▼篠田統[おさむ]『中国食物史』S49-6
うわぐすり のかかった陶器は唐代まで普及しない。貴族は青銅器具で、庶民は素焼きの土器で調理していたと考えられる。そんな時代に八宝菜がつくられたはずはない(p.1)。
シナでは料理専門書は「食経」という。
わが国でいま「中華料理」といわれるのは、広東風をさらにあっさりさせたもの。
鶏の発音は、今ではチーだが、唐代になんと発音されていたかは、わからない。何かが訛って、日本では音読みが「ケイ」となった。
つまりシナ古代料理の漢字にシナ風のルビを振れば、ことごとくデタラメだ。
シナ人が「中国」というとき、それは漢人地帯のことだった。『晋書張華伝』には、今の南京から洛陽に来た人が、洛陽人のことを「中国の人士」と呼んでいる。南京の住人が、じぶんたちは中国だとは思っていなかったのだ。年代によってもまるで範囲が変わってしまう。
その点、日本語のシナは、「中国+辺境」の総称としてすこぶる便利なのである。
シナといわれるのを相手が嫌がるというのなら、カタカナで「チュンコ」とすればいいだけだ。
わが国で中国といったら岡山、広島、山口、島根、鳥取のことだ。
伝説の舜につかえた禹が、冠水地域をくまなく歩いた。だからシナのことを禹域ともいう。
禹が帝位につくと、国を夏となづけた。
その夏の17代が桀。これを滅ぼしたのが湯。そして国号を商とあらため、さらに殷とあらためた。
洛陽の上流に「仰韶」があった。
遺物に残されている魚の絵から、おそらくチョウザメを食べていた。
三本脚の中空の土器。これが、自立型の土鍋で、鬲[レキ]という。この中空部分に水を入れる。そして三脚の間で火を焚く。
あわ は エノコログサの仲間。
殷の首都は洪水に応じて点々と移動した。だいたい山東・河北・河南の境あたり。ずっと後世の梁山泊も、この大湿地帯に属す。
殷は30代の紂王のとき周に亡ぼされた。
牛肉は天子の宴のにみ用いられた。諸侯は羊。太夫が豚。士は犬肉。
周~漢のころは、犬肉は魚肉よりも上等とされた。
禾は、周代にはアワのことを指す。粟[ゾク]は、漢語では、殻つき穀物の総称。日本ではその字でアワのみを指すが。
米がライスの意味に限定されるのも日本だけで、支那では、殻を去った穀物はなんでも米である。
もともとアワとかキビとか、細かい粒の穀物しか栽培していなかった。
そこに、西方から、大粒の穀物がやってきた。オオムギ。來 という字は、大粒穀物の象形文字。それが西方からやってきたから、麥[むぎ]なのである。そしてまた「来る」という意味の字ともなった。
甲骨文字に桑の字がある。北支には桑はたくさん自生している。
異民族に圧迫されて、周の首都は前771に西安から洛陽に移った。以後を東周とよぶ。
春秋期にはまだ東周の名目権威あり。それも消滅してアナーキーになったのが戦国時代。
詩経は、春秋末までの歌謡。そのうち、国初の文王、武王、周公をうたったものを大雅と呼ぶ。
ウナギは大鯉とも書かれた。
すっぽん料理は御馳走だったことが『左伝』霊公から分かる。
麻は繊維をとるだけでなく、実が食用だった。
大豆は春秋のはじめに満州から入ってきた。
園芸とは野菜農家のこと。
首陽山の薇はほんとうにぜんまいか? 豆科植物だったのではないか。このように、古代の食物名詞は後代とは意味が同じではないと疑うべし。
台湾の高砂族地域に、桃の原種が見られる。大昔は、あのように、固いものだった。
梅は南方系で淮河より南から来た。
柿は渋柿しかなかった。
栗は貧民食だった。
ホメロスの中には「焼く」調理しか出てこない。シナでは煮たり蒸したりする。炙という字は、串につけて焼くことを指す。
土器しかなかった時代は、煮ると泥くさくなるから、少し堅くとも、蒸すのが上品だった。
孔子は老婆に麦の粥の礼を言った。煮食は薄膳=まずい。しかし、その志が尊いと。
春秋時代に糒はあった。蒸してから乾燥させる。しかし、粉食はまだ発明されていない。
