旧資料備忘摘録 2020-5-20 Up

▼電波監理委員会『日本無線史 第十巻』S26-9
 米国海軍は中波を全面的に使っていた。赤道付近の夜間黎明は中波でなくては通じなかった。しかし日本海軍はずっと短波で、ガ島戦以後、陸上基地が多くなると不利になった(p.128)。
 ※傍受を回避するために超短波も使っていたことを知らなかったのか。専門家たちが。恐ろしいギャップだ。

 商船は長波で、ごく一部の助成船のみ、海軍が短波機をつけさせた。遠洋漁船はS12から防空情報の通報義務が生じた。けれども、システマチックな系はつくれなかった(pp.130-1)。

 ハワイ作戦。戦闘機はどうしても「電話通信」がよいのだが、200浬も出て行くと電話は無理。そこで、略語の電信を訓練させた。上空直衛の指揮も、電信によることとした(p.146)。

 クルシーは100浬以内でないと使えず、それより遠くでは、航法か艦爆の誘導が必要であった。

 S17-6-3、「一般長波を以て『1200針路100度となせ』と発信 霧中の大部隊の変更を実施した。」(p.148)。

 『飛龍』から飛び出した、本来他空母に所属していた艦上機は、『飛龍』とは交信ができなかったらしい。

 MI攻略艦隊が豊後水道を出た夜、水道外から長文の電報が打たれたのを傍受。米潜だった。攻略部隊がサイパンを出た直後も、同様。

 6-5の南雲艦隊において、敵の攻撃隊が発進する都度、飛行機電波を受信。その感度の高低により、近接を判知。防空指揮に利用した(p.149)。

 6-5、『赤城』は敵の航空無線電波に妨信(ECM)を試みたが、効果はなかったようである。

 艦爆にはクルシーがない。ダッチハーバー攻撃では、天測もできぬ気象のため、逆に九九艦爆が零戦のあとをつけて帰ったこともあり(p.150)。

 ダッチハーバーでは敵の哨戒機が平文による電話を主用していた。電話感度が大であるときは、上空を旋回中だと察することができた。それで濃霧の中、CAPを発進させて、雲上の飛行艇を撃墜した。

 珊瑚海では、敵基地航空隊の周波数や、敵空母用の周波数に、あらかじめ合わせて傍受。大部分、平文だったので、作戦に相当寄与した。

 日本海軍は、急設基地用の中波無線機を持っておらず、TM短波移動電信機のみでは、ソロモンの夜や朝には、使いものにならなかった。

 通信員の技倆が低下し、無線がすぐに通じないため、不安になったりイライラした指揮官や搭乗員が、むやみやたらに電波を出した。おかげでこっちの企図もすっかり暴露(pp.154-5)。

 中波対応無線が日本海軍に実用化されたのは、S18中期以降である。

 ソロモンでは基地から長波を出し、それを頼りにして飛行機が帰投する「T式」にした。しかし、そのやり方を知らぬ搭乗員もいた。

 ソロモンでは戦闘機が500浬も進出した。それで、どうせ電波は届かないというので、無線機を卸してしまったらしい。

 陸軍機の機上無線電信は、数字を組み合わせた符号(符牒)通信。それに対して海軍機の機上無線電信は、和字。だから、搭乗員に和字のモールスを全部覚えさせていないと、役に立たない(p.165)。

 開戦時の海軍機の機載無線機は、すべて「96式」である。三座機用は、対地700浬届き、重さは52kg。二座機用は、対地600浬届き、重さ45kg。多座機用は、対地1200浬届き、重さ76kg。単座戦闘機用は、対地50浬届き、重さ18kgだった。

 戦時中の「合調音語読法」の一部。 ※自衛隊で「発唱法」と読ぶ覚え方であるが、いくつか、自衛隊と異なっていたのが面白い。そしてまた、一致しているものでも、漢字の表記を初めて承知して感心するのである。

 イ は 伊藤。
 チ は 地価騰貴。
 リ は 流行地。
 カ は 下等席。
 レ は 礼装用。
 ネ は 寧猛ダロー。 ※自衛隊では「ネーソーダロー」。
 ナ は 習フタ。   ※ナロータ。
 ユ は 憂国勇壮。  ※これは郵便局だと「夕刻郵送」と覚えたのではないか?
 ヒ は 兵糧欠乏。  ※自衛隊では「ヒョーコーソクテー」。
 セ は 世評良好ダ。
 ス は 数十丈降下。 ※自衛隊では「スーリョーチョーサヒョー」。
 9 は 空中航行記。 ※最後は「機」ではないのだろうか?
 ( は 包囲用法記号。 ※まんなかは「容包」だと思っていた。
 ) は トユーテルソーダ。 ※自衛隊では「ウホーカラヘーサ」。
 / は 宮城東京チューヲー。 ※自衛隊では習わない。長音符を6連打する。

