▼防研史料〔ハコ まる27〕 空技廠『研究実験成績報告・戦闘機ノ武装ニ就テ』S18-7-23
『InterAvia』というイタリア語(?)の雑誌を訳している。
最初の空中戦の特性。
1914-10-5、機首に Hotckkiss MGを装備した Voisin 推進式複葉機が Aviatik 機を撃墜した。
1915中頃、フォッカーが同調装置を作り、1916春まで空を支配。
1916冬~1917にかけ、独は2梃MGとし、再び支配。
連合軍は強力な発動機と2梃MGで1918春、制空権を取り、リヒトホーフェンも死ぬ。
英、1918-8に Sopwith Dolphin にMG×4梃積み、夜戦の可能性をテストす。
1939のハリケーンとスピットファイアの8銃装備は、未曾有のことで、独仏では6梃がMaxであった。
プロペラ枚数が増すと、同調のためMGの本来のサイクルレートが制限されてしまい、機首銃のメリットは減った。
カノンは Voisin 推進複葉機に37ミリを積んだのが初めだが、それを除くと、Birkigt技師を社長とする Hispano Suiza が1917末に Guynemer の着想を具体化してV型発動機に機関砲を取り付けた。そのテストをしたのがFonk(ギヌメール既に死亡のため)。
機体は Spad で、火器は手動装填の37ミリ砲。
WWII勃発時にカノンだけを装備していた機体あり、独 Bloch 151 と、Heinkel He113特殊改修型。翼内2梃の20ミリを主砲に位置づけていたのは(特に)仏と独だけである。
仏では初期にMG×6梃のカーチス戦闘機と、20ミリ×1門+8mm×2梃の Morane 406 を装備したが、その経験では、カノンよりMGの方が有効なのはハッキリしていた。
失敗の因。炸裂弾にかける期待があまりに大きすぎた。
1934以降、戦闘機の翼面過重が大きくなった。すると強度も求められたから、20ミリ弾が命中してもバラバラになるようなことはなくなった。
このことは、エチオピア軍の20ミリAAで撃たれたイタリア機が実証した。
ところが1940-5~6月、独は燃料槽と座席に装甲を張ることによって、英戦闘機の多銃主義を一朝に葬った。
それでまた20ミリが模索されたが、イタリアは数年前から12.7ミリ級で回答していたのだ。しかも、炸裂弾として。
英がスピットIII やタイフーンを出しても、イタリアは今でも Fiat CR50 と Macchi 200 で13ミリを武装としている。
Me109Fは、13ミリ×2が機首同調で、プラス、15ミリのモーターカノン×1門。
軍用飛行機の装甲は、WWI中、対地攻撃機の飛び去り際の人的被害が大だったので、座席をカバーしたのが始まりである。
戦闘機に採用されたのは、1940夏の独英であった。
戦闘機や軽爆が、戦車を攻撃したのは、1937初期のスペインが始まり。
ソ連機が Guadalajara でイタリーの戦車隊を襲った。成功。これがドイツに影響を与える。
ソ米の37ミリMGは、やはり戦車用である。いかなる重戦車にも有効なのだという。
英の20ミリ初使用は1940-3月、20ミリの Hispano-Oerlikon が戦闘機に搭載された。※この情報が日本にとっては大きかったのか?