海から開封まで800kmあるが、開封の海抜は100mにすぎない。京都北白川は大阪湾からわずか60kmだが海抜は100mある。いかにシナの川がゆるいか。
鉄器によって農業生産が向上してくるのは漢代。
漢の首都長安がいまの西安。渭水をはさんだ対岸に秦の首都の咸陽があった。
ぶどう の語源はペルシャ語のブダワ。
『周礼』は天下・国家の制度を論じ、『礼記』は家族・個人の作法を述べる。いずれも漢代の理想。
『礼記』から、当時は飯は手づかみだったことが知られる。
「かもす」は「かむ」から出た。日本では奈良時代に、そのような酒の造り方は終わった。
『周礼』では、宮廷での栄養士の席順を内科医よりも上に置いていた。それだけ生死にかかわった。
当時の生活を彫刻から復元できるのは、後漢末よりも後の時代。画像石が増えたおかげ。
前漢に、はじめて粉食が登場する。パン小麦が北支に普及した。
原始の小麦を脱穀しようとすれば、必然的に粉になってしまう。小麦=粉食なのである。
小麦の粉を麺と言った。
平安中期に遣唐使が廃止されてから、日本とシナとで、同じ食物を表す字にズレが大きくなった。
シナでは、餅とは小麦粉製品全般をさす。
インディカ=赤米は冷水に強いので、山田で盛んに栽培されたもの。
六朝までは東西抗争だった。その後は、南北抗争に変わる。
コメ栽培地域で籠城すると脚気=ビタミンB1欠乏症 で自滅した。3ヵ月で、城内が死体だらけになる。コメはたくさんあるのに。これが『通鑑』の時代。
甘蕉=バナナ。
交州・広州では茄子が宿根し、大樹になる。しかし5年で老いて実が少なくなるので、更新する。
隋の煬帝[ようだい]はなぜ「ようてい」とは読まれないかというと、実父を殺して帝位についているので。漢学者の差別による。
唐代に水車が普及する以前は、石臼を奴隷にひかせられる貴族だけが北支で粉食できた。
ほうれんそうの語源はポーリンで、ペルシャのこと。
唐代は1日2食。支那事変中の満州でも、田舎では、10時と4時の2食であった。
初唐時代の調理は原則として男児の業。女は針仕事。
中唐時代、戦場で葛しか得られないときは、その根を煮てたべていた。蕎麦は中唐以後に大普及した。
孝子節婦がおのれの股を割いて食わせるというのが唐代いらい地方官憲から表彰されてきた国。著者が戦時中に北京にいた5年間にも2~3例あった(p.123)。
戦前は、唐・宋はひとくくりで古代だった。戦後はそうはしない。宋は中世に入れるべきである。社会構造も経済構造も、がらりと変わっているからだ。
ただし、食膳は、唐と宋の違いはない。元代からガラリと変わる。
日本では江戸時代と明治時代の料理内容が、牛肉系をのぞくと、ほとんど変わらない。
大正時代には「コロッケ」が家庭食膳に加わった。
八宝菜となると、昭和20年代後半である。戦前には中華料理などなかったのだ。
1012年に、占城[チャンバ]米が、インドシナから福建省に導入された。水旱に強い。揚子江下流にまたたくまに浸透した。
あわ は地力を消耗する上に収量がすくない。農民はあまりつくりたがらない。
宋代にはキャベツが西からやってきた。
豆腐は、全土に浸透していた。
宋代の学士というのは、今の大学総長くらいの人。
大尉というのは、今の元帥くらいの最高司令官。
宋代の詩人・蘇東坡が書いているところから、竹【鼠へんに留】=食用の大ネズミや、やまねこ も食べていたことがわかる。この大ネズミは台湾の甘蔗畑にもいる。
狸という字は、ネコの本字。
酒樓(妓樓)には、日本の野だいこに相当する「厮波[センハ]」が存在した。江戸時代初期、田舎者を騙して金品をせしめる悪者をスッパと呼んだのは、この北京音の「スポ」から来ているのではないか(p.143)。
スッポンは元魚と書いた。宋代。
五代の宮中では、大蒜を麝香草としゃれていた。
南宋の首都・杭州は、北宋の開封とちがって無血開城しているので、その栄華が元代まで持続した。
牛蒡が食用になっていた(p.169)。今日では日本人しか食べない?
