旧資料備忘摘録 2020-5-2Up

▼空自幹部学校tr.『日本の目標に対する2000、1000、500ポンド爆弾の効果 その1』S34-11
 ※USSBSリポートの部分訳。

 AN-M66 2000ポンド爆弾。
 信管は、弾頭0.01秒、弾底は無延期。または、弾頭・弾底とも0.025秒信管。
 しばしば、不完全爆発を起こしている。

 AN-M65 1000ポンド爆弾。弾頭信管は0.01秒。弾底は無延期。
 AN-M64 500ポンド爆弾。0.01秒信管。

 2000ポンド爆弾は、延期信管を付けると、屋根、床を貫通して地下8フィートで爆発した。鉄骨建物には著効があった。

 1000ポンド爆弾は、骨組を崩壊させることはなかった。

 2000ポンド爆弾は鉄筋建物も根本的に崩壊させることができたが、1000ポンド以の爆弾では、屋根を壊すだけのことがあった。

 焼夷弾「M47 A2 E28 E46」(?)の信管は、弾頭0.17秒で、弾底なし。
 「M17 A1」と「M47 A2 E46」の信管は、弾頭0.31秒、弾底0.29秒。

 M17は、21秒~27秒の弾底信管。
 E46は、29.7~34.6秒の弾底信管。

▼空自幹部学校tr.『日本の目標に対する2000、1000、500ポンド爆弾の効果 その2』S34-11
 大阪陸軍造兵廠には、1000ポンドと2000ポンドを落とした。
 そこでは砲弾や鉄帽も造っていた。

 爆撃は4回、実施した。
 1945-6-7。1000ポンドと2000ポンドをミックス。
 6-26、2000ポンドのみ。
 7-24、2000ポンドのみ。
 8-14、1000ポンドと2000ポンドをミックス。

 そこで製造していた大砲は……
 12センチ高射砲。
 88ミリ高射砲。

 4式75ミリ高射砲(4月10門、5月15門、6月5門、7~8月はゼロ)。
 15センチ榴弾砲(4月8門、5月ゼロ、6月7門、7月3門、8月ゼロ)。

 12センチ迫撃砲(7月に60門など多数)。
 90.5ミリ迫撃砲(5月に1門のみ)。

 47ミリ戦車砲(4月に10門、5月に11門、6月に19門、7月に20門、8月にゼロ)。
 75ミリ戦車砲(4月に28門、5月に37門、6月に10門、7月に9門、8月にゼロ)。

 15センチ戦車砲〔SPか?〕(4月にゼロ、5月に12門、6月にゼロ、7月に13門、8月にゼロ)。
 47ミリATG(4月に42門、5月に37門、6月に16門、7月に30門、8月にゼロ)。

 92式歩兵砲(7月に6門のみ)。
 81mm迫撃砲(7月に30門など多数)。
 94式山砲(4月に10門。そこで打ち切り。)

 射程19000mの15センチ高射砲は2門が1945-3に完成。他の5門が生産中で、うち2門は45-8、3門は45-9にできる予定だった。
 この砲は、合衆国の120ミリ高射砲(レンジ6000フィート)に相当するもの。

 ※この資料に付いている工場の俯瞰図は正確・詳細で、圧倒的。

 第一~第三工場が砲。
 第四工場は、鋼、鍛造、焼入れ。
 第五工場は砲? 不明であった。

 枚方工場は、砲弾、信管、火器。
 播磨工場は、砲身、鋼。
 白浜工場は、舟艇。
 石見工場は、薬莢。

 枚方工場の天野川ショップ(枚方町)では、信管の旋盤作業と軍刀組立をやっていた。

▼奥田建治&佐々木聡ed.『日本科学的管理史資料集 第二集 図書篇 第11巻 軍需産業資料 I』1997
 日立精機の小林吉次郎が編集した『多量生産研究』上(S18)・下(S20)。版元は、兵器興業新聞出版部。
 そもそもフライス盤は、イーライ・ホイットニーが、形削盤でバイトの刃先を加減することなく同形品を多量につくらんがため1818に創製。
 銃器生産に使われた。
 形の決まったフライスで削るので、互換性が出る。

 特に1854のリンカーン型では、加工物の加工部位に対してフライス軸の作業を緊定してフライスを研ぎ直すまでは加減をゆるさない。

 日本が輸入した普通型のフライス盤は、M30に池貝が初めて買ったもの。
 フライス盤とタレット旋盤により、北軍は勝った。

 池貝の早坂力いわく。WWIまで日本の機械は米国にそれほど劣っていたわけではない。

 下巻は、飛行機、銃、自動車。
 銃器の執筆担当は、日立兵器(株)の某○○工場研究課長・打越好天。
 ブレダ重機はガス式だが、保弾板を倒立させることで、遊底(尾筒)が長くならないようにした。
 そして打ち殻は、再び保弾板におさまる。

