▼国会図書館pub.『寺内正毅関係文書目録』1971
※S39に寺内裕子から寄贈された寺内関係文書と、S45に岡一郎から寄贈された岡市之助文書の目録。
※残念ながら、自決直後の乃木邸から奪い去られた乃木日記や乃木書簡コピーは含まれていない。こうした隠蔽工作の最有力嫌疑者は寺内なのだが。
※以下、興味深い部分のみ。
M37-11-25、秋山好古から書簡。機関砲充実要請。
大3-7-6、後藤新平から。山内万寿治自殺未遂。
M39-9-16、芳賀栄次郎から。ドイツ兵器進歩。
M37-5-15とM38-12-13、長谷川好道から。乃木希典。
M39-11-19、長谷川から。49Rn旗焼失。※常陸丸か。
大1-12-31、長谷川から。乃木家遺産分配。
大4-10-13、長谷川から。乃木家再興世評非。
福原豊巧から。M27-12-11、乃木希典詩。
藤井茂太から。M37-5-25、榴弾砲威力、重砲増強の要、力説。
M37-9-17、露軍弱点所見。
井口省吾から。大2-12-1、東條英教人物評。
石黒忠悳から。M43-8-12/19、乃木手術経過報告。※中耳炎?
M43-9-30、同じく。
大1-10-15、乃木家あとしまつ。
大4-9-19/24、乃木追憶会。
大4-9-20、乃木家再興。
大5-9-12、乃木神社遷宮式。
上山満之進から。大4-9-26、再興問題世評。
大5-4-4、遺墨表装。
菊地慎之助から。大4-12-21、乃木神社宮司撰出。
黒田久孝から。M18-5-30、兵器改良所感。
村野山人から。大4-2-4~大5-8-18。乃木神社関係6通。
長岡外史から。M45-7-16、軍隊精神の民間人への普及。
西原亀三から。大6-2-25、軍器統一問題を青木宣純らが南方にて宣伝、遺憾。
乃木元智から。大6-7-24、希典5年祭。
大島義昌から。M27-11-13、捕獲銃器射的会開催。
大山巌から。M44-2-5、乃木を英に派遣。
小川平吉から。大6-2-12、高田商会紹介依頼。
岡市之助から。大4-7-14、乃木大将親族調べ。
大4-8-14、大舘集作書翰。
大4-9-8、毛利元智。
大4-10-6、乃木家親族決議。
押上森蔵から。M40-2-10、伊勢神宮に鹵獲砲献納の絵葉書。
大4-12-3、乃木神社に廃兵将校を使ってくれ。
柴田家門から。大4-8-?、乃木再興問題。
下田歌子から。M?-2-25、寺内進退伺提出遺憾。
田村怡與造から。M27-12-4、長岡外史行跡非難。
田中義一から。大7-8(?)-18、日支兵器統一端緒。
立花小一郎から。M33-10-12、北清事変 各国軍紀。※鴎外はこれを聴いたのか。
M36-9-17、袁軍輸入小銃試験成績比較、三十年銃好評。
M36-9-17、高田商会小銃輸出破談。
M36-10-2、支那は日本商社、三井、大倉、有馬、高田の対立を利用。
M36-10-21、対支 拳銃輸出交渉。
徳富猪一郎から。大1-12-25、山県暗殺説。
上原勇作から。大1-12-22、山県と懇談し、沈憂一掃。
大5-4-23、田中義一云々の件は心外。
山県有朋から。M37-10-12、機関砲三四百梃至急買入れよ。
M37-11-21、乃木は判決〔決心のこと〕躊躇タダ驚愕。※外野が二〇三のことを勝手に論じていた。
M39-8-24、学習院長乃木大賀。
山県伊三郎から。大2-1-16、トロール船取締につき逓相海相意見。
大4-1-17、山県有朋人蔘効能賞讃。
安永義章から。M18-8-20、英国兵器工場見学。
袁世凱から。M?-5-7、速射砲購入教官聘用挨拶。
以下、寺内年賦。
M2-7-7、兵部省よりフランス式歩兵学修業のため西京へ出張申付。
M4-8-4、任・少尉。
M5-2-27、任・大尉。
M10-3-17、近1・1Bn・1Co長として田原坂で負傷。
M12-2-24、任・少佐。
M15-10-14、閑院宮載仁親王補佐として渡仏。
M16~M17、仏国公使附武官。大山も案内した。
M17-9-19、任・中佐。
M20-11-16、任・大佐。
M29-6-28、欧州視察。
M44-4-21、伯爵。
以下、岡市之助宛書翰。
明石元二郎から。大4-3-4、在天津の仏国人関係兵器廠につき。