宋代は酒が官専売。しかし南宋になると醸造は軍閥の資金源に。
鮎 は アユではなくて、ナマズのあんかけ。
道元が1123に入宋したとき最初に教訓されたのが、栄養管理のことだったという。
馬乳は、量を得られないから、けっきょく酒にする。
満州東北森林に、海東青とよばれる隼が棲息する。鷹狩に需要あり。
ひよこ豆は、豌豆に似ているが、芽がひよこの嘴状。
秦から宋まではすべて地名。ところが元は地名ではない。『易経』からとっているのだ。
安徽の豆腐屋の息子で乞食坊主だった男が、朱元璋。
金末には、豚肉を食べない回教徒が武将中にいた。
水滸伝41回には怨みある敵を生きながら解剖して食人。
北支料理は油とニラ・ニンニクをやたら使うので、南支人は困った。
江南では、絹糸が黄色い。
灌腸=肉のソーセージ。たいして上品なシロモノではない。
山東京山は、鴨料理の塔不刺鴨子・タプラヤーズ が、てんぷらの語源ではないかと推定。しかしそのレシピにはまったく天麩羅らしいところもない。
椒 とあればそれは山椒で、胡椒ではない。
鄭和は宦官だった。
明末1593、さつまいもは商人がルソンから福州に持ち込んだ。それが琉球を経て平戸の英国商館に1615にもたらされる。1717には京都に焼き芋屋があった。江戸導入は1735。
トウモロコシはメッカ巡礼の回教徒が1560年に持ち込んだ。千葉徳爾はそれは南米型ではなくペルシャ型ではないかと。
明代は、1日3食。『金瓶梅』には、権臣の3食を、早膳、中飯、夜宴 と書いているので、富家では夜が主餐とわかる。
茉莉酒 は ジャスミン酒。
明代には飢饉が多く、救荒植物に関する書籍が多数出版されている。1403年くらいから、1642年以降まで。
アフリカ原産の高粱が、清朝のころには黄河に普及。草丈が大なので、シナ馬は完全に隠れてしまう。だから馬賊が増えた。
乾燥地では、高粱よりトウモロコシが収量が多いので高粱はすたれた。山西省など。
珊瑚が珍重されたのは清代から。すべて輸入。
今日の広東料理で竜虎闘といえば、蛇と猫の料理。
米国から食用蛙が入る前から在来蛙を食用にしていた。
北支は果実天国だが、リンゴだけは不味かった。
立春の日は「咬春」といって、婦女子は生ダイコンを食べる。
黔 は、喜州のこと。食べられる土があり、貧民が掘っていた。菌・藻の類なのか。「天狗の麦飯」のたぐい。
戦時中、北京の西郊、香山の近くに、背の高い円形の堡塁が点々と建っていた。これは乾隆期の金州(四川省)土民の砦を模して、官兵が攻撃演習をしたもの。おかげで、乱を平定できた。
福建省 武夷山(江西との省境)の紅茶は、カフェイン濃度がすごかった。終夜、眠れなかった(p.342)。
烏龍とは、黒蛇のことである。
▼伊澤保穂『陸軍重爆隊』1996
陸軍の純国産重爆の第一号が、九七式重爆。
1機にふつう7人乗る。
そのうち1人が、副操、爆撃手、機長を兼ねている、将校操縦者。
各機<各中隊<各戦隊。
編隊の長は、編隊群長機。
WWI開戦時、日本陸軍は16機、海軍は12機を保有していた。
ドイツは246機、フランスは160機、イギリスは110機、ロシアは300機。
陸軍が最初にこしらえた投下爆弾は、擲爆弾と称し、技術審査部で急造した。最初は小型傘で安定させようとしたがだめで、海軍の矢羽を真似た。
ロンドンを初爆撃したのは飛行船。1915-9-8のこと。それから1918-8-5まで51ソーティのロンドン爆撃。
列強のなかでフランスがいちばん、双発爆撃機に無関心だった。このフランスを手本にしたので日本陸軍は遅れをとった。
フォール航空団は無償援助だった。
兵卒、下士という言い方は、1931から、兵、下士官に変わった。
1943-3に田中友道少将は、B-24のコピーをビルマの第一線に送ってくれと頼んでいる。第七飛行団長。
S13-11以降、シナ戦線の日本軍機は落下傘ベイルアウトを自粛するようになった。
陸軍重爆には専任の航法士がない。それは機長が兼ねる。
97重は、0.5トンの爆装で行動半径800km。
鉄道と鉄橋の破壊は困難で、しかもすぐに修理されてしまう、と認識していた。
四式重爆も、特別な改造をしないと、サイパンへ往復爆撃をかけられなかった。
ノモンハンのような不整地の草原で、味方パイロットを救助できるのはやはり単発機に限られた。
海軍の96陸攻は、速度と防火性で97重に劣ると見られた。
