旧資料備忘摘録 2020-5-21 Up

▼『特集文藝春秋』S30-12月号「日本陸海軍の総決算」
 (pp.232~) 「海戦風雲録――提督座談会」。
 豊田副武、原忠一、福留繁、草鹿龍之介、小柳冨次、伊藤正徳。

 福留いわく。天皇の下に「政府の陸相」「政府の海相」「統帥部」「参謀総長」「軍令部(総)長」の5つがあった。合議制でまとまらぬときは、御者のない五頭立て馬車。いちばん強い馬に従う。
 他に、関東軍司令官、朝鮮軍司令官、聯合艦隊司令長官も、天皇に直隷。

 豊田いわく。「……しかし実際は海軍は今まで大きな豫算をとつて軍備の充實をして、西太平洋は完全に日本海軍が取るんだ、ということを宣伝している。それを今この際になつて、對英米戦争自信なし、とは、どうしても國民に對して言えないんだというのです。……これは及川古志郎海軍大臣の口から聞いたことです。」

 福留いわく。山本は、阻止すれば混乱、ついで戦争必至説。古賀は、内乱では国は潰れない説。

 豊田いわく。中枢では、英独戦争はドイツに有利だと考えていた。また太平洋では日本は「存亡を賭した絶対的な戦争」をするのに対し、アメリカは「存亡には関係ない。そんな戦争に大きな犠牲を払うことになると、アメリカ国民がいつまでも旺盛な戦意を継続するかどうか判らん。この二つを考えると、グアーンと一つ、出鼻を挫いてやれば、案外うまくいくんじやないか、といつたような甘つちよろい、希望的観測が」あった。

 草鹿いわく。軍令部で「対英米作戦」を立てにゃならぬ。二国も相手にどうするんだという気持ちはあった。

 福留いわく。日本は2600年敗けたことがないから何とかなるという声を偉い責任者から聞いた。

 小柳いわく。艦隊にいたけどS16に入ってから雲行きが険しくなったと感知していた。

 福留いわく。「持久戦、長期戦になりうる。その間に平和のチヤンスも出てくるだろう。こういうことは計画的にも立てておつたんです。」

 原は監獄へ入った。

 豊田いわく。横鎮と軍令部とGFの図上演習をやった。対米軍備のシミュレーションだったが、そのあとの研究会で大先輩が「今の世界情勢では、アメリカだけの問題じやないんだ。イギリスだつてある。対英、対米の戦争準備を考えなければ役に立たん」といわれ、皆、呆気にとられた。その後も、対英米同時戦争計画は一度も研究せず。やり出したのは16年からだろう。

 豊田。米の作戦について。「感心するのは、金持ちなら金にものを言わしてやつているうちに、堕落するか、ミステークをやるんだけれども、アメリカにはそれがないですね」

 原。空襲はトラックでもどこでも大爆撃を二日やる。日本は相撲と同じでドンと押し出し、勝ち名乗りをもらって引き退がる。米はレスリングで、それでは終わらせない。

 草鹿、おおむね、自著通りのMI弁明を繰り返す。

 伊藤。「しかし彼等の爆弾が、よくあんなに当つたもんだと思うんだけれども」

 草鹿。「いや、そんなに当りやしませんよ。数は少いです。当たつたのは二発か三発だけれども、当ると飛行機が燃え出す、燃えると、積んだ魚雷や爆弾が自爆するし、誘爆する。これはひどいもんです」

 豊田。なぜMIやったか分からん。

 福留。あそこを占領して、敵をおびき出し、マーシャルから迎撃しようとした、と。

 福留。「ラバウルに海上航空兵力を揚げた基地航空戦も、いつまで経つても向うが来ないから、焦つてああいうこと〔山本のMI構想〕を考えられたんです。」

 福留。山本は、ハワイのみ成功。MIとラバウルで失敗。「功罪相半ばする。」

 豊田。MIのとき、呉にいたが、運送船や油船の監督官までが皆、MIへ行くと知っていた。

 豊田。11月に「聯合艦隊作戦命令第一号」を徴傭船へ間違えて送り、その船長が見てしまった、という事件があった。

 243ページ。豊田と草鹿は、陸軍の三八式歩兵銃が非常によく出来ていて教えられるという意見で一致。尾栓を、手袋をはめたままの手で分解でき、たった五、六個しか部品がない。
 小柳いわく。進んだ国ほど、機械は簡単になるのだ。

 pp.132~。富岡定俊(開戦時に軍令部作戦課長。終戦時に軍令部の第一部長)。
 「開戦前から、私はこの戦争を有限戦争と見ていた。これは、私の非常な誤りであった。」
 有限戦争は、対等の講和で終わる。
 無限戦争は、殲滅か無条件降伏で終わる。