大4-?-?、在支兵器工場について。
寺内から。大4-8-21、乃木家再興問題。
寺内あて。大4-7-14、再興問題。
▼山本四郎ed.『寺内正毅日記――1900~1918』京都女子大学pub. S55
謹厳実直な事務家で、政治かけひきなどできない。それを田中義一が補っていたのだろう。それがどうして大正期に何度も首相候補になったのか……。
※全く日記中に漢詩がない。和歌はちょびっと出る。
1900-8-29、高田慎蔵の名が出る。
1903-2-8、大倉喜八郎へのモーゼル銃弾の払い下げ。
1903-3&7、ビッカース。
1904-2-16、機関銃隊。
3-5、佐々木房、スナイドル銃払い下げに奔走。
3-9~10、高田慎蔵と大阪工廠。
6-24、将官撰任人事の情実に憤慨。
9-4、長男寿一戦死誤報。※乃木の勝典と保典の間のエピソード也。
9-15、福島安正の英人記者待遇が悪く、公債下落に発展したと非難。
1905-1、長岡は性格が派手で、後年、芳しからぬ行蹟あり。
1905-2-3~。下田歌子はインチキ祈祷師の飯野吉三郎と不倫関係にあり、寺内に引き合わそうとする。
6-11、長岡次長が樺太占領の意見をもってくる。
8-23、台湾より帰還兵を乗せた金城丸が英船バラロング号と衝突。22夜に小堀少佐以下155人死亡。
1906-1-5、韓国で英人と日本兵トラブル。
※日本は戦争中、満州市場は役後に開放すると約束していた。
1907-末。将兵の射撃技能の低下。
1908-3、辰丸事件。大倉が清国に不良兵器を持ち込んだとして船を抑留された。
1910-2-16、皇族身位令。身体完全な皇族は陸海軍武官となる制度。
4月、高田しきりに招宴。
1911-9-7、箱根の高田別邸に滞在はじめ(朝鮮総督として)。
1900(M33)-2-6、乃木中将の和協なりたる旨を大臣より承知す。
M33-8-29、高田慎蔵氏を呼び、戦場と武器の事につき交渉せしむ。
M35-5-6、乃木中将来訪。山鹿語類ならびに中朝事実の本を内閣より陸軍へ貸し渡す。
5-8、シヤム(暹羅)政府より小銃2万梃の製造を引受け承諾の旨、南部へ返電の上、そのむねを外務大臣に談じおく。 ※35年式?
M35-6-2、午后、南部〔丙辰〕中佐シャム国より帰る。同地の事情、概略を聞く。
M36-1-24、午後乃木中将来訪 数刻談話して帰らる。
M36-2-8、大倉払下出願モーゼル弾のこと。
M36-3-3「ビーカス」の機関銃の事。
M36-3-7、11時、英人ビーカース氏来訪。益田孝氏、之を伴ふ。
M36-7-9、速射銃隊の編制。 ※MGのことか?
M36-7-24、シャム送附見本騎銃の事。
M36-7-24、将校の軍装を一定する事。拳銃および眼鏡の事。
M37-1-19、近衛第一・第二・第三の不良銃、交換の事を決す。※近Dは30年式を最初に与えられていたので、もうガタが来ていた。対露開戦前にとりかえたい。
M37-1-20、有坂〔成章〕少将に舞鶴&由良砲台 備砲検査の形況を伝ふ。
1-31、乃木将軍来訪。服制のことに就き意見を陳べらる。
M37-2-18、機関銃隊の編制……の件。
2-24、押上少将が来て、小銃の腔内の形況を余に「検視せしむ」。
M37-3-9、後藤中佐きたり、機関砲隊編成の件を承知す。
M37-3-14、南部〔丙辰〕砲兵中佐きたり、修正の「三十三年式銃」を一覧せしむ。
M37-5-30、金州攻撃者中、戦死者中、乃木勝典氏あり。夕、見舞を為す。
M37-6-20、〔砲兵課長〕山口〔勝〕大佐より露国の分捕砲の試験成績を聞く。榴散弾体の破裂は難たるが如し。※ロシア製の野砲は肝心の榴霰弾に欠点があった。おかげで、射程の長いのも帳消し。
M37-6-25、シャム小銃 50シルリンク値下げの事。 ※英国の勢力圏なので、シリングか。
6-26、本庄〔道三〕大佐発明の小銃を持ち来たり示す。※徳島出身、砲工校教官、火薬研究所長。
M37-7-21、高田に兵器輸入の件につき意見を聞く。
M37-8-24、両工廠提理、有坂少将、および次官、ならびに山口を会し、砲兵弾薬製造の件を相談す。大阪の方を増産することに。