中国側の警戒システムは、狼煙。
ヘッドオンは対進攻撃という。陸軍では。
対米開戦時、海軍はフィリピンを重視。陸軍はスマトラのパレンバン油田とその前提のマレー半島を重視。けっきょく、航空作戦は分業になった。
ドラム缶には200リッター入る。97重が一回出撃すると、ドラム缶16本の燃料が消費される。
ジャワ島進攻では、海軍がエアカバーを担当した。陸軍航空はビルマに回った。
コレヒドールの高射砲はシンガポールより正確だった。高度8000mで直撃された。以後、大編隊水平爆撃は廃れ、少数での緩降下爆撃が選好された。
陸軍の整備兵は地上勤務者という。
日本海軍が南東方面と呼んだのは、ラバウルのあるニューブリテン島、ニューギニア東部、ソロモン諸島。
隼と九九双軽は空母で運んでもらえるが、97重は自航するしかない。
S18-3-2~3にB-17が中高度からの爆撃で航行中の輸送船2隻を撃沈できるようになった。
輸送機のほとんどない陸軍は、ニューギニアでは重爆を輸送機代わりに多用した。
P-38はサイパンから発進して硫黄島にエアカバーをさしかけた。
硫黄島からP-51が制空に飛ぶようになると、B-29迎撃にそれまで活躍可能だった双発戦闘機、陸軍の屠龍と海軍の月光は昼間は飛べなくされた。
▼佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争〈続篇〉』1995FN文庫、原S59
商船は火災を起こさせないとなかなか沈まない。巡洋艦の主砲だと突き抜けてしまうので、高角砲を水平にして撃つ。信管が瞬発なので、火災が起きる。
鼠輸送では、駆逐艦が大発を1隻づつ曳航。小発や「浮舟」も搭載して行く。
隊列は2列。前半は26ノット。なかばで28ノット。ガ島近くで30ノットに上げて一気に突入。
出撃が昼なのでかならずB-24哨戒機にみつかってしまう。
至近弾の瞬発の破片はあまり怖くなかった。※米軍としては、重爆から対艦用に落とすGP爆弾にこそ、VT信管が必要だったのか。
無線電話は当時は商船にはついていなかった。※ということは軍艦にはついていた。
総員上甲板 を命じてから、軍艦旗をおろして、総員退艦。
沈む前に爆雷の信管は全部抜いておくが、1発でも抜き忘れたのがあると、水中で爆発する。その圧力は、首からさげた双眼鏡の対物レンズが2センチ内部に押し込まれるほど。
だから、立ち泳ぎではなく、背泳浮きの姿勢をとっていなくては、内臓をやられる。爆心から150mの距離があっても、即死者が出る。
一般に真夏は海水の表層温度が高いので、音が屈折する。だから水平に1000mはなれているだけで、敵の水上艦の音が聞こえない。冬は、潜水艦が深度を深くとっていると、頭の上を敵艦が通っても、その音が聞こえない。だから、冬は、浅いところに位置しなければならない。
潜望鏡で見える距離は、1万m未満。
潜水艦が浮上して、隣の僚艦のマストが水平線上に見えたら、15マイル。したがって、潜水艦の間隔を30マイルとったら、互いに、絶対に目視できない。
当時はGPSがないので、30マイル間隔で捜索列をつくっているつもりでも、誤差がどうしても生じて、40マイルだったり20マイルだったりする。交信は禁じられているので、確認しようがない。
「洋中会合」は、ベテランの航海長でも5マイルの誤差は出た。相手が電波を出してくれないかぎり、邂逅率5割以下。
レキシントンは2万5000mmで発見した。最初は空母とわからなかったほどる
伊6潜は潜航6ノット。敵は14ノット。ふつうはおいつけない。
しかし敵が大変針してくれた。
魚雷は89式で、炸薬295kg、雷速45ノット、最大射程7000m。
当時、前部発射管4門と、後部発射管2門から大斜針をかけて発射するのと、計6本放って、うち1本があたると期待できたのは、距離1500m。だから艦長は1000mまで近寄るのが理想だった。
このときは他にしかたがないので4300mで発射した。前部発射管のうち1門は扉が故障して開かなかった。
艦には艦隊司令(大佐)も乗っていたが襲撃はすべて艦長が決める。日没直前の暗さ。
ところが、キン、グワーン……キン、グワーンという命中音が、2発、艦内にいる者全員の耳に、生で聞こえた。
だが解せない。開角3度で発射したので、4300m先では、魚雷と魚雷の間が230mあったはず。レキシントンの全長は270mなのに、2発当たることがあり得るか?
