▼防研史料 「十一年式 平射/曲射 歩兵砲 取扱上の参考」S13-6
11年式平射歩兵砲の仰角は、高姿で17度、低姿で10度。
俯角は、高姿で-3度、低姿で-10度。
全重89.8kg。
12年式榴弾はAPHだが、半径5m内の敵歩兵を倒せる。
12年式代用弾は、金質を落としてあり、炸薬が異なる他は同寸で、演練に用いる。
駄鞍には、砲架用、砲身用、弾薬箱用がある。
索【橿のきへんを革へんにした字】=ひきたづな。
野繋勒[やけいろく]
以下、十一年式曲射歩兵砲。
砲身 15.5kg。
+43度~+73度。
属品箱
弾薬箱
十一年式榴弾。
弾尾に「装薬室」がある。
装薬が、ツライチの「弾帯」を膨らませる。それで弾帯が腔綫に吻合する。
瞬発信管を装して射撃するときは、その破片は人馬を殺傷し、または軽易なる材料を破壊するのみならず、特に鉄条網破壊に大なる効力あり。
短延期信管を装するときは、軽易なる掩蓋を貫通して掩蓋下の機関銃を破壊することを得。
十一年式代用弾と空砲とがある。これは発射後4秒、距離約50m、地表から60mの高さで曳火破裂する。
発煙弾は黄燐入り。
駄具とは、駄馬具のカテゴリー内であり、いろいろな「革條」のことを言う。
駄馬具の属品とは、馬糧嚢、ハミ、など。
附属品とは、蹄鉄嚢 など。
▼陸軍省調査班『満蒙に対する支那の擾乱策』S7-7
ゲリラは高粱の繁茂期に活発化する。
撹乱することで日本に統治能力がないことを吹聴し、連盟総会で同情を曳こうとする。
張学良は満蒙に残存する旧部下軍を支援し、あるいは直接、義勇軍、救国軍、便衣隊を使用し、あるいは匪賊を使嗾し、あるいは買収宣伝する。
救国軍には、東北反日救国自由軍、東北民衆抗日救国軍、東北国民義勇軍、熱河義勇軍がある。
上海で集めた寄付金が資金源。
そのほか、在満匪賊の頭目にして勝手に義勇軍を名乗り、軍費を学良に要求し来たるもの頗る多い。
大刀会、紅槍会も、学良の使嗾により匪賊として強勢化。
戦闘こそなくとも、伝単貼り、トリック、離間策、電報交換、偽情報は頻々。
偽の旗を使って日本軍を攻撃。
連盟外の米ソにも縋る。
支那人も米国の真意が対支経済支配にあるこは十分承知しているが、日本軍を追い出すため媚を呈せざるを得ない。
「蘇満国境」と言っている(p.15)。
時局の錯綜は「第二次世界大戦」の危機を逐次醸成しつつある(p.16)。
▼泉四郎『世界航空文化闘争』S15-1
S13において、東京から蔚山までの旅客便の飛行距離は1175km。
大邱までは1265km。
京城[ソウル]までは1499km。
平壌までは1699km。
新義州までは1859km。
大連までは2032km。
奉天までは2051km。
新京までは2326km。
京城[ソウル]から大連までは550km。
福岡から台北までは1610km。
台南から馬公(イ)までは95km。
ホノルル→サモア→ニュージーランド。
ホノルル→ミッドウォー→ウェーク→グアム→マニラ→香港。
サイパン→横浜。
サイパン→トラック→ポナペ→クサイエ→ヤルート。
トラック→オレアイ。
サイパン→ヤップ→パラオ。
ヤップ→オレアイ。
バンコック→香港。
バンコック→ペナン→シンガポール→バタビア→スラバヤ→リパン→ダーウィン。
バンコック→ラングーン→カルカッタ→カラチ。
北海道→ノーム。
北海道→サハリン。
福岡→上海。
福岡→横浜。
福岡→台北。
福岡→韓国。
仏の人民戦線内閣の空相ピエール・コットは本年1月に、次のような統計を出した。
すなわち1936-7時点で、仏の一線機は607機、英は800機、チェコは350機、独は1000機、伊は1500機だったと。
そして1938-9(ミュンヘン協定時点)においては、仏の一線機が1400機、英は1650機、チェコ700機、独3500機、伊1500である、と。
英のエア・ルートの結節点は、最大のものがアレクサンドリア。次がバンコクである。
カラチ→デリー→アラハバード→カルカッタ→アキャブ→ラングーン。
インド内部は飛行場網が大発達している。
ビルマが援蒋ルートの拠点になるわけである。