 真珠湾のタンクに油が入っているとは思っていなかった。日本でさえ地下式にしているのだから、アメリカならば……と思っていた。地上タンクに入れておくわけがない、と。

 月齢は、中間くらいがよかった。満月だと先にみつかってしまう。

 それと、月曜出港のパターンを知っていたので、12-7を狙った。
 その次のチャンスは17年3月だった。それでは油がなくなる。

 2年経ってオーストラリアに日本の十倍の飛行機を集められたら勝てない、というので、ガダルカナルとポートモレスビーに出た。陸軍はオーストラリア占領に5~6個師団も出せんというので、これが軍令部の案。
 GFはしかし、それより先にMIだと言い張った。それが通った。

▼『丸 別冊 第7号 運命の海戦(ミッドウェー敗残記)』S62-11-15 潮書房pub.
 「源田参謀への21の質問状」(pp.268~281)。
 質問は本誌。
 MI作戦の構想を聞いたのは、S17-4-19であった。
 そこで、戦艦主義は失当。五航戦復活まで待て。搭乗員入れ替え計画があるが、摺り合わせに3ヶ月かかる、と注文した。

 ドーリトル空襲は4-18であった。
 これは米側として、日本の戦艦主力を誘い出そうとしたのかもしれない。
 大航続力のB-25を使われ、対応策がないために、心理ショックが尾を引いた。

 大型陸上機では、照準器の関係で、アメリカに数歩、譲っていた。

 「私は胃腸の調子が悪くて私室で休養していたのであるが、例の変針電報以来、無理を承知で、艦橋において勤務した。」
 ※淵田は盲腸、山本も腹痛という符合。

 数日前から発熱のため、自室で臥っていた。大事な空襲当日に備えて静養していたのだ。

 山本が『大和』で沖に出たのは、タマの届かないところにいては……という批判もあったらしい。
 源田の考えでは、GF司令長官の将旗は一航艦旗艦に掲げるべきであった。

 Q:索敵計画は航空乙参謀が立案するのでは?
 A:起案はそうだが、実行させたのは自分である。

 淵田は「総飛行隊長」だった。その代わりが友永。
 友永は支那では経験あるが、12-8以来、実戦に参加していなかった。

 艦攻に戦闘機をつけてやるべきかどうか、収容を先にすべきかどうか、「こんな問題は主要参謀が揃っている艦橋でやった。作戦担当の私が皆の前で発言し、長官の了承を得ることで、ほとんど片づいた。異論を持つものは、その席で所見を開陳するのが例であった。」

 草鹿、大石はほとんどイニシアチブとらず、たまに南雲が発言するくらい。
 山口の進言を斥けたのは、支那事変で、護衛戦闘機のない攻撃隊はひどい目に遭うと分かっていたので、36機の艦爆を丸裸では送り出せなかった。レーダーにより、100機以上の敵戦闘機が待ち構えていると信じた。

 けっきょく、「六割海軍でありながら、旧式の戦艦主力主義で作戦構想を固めたところに基本的な誤りがある。」

 以下、三代一就[かずなり](中佐で軍令部にいた)。
 MI占領案には反対した。理由。小さい島なので、占領後に敵戦艦が砲撃すれば、航空基地を破壊され、ハワイ監視もできない。そこへあくまで航空機を補充し続けたら、他の作戦は不能になる。

 ドーリトル空襲をうけて陸軍も、初めて、海軍の積極広域作戦に理解を示し、支持協力する気になった。

 MIは干満差はないが6月の風が最も少ない。リーフを越える面倒があるので、前夜半に月明があってはまずい。そこで、半月が真夜中に出る6月7日を上陸日に選んだ。

 吉岡参謀は、艦攻を減らすのが惜しくて索敵に使えなかった――と戦後に回想している。

 以下、高橋勝一。潜水艦隊の通信参謀の少佐。
 MI作戦中は、東京でキーを押せば、船橋送信所から電波が飛んだ。

 敵空母らしい呼出符号が聞こえたという電報は、きっと、『赤城』に届いたのが夜であったため、参謀長や首席参謀などの私室への、届け洩れが生じたのだろう。

 亀井。
 軍令部のFS作戦なら、基地航空隊のカバーで行けた、と、軍令部第一課部員の佐薙毅[さなぎさだむ](兵50期、終戦時は大佐。ガ島戦中から終戦までずっとラバウル)が言ったと。