襲撃後、ただちに無音潜航。2ノットで戦場離脱を図った。
海軍では大佐になると、雑談相手がいなくなる。従兵しかいない。だから、書の練習をすることになる。
重油を不完全燃焼させて、かためてポッ、ポッと煙突から出してやる。スス煙幕という対空擬装法。上空からはフネに見える。急降下爆撃の狙いを外せる。夜間限定だが。
キスカの撤退のとき、陸戦隊が飼っていた青狐までもってきた。上野の動物園に寄付した。
内地周辺の海では、25m潜れば、潜水艦は敵機から見えない。南洋では、50m潜らないと、透視される。
潜水艦輸送の難点は、沖で縦のハッチを開放したまま揚陸作業を待たされること。敵魚雷艇があらわれても潜航できない。
戦時には、軍艦の艦長に、定めの1階級上の者を任命することができた。だから、潜水艦に大佐とか、戦艦武蔵に少将の艦長とか、いた。
英軍はスペインの領海の外側を機雷原にしていた。そこと領海の隙間を『伊8』は通った。領海内はダメ。
英哨戒機は、時限装置付きの爆雷を撒いて、イヤガラセをしていた。
S19-4時点で海軍は、駆逐艦の艦長は艦とともに死ぬには及ばず、と達していた。艦長候補が足りなくなってきたので。 ※駆逐艦には菊の御紋章が無かった。国家を代表する軍艦というより、消耗品扱いなので。
S20-1時点で駆逐艦が24ノット出していたらまず敵潜からは襲撃されないですむ。
不関旗は、赤い長い旗。われ不軌の運動をなす、という意味。
水葬の規定。爪、頭髪などの遺品をとり、毛布で遺体をつつみ、砲弾を錘としてつけ、総員整列、黙祷のうちに「国の鎮め」のラッパを吹奏。弔銃を発砲。
駆逐艦に真水がなくなったら、最後の手段として、海水を焚くことで4時間は動ける。そのあとは罐はダメになる。
『武蔵』の生存者は比島にあげられ、そこの守備隊にさせられた。秘密を守らせるため。
爆弾は1000mから落とすと弾着まで7秒かかる。軍艦は1秒に1度しか回らない。しかし、30度から45度の間に舵がとれていたら、爆弾はかわせる。敵機をよく見ていて、投弾しそうになったところでグッと舵を切ればよい。
西村艦隊が突入するとき、靄で見通しが悪い夜だった。いきなりレイテ島側から魚雷艇の魚雷が30本くらい来た。夜光虫が光ってすぐわかった。しかし、魚雷発射時の閃光は、みえなかった。
潜水艦の陸地偵察。昼間。5000mから潜望鏡で偵察。夕方から避退して、3万m離れたところで浮上して、充電しつつ、報告電を打つ。この繰り返し。
ヨークタウンは距離1万3000mで捕捉した。いったん、500mまで近づきすぎてしまい、それでは当たらないので、360度回頭して距離1200mにつけなおした。
艦首の4門しかつかえない。まず開角2度で2本発射。その3秒あと、また開角2度で2本発射した。
まわりにいた駆逐艦がいっせいに爆雷攻撃。それが5時間続いた。艦が水中で1mくらい跳ね上がったことも。
大発を自沈させるときは、ツルハシで穴をあけるだけでよい。
日本の酸素魚雷は4万mも走るが、3000m以上だと外れる確率の方が大きい。しかし実戦では、駆逐艦の艦長に、早く義務を終えたいという本能が作用して、つい4000mくらいで発射して一目散に逃げることになる。敵も撃ってくるから、気も転倒する。
砲艦は、P-38が落とすような小型爆弾でも、すぐに沈んでしまう。吃水が浅いので。そこで、昼間は用心のために、いちばん浅い瀬にいるようにする。さすれば、着底するだけで全没は免れるので。
糧食庫の大量の小麦粉が海水に濡れると炭酸ガスが出て、それによる艦内死者も出る。
最優秀潜水艦だった伊47。電池で10ノットを出すと30分しかもたない。2ノットに抑えれば、60時間はもつ。ふつうの潜航では4ノット。これで6時間走っても、水上航走でわけなく充電できる。
浮上して4時間航走すれば電池がフル充電になる、その加減で水中で消費するようにする。なぜなら、4時間以上かかるばあいは夜が明けてしまう。
水中で30時間も制圧されたら、浮上航走をひとばんじゅうしても、充電が完了しない。そういうときは、片方のエンジンだけでスクリューを回し、もうひとつのエンジンは、発電専用に使う。
ただし、当時の電池は、充電すると熱をもつので、急速に充電はできなかった。
艦内温度が40度あるとき、死んだばかりの者の死臭が2時間で艦内に充満し、耐え難くなる。そういうときは魚雷発射管の中に収める。魚雷は抜いて。
ウルシーにはたしかに敵空母が2隻いた、と艦長は自分の目を信じている。