▼門司親徳『空と海の涯で』1995
 空母艦橋の後部には手摺りがあって、飛行機隊の指揮所になっていた。

 着艦機は、フックを下げてくる。フックを外すや、飛行機は再びエンジンを全開にして発艦、という訓練もやった。

 機がもし右舷に落ちたら、艦はオモカジをとって、スクリューに巻き込まないようにする。
 『瑞鶴』の場合、機がブリッヂに右翼をひっかけると右に落ちる。
 駆逐艦が吊り上げるのはもちろん搭乗員だけである。

 命令書には「艦長直披」と書いてある。

 12-7に、艦橋のスピーカーが、「艦橋、敵哨戒機の感度あり」と怒鳴った。
 通信指揮室から艦橋に対する連絡である。
 「敵哨戒機の感度、近づく」
 やがて、遠ざかって感度がなくなった。

 12-8、整備作業は徹夜。
 総員起こしは7日の午後11時45分。ハワイ時刻で朝の4時15分。
 艦橋内は灯火管制で真っ暗。

 艦橋の後ろ側の発着艦指揮所に出ると、リフトが飛行機をもちあげてきた。
 白い整備員が背中に折れた主翼をまっすぐに伸ばし、尾翼や脚に集まって、後甲板へ押して行く。

 甲板の後方、三分の一が埋まったところで、試運転の爆音が轟々と響き始めた。

 「搭乗員整列、上部格納庫」 ※つまり『瑞鶴』では飛行甲板ではブリーフィングしない。その下の格納甲板でする。

 艦長、飛行長が下へ降りて行く。
 やがてリフトが下がり、ついで、整列を終えた搭乗員を乗せて上がってくる。リフトが止まると、搭乗員たちは歩いて自機へ向かう。

 眼鏡を見ていた信号兵が「赤城、発艦を始めました」というと、艦長が間髪いれず「発艦始め」と号令。
 指揮所に立っていた下田飛行長が、手に持った懐中電灯をぐるぐると大きく廻す。

 チョークを外された先頭の零戦がひときわエンジンを吹かして滑走。ブリッヂの少し先で浮く。
 他機も、赤青は皆、点けている。

 戦闘機のあと、99艦爆。その後部の偵察員が、手を振ったり、敬礼する。
 九九艦爆の中には、艦首から一瞬下にさがる機もあった。

 隣で、整備長の山崎中佐が手を振っていた。
 上空では時々、オルジス信号がピカリと光った。

 ついでCAP×3、哨戒の九九艦爆×3を発進させる。

 ついで、第二次の飛行機(艦攻)を並べる。
 最後に艦攻の隊長機がエレベーターで上がってくる。
 九七艦攻×27機で行く。

 艦爆×1機がエンジン不調で戻ってきたが、予備機は出せないようだった。
 攻撃から帰ってきた最初の1機。前甲板まで自走して、いちばん先端にチョークで止められた。
 指揮所では、尾翼の番号を読んで、編成表の人名をチェック。

 S17-1にラバウルに向かうときは、豊後水道の外で飛行機を収容したが、ハワイ作戦のときには1機もなかった着艦事故が何機かであり、気の緩みは明らかであった。海は凪だった。
 ※このケースは大西瀧治郎の下士官に対する見方を変えたかもしれない。おだてなければ仕事を張り切らない職人のようなパイロットには、強制的に死を命ずるしかないと。

 ラバウルにどうやって、着艦経験のない戦闘機を運ぶか。まず『瑞鶴』の戦闘機パイロットを艦攻の後部座席に便乗させて、トラック環礁へ。そしてトラック島から戦闘機に乗って『瑞鶴』に降りる。そしてラバウル駐留予定の戦闘機パイロットは、艦攻の後ろに乗せてくる。単座戦闘機の発艦は、素人パイロットでもなんとかなるから、九七艦攻が空中を先導してラバウルへ。
 このとき、悪天候で途中から引き返す必要が起きてしまった。さいわい、九六艦戦だったので、素人のぶっつけ本番で着艦もできたという。
 『瑞鶴』はこのフェリーを4往復やったという。