 杉山績[いさお](『赤城』の主計中尉)。
 草鹿はオープンな大阪人だった。
 源田はとっつきにくかった。

 「発着配置につけ」
 「機械発動」
 飛行長の号令一下、キューンキューンとセルモーターの音がしたと思うと、パッと白い煙を吐いてブルンブルン、ブルブルブルとエンジンが次々にかかっていく。
 飛行甲板の夜間照明灯がイルミネーションのようだ。
 戦闘機と違い、艦爆のエンジン音は、重く腹にこたえる。

 空母の甲板を零戦のMGが時々舐めて行った。
 体当たり機は、右前方からブリッヂ直前を通って海に突入した。パイロットは機上死していたらしい。
 これはMI島から来た波であった。

 4時45分頃からB-17の執拗な攻撃を受け始めた。
 ソロモンでは250kg爆弾×8個を、落としてきた。

 「トップデッキ」の下に「戦闘艦橋」があり、そこに草鹿がいて、『利根』の最初の電を聞いた。
 かなり荒々しい調子で「もっと正確かつ詳細に打電するよう、利根索敵機あて督促の無電発信を命じた」のを見た。
 これにより第2電、第3電が来た。※本書からは、どうも南雲のイニシアチブで再雷装となった感じを受ける。山口進言を退けたのも。

 牧島報道班員の談。
 一次攻撃隊が帰ってきて、千早大尉や山田大尉が着艦後すぐ艦橋に上がってきて、淵田と会話を交わすのを見た。MIのイースタン島に、滑走路が1本ではなく3本あったこと、サンド島のAAの凄さ、などなど……。

 米艦攻は、高度も高く、距離も遠かった。

 『加賀』の被弾を『赤城』のトップデッキから見た。この人は戦闘記録を記注していた。
 爆弾がいつまでも丸ければ当たる。細長く見えたら、それは逸れるのである。

 『赤城』への第2弾、第3弾が「飛行甲板に出してあった攻撃機のガソリンに引火して火災となった」。
 「戦闘艦橋では、右前隅に南雲長官、その後方に草鹿参謀長、源田航空甲参謀、吉岡忠一航空乙参謀(中佐)、その他の幕僚が控えており、左前隅に青木恭二郎大佐(赤城艦長)、中央の操舵機のうしろに三浦義四郎航海長(中佐)が、それぞれ立っている。」

 艦橋の下からペイントの焼ける匂いが強く鼻をつく。
 飛行甲板の付近のペイントはシューシューと燃えていた。

 火事でラッタルは使えなかった。
 艦橋の窓から、マントレットの紐づたいに、まず南雲、ついで草鹿が、飛行甲板へ降りた。
 つまり草鹿は被弾時にたしかにブリッヂ内に居た。

 甲板の排水口には、潮水ならぬ血が流入していた。

 山口は、他の母艦機が200浬の索敵をやるのなら、ウチは300海里だと意気込んでいたという。

 牧島は、『赤城』の被弾時、たった一人でトップデッキに居た。

 『長良』に移乗してきた青木艦長には自決防止の見張りがついた。「艦長が艦と運命をともにするという風習は、英国海軍や帝国海軍の常識であり、伝統ではあるが、……」(p.106)。

 米雷撃機をバタバタと落とすところ、ムービー3本で牧島は撮影したのだが、そのフィルムは『赤城』に置いてきた。

 ※海軍が「できないこと」を陸軍が事前に察しなかったために、日本はえらいことになった。

▼横井俊幸『帝国海軍の悲劇』生活新社 S27-8 pub.
 これは演習ではない、のアナウンスは、 Air raid on Pearl. This is not drill.

 源田は第二次攻撃を主張。
 草鹿は、敵空母を理由に反対。
 大石は、敵重爆を例に、反対した。

 軍令部は、潜水艦主義だった。
 山本は航空機主義で、軍令部に反抗してハワイをやった。

 「春秋の筆法を以てすれば『統帥権』の独立があの惨憺たる敗戦を招いたのだとも言えないことはない。」(pp.26-7)。

 ポートダーウィン空襲は、英蘭部隊のバリ島占領に備えるため。
  ※筆者の口吻にはアンチ山本の傾きがある。

 軍令部は、オーストラリアなら無人の野を征ける。が、東進すれば消耗戦だと見ていて、山本に2ヶ月間反対し続けたが、ドーリトル空襲を機に、押し切られた。

 宇垣は、S17-1-14に幕僚に対し、ハワイを占領して敵艦隊と決戦すべく、6月にミッドウェーを占領する研究を命じた。

 痛烈批判。珊瑚海では、四艦隊の司令部と五航戦の司令官・原少将だダメだった。勝ったのはパイロットのおかげで、戦略にも戦術にも何等、見るべきものがない(p.53)。

 ウェーク島は離着水面積が狭くて、2式飛行艇は使えない(p.56)。

 草鹿は、お小手、お胴のような小業が嫌いで、面のみ。源田は「気狂源」と言われていて、戦闘機でなけりゃ夜も日も明けない(p.68)。

 「七時三十分 準備完了 発進の予定」という艦内電話があったという(p.71)。※それで『赤城』が被弾したのが7時24分なので、草鹿は《あと5分》と書いたのか? 格納甲板で兵装転換が0730に終わっても、すぐに飛行機が発艦できたわけではない。