M37-8-25、午前、有坂少将を招き、旅順攻撃の形勢を語り、大口径砲送附の件に就き意見を叩く。
M37-8-26、御前8時半より有坂少将来たり、「二十八榴弾砲ノ件」意見を述ぶ。「之ヲ採用ス」。
M37-10-16、多数の〔野砲用の〕砲弾製作の件、略見込み立てり。〔有坂らに〕直ちに製造に着手せしめんとす。
10-20、有坂来て、火薬の試験を下志津にて為せしが、其の成績良しという報告あり。※75ミリ野砲用の榴弾の炸薬としてピクリン酸を詰め込もうとしていた。
M37-11-8、大倉喜八郎とジナミット爆薬製造の件、内談。
M37-11-23、砲兵工廠で技術審査部を巡視し、新式信管の製作をみる。
※寺内は仏語スクールなので、セントルイスを「サンルイ」と呼んでいる。
M37-12-2、夕方、乃木宅を訪ひ、保典戦死を通知。
M37-12-19、当月、西村工廠提理・有坂審査部長は、戦時、殊に兵器の製作研究に尽力の段、嘉尚あらせられ、絵画・手箱 各一個を恩賜あり。
M38-2-8、砲弾は漸次 有余を生ずるに至れども、小銃弾は製作高 増加せざるを以て、将来大いに注意を要すべきなり。
M38-2-22、本日、下志津に於いて 銑鉄榴弾の試検を行ふ。雷汞の充実せしもの、皆着発すと云ふ。試験の為め30発を費やせりと。 高田慎蔵きたり、龍動[ロンドン]より第七回陸送をもって弾丸を発送せりと。※高田商会に頼んで、英国から奉天会戦用の野砲弾をとりよせていた。国内生産だけではとても間に合わないので。高田は、商船に戦時保険が効かないというリスクを敢えて負った。途中で露艦に拿捕されたり、爆沈でもしたら、丸損となる。
M38-5-29、工廠で雷汞製造所が爆発。120名死傷。うち死20名。
M38-6-14、島川砲兵大佐〔技術審査官〕から、戦地実歴上の兵器意見を聞く。
6-17、あらたに買った12Hと15Hを下志津で、有坂指揮下にテスト。後座よし。
8-29、昨日、下志津で迫撃砲をテストしたら過早破裂。神尾大尉、死。他に重軽傷者あり。
※これも、有坂式のピクリン酸装填の結果かもしれないわけ。
M40-4-5、午前11時参内、三八式野砲採用の件を奏上す。※クルップに設計させた。
M40-4-11、西村・有坂・押上〔森蔵、兵器本廠長〕・山口を集め、400門の野砲半製品をクルップに注文することを決す。
M40-末、将校射撃は、下士以下に比べて悪い。中隊附将校の兵卒の名を知らざる者多し。
M41-1-22、乃木が来て、28Hを製作したグリローに叙勲すべき旨を謀らる。
M41-3、クルップ社から、シチンゲル夫妻が来日中。
▼宮村堅彌『高砂義勇隊記』S18-9
内タイトル絵、2種の蛮刀。無反りで片手握り。
理蕃40年の努力。良順と奉公を混同するな。
バターン、コレヒドール作戦から、「高砂挺身報国隊」が第一線に参加。密林啓開作業と弾薬糧秣と患者後送を担当。
S17-2-29に、田中静壹中将の賞状が出ている。
呂栄島の自動車道路の復旧にも努力。
ノーミン、タロコ、オガン……族名。
ワリス……人名。
全高砂族、15万人。
支那事変中にも、軍夫志願、志願兵志願は数百名いたが、ごく少数が志願兵に採用されただけ。
顔に刺青ある者は、手術で除去しない限り、不採用だった。
ララチ社、パイワン族。
トアバル社(台東庁下)、トアカウ社。
従軍は30歳以下。
現地で「警手」という職についていた者が多い。
クラリン君、サリルン家、クリュ君、サクングさん(妻)、サヨン・ハヨンさん(有名)、バツカンさん、プスリン社。 これらには皆、日本名をつけた。
ジバジイ社、ウイラン君、サモハイ社、マイヤンさん。
タオラカンスラ君。
「高砂義勇隊」の命名者は本間中将。
火野葦平の従軍記の中に、「耳をすまして鳥の声をきいてゐると、ふと、かすかではあるが、奇妙な唄声のやうなものが耳に入った。……それは、たしかに、台湾に行ったときに聞いたことのある唄であった」。
ユーカン君、ウライ社、リヨヘン社、コロ社、シツク社。
タイモ・ワリス君、タウリア社、オピン君、タイモ・チーライ頭目。
アウイ・ビーライ君。
モーナ・ルーダオ君とバカン・ワリスさん。夫婦異姓。※ルーダオは漢人ではないのか?