 デグチャレフLMGは、射撃中、ボルトが動き、危ない。
 ゲージの適用を最少にとどめている。
 「……銃器は飛行機、自動車と同じく内燃機の一種と考へる……」

▼『日本科学的管理史資料集 第二集 第12巻 軍需産業資料 II』1997
 S19刊の『戦時工場管理』のうち、東1造の信管工場の渡辺三郎(兵技少佐)が執筆担当している箇所。

 信管組立は、撃針を入れ、側方から遠心子をいれ、塞螺を締める作業。
 できあがれば、もう中に入っている遠心子の向きが違っているか、バネが噛まれていないか、落ちていないか、わからない。

 ロットが5000個を越えたら、どんな工員も、注意力は無い。
 工員を単能化するとともに、ひとつ前の工程を目視でチェックさせる中間検査をさせると、有効である。

 クランクシャフトのスーパーフィニッシュ専用の単能機械があった。

▼松尾博志『電子立国日本を育てた男――八木秀次と独創者たち』1992
 八木は昭和はじめに東北大から阪大に移り、東北大内は反八木で占められた。
 八木はM42に東大の電気を卒業。

 阪大理学部はS8-4開講。
 校舎はS9-3竣工。
 八木はその物理学科主任教授で、ヒラ講師に湯川もいた。
 物理学科の全権を握るボスだった。
 八木が湯川を叱りとばしたとき、隣室に、実験物理の助教授・浅田常三郎がいた。彼はその逸話を、湯川のノーベル賞受賞後に明かした(p.36)。

 八木はS11に、東北大の兼任教授の座を去った。
 広島原爆の最大径は71センチである。

 スミソニアンでは、VHFの八木アンテナによって、高度550mで爆発させた、と説明してある。
 八木は戦後、阪大総長。

 ファクシミリは、丹羽保次郎が戦前から研究し始めた。NEC取締役。

 八木アンテナの特許は大15取得。八木自身は「指向性アンテナ」と名付け、外国人がYAGIと呼んだ。

 1904、英のフレミングが二極真空管を発明。
 1912、米人ド・フォレストが三極真空管を発明。信号増幅作用が注目される。
 翌年、この3極真空管が、電波発信器でもあることが分かる。

 鴎外は留学中のM20、自然科学の方面ではまだ Forchung (研究)という日本語もない、と日記に記した。

 電力は「強電」、通信は「弱電」である。
 東北に弱電の工場や電車がなかったことが、弱電のメッカとなる下地に。

 大6に、のちの東芝が、日本初の真空管を国産。
 弱電とはそもそも、原子物理学の可能/不可能に挑む世界。強電は、当時すでに、性能やコストの工学にすぎなかった。

 震災の朝鮮人デマは、内務省警保局が送信した無線が、そのまま逓伝されたもの。ラジオ暴動ともいえる。

 震災当時は短波が長距離通信に適することが発見されておらず、福島県の原町[はらのまち]の200m(660尺)アンテナから長波でアメリカに送信した。

 「工学は語学なり」と八木は言い、電流や電圧の分布が目に浮かぶような講義をした。ただし随筆は下手だった(p.126)。

 日本人はもともと、物質の内部の仕組みを運動論的に構造化して考える習慣がなかった。
 だから物質を分析的に観ることができなかった。 ※物質は運動である。
 江戸期まで科学を生み出せなかった一因だ(p.149)。

 八木アンテナは超短波用。したがって短波を使う者には価値がない。それで、実用は外国に先を越された。
 八木「自分はサーチライトだ。発見したあとのものにはあまり興味はない」(p.162)。

 「内閣技術院」は大戦末に、敗戦を挽回する新兵器の開発を指導する機関としてできた。世間にもよく知られた。

 湯川と菊池正士は、大阪帝国大学理学部物理学科 で八木が育てた。
 S60に、日本の特許制度誕生百周年を記念して、通産省の工業所有権制度百周年記念行事委員会が「日本の発明家十傑」を発表。
 八木、豊田佐吉、御木本幸吉、高峰譲吉、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光多郎、丹羽保次郎、三島徳七、杉本京太。

 金研=東北大の本多の金属材料研究所。
 1921に米人のハルがマグネトロンを発明。真空管にコイルを巻いたもの。
 エレクトロニクスという言い方はS1頃からアメリカで使われだした。

 弱電のメッカは大正末から、逓信省電気試験所→東北大とシフト。

 大阪には阪大の新学部創設費用を全部地元から出すような風土あり。
 阪大は、北大、東北大より遅くできた。京大は「関西に帝大は二ついらない」と言っていた。

 理学部のために理研(大河内正敏)所属の長岡を、地元が総長として据えた。その長岡が八木を迎えた。

 仙台は学と軍しかない町で、教授の格が非常に高かった。商工は無い町だった。

 教官人事は、長岡と寺沢が仕切った。
 浅田常三郎は、長岡が属する東大物理閥の箕作・菊池閥に属す。長岡の弟子だった(p.192)。
 のちに増設する第三講座(実験物理学)の教授予定者として。