 宇垣の手記の『戦藻録』にいわく。事前研究で第二段は対艦用に控置させるよう改めさせたのは自分である。しかし側方偵察に艦上機をたった2機しか使っていないのは非常識。これは油断だ、と。

 筆者いう。第四艦隊司令部が消極退嬰で、モレスビーをとれなかったから、MI後になってソロモン海域を固めざるを得なくなった。
 『鳥海』のブリッヂに当たった20ミリ弾は信管が遅働だったのか、スッポ抜けた。

 『青葉』ブリッジに飛び込んだタマも盲弾だった。

 南太平洋海戦では米は戦艦を囮にして引き付け、側面から空母で襲った。

▼九一会ed.『航空魚雷ノート』S60-7
 91式魚雷には、推進器の先行回転滑脱装置、空中雷道整定用框板、左右傾斜修正用安定機、着水衝撃緩衝被帽 がついていた。

 表1によれば、MI海戦では ただの「九一式」を使ったことになっている。「改一」ですらなかった。

 米軍の「マーク13」魚雷は、径572ミリ、全長4115ミリ、重さ874kg、炸薬181kgであった。
 英軍の航空魚雷は、径453ミリ、全重743kg、炸薬173kg。
 伊の航空魚雷は、径530ミリ、炸薬250kg。

 米の燃料はメチルアルコール。英のは石油。
 日本の航空魚雷の装気圧は、九一式では 180kg/平方センチ で、高くない。むしろ米英の魚雷より低圧であった。

 「91式改2」航空魚雷は、炸薬が204kg、機関は200馬力の星型8気筒。
 縦舵機は、水平、垂直の2環でフリー支持された高速回転gyroである。

 『飛龍』の松村平太と『赤城』の後藤仁一(どちらも艦攻乗り)は、各地を転戦したが、会敵できなかった場合には、勿体なくて魚雷を抱いたまま基地へ帰った、と(pp.149-151)。

 投下スイッチON。
 抱締装置爆管点火。
 抱締解除。抱締ワイヤーは落下。

 魚雷落下。
 機体側に締結されている魚雷発動桿が魚雷から抜けることで、縦舵機と安定機のジャイロが発動。
 桿は機体に残ったまま。

 安定機は、転動防止用で、あてかじ左右10度。
 水中に入ると、2重反転スクリューの制止解除。

 機関が空気圧のみで冷走を始め、横舵制止解除。深度計発動。
 機関が熱走開始(射入水圧で発動板が倒れ、燃焼機が発動することによる)。

 頭部安全装置解除。

 空中で250m+水中で750mとすると、投下から当たるまで50秒もかかっていた。

▼生出[おいで]寿『特攻長官・大西瀧治郎』1984
 陸海の特攻で合計3600人戦死。
 ※著者のスタンスは、大西嫌い。

 S20-3の聯合艦隊会議で、草鹿GF参謀長が話す。航空燃料がなく、1機1ヵ月15時間しか飛ばせぬこととなった。九三中練×4000機も航空特攻に出す、と。

 著者は、戦闘機の劣勢が敗因であると考える。それについては戦闘機無用論者だった源田と小園安名の責任が重く、それに次いでいるのが大西と山本だとする。
 戦闘機無用論にS10~S12-8まで激しく反対したのは、兵学校52期の柴田武雄のみであった。

 無用論の中心が横空。主唱者は、同航空隊の戦闘機分隊長・源田實であった。
 横空内で、印刷文書による論戦が起きた。

 柴田には「仮称海軍戦闘機隊資料」があるという。
 山本、大西、源田らは、限られた予算をできるだけたくさん、急降下爆撃機や雷撃機にまわさせようとした。そのポシションからの戦闘機無用論であった。

 戦闘機重視派は、戦艦重視主義に歩み寄るから有害であると彼らは思った。
 米海軍も、空母搭載機の半数を戦闘機にしていた。米海軍も戦艦中心主義だからだ。

▼秋永芳郎『海鷲の割腹 海軍中将大西瀧治郎』S58
 ※『丸』に連載された記事で、二次資料に依拠している。
 S11の聯合艦隊演習で、『長門』『陸奥』以下の戦艦群に、基地航空隊が襲い掛かり、BB側大敗と判定された。
 その研究会で、木更津空の飛行隊の柴田少佐らが戦艦無用論を正面から説いた。