ハワイへの敵空母の出入りを潜水艦が潜ったままでするのは無理だった。当時は海面温度の違いで音が屈折することを誰も知らなかった。聴音だけで2万m監視できると信じきっていた。しかるに、敵空母はなんども、日本の潜水艦の上を出入りしていたのだ。
そんななか、偶然、伊6潜だけが、サラトガを発見して、魚雷1発を当てることができた。
島ならともかく、アプラ湾の入り口を、回天の窓から見てわかるはずがなかった。水上艦が見慣れた神戸港に入るのだって難しいのだ。
第三次ソロモン海海戦まで93式酸素魚雷の慣性爆発尖の欠陥は分からなかった。深度3m、高雷速で発射した魚雷が『サウスダコタ』の艦首波に反応してみな自爆してしまった。
護衛する輸送船が多いときは、大洋のまんなかを行けば、敵潜と会敵する確率を下げられる。護衛する輸送船が少ないときは、徹底的に岸に沿わせて走らせ、駆逐艦は沖から護衛する。
中途半端だとやられる。信濃は岸から200マイルぐらいも沖を走るべきだった。100マイルくらいだったからやられた。その距離ではヤマを張られてしまう。
『大鳳』と『翔鶴』が敵潜にやられたのは前夜に小沢が偵察機の帰投のために探照灯をつけさせたから。これでは100マイル先から敵潜を集めてしまう。
開戦前に伊26はダッチハーバーを偵察している。
商船相手に魚雷は1本しか使ってはいけないという戦策が緒戦1年はあって、これが非現実的だった。
水上航走から船体が全没するまで1分かからない。
潜望鏡を出すときは3ノット以下にしないと波を切って発見されてしまう。
爆雷は20m以内で炸裂すると潜水艦に致命的と考えられていた。
米軍の爆雷は深度40~45mにセットされているようだった。
潜望鏡深度は19m。
重油をポンプで排出してやられたように偽装することはできる。
太陽が低いときは海面を透視されにくい。
輸送用の「不沈ドラム罐」があった。
ビスマルク海戦。米軍の反跳爆弾は、普通の500ポンド爆弾を、時速420km、高度80m、目標手前30mに落とすもの。
潜水艦内では、敵船1隻しとめると、缶詰の赤飯が出た。
重巡は砲戦が主眼なので予備魚雷を格納する場所がない。
立ち泳ぎをしていると、かなり離れたところの爆雷でも、尻の穴に錐を突き立てられるように感ずる。
駆逐隊も司令によっては自分で全部指示する。艦長に操艦させない。
スクリューは真鍮製だった。
回天戦は、夜は無理。
▼ノーマン・ポルマー著、堀元美訳『原子力潜水艦』S39-6
かつてのスノーケルは20分間で艦内全換気した。
原潜のエアコンが除去しにくいのは、油脂、石鹸水、ペンキの揮発物。タバコ煙はOK。
湿度は50%に保たれる。
ジャイロコンパスは、地球回転軸の上、つまり天体物理的な北極と南極の近くでは、頼りにならなくなる。別な航法装置が必要。
ラジエターから水が洩れるときに、液漏れを内側から止めてくれる緊急の添加剤がある。
チュクチ湾では深さ33mまでしか安全に潜航はできない。
冬のチュクチ湾では、氷の底と海底との間が平均45m。
氷の中に開かれている水面、ポリニアに浮上するには、まずその真下の55mで懸吊する。
極地では冬は太陽が出ないが、月の明かりは得られる。
原潜『スケート』は、48cm厚の氷を突き破って浮上した。
押し合いへしあいの圧力で氷が下方へ押し出されている場所がある。海面から33mも低く。
浅海面では、潜水艦は、とも下がり(艦尾さがり)の姿勢になりがち。
潜舵は急にきかなくなることがある。その場合、艦尾の横舵だけで進む。
1960-2に原潜『サーゴ』は厚さ1.2mの氷を突き破って浮上できることを確認した。これで、冬季のSLBM発射の自由度がわかった。
後部区画で火災が生じて手がつけられないときは、上甲板昇降口を開けて潜水艦の後部を沈下させ、海水を入れる。もちろん、隣の区画との間は閉鎖しておく。
氷山の大きなものは高さが26mもある。
ドイツが考えたSLBM。V2号がそっくり入る、魚雷型コンテナ(長さ36m、径5.7m)を、潜水艦が曳航して、所定海面まで行く。魚雷型コンテナの尾部に注水すると、コンテナは水中で垂直に直立するので、そこで発射。ソ連がドイツを占領したとき、実物を複数、押収した。
▼野木恵一『原子力潜水艦を開発せよ』S60-11
リッコーヴァーは軽水炉と同時に、液体金属冷却・ベリリウム減速の中速中性子炉も開発することにしていた。
『むつ』には格納容器があった。しかし原潜には格納容器はない。