 浅田常三郎は、東大物理を大13卒。理研の長岡研究室に入った。
 大15-2から3年間、ドイツに留学。
 帰国後、長岡の推薦で、塩見理研に入り、物理部員となる。
 教授の不文律資格である海外留学も終えていたが、31歳と若いので、八木の第一講座に所属する助教授とされた(p.195)。

 浅田は、学士院賞、文化勲章を貰えず、学士院会員にもなれなかった。

 湯川は荘子の虚無思想から大きく影響され、それとバランスを取るための根本的で大きな問題と取り組む必要があった。
 懐疑・分析・抽象・統合(p.239)。
 研究とは、未知へ進むこと。他人がすでに知っていることをやるのは、調査にすぎない。日本では、調査でしかない研究が多すぎる。

 戦前、日本電気や富士電機の工場には、外人が常駐して、特許侵害を見張っていた。
 八木いわく。大学は動物園のようなものであり、変わった研究者がいるほど面白い。
 S17に八木は東工大学長となって去る。S16、湯川も京大に去った。

 戦中の阪大実験物理は、理研と並ぶ、日本の中心地だった。
 浅田常三郎の下には、奥田毅がいた。
 浅田はS17に『国を防[まも]る科学』(高山書店)を出版している。

 ※「第3部」は圧巻。戦時技術行政の詳細なメモ。
 技術院は、S17-1-31に官制公布。陸軍の意見を容れ、第一条に、「航空ニ関スル科学技術ノ振興」と謳ってあった。

 米は1940-6に大統領指令でNDRC(国防研究委)を創設。
 さらにその上にOSRD(科学的技術開発局)を設け、陸海軍も含めた一元統制を実行した。

 陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将はS16-4に理研の仁科芳雄に「ウラン爆弾」を研究するよう依頼。

 S17-7、海軍技研の伊藤庸二・造兵中佐はウラン分裂に注目し「物理懇談会」を発足させた。その10人の中に、浅田常太郎もいた。

 米は日米開戦後に英からRADERを教えられ、MITに「ラディエーション・ラボラトリ」を創って数千人の科学者を集めた。
 そして珊瑚海海戦までに実装した。

 多摩陸軍技術研究所と「ふ」号のゾンデの開発にも関与。

 「く」号は、くわいりきせん=怪力線 である。
 八木が殺人光線の研究をしているというガセがロイターによって大14~15頃、欧州で広められた。
 それについての抗弁の中で初めて八木が「怪力線」という呼称を使った。

 S18-1、阪大の理学部と工学部の教官は「戦時科学報国会」を結成。
 音頭は菊池正士らがとり、物理学科の浅田常三郎も共鳴。

 S15末に企画院の外郭団体として(財)科学動員協会ができていた。会長は東條首相、副会長は井上匡四郎・技術員総裁(p.374)。※引き金はノモンハンショック。
 その理事長の多田礼吉は、科学技術審議会の委員も兼ねている。

 浅田は軍と太いパイプを持っていた(p.404)。

 東条の懲罰召集は70名以上。
 回天はS19-2に呉で試作が始まっている。特潜も考えると、カミカゼは軍令部が始めた。
 桜花を運ぶ一式陸攻の「神雷部隊」の編成はS19-10-1に完結。

 陸軍もS19-3-28の参本が戦術として特攻を採用。

 八木は、必死ならざる必中兵器として、「マルけ」(=決戦)という熱線誘導爆弾を700発、S20-8に製造準備させた。
 これを1万mから落とすつもりだった。

 「まるけ」の発案は、陸軍兵器行政本部技術部技術課長の野村恭雄大佐。S19-5から着手。チームには、糸川英夫、木村秀政、井深大も集められた。
 まるケの出典は、西澤潤一ed.『続 独創』(S61)。※この本は国会図書館になかった。

▼春日井の戦争を記録する会ed.『5トン爆弾を投下せよ!』1991
 鳥居松の兵器工場は、愛知県の東春日井郡に1939年にできた。
 USSBSの「日本の目標に対する1万ポンド爆弾の効果(9件に関する報告)」は本邦初訳である。

 この爆弾は本土では愛知県だけに落とされた。鳥居松、鷹来製造所の2工廠と、豊田自動車会社挙母工場。

 S20-8-14に春日井を爆撃した部隊がいまだにわからぬ。
 7月分のは分かっている。

 8-14には、鳥居松に3発。「テンサウザンド」は、B-29が1機に1発しか積めない。
 炸薬充填率は51%と、異常に少ない。※GPだとすれば不思議はない。LCにしたら比重が軽すぎて原爆をシミュレートできないし、不完爆にもなるだろう。

 第20空軍特別爆撃任務17 となっており、この16が、長崎原爆ミッションらしいので、謎めく。
 ※わざとまぎらわしいナンバリングに当時の軍隊は努めていた。防諜上。