 艦本は、「萬和通商」という特別機関を設けてS16頃、軍需物資の収集にあたっていた。

 S18-11-1、新設の軍需省・航空兵器総局の総務部長に……。

▼門司親徳『回想の大西瀧治郎 第一航空艦隊副官の述憶』1989
 著者は大6生まれ、短現で、台湾沖以降のことしか目撃していない。

 草柳の『特攻の思想』がまずS46から『諸君』に連載開始。命ずる側の論理に迫り、妻の話もあり、影響が強かった。この本のスピンオフのような映画が、S49の東映『あゝ決戦航空隊』(鶴田浩二)である。

▼Gordon W. Prange 著、千早正隆tr.『ミッドウェーの奇跡(上)(下)』1984、原1982.
 友永は『飛龍』所属だが、『蒼龍』の九七艦攻も率いて36機でMIに向かった。
 MIには『加賀』の小川大尉の率いる36機の九九艦爆も向かった。

 戦闘機は各空母から9機づつ、計36機。『蒼龍』の菅波大尉が指揮。
 空母上空には『加賀』と『赤城』が零戦×9機づつを飛ばしてCAP。

 フォードいわく。日本軍はその日の午後にも使用するつもりだったのか、滑走路には攻撃を加えなかった。

 以下、下巻。
 TBFはMI作戦時には無名だったが、その無念を銘記すべく「アベンジャー」と名付けられた。

 滑走路はサンド島にあり。
 MI島にはTBF×6機の他、B-26×4機。それ以外、雷撃できる飛行機なし。

 『ヨークタウン』は最初に索敵機としてSBD×10機を飛ばした。
 最初のB-17は各機8発づつがフル装備だった。
 TBD「デバステイター」は3隻の空母から41機を出した。

 SBDは早々と日本艦隊の外周艦によって発見され、南雲はCAPの戦闘機をそれに向かわせることもできたが、魚雷をあまりに重視していたので、全機がTBDへ向けられた(p.62)。

 『ヨークタウン』への1弾は、飛行甲板を反跳して艦橋構造物を暴れ回って煙突内で炸裂した。※??

 米海軍航空隊は、戦前、日本の戦闘機よりも日本艦隊のAAの方が脅威であると考えていた。だから味方戦闘機の護衛なしで、躊躇なくSBDのみやTBDのみで突撃した(p.247)。

 ※インド洋ですでに危なかったのだという話は、千早が早くしていた。

▼サミュエル・エリオット・モリソン著、中野五郎tr.『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史 第三巻 珊瑚海・ミッドウエー島・潜水艦各作戦(上)』S25
 『ヨークタウン』に珊瑚海で当たったのは「800ポンド爆弾」1発だったとする。それは第4甲板まで貫通した。
 このころの米海軍は純情で、『レキシントン』が沈むのを、生き残り水兵は皆、声を上げて泣いて見送った。

 MIからのB-17は各機とも8500ポンドの爆弾を投下した。※8発で割れば1000ポンド強となる。

 MI海戦で、第6偵察爆撃中隊のウィリアム・ギャラハー大尉の爆撃機中隊は、軽量の500ポンド爆弾を搭載していた。それは彼のSBDがこの朝、最初に『エンタープライズ』を飛び出すのだが、他機も並んでいるために、飛行甲板の前半分しか滑走することができないため。続くベスト大尉の爆撃中隊は、それよりあとから発進したので、重い1000ポンド爆弾を抱えて発艦できた(p.280)。

 そして日本側に不運なことには、このベスト中隊の第2分隊の3機は、マクラスキーに命ぜられた『赤城』ではなく、まちがって『加賀』に投弾した。日本の空母はすべて1000ポンド爆弾を喰らうことになった。

 『赤城』への第2弾は格納庫の中で爆発し、そこに貯蔵されていた航空魚雷を轟発させた。
 『蒼龍』には1000ポンド爆弾×3発が命中した(p.289)。

 『蒼龍』は艦尾のガソリン庫が爆発して、後半部から沈み、ついで前半部も爆発して全没した。

 『ヨークタウン』への第1弾はAAでやられた体勢であったため、横弾となり、甲板で炸裂した可能性もある。※あり得るのではないか。

 MI島の6機のB-17は、味方の潜水艦を誤爆し、1000キロ[ママ]爆弾を20発投下したという。
 MIに6-6に到着したばかりのB-24×4機は、500ポンド爆弾×4発と、増槽をつけてウェーク島へ向かったが、途中で遭難した。