 AA訓練を、インド洋でしたが、やはり『飛龍』『蒼龍』は見事で、『瑞鶴』は下手だった。

 S17-4-9に、また敵飛行艇が現れたので、CAP×3機は、まだ艦首が風に立つ前、変針しかかっているところを、艦長の発艦命令をまたずに飛び出して、撃墜した。

▼雨倉孝行『飛行隊長が語る勝利の条件』1999
 ※平成8年刊の『陣頭指揮』のタイトルだけを変えたもの。

 『瑞鶴』の高橋定少佐いわく。急降下爆撃は一本棒になってやるとケツの1機が敵戦闘機に食われるので、MI以後は、横陣に変えた。

 反跳法は、戦闘機の爆弾投下器を工夫せねばならぬ。セブでその取り付けをしてあった戦闘機が全部やられたので、仕方なく、特攻になった。

 特攻機向きだったのは艦攻。零戦は降下で増速すると浮力がつきすぎて制御できなくなる。93中練はもっとひどかった。

 『蒼龍』の艦攻部隊長だった阿部平次郎の証言。800kg爆弾を抱えた、先頭の九七艦攻が、いちばん発艦に苦労する。ハワイ攻撃のとき、発着艦係の中尉が未熟者で、搭乗員経験が浅いものだから、艦首が持ち上がったときに合図を出しやがった。それでは助走の加速がつかない。あやうく、海に落ちそうになった。

 MI島爆撃では、97艦攻同士は無線でvoice通信した。しかしノイズが多く、返事はなかった。

 友永からの「第二次攻撃の要ありと認む」電を、機上で聞いていて、マズイと思った。私だったらああいう電報は打たない。

 インド洋から帰ってきたら、横須賀の料亭女中が、こんどはミッドウェー作戦、とか言っていて、驚いた。ソ連を通じてアメリカに筒抜けだと察した。
 MI作戦のときは阿部は大尉であった。

 6空の戦闘機×6機も、飛行甲板上に露天繋止であった。
 珊瑚海海戦の戦訓は、「格納庫は空にしておけ」。なのに、MIではそれが守られなかったのである。

 水上機乗りは、艦攻パイロットから見ても、これが飛行機乗りか、というようなおとなしいのが多かった。

 以下、鈴木実中佐。ポートダーウィンではスピットが出てきた。一撃主義で来られると、追いつけなかった。

 S17-6-30の空襲エスコートでは、零戦が高度8000を取った。
 初陣では敵機が近くに見える。じつはかなり遠い。

 初期型の零戦はよかった。後期型は重くてダメだ。
 指揮官機は、1秒でも早く敵を見つけて上昇してしまうことだ。

 以下、『瑞鶴』の戦闘機の山本重久少佐。
 クルシーは、珊瑚海当時、分隊長機と分隊士機にしか装備されていなかった。単座機用なので、もちろん零戦だけである。

 ポートモレスビー攻略を断念して引き返したのは消極的だった。もういちどやるべきだった。

 20ミリと7.7ミリは切り替え式で、同時には射てなかった。
 敵パイロットの顔が見えたら射つ。一連射は短く。ただし、向首反撃はこの限りではない。

 以下、日辻常雄少佐。
 飛行艇による雷撃は、回避機動ができず、敵艦の真上を飛び抜けるしかないので、とても生還できまいと思われていた。低空でのアジャイリティがないということは、魚雷の照準だって悪いわけである。

 以下、阿部善次少佐。
 「彗星」の発艦には、17~18mの風が要る。つまり5~6mの風に向かい、空母が25ノットで走ってくれないと、小型空母の『隼鷹』からは運用はできない。

 マリアナでは、レーダーで探知されると分かってはいても、H=6000mを飛んで燃料を節約するしかなかった。
 小型機に、身体を縛り付けて、高空を長時間飛ぶと、もうそれだけで、くたくたに疲れてしまって駄目。これが、アウトレンジ戦法が失敗した理由だった。

 南雲はパイロットと話をした。小沢は、絶対にそうしなかった。

 以下、『飛龍』艦攻分隊長の松村平太少佐。
 ハワイで、油槽艦の『ユタ』には吸引されるなと村田少佐が事前に何度も注意をしていたのに……。空母だと早合点した血気の部下たちは急降下して無駄弾を使ってしまった。

 『飛龍』所属艦攻の航空魚雷は、ターゲットを欲張って大艦専用の深度6mに調定してあったので、巡洋艦『ヘレナ』の艦底を潜り抜けてしまい、岸壁に命中した。

 『蒼龍』所属艦攻の航空魚雷は、巡洋艦でも外さない深度4mに調定しておいたので、『ヘレナ』を仕留めることができた。

 艦攻の魚雷投下レバーは、パイロットでも、または中央席の偵察員でも、どちらでも引くことができる。本番では、両人が同時に引いて、念を入れる。

 一式陸攻は高度9000mからガ島を爆撃した。

 以下、『瑞鳳』艦攻分隊長の田中一郎大尉。
 着艦前には、落下傘バンドの止め金を座席から外す。転落したときに、出られなくなるから。

 南太平洋海戦では、『瑞鶴』に緊急着艦した。
 そこで第三次攻撃隊に編入されたが、もう魚雷は使い果たしており、80番爆弾を吊るして行って欲しいと言われた(pp.262-3)。つまり移動的に対する水平爆撃だ。