原潜の放射線遮蔽材には、重コンクリート、蛇紋コンクリート、鉛、ポリエチレン、クリソタイル、水素化ジルコニウム、シリコン、硼素水が組み合わされている。
液体ナトリウムの粘性はほとんど水と同じ。
ロサンゼルス級の写真はアップトリム姿が目につく。おそらく艦尾が絞られているところに後部のメインバラストタンクがあるため、後部の予備浮力が最初から不足している。
設計深度は450m。
トライデントIは、太平洋の日本沿岸や、インド洋からもモスクワを核攻撃できるようになったところが革新的だった。トライデントIIだと、喜望峰の沖からでもモスクワを核攻撃できる。が、さすがに南米沖からは無理。
▼津野瀬光男『銃器・火薬実用事典』S56-10
62式MGは、M2型実包を使用していたが、新小銃にはNATO弾を使うことに決め、阿見町にあった東洋精機(株)に開発を依頼。試作弾は豊和工業へ補給させた。
著者は某所からソ連製のSKSカービン(チェコ式機構)を提供され、それを参考に、六四式小銃の原型を設計した。
それを契機に、防衛庁から豊和工業へ転職した。
そのあいだ、陸幕は、米軍のM14を購入しようとした。
64式は銃身が太い。九九式小銃の銃身外径は26.5ミリだった。M1ライフルは28ミリ。それに対して64式は32mmもあるのだ。
このおかげで64式は薬莢が焼き付かなくなり、ガス圧を小さくできるので、振動を抑えられる。
銃口制退器や脚固定筒を、組み立てるときに、へたることのないベルビール皿型バネで強く圧するようにした。こうすることで、ガタがなくなり、分解・組立のたびに、命中点が変化することがなくなった。
無煙火薬の燃焼速度は、毎秒12cm。黒色火薬は360~400mになる。
無煙火薬は、衝撃や摩擦にたいする感度が緩慢なので、より安全。
黒色火薬は265度でも発火する。しかし無煙火薬は点火しにくいので、雷管がより強力でなくてはならない。
明治20年に、山本周朝・陸軍技手が、無煙火薬は綿花を硝化してアルコールとエーテルの混液で溶融し煉成したものだと究明。
明治21年から、板橋火薬製造所で、島川文八郎・砲兵大尉以下が試作に着手。
島川はベルギーに留学。
天野富太郎・砲兵少佐が製造機械をドイツから輸入。
明治27年6月から製造開始。
砲兵少佐の松岡一松郎は、フランスのポリテクニックを卒業していた。この松岡を仏陸軍の火薬学校に行かせた。松岡少佐は、メリニットがピクリン酸の単体であることを明治27年に探知した。
帰朝し、板橋火薬製造所の島川のもとで、明治31年に工業化の目途をつける。
「.30-06」実包の06は、1906年を意味する。「.30-30」の末尾数字は、無煙火薬30グレイン入りを意味した。
弾丸活力の単位は、「キログラム×メートル」であらわすが、米国では「フィート×ポンド」で表記するので、0.138倍して換算する。
人員を殺傷する活力は「20キログラム・メートル」。3.3センチ厚の松板を貫通する力に等しい。
三脚架を含まないで機関銃の重さが35ポンド(16kg)以上あれば、米陸軍では、「重機関銃」と称する。それ以下は、軽機関銃。
日本工業規格では、12番散弾の基準薬量は、5.3グラム。
「.30-06」弾は、気温が摂氏10度高くなると、弾速が10m/秒あがる。
「.30」口径のライフル弾は、銃身長が7mを越えると、もはや初速が増すことはない。
「.30-06」や「.308」弾は、初速が800m/秒で、射角を25度から30度にしたときに最大射程が得られ、3500mから4000mに達する。
「.30」カービン弾は、最大で2000m届く。12番のスラッグ弾は、射角30度で700m。
「.50」の重機関銃のタマを、水中に垂直に撃ちこんだ場合、対人殺害威力があるのは、1.2mもしくは1.5m以内。
斜めに水面を射撃して跳弾になるのは、進入角が13度より浅かった場合。
「.30」のライフルで水中を垂直に射撃すると、対人殺害威力があるのは、わずか30センチ。それ以深では、怪我はさせられても、殺せない。
旧海軍の実験。40サンチ砲弾を、射距離2万mに対する落角17度で敵艦目標の25m前に着水させると、水中を横方向に25m直進して、吃水線下3.5mの厚さ76ミリの高張力鋼を貫通し、機関室で炸裂した。
平頭弾は、その口径の80倍の距離を、水中で直進できると。
※今日のミサイル技術で、この「五号徹甲弾」(水中弾)を再現できるはずだ。
チルド散弾は、鉛の地金に2%以上のアンチモンを合金したもので、一般の散弾よりも硬質。