ヴヌン社。アリマン・タイヤ君。
当時、討伐隊が使用していた村田銃から、自分の子にムラタという名をつける者も多かった。あるいは、ヘイタイとつける者も。ex.ヘイタイ・ワタン(pp.175-6)。
妻ヤブン・イツパイ。
ジヨモル社、ルムルマンさん、トラパス君、ハイセン社、マイバラ社、カラパイ社、マジリン君、エフナン社。
母ラルガンダナパン、父ラルグアンクルル。
サオヌン・ロシン君、スクスク社、オマス・ワタン君。
▼長谷川直美『陸鷲南方作戦』S18-6
著者は、『航空朝日』の副編集長。
支那事変までは、従軍記者制度。大東亜戦では、報道班員制度、という。
陸軍でも照明灯のことを「スペリー」と言っていた。
コタバルには、複葉のグロスター・グラジエーターが十数機あった。ロッキード・ハドソンも。
タイ湾は、コンソリの飛行艇が数機、哨戒していた。
コタバルは、マレー語で、「新しい要塞」の意味。
スピットファイアを皆で探したが、いなかった。誤報だった。
バッファローは、イ-16を想はす。
ただし「バッファロー」は、英国へ売るときの輸出名だったのだが。
ショート・サンダーランド、ソードフィッシュ、ヴィルデビースト雷撃機、フェアリー・バトル軽爆、など150機の非戦闘機があった。
ビルマはハリケーンとP-40が多く、てこずった。
「地図ルーペ」で、煙草に火をつける。
「燃料補給と爆弾の懸吊」。
写真。ジャワの飛行場に、双発(2翅ペラ)の飛行艇で、タイヤもついてるやつ。
バッファローは突っ込む。逃げ足だけは、箆棒に速い。
A-20もバンドンで鹵獲された。
▼石山皆男ed.『不死鳥』S16
戦死した、慶応経済出身の歩兵少尉、阿江一友の書簡を、実父がまとめた出版物。
「編上靴の手入れ」
麦と兵隊を読んで、リヤリズムの迫力を知った。
土と兵隊はもっと良い。火野が早大出なのがたのもしい。
当時、二〇三高地で突撃訓練などをやっていた。
S13-12月時点で、幹部候補生のために、中隊が、満鉄刀を注文する場合、特価¥80-であった。しかし注文しても既に鉄が無く、なかなか届かない。だから三分の二の者は、実家から古刀を送ってもらった。
名刀は、演習時にぶらさげるには惜しい(曲がってしまう)ので、できれば、量産刀を調達したいのだ。
カーライルが某大学の総長だったとき、「学生生活は図書館にあり」と言った。
嚠喨たる喇叭の音。
「風紀衛兵」につく。
S14に『風と共に去りぬ』を買い求め、読み始めで放棄。※原書か。
「真毒体験×××××〔イペリット〕を右腕にぬる」。※ただの催涙ガス体験ではなく、糜爛ガスかよ!
600頁に余る『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー著)に、えらく感激。※事故死した旦那が中断した大学の講義を妻が引き継ぐ、その最初に黙って大きく板書した文字が「レディオアクティヴ=放射能」。映画の演出のようなラスト。
▼赤石澤邦彦『張鼓峰』S16-9
列車から降りるとき「下車用意!」
編上靴[へんじょうか]も巻脚絆も取らずに寝ろ。
※無内容。肉攻などウソあり。
▼大本営海軍報道部ed.『珊瑚海海戦』S17-12
潜水艦の中に、油虫と鼠がいる。
油虫は殺すが、ネズミは殺す気にならない。
「休養札」は、拳大の木札で、交代で与えられる。これを持ってセイルの上に行き、喫煙できる。「空気を食べる」気がする。もちろん艦内は禁煙。
潜水艦内は、食糧だらけである。その間で、身体を折り曲げて寝る。
インド洋にはアルバコア機もいた。
※イギリスは空軍を独立させていたけれども、スピットが高速すぎて空母に載らず、海軍航空隊には遜色があった。それでWWIIに突入したから印度洋ではタジタジだった。
▼羽中田 誠『鐵鯨魂』S19-9
著者は海軍報道班員。
飛行艇では、尾部銃座ではタバコを吸ってよかった。眺め最高。ただし風が当たり、寒い。
漂流したとき、古釘を曲げて針にして流していたら、5尺の鮫がかかり、その刺身を海水といっしょに呑みくだしたら、海水が飲めるようになった。
海底でも、潜望鏡は使える。水族館のように見える。
プリンスオブウェルズは、潜水艦で雷撃しようとしたのだが、速力差で果たせず、基地航空隊へ連絡した。
潜水艦内でも、盲腸手術はできる。
豪のニューカッスルを潜水艦の備砲で砲撃した。S17-6-8に。
夜光虫は、クラゲのような体で、踏むと光る。
▼藤田實彦『戦車戦記』東京日日新聞社 S15-10