 しょうがないので、H=2000mまで下げて、6機で編隊公算爆撃。
 これに、艦爆×2機、戦闘機×5機が、第三次攻撃隊の全力であった。
 米軍記録によると、『ホーネット』に、水平爆撃の1発が当たった。ただし、標的はすでに行き脚がなく、漂流の状態であったが。

 「い号」作戦では、艦攻の出番はなかった。敵の空母が出現しなかったので。

 以下、香取穎男大尉。
 52型丙は、機首の7.7mm×2をやめて、13ミリ×1にしてあった。
 初速が大きいから、気持ちがいいほど当たった。

 空母の指揮系統はこうなっている。航空司令の下に、飛行科と整備科があった。飛行科の中は、搭乗員、写真員(DPE係)、弾薬庫員、発着機員(リフトや滑走制止装置の担当)。

 空母の「飛行長」は、ほとんどが海兵出の将校で、空母に残る。その代理として、「飛行隊長」が飛んで行くのである。
 中攻だと、飛行長が行く。

▼淵田&奥宮『機動部隊』2000年、PHP
 奥宮はPHPの顧問をH11に辞めている。
 S39に松下に入ったのが縁で、続けてきたが。

 M35生まれの淵田は、S51没。
 この本は、『ミッドウェー』の後篇と位置づけられる。ガ島とサイパン戦が中心である。
 淵田はガ島戦当時、海軍戦訓調査委員。サイパン戦の頃は参謀。

 S49-3の再出版まえがき。
 「これらの事実から、日本人は、……自ら当面するまでは、他にいかにきびしい実例があろうとも、望ましい処置をするこができない性格をもっていることを察知できよう。」

 南太平洋海戦のとき、第二次攻撃が、艦爆だけ、まず行っているのは、発進準備をしているときに、旗艦『翔鶴』のレーダーが敵機を捉えたので、大急ぎで出した。
 『瑞鶴』は、魚雷の準備が存外に手間取り、『翔鶴』から促された(p.86)。

 第二次では、翔鶴の九九艦爆×19と、戦闘機×5が出、それに30分遅れて、瑞鶴の九七艦攻×16機、戦闘機×4機が出た。
 戦闘機が少ないのは、CAPに割いたため。
 攻撃機と爆撃機が少ないのは、第二次ソロモン海戦で消耗したため。

 S49時点で、本書の主要部分は、英語、仏語、スペイン語に訳されているという。

 参本に、航空主務部員の久門中佐というのがいて、源田がソロモンに陸海合同で1000機を出せと言ったのに強硬に反対して、断った。 ※久門有文は陸大恩賜で英国駐在の航空科エリート。開戦前から陸軍の航空作戦を仕切っていた。S17-10に墜死して、死後、大佐。

 ダバオですら、陸軍機は30%が事故を起こしていた。
 戦後、米軍機について感心したのは、ブレーキがよく効くこと。

 マリアナ海戦時にも、小さい空母は九七艦攻を、天山と混ぜて載せていた。

▼第十一連合航空隊『甲、乙種飛行予科練習生用 航空術(発動機)教科書』原S16-5の戦後repr.版。
 最初に海軍機関少佐の福田道雄がS13-8に書き、それをS16-2に荒野精・機関少佐が改訂。

 航空エンジンは、日本では、海軍の横廠と、陸軍砲兵工廠で、輸入品の修理からスタート。
 現在最も多数使っているのは、気化器附の電気点火 四衝式〔4サイクル〕の揮発油発動機なので、それを説明する。

 喞筒冠[シリンダーヘッド]は、Y合金(アルミ+銅+ニッケル)。
 シリンダ胴は、炭素鋼、モリブデン鋼。
 ピストンリングは、特殊鋳鉄。
 接合棒[コネクティングロッド]は、ニッケル・クローム鋼。
 ただしピストンピンとの連接部には青銅の嵌環、クランクピンとの連接部の滑動面には白色合金または銅合金(減摩合金)。

 クランク軸は、要するに最も強靭な材質で、中空になっている。そこに潤滑油が通る。
 プロペラシャフトの材質は不明。

 クランク室は、アルミ or マグネシウム合金。
 給/排弁(valve)は高温に耐える要から、ニッケル・クローム・タングステン鋼、または、シルクローム鋼。最近はステライト(コバルト・クロム合金)を使う例も。