すなわちハリケーンII C(20ミリ×4門) と、スピットV(20ミリ×2+7.7×4)である。
▼防研史料 海軍航空本部『兵器関係綴(駐独武官の分)』S2-5-24~S17-10-8
S3-5-27、ベルリンの三菱商事からの電報で、マドセンの飛行機用MGを市川大佐にみせてあげた、と。
▼防研史料〔マル6/兵器/294〕『爆弾炸填通牒関係等』S12~13
S12-9-9の艦本の電報によると、急需に応ずるためか60kg陸用爆弾に88式、下瀬粉薬2号、91式(やはり粉薬)の3種を詰めていることがわかる。88式は下瀬粉薬2号がない場合の代用であった。
91式は下瀬に比べて鋳造比重が軽い。
そこで、6番陸 に下瀬を詰めるときは 38.000±3.5kgだが、91式なら36.000±3.5kgとするのはどうか(S12-10-19)by海軍火薬廠長。
S13-3頃になると、60kg陸用爆弾とともに「97式60kg陸爆」出てくる。
S13-7になり、25番陸に「改1」が出てくる。→97式爆薬を使うもの――これは「試製HZ爆薬」の前のもの→S14-1では、25番陸改1にはHZ(碎薬)を使うのが本筋となり、在庫のみ97爆薬。
S13-8でもまだ6番陸用爆弾に88式爆薬を使っている。
S13-9でも97式6番陸用爆弾に下瀬火薬2号を詰めている。
S14-8-29、ここで初めて「仮称98式25番陸用爆弾」登場。
試製HZか、91式(ヘキシル)を鋳填すべし、と。
S12-8-24の電では、60kg陸用爆弾には、下瀬/91式/94式 のどれかを鋳填しろ、と。※「94式爆薬」というものは他には見えず、おかしい。
S12-8-20の電報によると、やはり60番陸の内面には漆を塗っている。
S12-8-24、この時点で6番陸用爆弾には、91式爆薬/下瀬2号/88式爆薬 のどれかを詰めている。
91式2号爆薬 は、メタノール精製工程を省略したもので、S12-9-1にあり。
碎薬とは、魚雷炸薬などを再利用したものを言う。
▼防研史料 『60瓩通常爆弾2型』S8-9
これは流線形爆弾。
投下器各型も精密図付き。
頭部信管のみ。
予定重量 63.298±1.000kg。
炸薬 29.960kg。
外面は、頭から372ミリは緑(信管を除く)。尾翼端縁25ミリも緑。他は鼠色。
取り付けた形で、両側面に赤色中心線を描く。
▼防研史料 海軍航空廠『研究実験成績報告・飛行機兵装研究実験』S10-10-25
89式1号艦攻の旋回MGテストである。
しばしば留式7.7ミリの銃架が、不時着時に脱離し、搭乗者に致命傷を与えるので、そのマウントの強度を調べた。
原因は、取付螺釘の剪断による、と判明した。
なお留式は8.95kg、97発の弾倉は4.02kg、単装銃架改一は15.00kgであった。
リングマウント(銃架固定鐶)である。
そこに付けているボルトが折れ、マウントにも亀裂が入っていた。
▼防研史料 空技廠『研究実験成績報告 六番通常爆弾試製実験』S14-5-15
実験は鹿島でS13-12-13から、S14-4-7の期間に実施。
「試製6番通 1型」は「現制6番2型」に比し、性能一般に良好にして、実用に適するものと認められた。
この6番通1型の試作では「製造容易にして多量生産に適する事」が目途性能のひとつであった。
旧「6番通常爆弾2型」のデータは、「爆弾第28回実験」で取られていたという。
「空廠十三試6番通常爆弾1型」。
全長1130ミリ。
最大径226ミリ。
全重63.3kg。
炸薬30.0kg。
底部信管なし。
同筒形だが、頭部はなめらかに尖り、尾部はシンプルコーンである。
鹿島の擬甲板がよくわかる写真付き。
動物は、兎を使っていた。
弾片を拾い集めたところ、327~366個あり、その全部で8~9kgだった。
このとき、仮称97式爆弾投下管制器、同・爆弾投下電鍵、同・投下爆管あり。
火薬は下瀬である。
投下機体は九七艦攻で、6発一斉投下が可能。