著者は陸軍中佐。じつは戦場生活は1年そこそこしかない。その後、陸軍情報部附となり、たてつづけに戦車モノを執筆した。この本が、著述の第一号。
S12-3まで天津TK隊附。3月に内地に転任。よって7月下旬の今田大佐の聯隊の動員では、戦時職務の命課に漏れた。
12年6月の少壮士官の頭の中は、ソ連を討つべきか支那を討つべきか、ふたつにひとつ――というものだった。
宇品港見送りで群衆とともに「天に代りて不義をうつ……」を歌った(p.13)。
任務を終わって「原駐地」に帰還する。
中国では小さな討伐戦なら数日、ちょっとした作戦だと数ヶ月の準備が要る。つまり1年のうち、1ヶ月が戦闘、11ヶ月は準備、のような感じになる。
この長すぎるインターバルの間に、兵隊が無聊に苦しみ、逆宣伝に左右され、郷里が心配になり、良民とのあいだに芳しからぬ問題を起こす(pp.19-20)。※それは、現役部隊ではなく、召集された予備役兵が多かったことと関係があった。
「即日帰郷」。これは郷里において歓送をうけ、多くの餞別まで貰ってきていながら、出征動員の部隊編成の身体検査場から帰されるのである。面目がない(p.22)。※新兵ではなく、応召者である。
召集と入営とは違う。
特別仕立ての軍用列車。沿線には、畔に土下座して頭を地につけるようにお辞儀している老人、家の窓や窓にのぼって旗を振る子ども……。
TKは水に漬かるとエンジン点火できなくなる。
常陸丸の輸送指揮官は「須知中佐」といった。
最も芸達者なのは輜重隊で、本職のプロ芸人が集っていた。
すれ違う関門連絡船のふなばたで、船客が、万歳斉唱。
南米通いの貨物船の徴傭船だと、船員もひまつぶしのために芸を磨いていて、諸道具も揃っていた。
水が黄色がかって、北支に近いと知られる。
舳先で、外した戦車砲で試射。
馬は乗船前によく運動させ、船中では特に水を多く与えないと死ぬ。
輜重隊で死馬の水葬。
胴を蓆で包み、頭に白布。
デリックかクレーンでしずかに水面におろす。将士敬礼。そして下士官がロープを切る。
TK隊は部室に帰る。輜重兵は甲板を立ち去ろうとしない。
戦車は、団平で揚陸した。なんと、支那人が手伝う。
シナのナショナリズムは、最初は反英だった。そこで英国は、漢口の租界を返還した。
次に米国を抱きこみ、シナをとりこみ、反日へ誘導したのだ。※これはドイツが日本人に吹き込んだストーリーだよね。日本海軍に対英戦争を始めてもらいたくて。
列車に「緩急車」という小型のものがあり、本部はそれで移動する。
シナでは、道路外の畑は、湿っている場合は、戦車でも立ち往生する。※黄砂の泥。しかしこの「戦車」というのは、じつは「軽装甲車」であろう。
燃料はガソリン。※藤田の乗車は戦車ではなく、エンジンの非力な94LTK。正面に「ふじ201」とペイント。ひらがなにすることにより、シナ人には読まれないようにしていた。
排気管で生芋を焼くには、土を置かないと、黒焦げになってしまう。
TK縦隊の先頭は、側車[サイドカア]。
部隊長が部下である中佐に「是非仇をうって来てください」と慇懃に言う。
「操向桿」
連なりわたる高地に次々に日の丸の旗がひるがへって行くのは、絵にでもなりさうな光景であった。
山地攻撃では水を汲めないので、コメの飯は無理。
戦車の神様として部下に慕はれてゐた戦車隊長、藤田叶[かなふ]大尉の戦死。
死後、少佐となって著者と同階級。よって、よく間違えられた。出身地まで同じなのだ。
流弾が当たるとカーンという音が、頭の芯まで響く。
軽戦車に轢かれると、骨は完全に砕けるが、あとは肉の弾力で膨らんで、ちょっと見たところでは大したこともなかったやうに見える(p.125)。
動けない友軍傷兵のために、TK隊が通過できぬ葛藤!
附近にあった電柱を少しづつ削って炊事。
自分は支那人を見ると兵隊は勿論、男でも女でも子供でも一人残らず殺してやりたいと思います。……といいつつ、火宅より子供を救出。耳が焦げていた。
民家から徴発した 酒[チュウ]。
94LTKは、調子いいときは薄青の排ガス。
LTK隊には、対空布板は無い。
通常、攻撃前進中は、日の丸は戦車に掲げない。敵から目標になるから。
「前進」の旗を、各車が掲げる。
※南京を圧迫したのは94LTKだったと察せられる。
落橋するかもしれぬときは、戦車兵は、外套を着込む!
比高二、三十mの丘阜地。
道路が凸道で、おまけに狭く、半輪反転ができません。※信地旋回か。
敵の弾が飛んでくるので、被牽引車を外すことも困難。
馬でも飲みそうにない汚れた池の水。
なんと歩兵部隊の行李のうちに支那人クーリーあり!