 『三隅』の写真、主砲塔の上に、B-17の残骸があるという。
 米の艦隊曳船は700~1200トンで、海軍として30隻程度、持っていた。

▼野村實『山元五十六再考』1996-4 中公文庫 原1988
 S16の上層部の判断。12月初旬までに開戦できなければ、天候気象が悪くなる。
 陸軍は、翌年3月には対ソ戦を開始したかったから、その前に早く南方を片付けねばならないと。

 ガ島に対する、第三艦隊(栗田武男中将)の『金剛』『榛名』が36cm砲でヘンダーソン飛行場を砲撃したのは、10月13日夜半。
 栗田は反対だったが、山本が、みずから『大和』を指揮して行くと言い出したので、栗田が呑んだ。
 発射したのは、主砲918発、副砲48発。
 金剛は三式通常弾×104発、1式徹甲弾331発、榛名は零式通常弾×189発、1式徹甲弾294発。

 役立たずな1式徹甲弾を発射しているのは、トラック泊地で通常弾への積み替えが間に合わなかったから。

 その次に『比叡』と『霧島』でまた砲撃するつもりと報告された天皇は、同じパターンを繰り返すことによって『初瀬』『八島』のようなことにならないかと危惧の念を示した。

 明治37年5月14日のこと。視界不良の曇天。敷設艦『アムール』と水雷艇6隻が、旅順港から出て、50個の機雷を、日本艦隊の常用航路を直角に横切るように、2kmにわたって転々と沈置した。監視していた日本艦隊はまったく気づかなかった。
 翌5月15日朝、梨羽時起[なしはときおき]少将の指揮する戦艦『初瀬』『敷島』『八島』以下の艦隊が、旅順港外のパトロールを反覆。
 午前11時前、旗艦の『初瀬』が触雷。すぐに『八島』も触雷(こっちは2回爆発)。
 初瀬は機械室に浸水。曳航の準備をしていたが、正午過ぎにふたたび触雷して火薬庫が爆発して沈没した。
 八島も傾斜を復元できず、午後遅く、投錨後に沈没した。

 6隻しかない戦艦のうち2隻が喪失した。特に『初瀬』は『三笠』と同型の最精鋭艦だった。

 日独防共協定交渉中の日本陸軍の暗号は、ドイツにおいて、ソ連の通信諜報班によって摂取されていた。

 山本が、艦隊派ではなくなり条約派になったのは、ロンドンから神戸に帰着した昭和5年6月17日だったのだろう。

▼堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録』光文社 1970-3
 ※とにかく面白い構成だったのだとつくづく感心する。

 長大な航続力要求は、96陸攻を護衛できない中支戦線の戦訓から。※対空母など考えてなかった。

 ドイツは省力量産を重視して、航空機の材料は贅沢に使っていた。大型鈑金のプレスなど。これはアメリカ式でもあった。日本や英国は、ちまちまと小さい部品からビルドアップする流儀。

 支那事変までは、航空撃滅戦、つまり敵飛行場の空襲に価値があると、陸海軍ともに信じていた。ところがじっさいには、敵のパイロットを殺すことが重要だとわかった。それには爆撃機で地上攻撃してもダメで、戦闘機が空戦で撃墜しなければならないのだ。
 ちなみに欧州には空戦主義のこの考えは最後までない。※だからヒトラーはジェット機は爆撃機にとこだわったのか。

 新聞紙の戦局報道が急に厳しく統制されたのは、軍上層が対米開戦を意識したS16の1月からだった。零戦の支那大陸での大活躍はS16-8まで続くのだが、それは国民には知らされなくなってしまった。

 ※次々に速度がUpする世界で、前の定説が次々と無効になる。

 開戦劈頭の比島の航空援護は小型空母×3でやるつもりだった。しかし大航続力の零戦があるおかげで、台湾から片道830kmを往復すればよいことになってしまった。増設タンクにより、6時間の巡航と、敵地で30分以上の全力空戦が可能に。

 幸運だったのは、当時の敵のP-36/40は、セルフシーリングのタンクではなかった。鋼鈑で防いでいるだけなので、20ミリ機銃弾で発火させることができた。

 B-17を世界で最初に撃墜したのは坂井三郎の編隊。しかし坂井は撃墜は不確実と報告していた。

 比島攻略戦では零戦は片道930kmを往復している〔数値が違っているのは、どちらかが誤記だと思われる〕。
 冬の鎌倉は、名古屋よりも暖かかった。
 F4Uコルセアがソロモンに出てきたのは、S18-3のこと。これが最初の好敵手だった。