英のインペリアル・エアウェイズと、パンアメリカンエアウェイズは、香港で結ばれる。
すでにこの頃から、英のデハビランド旅客機は、収容力と速度においてDCやロッキードに負けていた。
豪州は航空機に関して完全にアメリカ依存。
機械も全部、米国製。
仏の飛行場の結節は、マルセイユ。
インドに飛行場は138箇所ある。うち116箇所は軍用に供し得る。
現在は11が軍用。
商務省は1938-7まで米民間航空を管理していた。その後は民間航空局がつかさどる。
1935-11に、ホノルル、ミッドウェイ、ウェーク、グアム、マニラに、太平洋航空基地が設立された。
初め郵便。1936-10-21から、乗客を運ぶ。
1937に、マニラ~マカオ~香港 まで延長。
ホノルル→パゴパゴ→オークランド(NJ)。
比島内には、マニラ→イロイロ→セブ→デルモンテ→ダヴァオ。
それと、マニラ→バギオ などあり。
▼北村小松『空中戦史談』S10-2
いままでアメリカで作られた「空中戦映画」には、ほとんど全部といっていいほどに、リヒトホーフェンをモデルにした敵パイロットが登場する。
「ウイングス」「暁の偵察」「空行かば」「ライラック・タイム」「地獄の天使」……。
役名として、フォン・ケレルマンとかフォン・リヒターとかレッド・エースとか……。
仏人は、ル・プティ・ルージュ と呼んだ。
初め、単葉フォッカー。これも赤く塗っていた。
レンガは、プロペラをめがけて投げる。仏機のみが実装。嚢に入れてあった。じっさいに堕ちたドイツ機が数機ある。
仏人ギュヌメールは、50機を落としたあたりから精神がおかしくなり、敵がまるで飛びそうにない荒天でも、出撃して行った。
気球攻撃では、2銃のうち左側のやつに焼夷弾をつめる。
▼エドワード・シッペン著、越山平三郎tr.『ナイル海戦史 附コーペンハーゲン海戦史、セントヴィンセント海戦史』M28-6
著者は米人。
コペンハーゲン海戦は、1801-4-2。
英艦隊来るや、丁人 大学生徒 一千二百人をはじめとして 国民こぞって出戦を請う。丁人ひさしく平和にて、海戦を忘れたるにも拘わらず。
砲艦の二、三は、艦上に、弾丸を熱する竈を据え付けてあった。
当時の英海軍の軍律の極刑は「砲射」。 ※砲口に縛り付けて吹き飛ばす。
英側死者、1200人。丁側、1700人。 4月9日までに。
後海戦は1807-9-2。
コングリーブ大佐が発明した火箭を初めて実地に応用したのはこのとき。
市民死者2000人。市街は灰燼に帰す。 9-5降服。
英兵は56人死んだだけ。
▼フィリップ・K・ディック著、浅倉久志・他訳『ゴールデン・マン』2008、原1980
ディックによるまえがき。
1950年代、とにかく貧乏だった。
上司や、警察官などの権力者が怖かった。だからじぶんでボスになれる作家になるしかなかった。
それまでは楽器店のレコード売り場の雇われ店員だった。
毎晩、純文学とSFの短編を書いた。売れるのはSFだけだった。
カリフォルニア大学バークリー校は、ROTCの訓練を拒否したために追い出された。
25ドルの月賦で買った古屋に妻と猫と住んでいた。
のちにベトナム戦争にも反対して留守中にガサ入れされたこともある。もちろん違法捜査。
育ったのはバークリー。
毎週FBIのアカ担当の係官が会いに来た。共産党の友人もいた。50年代のはじめに。
いまは70年代のおわりで、このまえ50歳になった。
親しい人たちが病気などで早死にする運命に耐えられない。だから小説の中で、彼ら・彼女らを生かしてやりたい。
去年、ロバート・ハインラインに会えた。精神的父親だ。
数年前、ディックが病気したとき、一面識もないのに電話してきて、電動タイプライターを買ってやろうとまで言ってくれた。
以前、国税庁から課税された金額を払えなかった。ハインラインが貸してくれた。
ハインラインは誰が見ても元軍人と分かる。こっちはヒッピーなのに。
2年ほど、ヤク中のストリートピープルの仲間になったことも。
カナダに移住して、その世界からは徐々に抜けられた。
それからオレンジ郡にもどり、堅気になった。