 7-24、神戸に1万ポンド×2発。新居浜に2発。
 7-26、島田に1発。
 7-29、宇部に3発。

 8-14に、鳥居松に3発。挙母に3発。鷹来に1発。

 鳥居松では、小火器を製造していた。九九式小銃は月産1万梃弱。
 鷹来では、小銃の弾薬を製造していた。

 6-26から、陸軍造兵廠千種製造所と、熱田製造所が目標に。
 8-7には、海軍の豊川工廠が爆撃された。

 米リポートの9例。
 1945-8-14、コロモ(挙母)に3発。1波。29000フィートから。
 7-24、三菱神戸に1発。
 7-24、川崎車両会社神戸に1発。
 7-26、島田市街に1発。30500フィートから。
 7-29、宇部曹達会社に3波、3発。
 8-14、鳥居松に29000フィートから、1波、3発。
 8-14、鷹来に1波、3発。
 7-24、住友化学新居浜化学工場に1発。
 7-24。住友化学軽金属工場に1発。

 第20航空軍の落としたHE爆弾の比率。500ポンドGPが40%、1000ポンドGPが5%、2000ポンドGPが30%、4000ポンドGPが20%で、その他5%だった。

 焼夷弾の比率は、100ポンドAN-M47が40%、500ポンド集束(6ポンド油脂のAN-M69と、10ポンド油脂のAN-M74とあり)が40%、500ポンド集束のAN-M50(4ポンドマグネシウムのAN-M17A1を子弾とする)が20%だった。

 4000ポンド爆弾は、1機に3発積めた。

 ゴードン・トマスとマックス・モーガン共著の『エノラゲイ』(1980邦訳)にはこうある。――浅田博士がいまだに殺人光線の完成に努力している場所から遠くない大阪に、10000ポンドの大型爆弾を投下する命令を受けた、と。

 第20航空軍司令官ルメイですら、原爆やそれ専用のB-29部隊のことを、1945-3時点で知らされていなかった。
 陸軍航空軍司令官アーノルドは、もちろん、知っていた。

 鳥居松は、S14-8-1に開設。99式短小銃が主力製品だが、銃剣、機関銃、拳銃、機関短銃も製造した。
 最盛期には、月産3万梃の九九ライフルを量産した。

 疎開として、工場2階部分をそっくり稲津へ運んだ。すると、空襲ですっかり破壊されたように見え、米軍も騙された。

 目撃者によれば、1万ポンド爆弾の爆発は、感じとしては、1トン爆弾程度で、クレーターも10mほどだった。つまり、特別な破壊を目的とした爆弾ではない。おそらく空力特性を原爆と同じようにした訓練爆弾で、リアルな練習を積ませていたのだ。

 鷹来は、S16-12-1に、名古屋工廠の五番目の製造所として発足した。
 99式小銃用の7.7ミリ弾が主製品。
 銅不足のため、S19には鉄薬莢に切り換えた。これは一線には送られていない。

 米リポートいわく、1万ポンド爆弾×1発よりも、合わせて同じ重さとなる小型爆弾多数の方が、はるかに破壊効果は上回る。理由は、当時の投下爆撃は命中精度が悪いので、多数になるほど直撃弾が増える。直撃した爆弾は、イールドが小さくても、破壊力では上回るので。

 1万ポンド爆弾には、瞬発信管が3つ、付けられた。GPではなくLC(ライトケース=薄殻)である。※これには疑義あり。上記した通り。

 終戦直前の100式SMGは、鳥居松で月産1000梃。
 終戦直前には、89式重擲弾筒も月産1000個、銃剣も月産2万個。

▼寺田彌吉『総力戦教科書』S16-3
 「三S戦術」とは……スクリーン、スポーツ、セックス である。※戦前から言われてた。

 英は『ベンガルの槍騎兵』でイギリス人の優秀さを宣伝した。また、メイドインジャパン製品を排撃する映画も作った。

▼八木和子『レーダーの史実 改良と研究 記録の断片』1995
 ※300部のみ印行された。

 「ち」号……超短波警戒機。
 「た」号……対空電波標定機。

 愛宕山という地名は銚子にもある。
 戦後の基礎資料として、“Tracking the History of Radar”あり。1994年、366ページ。Blumtritt,Petzold,Aspray の共編。

 英1934 超短波レーダー
 独1937 極超短波レーダー
 米36~37 クライストロン管、同軸ケーブル
 英1940 マグネトロン管について米国に教える

  ※他、国内で読める文献一覧あり。

▼『水交』1991-9月号(No.445)
 英国がレーダーをまっさきに実用化できた背景の哲学。兵器は3番目に良いもので可い。なぜなら、1番良いものは、いつまでもできない。2番目に良いものは、できあがるのが遅い。

