旧資料備忘摘録 2020-7-24Up

▼五十嵐邁『美保関のかなたへ』H17-12 角川文庫。原1978
 昼間の雷撃演習では、魚雷は赤い染料を放射しながら進行する。
 とうじ魚雷1本は5万円だった。

 『蕨』は衝突されたボイラーが損壊したので、炎が吹き上がった。
 当時の技術では沈没艦の引き揚げは、30尋までが限度。『蕨』は74尋の海底に沈んだ。

 魚についばまれた死体を遺族に見せてはよくないので、美保関、境、赤碕の海岸に臨時の死体焼場を設けて、薪と石油も用意した。

 死体の掌が火傷で白くなっているケースが多かった。

 水城艦長は大砲のブラストで方耳の聴力を失っていた。だから幕僚の報告が耳に入らなかった。
 水城は軍法会議後、西洋剃刀で頚動脈を深々と二度切り、自殺。

 S7-12には駆逐艦『早蕨』も荒天で転覆沈没。蕨という字は、日本海軍では二度と艦名に用いなくなった。

 美保関事件の捜索機を発進させた『能登呂』は、WWIIではもっぱら輸送任務に従事した。

 事故の夜、駆逐艦『菱』の艦長だった板垣成紀は、陸軍大将の板垣征四郎の弟。

 海軍有終会は、大2に水交社の中に設けられた団体で、予備役の士官と特務士官がメンバー。

▼高橋三吉『海を征く』S18-3
 M41に練習艦隊が澎湖島まで帰ってきたとき、4-30黎明、『松島』が爆沈。瓜生大将の息子、大山元帥の息子も、これで殉職した。

 大9-9、北海道の日本海沿岸で実弾射撃の訓練中、『榛名』の主砲36糎の巨砲に爆発が起り、三十数名の死傷者を出した。

 大13、『阿蘇』の艦長だったとき、潜水艦の乗員たちを入浴させてやったことがあったが、その人たちの臭いのに驚いた。ただただご苦労と申すより他なかった。

 潜水艦の苦労は、潜航中もたえず動揺して船酔いが止まらないこと、結露の滴下。一航海は8日間なのだが、乗員はまったく疲労し尽くす。実戦では、機雷にかかる率が水上艦以上。味方から誤射される率も非常に高い。連合国でもこれでしばしば撃沈されている。

 ワシントン条約で、第二流の主力艦を多数、大砲や水雷で処分した。ロシアから捕獲して改装した肥前、相模、周防、石見、丹後が含まれる。沈めた場所は東京湾と土佐湾。沈む姿をとても正視できなかった。海軍の将兵は、皆泣いた。

 対米戦の緒戦で、上海に在泊中であった米砲艦は、直ちに降伏してしまった(p.143)。

 日露戦争後、大正の初め頃、威海衛の英軍艦の射撃が上手すぎるというので、堀内三郎大佐、兼坂隆少佐などが、見学させてもらった。距離時計(レンジクロック)を使った「時計射撃」だった。

 高緯度地方では海戦も「夕あかり」を利用することが重要になる。とにかくトワイライト時間が長いので。アークロイヤルの雷撃機はこれを利用して、午後9時台に低空から接近した。こっちは暗闇だが『ビスマルク』の背後は薄暮なので、よく見えたのである。

 バルチック艦隊の露艦の煙突は、黄土色だった。
 艦長と航海長だけは、交替要員がいない。演習中は艦橋で仮眠するしかない。

 豪州が大東亜共栄圏内に入ったら、日本人がどしどし移住するべきだ(p.252)。

▼『海軍大将山下源太郎伝』S16-2
 芝罘と旅順のあいだの海底電線を対露開戦前に切断させたときの指揮官は山下大佐。芝罘の領事館に出張中であった。

 明治37年5月は海軍の厄月であった。「当時八島の沈没は秘密に保たれてあつたが、此の報〔初瀬、宮古、吉野、龍田か〕一度内地に伝はるや、朝野を挙げて震駭し、人心恟々、物情騒然たるばかりであつた」(p.159)。
 バルチック艦隊は38年5月14日にヴァンフォン湾(カムラン湾の北40海浬)から全艦出港。東郷はこの情報を18日に承知した。

 ※5月27日、日本海海戦。八島の触雷沈没が日本国内に公知されたのは6月1日の官報。

 財部海軍大将のS9-6-21談。
 とうじ中央の軍令部にいた財部中佐は、連合艦隊側においては「津軽海峡に於ける特種部隊が如何なる程度に有効であるかも知らぬであらう」。だから鎮海湾をまだ動くなという意見を電報するべきではないかと思った。しかし権兵衛のところでダメ出しされた。財部は「艦隊では、津軽海峡の乙雷を知りません」と説明したが、権兵衛は発電に同意しなかった。しかし翌日、よってたかってつきあげられたので、電文を緩和して、幕僚から幕僚へ電報させることにした。このとき財部の上司が、山下大佐だった。