 金星や光には、Farman type の複減速装置を付す。プロペラ先端が音速にならないようにする。

 背面飛行中でも気化器は働くように考えてある。
 高度5500mでは、発動機の発生力は、地上の5割となる。

 液冷式(水冷式)のメリットは、シリンダ冷却が完全に均一になること。水が流れる隙間はごく狭くてもよい(水の密度が大であるため)。おかげでシリンダ間隔を小さくでき、全体も小型化できる。燃費は良く、潤滑油消費も小さい。大馬力のものを製作しやすい。

 空気は密度で水の800分の1。比熱では4分の1。それだけ、水よりも流速なくば、冷やせない。
 水冷の弱点としては、外気温が急変動するとき、冷却水温を一定範囲内にコントロールする必要がある。そのような面倒は、空冷式だと、無い。

 起動の際、あらかじめシリンダ内に混合ガスを作っておいてから、「起動用発電機」で点火してやる必要あり。
 そのために、まずプロペラを手動回転しつつ、注射ポンプより燃料を注射する。この注射量は、その場の気温により、加減する。

 ベンツと神風発動機は、手動クランクのみ。

 海軍で最も多く使用するのは、Eclipse の起動装置。Inertia Starter といい、「勢車」を高速度回転させておいて、クラッチをかませ、クランク軸に運動を伝え、発動機を回転せしめる。

 蓄勢用として手動回転転把によるものと、蓄電池を電源とする発動機に依るものとある。
 古い水偵は、ゴム紐でペラを廻して始動させた。

 オクタン価76と90の比較テストで、90ならば離陸時にデトネーションを気にすることなくスロットルを全開にできるから、急上昇できるが、70だと離陸時でも500馬力以下に絞らないとデトネーションを起こしてしまう。※ノッキングによりシリンダーヘッドが破壊されてしまう。

 この時点で、92オクタンまでデータがある。

 潤滑油で大事なのは、「オイリネス」。
 すなわち、金属表面との親和力。
 ピストンリングにゴム状の附着物を形成しないこと。安い潤滑油は高熱でこれが生じ、焼損の因となる。
 ゴム状物質は、鉱油たる Mobil oil ならできないが、オイリネスは、ヒマシ油(植物油)の方が良好。そこで日本では、Fulgol 油といって2者を混ぜている。英の Castrol も混合。 Fulgol は鉱油が主。Castrol は植物油が主。
 日本海軍は世界の趨勢に合わせ、水素添加の鉱油を空冷発動機に使用する方向。

 趨勢として、シリンダ内圧力、つまり圧縮比が高くなってきた。これでデトネーションが起き易くなった。排出弁も焼損し易い。
 今の圧縮比は5.5~7。シリンダ容積あたりの馬力は15~40。

 この頃の航空用ディーゼルエンジンの例。
 V型12気筒4サイクルの英RR-Conder 480馬力(1932年)。
 V型12気筒2サイクルの米 Dexhamps Diesel 1200馬力(1934年)。
 V型12機筒4サイクルの独メルセデス OP-2 720馬力(1935年)。
 V型16気筒4サイクルの独メルセデス OF-6 1100馬力(1936年)。

▼大井上 博『魚雷』S17-12 山海堂(3000部)
 序はS17-8。
 東京帝国大学には世界唯一の魚雷の講座があり、青木保が三十数年研究してきた「魚雷構造及び理論」を講述している。
 魚雷は最も簡単なものでも1200種、3000点の部品よりなり、最近では6000点のものも。

 頭部は、厚さ2mmの軟鋼板である。
 導子は、もともと発射管の縦溝に噛合わせる突起。ガイドのいぼである。

 1916、英は雷撃機でドイツ船×2を沈めた。
 1917-11-9、ドイツは水上機×3で、連合軍のコンヴォイを襲い、2000トン級の汽船に魚雷×2本を命中させ、これを3分で沈めた。

 ※この古本はどこで買ったかよく覚えている。奥沢駅前にあった古書店で、店員さん一家が京都弁(とわたしには聞こえた)で喋っていた。数十年前だ。

▼宮尾直哉『空母瑞鶴から新興丸まで』1992
 著者はS18-6に海軍軍医大尉。北壮夫の義兄という。H1-5-25没。
 『瑞鶴』の馬力は『大和』以上。

 高等官以上しか取り扱えない、海軍甲暗号の作り方・読み方を習う。医務関係の暗号電報もあるため。

 S16-11-27、艦隊に随伴してくる補給船の黒煙が目立った。※機関に無理をかけているということ。

 S16-12-2、最終給油を済ませた油槽船は1隻、2隻と姿を消して、今は黒煙をあげる船はちょっとしか見当たらない。

 12-4、強風20m。波は上甲板を洗うほど。
 12-6、いちにちじゅう曇で、風速10m。夜は雨。
 12-7、すでに緯度が沖縄あたり。※ハワイの緯度は台湾と同じ。