▼防研史料 呉海軍工廠『研究実験成績報告・時計式時限信管試験』S14-8-5
40口径長の8糎高角砲から放つ砲弾用。
振子全体に焼入を施せる91式時限信管改1。
失敗は「盲弾」か「不羈秒時」。
20秒から40秒の間で調定できたようだ。
▼防研史料 空技廠『研究実験報告 爆弾第三十二回実験』S17-5-30
実験は、S14-9-11からS16-5-14までかけて実施された。
目的は、「仮称98式25番陸」「80番陸用」「97式6番陸用」「25番陸用」「98式7番6号爆弾」「98式7番6号爆弾2型」。
※6号爆弾は、親子式の対飛行機用爆弾。
仮称98式25番陸用爆弾は、毘式7.7ミリ固定MG3型改1のAPでは誘爆せず。
毘式12.7ミリ固定MG1型で撃たれると、不完爆を起こす。
ただし98式爆薬を充填した「改1」は、80番陸用爆弾改1の成績より推し、12.7ミリ弾が当たっても誘爆しないだろう。
98式7番6号は、400ミリ鉄筋コンクリートに4000mから落として発火するのはいいが、弾子の飛散は殆どない。
仮称98式25番陸用爆弾は、S16-8-29に、「98式25番陸用爆弾1型」と改称された。
98式7番6号爆弾は、S16-8-29をもって、「98式7番6号爆弾1型」と改称された。
98式7番6号爆弾2型は、衝撃により薬筒移動し、速火線を切断して不発となることがある。この不発を防止する対策をほどこしたものを「爆弾第48回実験」したところ、成績良好であった。
これを「98式7番6号爆弾2型改1」という。
80番陸は、6192~6324個の破片(265.3~279.5kg)を生ず。
80番陸用爆弾は、円筒形。
空弾 407.0±6.0kg。
炸薬 384.0kg、
全重 805.0kg。
仮称98式25番丙(※実験看板には数kgも異なる値が……。いいかげんなもんだ。)
空弾 142.600kg。
炸薬 96.600kg。
全重 242.200kg。
胴径 300ミリ。
25番陸用。
胴径 357ミリ。
空弾 110.0±4.0kg。
炸薬 150kg。
全重 250kg。
98式6番陸。
弾底信管なし。
胴径200ミリ。
空弾 35.6±1.4kg。
炸薬 23.3±0.6kg。
全重 60.5±2.0kg。
98式7番6号。
空弾 35.6±1.4kg。
全重 71.9±2.3kg。
弾体は98式6番陸用と同形。
弾子はテルミット。その周囲をエレクトロンで埋めている。
ねじり尾翼なし。
弾底信管なし。
頭に「吹上薬」を収めている。
98式7番6号爆弾2型。
胴径 240ミリ。
空弾 23.500kg。
全重 66.200kg。
頭部に放出薬を収め、中心剤はテルミット。
周囲に固形油を満たす。
弾底信管なし。
ねじれ尾翼なし。
4式特殊弾という砲弾が、12.7cmの50口径長用と40口径長用にあり、ともに初速は550m/秒。
45/40の91式APは、射距離6200mだと、落角3度30分となり、跳弾になってしまう。
▼防研史料 『空技廠雑報 米国の爆弾』S19-12-20
本土に落としたものを調べた。
その前に略語解説。
GPは万能の意味だが、実態は、地雷弾である。
SAP=セミ・アーマー・ピアシングは、1000ポンドの1種類のみ。陸上に対しても、艦船に対しても、用いる。
APは、1600ポンド1種のみ。対戦艦専用弾である。
焼夷弾はINC=incendiary 。
以下、実際に日本に落ちたもの。
「GP500ポンド AN-M64」
径360ミリ、全1440ミリ、肉厚10ミリ、重さ236kg=526ポンド。
アマトール(トロチル50+硝酸アンモン50)またはTNTを約55%有す。
弾頭は0.1秒、弾底は0.025秒。だいたい鉄筋建物の2階を侵徹してから、はぜる。
「INC 500ポンド M76」
弾体はGPと同じ。
重さ約200kg。
人造ゴムを石油に溶かし、エレクトロン切削屑を20%混入した油脂70リッター。
中心管に黄燐と炸薬。
瞬発(NON-DELEY)。