藤田のLTK中には、東膳橋の待機位置を出発する時、たってと頼まれて許してやった大毎の松尾邦蔵君が、小さくなって乗っていた。 ※プロ野球選手ではなく、大阪毎日新聞記者。
LTKに敵ATG弾受けるとガソリンが漏れ、ドライバーの足に火がついてしまう。
命令要旨
別のLTKには、同盟〔通信社〕の大鋸[おおが]時生が乗っていた。
無精髯で内地に帰ったら子どもがびっくりして泣き出したので、とうとう剃り落としたという。
焚き火の煤と、昼間の硝煙で、真っ黒な顔をして酒をあふっている処は、山賊そのままであった。
いたるところ、雨露にさらされている死体を野犬が……。
シナ軍は、退却前には、かならずありったけの弾丸を撃ち尽くす。夜のうちに。
南京城外に迫ったのは、藤田&井上のLTK隊。
他に、頭師、前田、宮川隊あり。
中華門の「誓復仇敵」は、青い字で書いてあった(p.233)。
宮川TK隊は、発煙筒にミドリ筒を混ぜて投じ、敵を追い払った(p.237)。
難民所に便衣に着換へて良民顔をぶら下げてすました顔をしてゐた支那兵が、後から毎日数千人づつも検挙された(p.344)。
S13の8月に内地に帰ると、東京日日が、「髯の戦車隊長還る」と記事を載せ、全国的に有名となり、講演、座談が相次いだ。
土堤を越すときTKがガクリと落ち、後頭部を天蓋に打ち付けて、視神経をやられた男。これはやがて、耳もダメ、口もモグモグという症状に進む。
戦友たちは皆、無事でせうか。それだけが何時も心にかかってなりません。
指揮官は戦後、部下の論功の証人となる大仕事あり。長が死ぬと部隊の功績も無しになる。
君万歳の一声も 残さで死んだ戦友の 瀕死の深手負いながら この胸轢いて前進し ともを救へと招きたる……
▼藤田實彦[さねひこ]『髯はほゝ笑む――帰順工作と宣撫』S17-3
戦車隊長を辞めてから、兵団幕僚として占領地の治安工作を担当した。
留守宅に戦死公報を聯隊から届けるのはオートバイ。よってその音を、妻は恐れる。
▼本間楽寛『少年戦車兵魂』S17-11
サブタイトルは、「壮烈原田敬一伍長」。
ビルマ戦線で死んだ。
写真。なんとラングーンに、95LTKの北満型が出ていた。
昭和敦盛。
護国の若桜と散って すがし姫百合の朱[あけ]
「戦車神社」はこの時点ですでに在った(p.62)。
武神 建御雷神[たけみかづちのかみ]、経津主神[ふつぬしのかみ]、そして少年戦車学校出身戦没者。
七書の中では、六韜/太公望に出る。
武王問、戦車は奈何と。大公曰、歩貴知変動、車貴知地形、騎貴知経奇道。
写真。1号戦車が整列しているもの。未見。
武装歩兵の接地圧は、1平方センチあたり0.5kgである。よって、日本のTKもそれに合わせてある。
砲手、砲塔を旋回して敵を探せ。
伝令戦車は、挺身、煙幕を張れ。
▼陸軍省情報部監修、同盟通信社ed.『鐵牛と荒鷲――支那事変三周年』S15-7-2
歩兵の行軍は、長い場合は6~7里/day。
戦車は、7~8里/day。
「豆タンクが」
豚や鶏は、初めて戦車を見ると、異様な声を出して逃げて行く(p.17)。
日本の戦車のうしろの大ドラム缶には、ガソリン180リッターが入る。
履帯のことを戦車兵は「ベルト」と言っていた? (p.49)。
陸軍機は、S12-10-26から12-13のあいだに、330トンの爆弾を落とした。
陸軍では「爆弾懸吊」という。
スカンジナビア作戦で独は常識を破って Ju-87で英BBウォースパイトを沈めた。
パイロットはメーブス空軍少尉。
▼矢矧佑一郎『西南戦争逸話』原M26-12、M27repr.