 1943-9にイタリアの潜水艦で、フォダス技師と佐竹海軍技術中佐が東京着。

 人間は、平方センチメートルあたり2kgの爆風圧力までは耐えられる。しかし原爆は2.5kgだったという(p.28)。

▼伊藤仁太郎『伊藤痴遊全集 第五巻』S4
 乃木希典の実録講談。

 元就は家康と親交があったし、毛利を潰すと島津もそのままにしておけぬと考え、関ヶ原後も長府6万石だけ残された。

 昔の人は言った。転居は半焼けに同じ、と。そのくらい出費が嵩むものだった。
 百石以下の武士への、一家転居命令は、一種の仕置きであった。

 乃木十郎の身分は低すぎるので、強諫ゆえというのはつくりばなしで、おそらく江戸屋敷の重役と揉めたのであろう。
 鈴ヶ森は雲助の巣窟で、どこまでもつきまとい、「乗らない代」をせびろうとする。

 五十三次は150里ある。はやく寝てはやく発つのが、旅なれた人だった。疲れないし、気分もよい。
 江戸から長府までは250里。長府の、外濱[とはま]という港につける。
 十郎以外は全員、長府は初めて。

 宿屋で半月待つと、「横枕」というところに三百坪を貰った。地取ばかりで、家作が無い。
 同情した同僚が、空き家の足軽の家を、移築してくれた。

 長府は海風があるので夏は涼しいが、冬が寒い。

 明治になってから元徳[もとのり]と名乗った人=世子時代の名は、長門守・定廣。これが毛利本家。
 いっぽう十郎が守り役をつとめたのは、定広からは義弟の続柄となる長府家の總五郎。

 玉木の前の剛直人としては、村田清風(四郎右衛門)がいた。「来て見れば聞く程になし富士の山 釈迦も孔子も斯くやあるらむ」。

 著者の寺子屋時代にも、耳や鼻をつまんで廊下へ引き摺られたことは幾たびあったか知れない。

 郡奉行は公然と賄賂が入るのだが、玉木は却って貧乏になった。そんなときに真人を養子にした。
 桂小五郎も玉木には一目置いていた。

 奇兵隊が萩につくられては何かとまずいので、本陣を厚狭[あき]郡の吉田村、分営を下関に置かせた。
 高杉が募集を始めると、××や××〔原版伏字なし〕までもが身分を隠して集まり、高杉これを黙認す。

 高杉と山県の三田尻行は、「勢い」があり、はじめの400人が萩に着くころ1000人になっていた。城には3000余が待ちうけ、対陣した。
 玉木が高杉に頼んで、のちの希典を、小倉戦線に出させたのだ。
 武士が戦場へ臨むには、肌付の金子が要る。
 前原は前名・佐世八十郎。

 山砲1門の長とは、50名の部下あり? 17歳で?
 高杉は、肺と梅毒病み(p.87)。
 病後の写真しか残っていないから皆騙されるが、前は威丈夫だった。
 部下は、いちばん若い者でも23歳だった。

 手槍は9尺。長槍は3間である。

 小倉藩は幕府親藩。藩主小笠原は、不在。細川藩の仲裁を得て、詫証文までさしいれ、かろうじて城代が面縛を免れた。

 小倉には大里という海の関があり、ここで諸藩の通行人は取調べを受けねばならず、不当利益をむさぼった。維新で小倉が寂れたのは当然、と。
 こういう土地の者は、独立の気力が乏しい。十年の計なく、気楽な儲けばかり、夢見て暮らす。

 石州口の闘いは、井上聞多が参謀。
 武弁の反対語は、縉々 である。

 天皇を江戸に移す儀の最も早いのは、天保の佐藤信淵。その後、慶応3年に前島密と神田孝平か。最後は江藤新平が建議。大久保の発議ではない。

 金を得れば少しも出さぬ算段をして、吝な暮らしに日を送る名古屋人。
 名古屋は元来が女の名物、淫風は最もさかん。

 玉木は実子彦造を維新越後の戦いで失う前に、真人を養子にしている。
 ※私疑。希典と真人もしくは彦造は、同時期に玉木の家にいたことがあるのか?

 前原は山県と折合が悪く、幾たびか衝突した。木戸とは最もよくなかった。井上とも同様。

 長州藩が……と、よくいわれるものの、実は、木戸ら早く中央に出た少数者だけが地位も金も得ている。だから、郷士全員が甚だ不満だったのは、当然なのだ。

 山県は、木戸とは仲がよくない。井上とは、反前原ということだけで、結んだ。
 木戸系の三浦は、山県の死ぬまでたてをつき通した。

 前原が起ったのは、当然。まず、味方の広沢兵介が九段坂上の妾宅で暗殺された。そして前原自身、大坂に出たとき、天保山で船に乗ろうとして狙撃され、山口へ帰ってもまた一夜、狙撃を受く。ここで広沢の死を知り、かつは自分より先に井上の来ていたのを知った。