「FRAG〔破片〕 20ポンド M41」
径93ミリ、長さ480ミリ、重さ9kg。
極薄肉の容器に12mm×9mmの矩形断面の軟鋼製螺旋を巻いてある。おのおの、瞬発信管付き。
この弾子×6を抱締器に収めて投下。
「INC 6ポンド NP AN-M69」
径80ミリ、全長497ミリ、全重2.7kgの六角棒。
内に油脂1.1kg、その弾頭に発火炸薬。
尾部に70×1000ミリのリボン×4枚。
ゴム油脂。
これを38発まとめた容器は161kg。
「INC 4ポンド AN-M50-A2」
または
「INC 4ポンド AN-M50X-A3」(こっちは焼夷+炸裂)。
1.75kg、径48ミリ、全長545ミリの六角棒。
エレクトロン製弾体で、中味はテルミット。
六角棒は尾翼と弾底信管(下側)付き。
炸裂式は、頭部(上部)にテトリル15グラムを収め、燃焼末期に轟爆することによって、消火活動を妨げんとす。
焼夷弾子99発+焼夷炸裂弾子11発=合計110をおさめる。
まずテルミットが30秒、激しく燃え、次に弾体のエレクトロンが2分燃える。このエレクトロンは注水すると爆発的に飛び散る。
各図面付き。信管のカッタウェイ図もよく調べてある。
※よくぞ作ったという資料だ。2ポンドFrag は初見。
▼防研史料 『空技廠雑報 ソ連空軍』S16-10-30
米英の空軍雑誌の1941-10月号の記事を訳したもののようだ。
ソ連は1940に15000機も量産した。
ソ連の現有戦闘機。
I-21 双発複戦。20ミリ×2、7.62×6梃。
I-20 単戦。20ミリ×1、7.62×6梃。
I-18 単戦。20ミリ×1、7.62×6梃。
旧式I-17 水冷単戦。20ミリ×1、7.62×4梃。
旧式I-16 単戦。MG×4。
SB-2はペイロード500kg。
Z.K.B-26 双発爆撃機。ペイロード3トン。
ANT-35旅客機は、ダグラスの巧みな改造である。
▼『熱海旅客索道株式会社募集要項』S9?
※6月から7月に作成されたと思われる。
付いている地図によると、日金山(十国峠)から熱海町(半島の北寄り)へ達する。上から俯瞰して、「く」の字を鏡像反転させた形の路線。
※痕跡でも残っていやしないかと期待して、『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』を書く前に十国峠をとおりすがってみたが、それらしきものは何等、見つけることができなかった。
S9に、丹那大隧道が、16年の工事の末に、秋に開通せんとしている。
これまで、熱海の温泉場は「終点駅」だったが、爾後は、国有本線たる東海道線に直面する。
また一方、熱海駅から分岐する伊豆循環鉄道が、もう数年すると伊東温泉場まで開通するだろう。
熱海は伝統ある湯治場であったが、これまでは近代公共交通の恩沢にあずからなかった。
当時の売り。
完全なる海水浴場の設備あること。しかも、京浜二大都市に近接している。これは他の温泉地には真似できぬ。
いにしえは、江戸を出て三日路だった。いまは2時間である。
大阪・京都には温泉が少ない。丹那トンネルが開通すれば、関西からも客が呼べる。
「熱海旅客索道」は、熱海駅の隣地を起点とし、背後に聳ゆる三千尺の日金山嶺(通称 十国峠)の大展望台を終点とする。二哩四分 の間、広袤果てしなき高原。
ロープはメーンロープと二条の予備ロープ。※3線交走式。
中間の士沢に停留場を設ける。
やがては地元民の足にもなろう。
起点 熱海町 大久保(咲見町)
全長 3800m
高低 673m
20人乗り搬器×4台
巾1.66m×長さ3.7m
毎秒3.6m
片道 20分。
▼澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』S61
戦史室の「機動部隊戦闘詳報」の「経過概要」の全文を、淵田・奥宮の初版本で補ったものを載せている。