D弾は、フランスのデサレウド将軍が考案した。弾尾を狭窄して空力を良くしてある。
S弾は、弾底を狭窄せず、往年のミニエー弾のようにガス洩れを塞ぐ。それによって銃身命数も延びる。
旧軍は、92式実包でD弾を採用し、99式実包ではS弾を採用した(p.74)。
米軍は、被甲素材として「ギルド・メタル」(銅95+亜鉛5)を採用。これは理想的。しかし日本は燐銅(銅9割+燐1割)を選んだ。
銅ニッケル合金のカプロー・ニッケルや、白銅は、硬度が高いので、銃身を損傷しやすく、小火器には好まれない。しかし旧陸軍の13ミリ機関砲用の2式実包には、白銅(ニッケルを15%以上含む)の被甲が使われた。
64式小銃の威力を考えるとき、1000m幅の河川で対峙している敵兵の鉄帽を、貫通できなくては困る、という条件が、前提されていた(p.79)。
初速370mの低速弾の場合、厚さ10ミリのアルミ板だと貫通されてしまうが、厚さ5ミリだとむしろ凹痕になって貫通はしないという事象が起きる。
ブローチ加工は、理論はあったが、実用が難しかった。GE社など米国の自動車メーカーが1941から、それを機関銃生産に適用し、加工効率を20倍に引き上げた。
冷間鍛造は、WWII中のM3サブマシンガンの銃身製造に早々と用いられた(p.113)。
S19-8に、名古屋陸軍造兵廠で、38式歩兵銃の機械作業を集計した。主要部品34点。1梃に36.6時間がかかる。銃身加工だけで10.3時間。
つまり銃身が量産のネックなのである。
現代の銃身材料は、クロムモリブデン鋼。いわゆるSCM四などの特殊鋼。
旧軍は炭素鋼。38式の銃身命数は3000発だった。
しかし99小銃はクロームメッキすれば3万発になると、銅金少将が発表した。
絞搾銃腔。先細りのテーパーになっている。モーゼル7.65ミリ拳銃や、キャリバー.50は、その代表。
キャリバー.50の場合、銃口から三分の二くらいまでが、テーパー。
銅金が気づいたこと。ボートテイル弾や、隙間ができる外径のタマは、その周りを高速ガスが吹き抜けることによって、却って銃腔を早く磨耗させてしまう。
S弾のようにガスを禁塞した方が、銃腔寿命のためには、よい。
薬室圧力は、火砲よりも小銃のほうが、かなり大きい。
口径が5.5ミリ以下のスモールボアになると、腔綫数は12条くらい。そして弾頭に被甲しにくいので、鉛のムク弾が使われることも。
「三八式や九九式で銃身長を長くした理由は、照準半径を長くして、照準を容易にし、銃剣格闘を有利にしようとしたためです」(p.147)。
航空機関銃の銃身寿命は2500発くらいしかない。
被甲は、純銅に近いものが、銃身の寿命にはいちばん良い。
銃身耐圧について。散弾銃は、1200kg/平方センチ の圧がかる高圧弾の1.6倍の安全度を持たせてある。通常装弾をあやまって二重装填しても安全であるように。
ブローニングのキャリバー.30は、射撃を中止すると遊底は閉鎖状態で待機となる。しかしキャリバー.50は、遊底が後方で止まり、薬室開放状態にして冷却させている。
軽合金の自動小銃レシーバーは、銃身の衝撃がちょくせつにレシーバーに伝わらないような仕組みの工夫によって、可能になった。
ショットガンの引き金の適性値は、1.59kgから1.8kgであると、英国のジェラルド・バラードが唱え、メーカーはだいたいこの基準によっている。
旧軍の14年式拳銃は、引き金が軽すぎ、それによる暴発がよく発生した(p.190)。
水平二連銃では、通常、右銃身が初弾、左銃身が次弾を発射する。両引き金。
単引き金の銃では、セレクターがあり、好みの絞りの銃身から先に発射できる。
照門の上下左右の微調整は、米国だけがやっていた。人間に癖があることを大前提にし、道具の方でそれに合わせるべしという考え方。
銃は使用しているうちに、銃身が曲がったりするので、米国式が、合理的であろう。
銃身を上下からカバーする木製部品、これをしめつける金属バンドを「鉸錬」という。これがきつすぎると、銃身が熱したときに、曲がってしまう。
MGの銃架の銃身抱持内径と、銃身外径との微妙なクリアランス。これが過大でも過少でも、命中が悪くなってしまう。
M-16は銃身が細いために薬室の膨脹収縮がはげしく、それで抽筒困難になる。
M1ガランドは、3万2000発射つと、尾筒にクラックが入り、廃品になる。
8番の散弾銃はなぜ禁止されたか。粒が遠くまで威力をもつので、「半矢」を生じ易い。また、乱獲にもつながるので。
スモールボアとは主に0.22口径のことを指す。