結婚生活はダメだったが。
小説の中に認識論的懐疑が出てくるのは、バークリー校の短い在学期間のたまもの。
売れない時代のリンダ・ロンシュタットをレコード店員時代に推して、キャピトルからデビューさせたと信じている。
執筆は、夜11時から朝5時まで。厖大なレコードを、最高級ヘッドフォンで聴きながら。
こんな生活だから、女は皆、去っていく。作家の集中と相容れないのだ。
フランス人は、どんな状況の中でもいちばんありえない可能性を見つける。そこが合う。
選択の過程そのもののなかにあるドラマに夢中になり、決定や行動ができない。
50年代は、夫婦で月90ドルですごした。図書館の本の返却が遅れると罰金を取られた。それも払えないくらい貧乏だった。
70年代でも、家賃は払えず、車も電話も持っていなかった。息子を医者にも診せられなかった。つまり47歳くらいまで、乞食同然で、仲間の善意で死なないだけだった。
ヤコブの梯子。旧約聖書。天に達する梯子の夢を見たと。
▼木村行蔵・監修、高橋和市ed.『警察提要』S37-9
北一輝は支那革命の体験から、軍隊による革命が日本でも最短になると信じた。
その革命の主体は天皇であった。
マルクス。人類の歴史は、生産力に対する生産関係を動因として、人間の意志や欲望と無関係に展開される。
マルクスの死後、カウツキーがマルクス主義をドイツに持ち込む。議会を肯定する。今のドイツ社民主義。
他方、プレハーノフによりロシアに入ったもののうち、レーニンが暴力革命主義で、権力を握った。
スターリン著『レーニン主義の基礎』。いわく、戦略とは、一定段階に基づいてプロレタリアートの主要攻撃の方向を定めることであり、革命の一定の段階の全期間を通じてこの計画を遂行するために闘うことである。
戦術とは、運動の満潮・干潮、革命の高揚・衰退といった、比較的短期間のプロレタリアートの行動方針を決定することであり、戦略に従属し、これに奉仕するものである。
何人も、正当な理由なく6cmを越える刃物を携帯してはならない。
刀剣は15cm以上で、これは所持禁止。
刃渡とは、棟区(むねまち)と鋩子(ぼうし)とを直線で測ったもの。
S26-9-6 最高裁判所第1小法廷判決。
むねまち とは、刀身の峯部の柄のくぼみ。ぼうし とは、切先。
判例。鋼の入らない のべがねの槍は、銃刀法の「やり」ではない。
狩猟法。毒、据銃、危険な罠、「陥せい(穽)」を使用して鳥獣を捕獲することはできない。
あへん戦争から70年後の1909=M42に、セオドア・ローズヴェルトが在支の宣教師に動かされ、上海で国際会議を開いた。成果なし。
ついでヘーグで、1912年に「ヘーグ阿片条約」成立。しかし各国が批准しないうちにWWIが始まった。
効力発生は、ヴェルサイユ条約と同時になった。
なかなか効果がなく、1924から25年に数次の追加条約あり。1931-11にも「制限条約」。
▼C.E.Bohel著、本間長世tr.『冷戦の再検討』S46
チャーチルは昼寝の習慣をもつ。
1919のボルシェヴィキは、話し振りが率直であった。
1969-4-1のソ連からの極東向け宣伝放送。毛沢東は内戦で負傷兵を何十万人も見殺しにしたと。
大国同士は、自国と境を接する国で行っていることには、互いに干渉すべきでないというのが、モロトフの考えであった。だから、メキシコへのアメリカの干渉は、ソ連としては、許せる。
ソ連は朝鮮戦争中のアメリカ向け宣伝で毒々しい表現を最大限に用いたが、1969の中共向け宣伝はそれに告ぐ内容。
▼ソ連科学アカデミー歴史研究所、山本直人tr.『ボリシェヴィキの軍隊工作』1976、原1969
10月革命の直前に書かれたレーニンの手紙。「決して蜂起をもてあそんではならないが、開始したら最後までやり抜く」。そのさい、「最大の決意をもって行動し、必ず、無条件に攻勢」に移る。
士気の優位を保つため、「どんな小さな成功でも毎日(一つの都市の場合なら毎時間)、成功を収めなければならない」
※「できるだけ長い平和」は、準備企画力ある側にのみ有利。/兵頭 二十八