『赤城』は、原速14ノット、強速18ノット、一戦速22ノット、二戦速26ノット、三戦速28ノット、四戦速30ノット〔※源田は第四を24ノットと書いている〕、五戦速32ノット、最大戦速34ノット〔※Maxで31.1ノットだった〕。
赤城と加賀は、第二次攻撃隊が艦攻だった。fの字の右肩にマルがあるのは艦攻の印。
蒼龍と飛龍は、第二次攻撃隊が艦爆だった。
陸用爆弾は97式80番であった。※97式というのはウソだ。
魚雷は91式改三。
S8~9に艦本と航本が協議してまとめた「航空母艦(一万トン級)艤装方針」によると、「飛行機用昇降機」の「力量」は、5トンの重量を搭載し、最低飛行機格納庫より飛行甲板まで30秒以内に揚げ、または卸し得ること、とある。
同じ資料で、「魚雷」の運搬車は「常用艦攻 及 偵 ノ 1/3」とあるという。※艦攻がそのまま艦偵として飛ばされることがあった。
米側の戦死者。艦戦で12人、艦爆で59人、艦攻で87人。飛行艇で6人。陸爆で37人。
『ホーネット』の雷撃隊は、44名中、3名しか生還しなかった。
※澤地氏の『滄海よ眠れ』1~6巻は、参戦した個々人に焦点を当てたもの。戦闘詳報に関する疑義は『記録 ミッドウェー海戦』に尽きている。
▼『金属』1999-5月号 堀川一男「海軍製鋼技術物語(14)魚雷の気室」。
200気圧の空気または酸素が入っていた。
容積は魚雷の半分。
重量の上でも価格の上でも、最大の部品だった。
各国とも、最高級のNi-Cr鋼を使用。
日本はその粗材を明治末まですべて輸入していた。
気室まで国産化したのは、四四式魚雷からである。
大10の軍縮で魚雷胴径は21インチ=53.3cm に制限された。
しかるに 六年式、八年式 は61cmなので、極秘扱いとし、海軍工廠でのみ製造した。
90式の次あたりから、装気圧220気圧が要求される。93式はこれ。
Niは貴重なので、Cuを増やした。
航空用の91式魚雷は径45センチである。
S19に米軍の50cm魚雷を調べた。日本のより、平方ミリあたり(?) 10kgほども強度が低かった。しかし厚板を巻いて自動熔接で大量生産していると知って、衝撃を受けた。日本では気室は1本1本が削り出しの手作りであった。
潜水艦内では、硫酸混じりの海水により、特殊鋼が急速腐食することがある。
▼『船舶』1976-9月号 中地しげる「戦後の魚雷について」
日本はドイツからホーミング魚雷×2本を貰ったが、とてもコンパクトに真似られなかった。
かたやアメリカはこれと同格のものをすぐに作った。
自己雑音を抑制するために、25ノットだった。鉛電池で駆動した。
米海軍の魚雷はタービンエンジンで、アルコールを空気で燃やす。
日本海軍のはレシプロエンジン。
米魚雷の不具合は、1943秋までに修正された。
米国でWWII末に完成したMk32魚雷を、日本の海上自衛隊は最初に取得した。アクティヴ・ホーミング。
銀-亜鉛電池。
酸素魚雷のリバイバルも考えたが、これは没となった。
レシプロ、硝酸+アルコールで。
しかし硝酸は航跡が残るのば×。
米国から、過酸化水素の製法が入り、そちらで研究した。
アスロックやダッシュ用の「Mk44」は電池式である。
▼『船の科学』1978-9月号~11月号
松本喜太郎「旧日本海軍の対魚雷船体防御研究経過概要(1)~(3)」
『アリゾナ』(1915進水)は、前部火薬庫に爆弾が命中して沈没。
転覆したのは『ウェストバージニア』(1921進水)。
水兵の混乱で沈んだのは『カリフォルニア』(1919進水)。
新鋭戦艦の『テネシー』と『メリーランド』は、内側列に繋留されていたので、雷撃をまぬがれ、小破のみだった。
▼『機械技術』1999-11月号 長尾克子「海軍酸素魚雷の開発」
6年式は、大11から10年間で3537本も造られたが、エンジンに点火しない「冷走」や沈没が多かった。
90式から装気圧225kgになっている。雷速35ノット、射程1万5000mで、93式ができるまでの主力。
91式は、90式や93式と違い、星型8気筒エンジン。つまり6年式の流れ。