 ※西郷と同じ。すれば、西郷の尋問の儀とは、刺し違えのことではなかったか。

 県令から中央へ鎮撫の見込みなしと報告。中央から広島Dへ出兵命令。司令官は三浦梧樓。
 柳橋には近頃(S2?)まで永岡久茂をよく知っている婆さんも居た。

 痴遊に「維新秘話」という本があり(?)、その中の前原の乱が、詳しいという。

 小倉の前聯隊長の山田は、みずから辞官した。乃木はその後任とされたのだが、このときばかりは、山県の命でも、気が進まなかったという(p.138)。

 只一日で、鎮定に帰した。熊本や秋月の方が善戦している。萩の乱はあまりにあっけない。

 文之進は、初め前原に教え、やがて真人を前原に托して教えを受けさせた。もはや加わらぬわけにいかない関係。

 大久保は、ふつうの士格。西郷は、より低い、最下級。
 桃山乃木神社は、村野山人という老富豪が私財を投じた。お由良騒動のとき、父の切腹を見ていたという。

 警部らが西郷を暗殺しようとしたのかどうか、永久の疑問として、明白になる時はなかろう。

 村田三介(元少佐)が率いる第4大隊(西郷軍は6個大隊からなる)が熊本城の背面に出た。乃木の来るのが間諜により分かったので、伝令を共同隊屯所にやった。その高田露[たかたあきら]が植木へ選抜隊を率いて向かった。

 熊本隊の池部吉太郎は、細川の若殿についてフランスに行ったほどの男だが、士族主義の旧式頭。それが城攻め先鋒になった。共同隊はあたらしい平等思想をもっていたので、この池部の指揮系統には入らなかった。

 共同隊には首領なし。しいて挙げると、宮崎八郎と、高田露であった。熊本隊より小組織だが人気はこっちが高かった。八郎の末弟が、滔天である。
 高田は義勇兵としてM7の台湾征伐に行き、従道から戦役中、大尉の待遇を与えられた。

 高田は絹の着物をきて、裾からげもせず、草鞋ばき。2尺1寸の刀を差し、そのころ流行った「革命帽子」というのを冠っていた。鳥打帽のうしろに庇がある。つまり、前後に庇、左右には耳掩いの垂れがある。自由民権派は仏革命の「革命党」のファッションに倣ったため。

 このころはマッチと火打石の併用時代で、高田は火打石派であった。
 進歩と保守の両極で議論倒れになるのが熊本人で、蘇峰もまた県人。

 河原林は弾丸に頭を撃たれ死んだ、とする(p.187)。

 翌朝、死骸から軍旗を取ったのは、植木の住人の見物人だったという。それを共同隊がみとがめて横取りしたのだとする(pp.190-1)。
 さらにそれを高田が見つけて、村田三介に届け、村田・高田は同道し、春日村の西郷に提出。

 品川彌二郎は松蔭門下で、しかも兒玉の同藩・友人で、熊本に籠城していた。また将校の妻の多くは泥水を呑んでいた女で、三味線は上手。

 参謀長の樺山は、第一日に重傷を負った。そのあとは兒玉が代理をしていた。
 その樺山の代わりに、谷は兒玉をさしおいて乃木を任命した。しかし樺山も入院中も参謀長のまま。この時、参謀長は2人いたことになる(p.203)。

 乃木はサーベルしか持っておらず、それで切腹しようとして兒玉に止められたとかいう(p.204)。
 熊本城での逃亡・自殺さわぎは、乃木の死後、兒玉と西島助義(とうじ中尉)が語って公となった。

 聯隊旗の経路は諸説あるが、高田→村田三介→西郷、という流れだけは疑いがない。
 官軍抜刀隊=徴募巡査。

 寺内は、いつもキチンと行儀よくして相手の顔をヂロリ\/と見ている。窓の硝子戸を開けるのに、開け巾の寸法を決めておくほどに、几帳面な人であった(p.256)。
 軍旗事件に関して、寺内の陸軍は、徹底して隠蔽しようとした。

 第一聯隊長時代に、営門で山縣の馬車を止めさせ、それを褒めたために謹慎となり、その間も出歩いていた。

 伊瀬地の新宅とは、今の上智大学である。
 七との婚儀につき、いかにも面当てがましい、と最も不快を表した長州人が、桂だった。
 江戸人なら、お七という名は嫌う。※壽子が変えさせたのだと容易に推理できる。

 谷中別居自分、電燈は、芝や京橋の一部にしかない。他は、店先のみランプ、奧は行灯である。
 明治人は、西洋と比べて日本は「離別国」であることを発見した。家風に合わぬの一言でよかった。
 幼稚園は本郷の御茶ノ水に一つのみだった。それで湯島別居となった、とするのが、芹沢登一の『母としての乃木夫人』。

 松本の承教寺に2振りのサーベルを納めてある(p.306)。
 弘法大師の父が「善通」。それをまつった寺が、市の名前に。
 乃木は魚を好かず、牛肉は歯が悪くてダメ(p.309)。
 乃木は名古屋城の天守の窓に無断でガラス障子を入れて、桂に譴責された。
 床の間を枕にするときは、新聞紙か風呂敷をあてた。

 片眼の山路は、板垣の部下だった。
 山路1D長は、参謀長として、薩摩の除け者、大寺安純大佐を起用。乃木の第一旅団長起用とともに、どうするつもりかといぶかしがられた。
 乃木が生前に心を許して交際した者の筆頭が、土佐の山路元治。