1920レーニンいわく。軍隊内の粘り強く系統的な宣伝・扇動が最も重要で、「この活動を放棄することは革命的責務を裏切ることに等しいであろう……」
▼鳥居民『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』2005-6
トルーマンと、国務長官ジェームズ・バーンズの二人組が、原爆の威力を実証するために、手持ち2発を日本に投下し終えるまで、日本を降伏させなかった――と主張する。
ルソンと硫黄島と沖縄を合計しても米兵は27000人しか死んでないはず。百万人も本土で死ぬわけなかった。
当時のプロ軍人たちは、本土作戦で戦死1万人と呼んでいた。百万人というのは戦後になったからの創作。
スティムソンが天皇の地位を保全させようとしたのを巧妙に削除し、それが正式の外交文書ではなく最終通告でもないと思わせた。バーンズの細工。
鳥居いわく、フォレスタル海軍長官も原爆投下に反対だった。
米軍はS20-6-17から中小都市(5~10万人)の焼き討ちをはじめた。100機~百数十機。
三菱の名古屋発動機製作所と、中島の武蔵製作所は、昼間の爆撃を繰り返し受け、4-12には完全な廃墟になっていた。
6-22には、三菱の水島航空機製作所、川西の姫路製作所などを早朝爆撃。
阿南惟幾は長沙でもビアクでも、徹底した攻勢主義を実践した。
皇太子明仁親王は、日光に集団疎開。13歳。
一号作戦。江西省の桂林や柳州に建設されようとしているB29発進基地を潰す。自動車1万5000両を動かす。 S13の武漢攻略作戦いらいの大作戦。
ノモンハンでは事実上の関東軍司令官は服部だったと言われ、事実上の関東軍参謀長は辻だった。
熱河は「ねつが」とルビをふる。
蒋介石は、シェンノートだけが誠心誠意、中国を支援しようとしていると思っていた。日記に書いている。
鳥居いわく、シナ政治家は自前の軍隊をもたない限り、半人前。
スティルウェルの作る部隊は蒋介石の私兵にならない。シェンノートの空軍なら、それに近いものになる。
一号作戦がきっかけで蒋介石は米人記者の延安入りを認めるしかなくなった。
これで米国世論が中共贔屓になった。米政府は国共内戦を傍観し、むしろ中共と結託しようとした。
毛沢東は、じぶんたちは中国の民主党なのだという印象操作に成功した。
大陸打通作戦のとき、服部のもとで作戦課員だった高山信武。この人こそ、作戦に反対だったのだ。
服部は美男子だった。徳富蘇峰は、美男子は絶対に得だとS10年代に断言。
新聞記者はじぶんと同じくらいの歳の者を相手にしない。
高橋亀吉は、武漢を占領すべきだと強く主張した。
1944に、ビルマからの自動車道路(終点は昆明)が3年ぶりに再開通した。アッサム・ベンガル鉄道の輸送量も増えた。
1943-5にアーネスト・キング作戦本部長は、ルソン島を素通りして台湾南部と南支沿岸を同時に占領して海空基地を置くべきだと主張。マック大反対。
この論争も、一号作戦のおかげで、ルソンは絶対に必要だという結論になってしまった。
※例によって、何もかも書いておこうとする執念が通読を苦行にしかける。鳥居節。
丸山真男は、宇品の陸軍船舶司令部情報班に勤務していた。
グルーは1943-12末にシカゴで日本の君主制度を擁護していた。そのグルーをFDRは国務省の日本担当に起用。『滞日十年』もタイムリーに刊行された。皇室は日本の穏健勢力の中心であり、戦争勢力は陸軍だと。
陸軍は、グルーによる和平をつぶすために、ソ連ルートでの交渉に前のめりになった。
吉田と近衛は見抜いた。陸軍幹部は戦争責任者・戦争犯罪人として処罰するのをおそれ、だからこそ、ソ連にすがり、ソ連にどんな譲歩でもする気だと。
ハルは末期にはFDRから無視され、その心労から入院した。FDRはハルを追い出してグルーを向かえいれた。
国務長官ステティニアスは祖父が猶太系ドイツ人。
繆斌工作は、日本が中共と結ぶことを阻止することだけが目的なのだった。
S20-5-11、アメリカは武器貸与法によるソ連への軍事援助を打ち切った。
ソ連では米国製トラックは「スチュードベーカー」と呼ばれていた。それは2トン半と1トン半。いちばん多かったので。