真珠湾では、91式改1および改2を使った。
92式はドイツの電池式を真似た。高価な気室が不要なところを買ったのだが、少数のみ。
酸素魚雷の成功は、まず、空気で始動するようにしたこと。
航跡の因は窒素である。
※まるっきり『海軍水雷史』の孫引きのように見える。
▼中央公論社『実録太平洋戦争 第一巻』S35-5
以下、増田正吾(赤城飛行長、終戦時大佐)。
S16-11-26、午前8時半に礼文尻岬をすぎるころ、各艦は、大砲、MGを試射した。岬に命中させた。
午後3時、みぞれまじり寒風。
同日、鵞鑾鼻の東方3万mに国籍不明潜水艦北上との情報。
11-28、ロシア商船×2、サンフランシスコを出て西行という。29日遭遇を予測。
夜間、灯火が漏れていたかもしれない(p.73)。
12-7に、ハワイに空母がないと分かって、担当の艦爆隊がくやしがった(p.76)。
12-7夜、「総飛行機用意」の号令。
12-8、「戦闘用意」で総員配置。
「総飛行機発動」の号令で、一斉にプロペラの唸り。
やがて各機の整備灯が点き揃えば、発艦指揮官より青灯で準備完了の合図。
発着指揮官これを艦長に報告。艦は風に立つ。
以下、天藤[てんどう]明(祥鳳の朝日新聞記者)。
珊瑚海。
上空にはCAP×3。その間、飛行甲板上に、ペラ回したままの戦闘機×3。
その飛行甲板上の戦闘機×3を出したとたんに、艦尾に当てられた。直進運動していたのがまずかった。
艦には、コック、床屋、クリーニング屋という3人の非戦闘員が乗っている(p.234)。
乗組員は800人で、200人が漂流した。
以下、須藤朔(陸攻、海軍中佐)。
魚雷は深度5mに調定する。対・戦艦には7mとする建前だが、もし巡洋艦や駆逐艦だと困るし、誤差で艦底を抜けるのをおそれた。
また、基地進出したばかりで顔なじみのない魚雷係の調整を、信用しなかった。
AAの焦げ臭い臭いが機内までしてきた。
魚雷は1万m走る。
▼中央公論社『実録太平洋戦争 第四巻』S35-8
以下、横井俊幸(『飛鷹』 艦長)。
敵の爆弾は瞬発で、ブリッヂのすぐ後ろの飛行甲板の右端の檣の桁に触れて炸裂。筆者は青天井の防空指揮所にいたため、頭を負傷し、左眼が見えなくなる。
『大鳳』はエレベーター室の上が軽質油のタンクだった。
▼『写真 日本の軍艦 第3巻』1989 光人社
S16-12-8の赤城。零戦のうちペラ回ってない1機が写っている。
単冠湾内、魚雷運搬車の写真。
加賀は改装して、後部エレベーターの天蓋は撤去した。また、改装により、揚爆弾筒で魚雷も直通で上げられるようになった。
米空母はガソリンタンクに水を入れ、空気と混ざらぬようにしていた。
▼福井静夫『日本空母物語』1996 光人社
米英空母のガソリン庫は弾庫よりさらに中央に置いて手厚くプロテクトし、思想として進んでいた。日本のは位置的に、ノープロテクト。
赤城の中央部のガソリンタンクは、改装で不使用となった。鋲接のため。
タンク床面には、四塩化鉛の粉末が積もっており、ここに入ると、3週間、声が出ない。
ミッドウェー後は、周囲の空室に水またはコンクリートを満たした。
加賀は前部ガソリン庫が爆発し、1625に沈んだ。被弾は0722~0730であった。
以下、「航空母艦(一万トン級)艤装方針について」。
S8-9に作成した案。
飛行機格納庫の高さは、機高4mの三座攻撃機を尾部運搬車に載せて収容できること。
※このテキストを見る限りでは、エレベーターは、30秒で5トンを上げるか、同じ秒で下げられる、というふうにしか読めぬ。
魚雷調整所は、飛行機格納庫と近接したる位置に。
魚雷は常用艦攻3機毎に1本調整できる場所を設ける。
調整所には、ハンギングレール。
魚雷庫では魚雷は頭部をつけたまま格納。
頭部をつけた魚雷×2本を昇降機で発着甲板まで揚げられること。その機構は航空機用に準ず。
魚雷庫は防御区画に。爆弾庫も同じ。
爆弾庫は、格納前端、後端にあわせ、2つ作る。これもいちどに2発づつ揚げられるように。