 日清役後に乃木が2D長になったのは、やはり、遅い。もっと早くD長になっていなければおかしいのだが、やはりその前の退職が響いている。

 M29に痴遊は、大倉組の仙台支店に頼まれて、乃木の前で講演したことがある。「男の聞くべき話をしてくれ」というので、江藤新平の乱の顛末を、特に死刑のくだりを詳しく講演した。
 乃木D長、山口旅団長が並び、将校全員、聞いた。

 江藤が首を切られる時の心境を、かくもあろうかと語り出すと、乃木はだんだん下を向いてきて遂に落涙するのが見えた。

 第2話は日清戦争の乃木の話を大胆にも本人の前で演り、好評。

 後藤新平は台湾で巨億の富を築いて、晩年、豪奢に暮らした。天産物が豊かなのである。
 雲林支庁に土匪がおしよせてきたとき、佐藤少佐という者、石塚という将校とともに逃げ出し、懲戒免官の牢へ打ち込まれた。代わって奮戦した民政官の松村等も、ひごろ軍とは確執あったため免官に。

 幣原外交について。たとえば袁世凱を何かの機会でいちど偉いと信じてしまうと、何処までもえらいものとして奉り通さうといふのが我外交官の遣り口であって、すべてがその調子で行くのだから、こっちで親切にする程、向ふの方では附上るのみで、少しもこっちの親切は感じないのが常であった。その上、いくら向ふが勝手なことをしてもこっちではどこまでもその尻についていかうとするのだから、実に馬鹿らしいものであった。

 南京事件のときも外務省は、じぶんらのドジなやり方をとりつくろった。軍人たちも、あのときは軍艦で長江を封鎖してしまえばよかったのだ。腹を切る気がないため、できなかった。

 12聯隊の1個大隊が広島5Dの真鍋旅団長の下に編入され、馬蹄銀事件を起こす。
 連隊長の斉藤徳明大佐が、杉浦少佐につき、とりなしたが、乃木は聞かず。秋毫仮借せず。このため山口素臣5D長が家宅捜索を受ける。もとは検事がタレコミ人を下手に扱い、かれらが萬朝報に走ったのが暴露の発端。

 真鍋少将はM35-6-21休職。

 川上参謀総長が自由党の河野広中に打ち明けて、対露軍拡を通した。小石川造兵廠の兵器鋳造の活発化で、東京市民は誰も対露開戦を疑わなくなった。公使が引き揚げる以上は、宣戦の布告はなくとも戦争状態になったのと同じことである。

 3A長任命は、奏請ではなく、天皇の御沙汰に出るという。もっともその前に、侍従長に歌を示しているが……。

 当時の乃木邸は、門柱はあれど、門扉はない。
 開戦当初は、戦死者の葬式が、まるで祭のようであった。最低でも町内葬となったのが、この頃。

 ボーバンは、要塞攻めには歩兵6倍、砲兵12倍、工兵30倍必要だと言った。
 弘前8D長の立見尚文は、戊辰の越後口で山縣を襲撃した指揮官であった。

 総攻撃は勅裁が必要で、第三回は止められたという。
 乃木は指揮刀を日本刀式にしろと主張した?(p.451)。
 乃木の殉死時に台湾総督であった佐久間左馬太大将は、殉死直後の乃木を批判したので有名。

 旅順苦戦中、天皇に工作し、乃木を変えさせようと画策したのは山縣である(p.453)。
 戦術上の批評までしたという。

 漢詩を電文に組んだのは、堀内文次郎(日独戦の旅団長)で、そのとき「屠」を「ホフル」に直した。
 有賀といっしょに行った川上俊彦は、ウラジオ領事だった。
 有賀はのちに袁世凱の立法顧問にもなっている。

 西園寺と伊藤博文が、最も明治帝の恩寵が厚かった。

 殉死直前、歌を見せられた山縣が、乃木の決意を察し得なかったはずはないと人は批難した。
 著者はS2-9-9から9-13まで、東京の放送局で、乃木将軍の伝を放送した。

 長州では、藩侯と御一門以外は、自然石を墓標とするならいである。

▼川村哲二『パックス・アメリカーナの形成』1995
 米でいわれること。WWIIは、経済史にとっては新しすぎ、経済学にとっては古すぎる。
 よって、あちらにも決定版の本などない。
 米戦時経済に関する基礎データの報告書の多くは、1970年代なかばまで極秘扱いだった。

 著者のまとめた数字。
 ソ連のWWII戦死者 2000万人。ポーランドは700万人。独500万人。日本200万人。米30万人。

 著者は問う。核の時代に総力戦はありうるのか?
 ※兵頭いわく。軍/経 を二分したら、ありえなくなる。そして列強は、それを分離してない。日本だけが、分離しているのだ。

 経済や企業の実態を把握するためのデータの収集と分析のシステムの発展も、戦時経済の下で大きく進展した。
 アメリカは、戦後世界経済の「編成力」を持っていた。※いい言葉だ。