貸与法の責任者、レオ・クローリーが記者に語った数字。1945-1までに、トラックは35万5000台、ソ連へ援助した。大砲牽引車は18万両である。
スターリンと援助品目の細目を決めたのはハリー・ホプキンズで、1941-7-30と31のこと。
内大臣は天皇を常時輔弼する。かたや宮内大臣は、軍事や政治について天皇から助言を求められることはないし、進言もできない。
連合国とドイツの暗黙の取り決めにより、ジェノヴァ港からスイスに食糧(アルゼンチン小麦)を搬入する鉄道は、爆撃されなかった。
トルーマンの唯一の相談相手が、バーンズ。6歳年長。FDR政権の事実上の副大統領であった。トルーマンは議員時代、バーンズから選挙の世話になった。
トルーマンは大統領就任日にまずスティムソンから原爆の説明を受けた。ついで4-25にグローブスから詳細な説明を受けた。
GMが1944に納品した軍需品の総額が30億ドル。マンハッタン計画は20億ドル。
トルーマンは、日本に原爆を落とすために、スタから参戦日を聞きだそうとして、結果的に、ポーランドをソ連にくれてやった。
トルーマンは高卒だった。
投下にさきだって通告しないと主張したのがバーンズ。
マーシャルの推定。南九州上陸作戦では、最初の30日で、ルソン島攻略の戦死傷者31000を超えることはない。
レーヒーは、沖縄の戦死傷者比率を根拠に、6万人と予想。
キングは、その中間。
マーシャルは、日本の参謀総長や陸相、外相よりも、シナに詳しかった。
ドイツが降伏した日に、スティムソンは、国務長官代理のグルーと海軍長官のフォレスタルに、原爆計画を明かした。
ポツダムに移動するとき、大統領とバーンズは別の軍艦に乗っていた。
トルーマンは日記中でソ連参戦予定を知っていて、これで日本はおしまいだと書いている。それはソ連が日本をおしまいにするのではなく、それにあわせて自分が原爆を投下するという想像なのである。
チャーチルがトルーマンから原爆実験について聞かされたのは7-22。
クラウス・フックスだけでなくオッペンハイマーも、原爆の秘密をスターリンに知らせていた。こうした重要情報は、ソ連の参謀本部を素通りしてスターリン個人に集められるようになっていた。そしてスタには原爆は実現するとは思えなかった。理解の限度を超えていたのである。
ポツダム宣言にソ連を署名させないことにより、日本はソ連工作を期待して降伏を先延ばしする。これもトルーマンとバーンズの策略なのだ。
もし広島と長崎に落としていなければ、トルーマンは、ベルリンや朝鮮で、ある限りの原爆を気軽に使ったはずだ。トルーマンが最初の2発について悔悟していたので、ソ連は破滅を免れた。
▼伊福部隆彦『老子眼蔵 増訂新版』S39-8
※初版はS17秋。改訂再販がS28。
この本は、老子と道元を習合せんとす。タイトルは道元の「正法眼蔵」にちなむ。
孔子は人情が基調。老子は大道が中心。
老子と仏教の接触はA.D.2世紀頃。シナ人は老子によって仏教を理解しようとした。
そして王弼が老子解釈をねじまげた。
著者いわく。道はイデアではない。実体だ。だから認識することができる。
道経のなかの、有韻の部分が最古形。
常道 は、「かわらざるのみち」と読むべきである。
「名の名たるべきは」の名は、論語で孔子が「それ名を正さん」と言っているもので、周礼の名のことである。
無は、万物万象を生み出している。有は、常にそれを死滅させている。
無為とは、無のはたらき、無の作用。
王弼いわく。徳は得なり。無を以って用となす。※計画・設計をしないということ。
唐の陸希声いわく。体は用を兼ねられる。用は体を兼ねられない。
管氏は孔子よりも老子よりも早い。そしてさんざん道を説いている。老子が真に対抗したのは管子ではなかったか(p.209)。
民、死をおそれず。いかんぞ死をもってこれをおそれしめむ。
形のないものは、隙間のないところにも入れる。
天下の難事は必ず易しいことから起こり、天下の大事はいつでも細かいことから起こる。
この易しく見えるものこそ、難しいものとして対処せよ。さすれば終いに難事がない。