▼沖修二『阿南惟幾[これちか]伝』S45-8 講談社
 ※沖が脳溢血で急死したので、渋谷清がひきついだ。

 幼年学校でいちばんちびだった。父親は内務官僚。全国転々。
 士官学校や幼年学校の区隊長や生徒監は、閑職で、陸大入試のためにあった。

 生前の乃木大将邸に何度も出かけている。
 中幼から陸士にかけては、大国隆正の著書を手当たり次第に読んだ。歌学。

 ※梅津と比べても写真写りが上品である。
 ※東條は率先。阿南は丸投げ。

 阿南は陸士の息子を、身体は虚弱だが何とか戦場で死なせて欲しいと区隊長に頼んだ。

 7月22日の阿南日記。「大谷参謀横須賀に向ひ離任出発。加登川参謀『マニラ』に出張す」。
 S19-11-26日記。「惟道(四男)の誕生日なり大成を祈る。戦後経営の重要期に青年たるべし」。

 航空総監になると、航空総司令部が日吉や市ヶ谷代にあるのは適当でなく、第一線に近い福岡に進出すべきだと考えた。
 しかし3ヵ月で陸相に。もともとセレベスから呼び戻すための便宜補任が航空総監だった。

 額田担の証言。航空総監として特攻隊を送っていたとき、最後はみずから特攻隊の先頭に立って散る決意だった。
 ※利用される性格だった。特攻命令者要員として召還された。

 公務外では、下級者に対しても、阿南は「○○閣下」と読んだ。

 ※本書には「米内を斬れ」というセリフは紹介されていない。

 長男の惟敬は終戦時に陸士在学中で、のちに防大の人文科の教官になっている。
 四男の惟道は、講談社オーナー一族の野間佐和子と婚姻し、講談社の重役になっている。
 五男の惟茂は、東大法科から外務省。米国人と婚姻。

▼御手洗辰雄『南次郎』S32-11
 M21-5に英国は北ボルネオを占領。
 長女の順子はS3-12に航空兵中尉本多三男に嫁す。本多はS20-1、台湾沖で機上戦死。
 次女の直子はS4-2に騎兵中尉西義章に嫁す。西はS18-7-7、シンガポールからドイツを目指したが機上戦死。
 三女の寛子はS10-11に商工省官吏の高津彦次に嫁す。
 四女の友子はS12-11に三井物産の松村豊雄に嫁す。

 チャンコロの語源は中国人チュンコウレン。
 日出町はひぢまちと読む。

 金谷範三の父は医師で隆基という。
 明治陸軍将校は婚姻するとき届け代として600円も必要だった(p.30)。

 青年壮年時代は父母を平凡人だと思うものだが、老年となれば、感謝しかなくなる。
 M23頃、成城学校にはとかく男色流行のうわさあり。

 少尉~中尉の頃は部下の酒代で給料が消えてしまう。妻は風呂代がないので江戸川で行水した。

 田村怡與造の弟・守衛も俊才だったが、中将で病死した。健康なら陸相になってた。山梨半造は怡與造の女婿。

 『済遠』触雷始末。第四回の旅順総攻撃に連動していた。海から、203高地、小陽溝、大陽溝、老鉄山を砲撃していた。
 M37-10-30、午後2時ごろ、轟爆、黒煙に包まれ、火を吹き上げて沈んだ。
 最初、陸上から露兵が救助活動を射撃して妨害したが、それはピタリと止んだ。救助が終わるとまた射撃再開した。
 じつは、その前に、南騎兵連隊のうけもちの塹壕に、露兵が5ルーブル金貨と手紙を入れて投げてよこした。「われ壮健なり」というシンプルな電報を郷里まで電信で打ってくれという注文だった。南は司令部にその電報を打ってもらった。営口→上海経由。料金27円は10ルーブルより高いが、こっちで払ってやったぞという手紙と金貨2枚を入れて投げ返しておいたという。それが効いたようだった。

 このとき艀舟からひきあげた仮死状態の長身肥躯の海軍大尉は、野村吉三郎だった。済遠の航海長だったのだ。艦長の田島維為大佐は艦と運命をともにした。

 奉天会戦のとき山縣が在満の兵力を調べさせた。銃数は70万。メンコは130万。つまり60万人は非戦闘員として徒食している。奉天会戦に使用し得た兵力は23万人。残りの40万は後方守備か兵站か局地防禦していた。

 これが動員の実態だった。130万を送って、会戦には23万しか集中できないのだ。

 すでに兵隊の体格は低下の一方。4尺9寸までを合格とし、馬も、従来の5尺3寸から4尺6寸まで下げて徴用していた。
 兵食は1食5銭だった。130万人を1ヶ月養えば、585万円である。

 明治末の士官学校は中国留学生をとかく特別扱いしていたが、南は、これを改めた。

 久原房之助の大構想。日本は朝鮮を、シナは満州を、ソ連は沿海州を供出して「極東自由国」を建設すべしという。これを田中の特使としてモスクワにのりこんでスターリンに聞かせた。