 戦後の「持続的成長」は、ニューディールではなく、戦中経済の獲得物だ。
 戦後の「自動安定装置」も、戦中に開発されたテクニック。
 IMF=ドル 体制は、戦中のレンドリース体制の展開を基盤としている。
 鍵は「高蓄積」構造をつくったこと。

 40年秋のバトルオブブリテンで、英の支払い能力は枯渇した。
 再選されたFDRは、41年3月に対英援助方針を転換し、70億ドルのレンドリースを開始。
 米戦時経済は、バトルオブブリテンから真珠湾までの間に準備された。
  ※その必要もあって、日本の参戦を41年末まで延ばしたかったのか。

 ハルノートは、戦時経済体制準備が成ったからこそ、出せた。

 戦時生産実績表(1940-7~1945-8)によると……。
 銃砲・火器管制に9804(百万ドル)。
 弾薬に、18104。

 この弾薬費よりも、車両・AFVがわずかに上回り、20316。
 さらに船は41138。
 飛行機が44831(百万ドル)で、頂点に立つ。
 ※単純化すると 飛行機>船>車両>弾>火器 というカネの突っ込み順であった。

 米原資料に基づく 1940-7~1945-8の米生産数。
 HTK×2079両。
 MTK×55779両。
 LTK×28874両。

 トラックやジープなど 247万2075台。
 飛行機 29万9293機。

 大型野砲 7800門。
 小型砲・対戦車砲 5万6000門。

 機関砲 15万6587門。
 AA砲 4万9909門。
 臼砲 11万1246門。

 MG(重?) 268万梃。
 MG(中?) 163万5000梃。

 AAMG 8万梃。
 ライフル、カービン   1265万梃。
 LMG 209万梃。

 陸軍用砲弾 501万4582ショートトン。
 海軍用砲弾 123万6496ショートトン。

 航空用爆弾 592万4000ショートトン。
 小火器弾薬 417億4600万発。

 BB 10隻(3万5000トン型と、4万5000トン型)

 大型空母 18隻(2万7100トン型)
 小型空母 9隻
 護衛空母 111隻

 タンカー 705隻
 貨物船……※詳しいが略す(p.45)。

 独の西方電撃戦をみて、初めて米陸軍は40-6-30軍需プログラムを策定。6月末までに、海軍と陸軍航空隊もプログラムを完成。これをもって、参戦用意、成る。

 スターリング圏は、レンドリースにより、ドルにペッグされ、これが戦後のIMF平価の前提となった。
 米のWWII戦時公債は、46-2にピークとなり、それは国民総生産の1.3倍だった。

 WWI後の急性恐慌は言わば一挙の「経済平時化」であった。
 戦時中、強制的に貯蓄させられていた民間需要が、戦後、一斉に消費に向かった。

 自動車は41年夏から生産規制され、42-4に乗用車完全停止。
 民生用トラックは月100~200台に絞られた。45年まで。

 新古の民間用自動車の在庫も、配給制に組み入れられた。
 サンベルトの発展は、WWII中の政府の投資、インフラ整備のたまもの。
 工業界のマン・アワーの劇的な減少は、1942~45の間に起こった。

 ※FDRが戦間期に何をしなければならなかったのかの一端を知るのに適した一冊。日本なんか相手にしている暇はなかったんだということが、よくわかるだろう。

▼伯爵・有馬頼寧『綜合國防技術政策實施綱領』S15-9
 ※「秘」と印刷あり。

 「技術研究の刷新」の「技術研究の指導統制」として、「少数の天才に依存せず、多数無名の技術者の組織的協力に立脚するドイツ流の研究体制を採用すること」。

 また官吏制度の改正として「勅任官以上についてはすべて自由任用制とし、広く官民の専門家を登用し、その専門的知能を活用すること」。

 「大量生産」と書いている。※「多量生産」は海軍用語か?

 このリポートを作った国防技術委員会の委員には、海軍中将工学博士の有坂【金召】蔵(東大名誉教授)、歩兵大佐の岩畔豪雄(陸軍省軍務局軍事課長)、逓信省工務局調査課長・工学博士・松前重義、陸軍大将・吉田豊彦。
 ※仲間内で回覧した文書らしい。誰かに提出したものではなさそう。

▼海軍省黒潮会・内田栄『渡洋爆撃隊実戦記』S14-12
 ※黒潮会は海軍担当記者たちの集まり。

 「隊長ッ! 私にも○○○をうたして下さい」 ※二十粍?

 東シナ海を片舷飛行で帰る。途中、次々に荷物を捨てて身軽にする。平本道隊。8月のことという。

 上下左右から火箭の如く機体の間を掠め行く敵弾は、今までに見ない大型のものである。確かにデボアチンの大口径機銃弾に違ひない(p.137)。

 デボアチン機銃の巨弾は物凄い金属製の音を立てて右エンヂンに命中した。(p.139)。
  ※S13-8-28記という。漢口攻略戦のとき?