 S20の1月~3月、堀越は、陸軍の戦闘機がB-29に体当たりするのを見た。5月、三菱の飛行機の試作部門は、家族とともに松本に疎開した。

 英国の航空評論家のW・グリーンは、零戦は、陸上戦闘機に勝てた最初の艦上戦闘機だった、と評価してくれた。

▼防研・戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦〔第9巻〕』S42-11
 「給油艦」のうち、極東丸、國津丸の2隻は、第二航空艦隊に、健洋丸、神國丸の2隻は第八戦隊に、東邦丸、東榮丸、日本丸の三隻は警戒隊に割り当て、補給速力は、警戒隊は当初9ノット。馴れるにしたがい12ノット。巡洋艦以上は、原則9ノット(p.279)。

 作戦プランにおいては、給油艦は、大型優速の最新鋭タンカー8隻を配属。
 極東丸は最大排水量10051総トン、最速19.3ノット、巡航16ノット。
 國洋丸は航海速力17ノット。

 健洋丸 最大20ノットで最速。
 日本丸がいちばん小型で9974総トン。

 あけぼの丸 は、p.232の「命令作第一号」(11月23日付)で、見えなくなっている。

 内地への最短ルートは、ミッドウェー付近を通る。
 ミッドウェー島砲撃の駆逐艦には、旧式給油艦『尻矢』をつけた。

 ハワイまで片道十数日行呈。
 使用速力は荒天を考慮し、9~14ノットで調節して、平均12ノットを期した。

 発艦後は20ノットで北方に退避、そこでも補給部隊から燃料補給を受け、瀬戸内海西部へ向かう。

 加賀、翔鶴、瑞鶴は航続距離が長く、他は短い。エレベーターはすべて3基。

 通信計画。
 本通信では、商船に似せた略語や、呼び出し符号を使わせることにした。
 機動部隊は内地出撃後は「電波戦闘管制」とし、最高度の電波輻射制限を行なう。

 攻撃隊発艦後は、「電波警戒管制」とし、通信担任艦を『霧島』とする。

 潜水艦に対しては、依佐美から超長波17.44キロサイクルで。

 機動部隊の内地出撃直後から、空母部隊が九州南部方面に行動中のように欺瞞通信を行なう。
 具体的には、鹿屋、大分、宇佐の航空隊と、柱島のGF主力部隊との間で、擬交信を行なう。

 また、標的艦『摂津』を南西諸島方面に派遣し、擬交信を行なう(p.178)。

 敵信傍受は旗艦赤城で行ない、赤城に有力な敵信班を配する。
 他に、第8、第3戦隊に、妨信担任艦が1隻づつ。
 択捉島からの一切の通信は禁止。

 S16は、S11以上に、アリューシャンは好天だった。

▼淵田・奥宮『ミッドウェー』日本出版共同(株) S26-3-5
 淵田はMIから帰ってきて、びっこのため後方勤務になった。それから戦訓調査を始めた。

 どうみても飛行甲板で第二次攻撃隊用の魚雷をとりつけたとしか思えぬ記述(p.157)。
 「兵は拙速を尊ぶ」(p.177)。
 小見出し「第七節 運命の五分間」

 淵田は被弾時、発着艦指揮所にいた。三度目は海中だ。しばらく下に下がり、煙ってきたのでまた艦橋に上ると、加賀も煙を出しているのを見た。左を見ると蒼龍も。そこから後甲板を見ると、まだまだ飛行機で埋まっている。

 艦橋から降りるときに、両足を折ってしまった。それで、スノコに巻かれて、『長良』へ。

▼軍艦瑞鶴会ed.『瑞鶴史』S54-10 非売品。
 整備は、航空兵器(魚雷)、艦戦、艦爆、艦攻、軽質油庫・倉庫 に分かれていた。

 南洋では、ひるま、白布でコクピットを覆って日陰にすることあり。

 エレベーターで零戦を上げるとき、整備員3人が主車輪下にうずくまる。フライトデッキ上にも3人、待ち構えている。もちろん主翼はハネ上げている。

 25ミリを撃ち続けていると、ラッパ管は、すっとんでしまう。
 兵卒整備兵は「三番リフト」と呼んでいた。

 航空魚雷は、2ヵ月に一度、全部、魚雷調整した。
 戦闘配置では、後甲板に航空魚雷を並べて調整する。 以上、整備科航空兵器員。

 戦闘配置につけ、のブザーが鳴ったとき、航空魚雷を約30本を段積みして、運搬車で。リフトで上甲板へ1本づつ上げる。自身は魚雷調整所で待機。

 珊瑚海海戦の前日、悪天候で引き返した艦爆と艦攻が、それぞれ兵装を抱いたままで着艦。収容したことがあった。こんなことをしたのは世界でもうちだけだろう(p.204)。

