートに、ひそかに男達を迎えていた。海軍士官等の行くレスでは、一夜を明かして帰っても十円位で済んだが、彼女達は一夜二十円だった」(pp.196-7)。

 大15暮に実験。くしゃみガス筒は、黄緑色煙を噴出。アダムサイト?

 93式3号/4号防毒面。
 簡易防毒面の中に、仮称5式と、仮称3式があった。

 2号特薬は、6番1号陸用爆弾2型。
 3号特薬甲は、6番1号陸用爆弾。
 4号特薬で「4号機銃弾」というのも研究したらしい。

 6号特薬(中毒)というのがあり、小銃投射弾、手榴弾、謀略的用途も考えられた。
 11号特薬は、仮称4式3番7号爆弾に入れたほか、「1号兵器甲」「1号兵器乙」にも入れた。詳細不明。

 黄燐系焼夷剤は、99式3番3号爆弾、12糎ロサ弾(噴進弾)。

 可燃性ゴム系は、2式25番3号、1式7番6号。

 海上煙爆弾は、金属ナトリウムと黒色火薬。
 1キロ演習爆弾には、燐系とチタン系がある。

▼『相模海軍工廠――追想』S59 非売品。
 黄燐は、硫酸銅水溶液で洗う。

 レス……海軍士官専用の料亭の総称。

 S20-8頃、「最近入庫の細菌兵器報告」とかいう軍極秘図書もあった。

 相模では本土決戦用の木箱地雷、木製手投弾も作った。

 三号特薬甲は、陸軍の「きい剤」と同じ。イペリット。
 三号特薬乙は、ルイサイト。

 終戦近く、ヒマの種子から得られるリチン(粉末兵器用)、トリカブトのアコニチン(矢毒用)を、上田で研究していた。

 S19年4月以降、霞ヶ浦でイペリット爆弾実験。「ルチン」爆弾も試験。
  ※11号甲がリチンで11号乙がアコニチンなのか?

 S11-3に、ルイサイト系を合成。
 S16-2~、粘性イペリットを詰めた迫撃砲弾の実験。

 黄燐焼夷弾は、黄燐と二硫化炭素。
 テルミット焼夷爆弾には、カーリットを併填した。

 末期、「B11号室」というところあり。

 1キロ発煙筒はブリキで、マッチ薬付。導火線が出ていて、木製のスリ板で点火する。

 手投催涙弾。セルロイドに涙剤を滲みこませたものが詰まっていて、手で着火して投げる。爆発はしない。

 技大尉。4~5年前、京浜の製鋼ストリップミルを見学。思わず「これが戦争中にあればなあ!!」と呟いた。傍らにいた同年輩の同工場の技師が答えて、「こんどやれば勝ですよ」。で、二人で大笑いしたことがある。

▼(社)関東建設弘済会『不発弾処理』建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所pub. S56
 16発、処理した。
 S54-8-1に川中1発爆発。これが発端。

 30年前の朝鮮動乱時の250キロ×16発。

 作業は、陸上自衛隊武器隊、1Dの第一武器隊(長は2佐)。
 16発のうち、長延期時限信管付きのものが7発。

 1DはS33から、400~500件、計20トンの処理を実施。

 S55-7-5、海中投棄。

 S26頃(S25-10とも)、米軍の故障機が投棄したものという。
 20~30発落とし、一部はすぐに爆発。一部は数日間、断続的に爆発した。1週間続いた。

 S54-8のは不完爆と思われる。完爆すれば破片はmax1500m飛ぶ。

 一斉誘爆により処理する場合、1個につき1.5~3.0kgの爆薬を密着させる。

 ブレードレス・ポンプでリモコン式に、弾頭方向を確認して掘り下げる。
 信管離脱防止装置がついている場合、水中信管抜き取りは不可能。

 信管抜きは1発につき1時間半かかる。1日に2発を限度とする。午前ひとつ、午後ひとつ。
 「化学時限信管」だった。

 代表的不発弾には、50、100、200kgと、1トン機雷がある。

 今回のやつは、径30~38センチ(36位)、L=120cm(尾翼入れると150cm)。
  ※ちなみにM64(500ポンド)は径360ミリ、全長1440ミリ。

 誘爆法は、破片防止上、上に180トンの土砂で負荷をかけねばならない。ただし振動で水道管やガス管の被害があり得る。

 時限式特有の信管離脱防止用ロックピンの抜き取りが難航。ドリルで径1ミリの穴をあけ、除去後、信管を四分の一づつ回転させていく。

 信管除去(離脱)したものはヒューイで河川敷へ移し、トラックで陸自弾薬庫に収め、海自が船で八丈沖の日本海溝(3000m)に投棄。

 時限式でないものは、機械式信管である。
 ロックピン、Aアダプター、Bアダプター。

 弾底に長延期時限信管が剥き出しになっており、尾翼の間にその安全解除翼がつく。8枚羽根。
 この安全解除翼の軸の長さが識別の決め手となる。

 10年前にも1発爆発したが、目撃者は、相手にされなかった。

 特殊スパナが必要だが、曲がってしまったので、それを唯一製作できる熊谷市に作らせに行く。

 埋没はみな0.8~1.5mだが、これは水流で穴が掘られて最終的に落ち着いた深さ。