 12-8、瑞鶴は第一次攻撃に戦闘機×6と、九九艦爆×26を出し、ついで、戦闘機なしで、九七艦攻×25機(雷装)を出した。
 この艦攻は軽巡をやった。艦爆は飛行場に投弾した。

 S17-4-4に、飛行艇×1があらわれた。各空母から戦闘機×3機づつ出て、5分以上かけて落とした。あまりに下手だったらしく、ガンルームの士官が怒っていた。

 機関科兵は、当直の部屋が摂氏50度。待機室(寝る場所)で37度というすさまじさ。死人が出た。

 『瑞鶴』は、ツリンコマリ攻撃のあと、台湾馬公に入港している。

 珊瑚海海戦。S17-5-7。
 前日に発見しておいた敵空母を見つけたつもりで、油槽船を見つけて空母と誤報した『翔鶴』索敵機のポカにより、雷装艦攻×12機を含む60機近くが発艦。
 誤りだと分かって、帰れと呼んだが、帰ってこない。その間に『祥鳳』がメチャメチャにやられた。

 『瑞鶴』の「五戦速」は35ノットであった。
 確かめられた敵空母に対し、九九艦爆と九七艦攻だけ(ミックス15機×2空母分)を出した。
 戦闘機は夜になると着艦できないから、省いた。
 『瑞鶴』の艦攻は中間点で敵戦闘機に全部落とされてしまった。

 九九艦爆は敵空母を見つけられず、夜間着艦に備えて爆弾を投棄した10分後に、敵空母を見つけた。

 ※軍隊は、「できること」は、隠してもいい。しかし、「できないこと」を隠してカラ威張りしている軍隊は、対応が間に合ったはずのことも遂に間に合わず、次々と実戦で敵から致されてしまう。「できないこと」を平時からオープンにし、全員でその改善法を考える習慣が、組織を機敏に進化させるはずだ。

 石見大尉は第一次発艦後、待機中に拳銃が暴発し、右大腿部貫通。
 敵のMG弾に当たった一人の搭乗員。その射入口は鶏卵大の傷を形成。射出口は「小児手拳大」で筋肉が露出。

 工作長は木魚まで製作できる。
 7-26、MIの戦訓に鑑みて、『比叡』による曳航訓練をしてみた。5~6節。

 8-26。一昨日の空襲で『翔鶴』が回避運動したとき、戦闘機×1が海中転落。それについていた兵が6名、戦死した。 ※戦闘中なので拾ってもらえず、見棄てられたのか。

 S17-10-17時点で『瑞鶴』搭乗員の練度はよそ目にも低下し、珊瑚海のときのような戦果は二度と期待できないと悟る。

 S17-12-31、ガ島に陸海の飛行機を運ぶ。甲板にも多数繋止。対潜警戒機を飛ばすときには、前後に移動させた。

 S18-1にトラックから『陸奥』を連れて出た。『陸奥』が遅いので、16ノット航海となり、気が気ではなかった。

▼横井俊幸『帝国海軍機密室』S28-11
 軍令部の第3部は、大使館附武官、新聞雑誌図書、敵人との会談、諜者の利用を担任。
 第4部は、通信諜報と暗号解読をしていた。

 満州事変直後のS7に日米関係が緊張した。そのとき、米艦のことがすこしもわからないと自覚した。

 S7-10に、サンフランシスコにアパートを借り、無線機を据え付け、米海軍の通信系からまず解明しようとした。
 ロングビーチでは、長波と中波を傍受し、コルセア観測機からの遠弾/近弾の通報をノートした。その結果、米海軍は、訓練燃料を日本海軍の3倍、訓練用弾薬は5倍使っていることや、航空と通信で一日の長があることも判明した。また、それまでの思い込みとは異なり、砲術技倆も高いと知った(p.15)。

 S5~6年に、軍令部第4課別室というのがあり、これが日本版のブラックチェンバーだった。

 中国の暗号はなぜすぐ解けてしまうのかの説明(p.27)。
 英国の暗号は、米国の暗号よりも複雑で、全然歯が立たなかった(p.29)。

 英外交機関は、最重要電報は、海底ケーブルを使って送受していることも分かった(p.41)。

 ストリップサイファーは米国務省が1938年から使い始めた。
 アルファベットの無限特乱で、1941からは米海軍もこれに切り換えた。
 日本は終戦まで、これを解けなかった。