桐野は、東京を征圧したら、兵を「トルコに出す」と言っていた(pp.16-17)。
3月15日の白兵戦で、観戦していた新聞屋と高等文官が、「愉快」と叫んだので、山県がその頭髪を攫んで20分間、離さなかった。
薩軍は禁酒。官軍はいつも酒があった。
薩兵は有夫婦人には暴行しなかったので、地方では、子供も丸髷にし、歯を染めさせた。
梁の常叡が竹如意 に倣ふて、上杉謙信が青竹を麾に代へた。篠原もそうした。※この話は桐野のこととして伝わっているようだが……。
西南戦争の話柄中、最も人の喧伝する所のものは、野津少将聯隊旗奪還の快説なり。聯隊旗奪還の将校を野津とせしは乃木の誤伝にして、乃木はすなわち今の乃木少将なり(pp.94-6)。※野史 逸話を総合したと標榜しているが、なんのことはない、政府の捏造宣伝企画なのか。この本全体がまったく信用できない。
▼千秋恭二郎『日露戦役小話』S2-7
開戦前の11月30日の星桜会の例会。幹事は、山口勝だった。※長州閥の凡庸な官僚。
M37-10以降、糧食に麦が「3/4」加えられた(p.121)。それで脚気が減った。
脚気の原因に手淫を挙げる人もいた。
筆者は時事新報の海軍記事担当。
▼宮井佳夫『軍馬と火戦』S17-8
※軍馬系の本の中では最もテクニカルで、この著者の人柄が理系で真面目人間であることが分かる。
廃役処分→廃役場。
直腸の中に手を入れて、宿便を摘出する。
または浣腸。石鹸水でやる。
野繋する。
長途の列車行では、人も客車より貨車がよい。自由に横臥できるから。
炭疽は、人馬ともに罹る伝染病。
暴れ馬を「権太馬」という。
役後は、10分以上、曳馬すると、クールダウン良好。
▼佐々友房『戦袍日記』M24-5
序文はM22-6に書かれている。ルビ皆無。
はじめ、M17に数十部を刷って、親友知己に頒つ。
※薩軍側の手記はこの時期以降しか公刊できない。というのも憲法発布と大赦令が同時で、それ以前は隆盛も賊だから。
ああ西南戦争から12年、青山の白骨がそろそろ朽尽する頃だ。それなのにじぶんは為すところなく余生を紅塵のあいだに貪っているとは……。
銃器は、旧幕いらい、藩士の家に蔵せるもので、「皆雷フル銃ナリ」(p.27)。
新製針打銃の如きは容易に得べからず。※つまりミニエー・ライフルはあった。後装銃スナイドルは無かった。
硝薬はひそかに集められたが、鉛はそうもいかず、すべて、「毎家漁網の重り」(地元ではユラと言った)を鋳たのである。
伝聞。夕方、敵の小倉分営兵が植木に進入したと薩本営が把握した。そこで、小隊長の伊東直次、おなじく村田三介が、おのおの部下を率いて急行した。向坂で会敵。激戦数次、ついに敵を敗った。追躡して、田原坂を下り、薩の別隊と挟撃して、大いに敵を木葉に破り、「其聯隊旗ヲ奪ヘリト云フ」(pp.54-5)。
▼奥宮正武『翼なき操縦士』S31-5 (株)出版共同社
奥付に初版とあるのだが、真の初版はS26だという。それは国会図書館にあるのだが、出納できなかった。本文の写真のうち若干は、旧版と同じものを収載できなかった、と書いてある。
著者の住所も書かれている。土浦市内に住んでいた。
M42生まれ。S7、任少尉。S9、龍驤。S16、第11連合航空隊参謀、少佐。S17、アリューシャン作戦参加(4航戦参謀として)、南太平洋海戦に参加(2航戦の参謀として)。S19、大本営参謀、中佐。
あとがき。ビスマルクの撃沈は真珠湾の半年前。英独ともに、500浬離れた陸上機を全く参加させ得なかった。
サイパン戦当時の米艦偵は、進出距離が300浬であった。2式艦偵は640浬だった。
「終戦直前に完成した艦上戦闘機の烈風等もまた、当時の世界の最高水準をゆくものであつた。」
当時の軍用機は、日本人の名人気質が災いし、多くの天狗たちがよってたかっていじくりまわし、初めの良い着想を殺し、完成の時期を著しく遅らせた。
※自己実現と勝利とが一致せぬ日本の近代であった。
メッサーとハインケル爆撃機を買った時、あまりにごつごつしているので、付き添ってきたドイツ人技師に尋ねたら「ババリヤあたりの百姓にはこれで結構です」「ドイツ人は少数の天才が、多数の凡人の使い易いものを作っていたのである。戦後私が数回同乗したアメリカの軍用機もまた、同様であるという感を深くした」
三菱製の零戦の機体に、同一図面で作った中島製の部品が取り付かなかったことすらあった。
トビラの、機上から見た雷跡の写真がおもしろい。
奥宮は、終戦時、最後に呑龍を操縦して南方を回った。
彩雲は、陸偵である。
若いときから飛行機だけに捧げた半生だった。
青島爆撃は、聞いた話では、12サンチ砲弾×6、または、8サンチ砲弾×10を、ナイフでゴム紐を切って落とした。武装としてモーゼル拳銃を持っていた。
兵学校の1~2年で微積をやり、ついで流体力学。
ゴム製伝声管の送話口を首に吊るす。径2センチ。
それが2本で、パイロットとの間を結ぶ。