 セイロン作戦中は、爆弾と魚雷をつごう5~6回も付け換える騒ぎを目撃した。

 通信科は、第一受信室が艦橋下、第一送信機室は後甲板、第二送信機室は水線下の後部中央1m半。
 第二送信機室は兵隊6名+室長。送信は第一と第二を同時に使う。

▼児島襄[のぼる]『平和の失速(二)』H6-7
 対独最後通告分は、8-15午後の御前会議で決められた。回答期限は8月23日正午とされた。

 まず関係国への通告を優先するため、記者への発表は16日午後となった。
 15日夜、外務次官の松井慶四郎はドイツ大使館を訪れ、大使C・レックスに最後通告文を手渡した。大使は、本国との通信手段がないと苦情を述べた。
 それで、加藤外相は、駐米、英、露の大使館など国外計8箇所に通告文を打電。ドイツ大使館へ転電するように訓令した。

 駐独大使へは8-16に電報が配達されたが、船越代理大使はこう思った。
 通信事情を考慮したとしても、通常の最後通告期限は「十二時間乃至二十四時間」である。
 一週間というのは、最後通牒期限の新記録。
 しかもドイツ側の非を少しも説いていない、不手際な文章だ(pp.240-1)。

 8-23 午後6時、内閣書記官が出てきて、宣戦詔書を印刷した官報号外を記者たちに配りつつ朗読した

▼上野治男『米国の警察』S56-8
 ゴールドラッシュのカリフォルニア。1849~54に、4200人の殺人あり。よって1851にサンフランシスコに初の自警団 Vigilance Comittee ができ、3000人の市民を動員して山狩りして、殺人犯を人民裁判で絞首刑に処した。

 この方式は、アリゾナ、モンタナ、ネヴァダ、コロラドの鉱山にも普及した。

 バット・マスタースンとワイアット・アープは、アーカンソーで違法にバッファロー狩りをしていて知り合った。ダッヂシティで共にシェリフとなり、辞めたあとも、馬泥棒やインチキ賭博を続けた。在任中は、歩合制のため、やたらに逮捕した。

 テキサス・レインジャーは、同州警察の前身で、馬泥棒を取り締まるもの。入隊要件は、銃、馬、料理に長じていること。

 1850にアラン・ピンカートンが Pinkerton Detective Agency を設立。シカゴで。彼はその後、陸軍諜報部を設立し、リンカーンの暗殺を一度、防いでいる。※大統領就任直前に殺されるところであった危険な場所から汽車で脱出させた。

 婦人警官は1845に留置場の看守としてスタートした。
 外勤としては1893のシカゴ警察。少年と風俗担当。

 1794年、米連邦政府が、独立戦争後の財政を立て直すためウィスキーに課税したところ、ペンシルヴェニア州西部で「ウィスキー反乱」が起こり、ワシントン大統領は1万5000人のミリシャに動員をかけた。
 ※GWの任期は1797までだった。

 1865、シークレットサービスが創られる。
 もともとは南軍を偵察するための情報機関 Army Secret Service に由来。当時は唯一の調査機関。
 南軍は偽通貨で北部を脅かした。だから、財務省案件でもあった。

 1901-9のマッキンレー暗殺後、身辺警護も課された。

 T・ローズヴェルトは、シークレットサービスを「隠密」として駆使した。これが1908のFBI(司法省捜査局)の原型になった。

 1915、ウィルソンは、在米のドイツのスパイ狩りをSCに命じた。
 1930、ホワイトハウスポリスもSCの一部門になる。
 1940、外国VIPの警護もするようになる。

 すでに1776の対英戦争中に Provost Mershal (憲兵司令官)が任命されている。

▼村川一郎『アメリカ合衆国警察制度』S44
 ロンドン警視庁は自治体警察ではなく唯一の国家警察である。

 営利事業としての秘密の売春活動がもっとも盛んだったのは1910年代のシカゴ。公認で1000人以上。すべて、「政治ボス」の支配下。
 他に2000人の街娼、私娼。

 ミズーリ州の上院議員となるウィリアム・ケンナは、シカゴの売春事業により財をなした者。
 NYでも同様だが、1893から自浄の兆しが……。

 麻薬組織は1930年代から。マフィア組織が持ち込む。
 他に、賭博と中小企業恐喝。日本と同じ。
 タマニー・ホールは、アイランド人がつくった援助団体。
 ソ連とフランスには、自治体警察はなく、国家警察しかない。