 上海をめぐる空戦では、X機関が、中国の作戦命令を解読していた。

 米潜が、0600、1200、1800に位置を報告する略語は、解読していた。輸送船団に関するコードも(pp.124-5)。
 沖縄への航空攻撃でも、その命令が読まれていて、敵はその都度、フネを南に下げていたのである(p.144)。

 潜水艦『イ-16』は、S17春にロレアンに向かい、7月15日に入港した。往路は、タングステン、生ゴム、モリブデンを載せて行き、帰路は、電波平気などの図面とサンプルを持ち帰り、シンガポールに一部を揚げ、その後、英機雷にやられた。遠藤艦長と乗員の三分の二が殉職。

 S18に、Uボート×2隻が贈られた。S17にドイツ船にて航空魚雷×30本をプレゼントした返礼。これはハワイで使ったタイプで、予定では500本くれてやるつもりだった。
 このうち1号潜水艦は独人が操艦してペナンに着いたが、2号潜水艦は日本人が操艦していたところ大西洋上で英軍航空機に発見され、沈められた。

 爾後はインド洋上でのランデブーに切り換えた。日本の潜水艦から火箭でUボートまで導索をわたし、ボートで、図面と金塊をトレードした。

▼学習院輔仁会ed.『乃木院長記念録』大3-10
 小笠原御用掛・他 監修

 伝聞は採用しない。各自が親しく見聞したところのみ。
 学習院長に、という誘いは日露戦争の前からあった。

 M40-7-21、相州の片瀬で游泳、& 狭窄射撃。
 M41-7-12、同じく。
 M42-7-21、狭窄射撃。

 学生は、自室以外は、掃除をしなかった。

 M42-12-24~25、習志野原御猟場で兎狩。学生九十余名、他。
 ホーリャ、ホリャ と言いながら追い詰める。
 兎汁にして喰った。

 先年、英国で組織せられたボーイ・スカウト。M44-9。
 陸軍中将ボーデン・パウヱル氏発案。
 蓆を織る競争まであり。
 続いてすぐロシア、ドイツが真似をしたという。

 饂飩粉を白布で包んだ毬を投げ合う、多摩川の擬戦。※その昔は石を投げていた危ない遊びだ。

 M45-8-8~9、大森射的場で華族会館の射的奨励会。

 中耳炎で入院中、殿下方の御近状の報告に接するときは がばと跳ね起き、居ずまいひを正し、報告者を恐縮させた。

 欧州で見た仏軍兵士は昼飯が自宅。2~3時間も休みがあり、公園で女と戯れていた。ドイツ、イギリスはさうでない。
 日本の鉄道の駅名は、寒村であっても、ローマ字併記であった。

 ルーマニアが石油が多い国であることは明治時代から知られていた。

 痔のため朝のトイレは20分~30分かかった。

 快心の折は、右手を頭にあてて哄笑するのが乃木(p.147)。

 毎春、寒稽古の終に、豚1頭(14~15円)を寄贈する。これ学生等に刀を以て豚切りを試みしめん為なり(p.149)。

 眼鏡は鉄線。
 1人で読書するときは、必ず音読であった。それは眠気覚ましらしかった。
 歯が悪いので獣肉を苦手とし、硬くない魚肉を嗜好した。
 薑[しょうが]、奈良漬、唐辛子はダメだった。

 擦り傷の幼年学生に、「土を塗って置けば治る」と言った(p.253)。

 韓国国旗があった。韓国皇太子(のちの李垠殿下)の台覧あり。

 一個の柔らかなゴム毬を投げて遊ぶのに、砲台ではあるまいし、コンクリートなどで造るとは。硬い方の毬(野球)を遊ぶに……無理に方形でなくとも、細長い場所で事が足りるではないか。

 豚は道場で斬らせた(p.313)。
 有志のものをして之を切り屠らしむ。最後に自ら刀を振り上げて豚を切らる(pp.314-5)。

 豚は据え物として切らせている(pp.316-7)。※生死は不明だが、道場内なら血を抜いてあるだろう。

 自刃のときに飼っていた「寿号」はステッセルから贈られたものではなく、それとは血縁の無い「2号」。血縁があったのは「乃木号」。

 片瀬では、乃木の命で、和船の漕ぎ方も教えた。棹のさし方も。

 学生は赤色の褌を締めることになっていたが、体裁が悪いと、追々贅沢な猿股を用ふる者が多くなった。乃木は、褌は人命救助のためだと説いた。※魁!男塾の元ネタか?