S6の上海で、一三艦攻から800kg爆弾を呉淞へ落とした。
斜路のことを「滑り」という。
操縦桿は、傾き。バンク。
フットバーは、機首の向き。
水上機は、落下傘無しが基本だった。
恩賜の銀時計組である。
海の上の不時着は、陸上よりマシである(p.92)。
S8時点で、航空隊は、艦攻9機を分隊とし、それにかかわる整備員は、准士官2、下士兵56。
ただし分解手入れのためには整備将校の整備分隊が担当する。別に「雷機」という科がある。
操縦者のじぶんに身を委ねて平然たる、偵察員、電信員の態度が、あらゆる訓示にもまして、未熟操縦者を鞭撻した。
小隊は三角形をつくって飛ぶ。先端が1番機、その左後ろが2番機で、右後ろが3番機である。この2と3を「列機」というのだ。
風速12mだと、吹き流しの尻尾が水平以上にバタついて上がり、複葉機は地上滑走が困難になる。
秒速17m以上だと、人は歩けない。立っていられるだけ。
魚雷をリリースすると、冬衣から浴衣に着替えた気分になる。
なぜ機内食は寿司なのか。水分をあまり要せず、空中での小用を促進しないから(p.110)。
大をやってしまった場合、士官だろうとさすがに洗濯は他人に頼めない。じぶんで洗う。
S9にハインケルを買ったとき、米映画の『ヘルダイバー』は既に公開されていた。
ダイブボミングは、風さえなければ百発百中。しかし風があると、降下中の修正が至難。※緩降下こそがババリアの百姓には向いているわけか。
龍驤のエレベーターは、緊急時には人力でも動かせた(p.118)。
発着艦指揮官は、赤白2旗を手にす。
合成風速15mで、90艦戦は65m、94艦爆は90m、13艦攻で100mの滑走が必要。
艦速1ノット増すごとに、発着艦距離は10m縮まる。
連続収容、馴れると50秒間隔。
編隊灯は点け放しだと列機を幻惑させるので、すぐ消す。
航法目標灯は、ブリキ円筒が燃える。昼なら、白波のくだけ方で知る偏流を、暗闇のなかで目測するためのもの。一度変針して、二度落とせば、目測は完了。
空母では、奥宮は、偵察員配置と操縦士の両方を掛け持ちしていた?
霧中飛行で天上に小さな青空が見えても、それに向かってはならぬ。必ず抜け出せずに死ぬ。
右手で胴体を叩く仕草。……燃料が無い。
航空機から潜水艦を発見することがたやすいのは、まず小笠原近海。次が、三陸と北海道沖。最悪なのが黄海。
12センチの高角砲弾が300m以内で爆発すると、450馬力エンジンの轟音を通して、それが聞こえる。
高度1万mで、酸素無しだと、人は30秒で意識を失う。
日本近海では、朝鮮沿岸と、北海道南部が、霧の名所。
パイロットの葬儀は、格納庫でやる。
逆宙返りをやると、2ヵ月ばかり、結膜が真っ赤。失明例もあるという。
航空神経症……不眠、食欲が無く、気短かとなり、爆音を聞くのも厭になる。
35歳が、一線機の限界といわれていた。
飲酒をしてから3日間くらいは、引き起こしのとき、目が眩む。だから奥宮は、飲まない。
S12の夏、最も損害が多かったのが、急降下爆撃担当の艦爆だった。
パネー号をやったときは、操縦手だった。
この時は、片翼づつ、60kg爆弾をリリースする方法。
火災のときは、まず同乗者、最後に操縦者が飛び降りる。パラは6m/秒で降下する。奥宮は、手の爪が8枚、焼けはがれたが、助かった。あの世を体験した。
ボイコーは仏式。ゲルツが独式。
霞空教官になったとき、いまだに93中練で、これではいかんと思った。
開戦前後3年、火傷治療で実戦を離れた。
MI直前に、龍驤に。
拡声器の号令も変わっていて、その意味すらわからないのがあった。
首席参謀を除く4人の参謀は、航海中は、2時間交替で、常時、ブリッヂに立つ。
隼鷹の作戦室はブリッヂの上から2段目にあるが、その下が煙路のため、夜間灯火管制で窓を閉めると40度以上。その4畳半が、大佐1人、少佐4人の居室・寝室・食堂・作戦室なのである。
そこからブリッヂや電信室等に、多数の伝声管が伸びていて、1日じゅう、にぎやかだ。
入来院[いりきいん]という大尉がいた。
ニューギニアでは、金鉱の開発用に、英国人が、多数の小規模飛行場を造成していた。
ガ島がいくら酷いと言っても、将兵の3割のみだ。
S18-9に96陸攻でラバウルからトラックまで5時間15分かけて飛んだ。
硫黄島から木更津までも、96陸攻で5時間かかった。
S19-1のラバウルは雰囲気が一変していた。司令部全員、匙を投げ、気短かになり、一日も早く逃げたいと考えていた。
一発勝負の海戦や、陣頭突入できる陸戦と違い、基地航空戦は、部下ばかりを殺すことになるので、幹部の精神負担が著しく、生ける屍となる。部下も、その感化を受ける。超人でない限り、勇気は2ヵ月で消耗し去る(p.252)。
現地人を使うときは、必ず長を一人決め、彼を通さずにいかなる命令も賞罰もせぬこと。
長崎の被害範囲は狭かったが、被害強度は大だった。