 揮毫を頼まれると……私は汗をかくと耻をかくとはよくやりますが、字はかきません。

 川村理助という人が、紙鉛筆を発明した。

 男子学生相互の「失敬」という挨拶を嫌った。それで周りで「御機嫌よう」を考えた。

 イートンでは部外からの参観者(乃木)をジロジロ見なかった。フランスのリセーでは、ジロジロ見た。

 ルーマニアでは、1904年式野砲と、1908年式乗馬野砲を見た。

 中耳炎になったあと、左耳はときどき、耳鳴りした。
 右足のレントゲン写真(p.498)。西南戦争で被弾したときの、鉛の細片が、親指のマタあたりに残っているのがわかる。
 冬は、肩と肘にリューマチスが出た。

 吉田清一・予備中将いわく。乃木の連隊長時代、陸軍では射的が非常に盛行。それは十年の役で、上下ともにひとしくその必要を痛感していたから。

 将校は皆、軍用鞄を渡された。小型で、演習や旅行に用いた。

 丸亀時代(明治24~25年)、軍隊の敬礼の方法が粗雑に流れ、軍帽などは洋行者が帰る毎に新型とか何式だとかいって色々なものを拵えている有様。乃木憤慨。

 Punctuality なし。院長時代、8艘の端艇が予定通り揃わず、2艘のみで時間通りに始めたことあり。乃木はそれを褒めた。

 M40に院長いわく。世の中に立って倹素質実な生活をするには勇気が要る。然るに勇気は常に修養をして居らぬと鈍ってしまう。

 ドイツにては国務大臣といえども、中尉、大尉の資格あれば、晴れの場所には軍服を着けて臨む。まして少将以上で、どうして背広で来るか。

 日清戦争の酷寒中、ずっと馬に乗り放し。その忍耐というたら人わざでないと思はれる程であった。

 帰朝直後。モルトケ将軍の居室には藤椅子×1あるのみで、立ちながら30分ばかり話してきたが、質素簡易なことに実に敬服した、と(p.561)。

 日露戦争中の乗馬マント。将官用は、裏地が赤かった。

 あるとき病院で、青森の卒で両手なき者が、鉤状義手で巧みに用を足しているのを見て、乃木は、屈伸自在のヤットコ状の義手を考案。それは物をつまんで移すこともできた。東京砲兵工廠の砲兵少佐[ママ]、南部麒次郎と「段々談し[ママ]合うて出来上りたるものなりと。」(以上、石黒男爵)(pp.593-6)。

 この話は『国家医学会雑誌』234号が初載で、同誌編集者は、南部少佐と村田技師[ママ]に確認インタビューし、しかも村田技師に図面も2つ製作してもらった。それを同誌に載せた。

 グリフィス博士、松平春嶽に招かれて維新後の福井藩で教育。『皇国』という日本紹介の書もある。

 乃木は素行の『中朝事実』(オール漢文)を活版にしたが、句読返点もなく、もらった人は読めはしなかったであろう。
 乃木は英書、独書も、読めなかっただろう。以上、井上哲次郎。

 ゴルツの兵書と、ツェペリン伯の『空中の占領』が届き、前者を参本で訳させているうちに、自刃。
 遠足 は Outing の訳語?

 福澤がM15とM21に出した『帝室論』と『尊王論』がM41にまとめて再刊されたのを乃木は読んで激賞。「論旨徹底、逼らず、激せず、綽綽として余裕あり」と。

 前原の実父、佐世彦七は、自殺が遅れたため捕手に向はれ、俄かに腹に突立てたがおそく、獄中病死。玉木はこれを怖れた(p.925)。

 正諠や小太郎(松蔭の甥)やその他の者の親達に対しても、生きては居られない。

 玉木は松蔭の妹らの見る前で腹を切り、咽喉を貫いて、型の如く死んだ。67歳(p.927)。

 日原素平翁いわく。乃木は顔も歩き様、ものの言いようも、希次似だと。
 つきとばし事件も、この人の談話が、オリジナルで載っている(pp.~944)。
 慶応元年は、乃木17歳。

 19里を帰省するのに、はきものはいつも足駄。
 台湾の寿子の墓写真あり。

 素行や松蔭の名が出たときは、杯を下に置いた。
 謡は舟弁慶のみ。

 全将揃い写真の中で、乃木のみが、古い肋骨服。他には大島久直大将か天皇ぐらいだった。
 稗は、水田より畑の方がよくできる。
 各藩には、救荒用の稗蔵があった。

 乃木、伏見聯隊にいたとき、炊事当番にあたり、焚き方よろしからず、営倉に入れられたることあり(p.1047)。