 済南出兵のとき、再人には2200人の居留民。青島には12000人いた。

 万宝山事件。とうじの在満の鮮人は、満鮮国境の間島を中心に60万、他の地方に20万人。水田経営に従事する善良な鮮人であった。「漢民族は習性として水に入ることを厭うため水田経営は苦手であった」(p.233)。
 土地は、満人地主から借りるしかなく、所有権は移らなかった。

 在郷軍人会長の鈴木荘六大将は、S10-2で後備役満期となったが、服役継続を願い出て、その後2年間、後備役にとどまった。※S12には対ソ戦が予想されていたから。

 S10-3中旬、ウラジオストックとハバロフスクには、満洲国領事館が開設された。ソ連は事実上、満洲国を承認して国交を開始するに至ったのである(p.367)。

 内地では旱魃に凶作なしなどと言われたが、朝鮮は逆で、怖いのは旱魃。洪水にこそ不作がないと農民は信じて居た(p.432)。

 宮中御陪食のとき、場馴れない人は緊張のあまり、ナイフやフォークを取り落としたりするが、陛下はかつて振り向かれたことはない。人の不面目は御覧にならぬのである(p.539)。

 徳富蘇峰が「満州は封禁の地にして化外の民である」と書いていたので、南は満州事変を応援する気になったと(p.548)。

 末っ子の南重義が家督を継いだ。幼年学校、陸大ともに恩賜。少佐で終戦。戦後、竹中工務店に入った。

 伝記資料提供者としてカール・レーモンも名を列ねている。

▼関儀一郎『老子國字解全書』大12-4
 老子は春秋の末、戦国のときに生まれた。
 ※孔徳とはセックスそのものだろう。

 偏将軍は、そへ大将。

 谷神の徳を修するものは。無知無欲故元気全く。何日までもわかわかとして居る也。(p.103)。

 老子の「殺」は受動詞。ころされる。

 人のせだけも20歳までは成長す。
 博識多能を道家はにくむ。

 海保いわく。左氏内外伝にも、孟子にも、老子は登場せぬ。

 帥は、大将軍のこと。

 下屋のない二階はなし。※一階、とは呼ばない。

 帆船の航法で「ひらき」と「まぎり」がある。まぎりは、すこしづつ風上へ「あやすぎ」に走る。

 おとなしすぎたる少年は、えては大ドラものとなる。

 幾は ちかし と訓ず。
 山から掘った宝石は玉。水よりでたるたまを珠という。

 輻は、此邦では7~8本だが、「支那にては三十本ありて」。※海保青陵のことばづかい。

 石と金を打ちつけて出る火を「微」という。
 紀 は、大づな。

 ウッカリピョンと
 素は、まだ染色していない糸のこと。

 精 は、コメをしらげること。

 京都の白木屋は貧乏人から長者になった。タバコが法度になったとき、これは長続きしないと読んで、煙管を買い込んでおいた。

 輜は、兵糧車のことである。

 強は、弓のつるのつよき也。
 化とは、それとしらずになる也。

 デキボクして  ※凸凹して。

 亭 は たかし と訓ず。
 馬ならば、針をして血をとる。 ※治療。

 老子は、御祈祷と妙薬はきらひ也。

 彡は、美しうかざること也。彪 の字は、虎の皮のうつくしいもの。木のうつくしいのは杉。

 人の成長の頂上は30歳で、骨肉はそれ以後は下り坂。

 褐 は、鳥の羽、獣の毛をはさんだ衣料。 ※ダウンコート。

 ネコダ  ※おそらく土間に板をしいた部屋のつくり。

 信長が明智を殺す意ありしに、明智之を悟りて、却って信長を弑するの類なり。

 斉藤拙堂いわく。老子は周の顕王より以後の人。孟子より少し後だろう。
 仁義という熟語は孟子が創始した。それを老子が使っている。

 孤 は、小侯の自称。寡人 は、諸侯の自称。 不穀は、夷狄のチーフの自称。
 侯王とは、戦国の諸侯。

 禍は、敵を軽んずるより大は莫し。

▼中村赳『新設 明治陸軍史』S48-4
 外国人を雇っていたピークは、陸軍はM10まで、海軍はM20年代。
 外人全員を日本側で監督するのではなく、教師首長をひとり、握る。あとは、そいつに教師団を任せていた。

 明治の陸軍はドイツ式かフランス式かと問われれば、はっきりとそれは仏式。
 明治初期に日本人がつくれなかったものは薬莢。

 士官学校は3年で少尉にするのだが、砲兵と工兵だけはさらに1年在校させないと詰め込みが追いつかなかった。彼らを生徒少尉といった。

 明治24年までは「とまれ」ではなく「ハル」と号令をかけていた。ハルト。仏語である。

 英国人 ジョセフ・パー Parr, J. 上頭掌砲。  扶桑回航後、迅鯨乗組。砲術、水雷用法教師。
 兵学校、東海鎮守府、水雷練習所、水雷局。
 期間は、2年6月から23年6月まで。
 横須賀居住。M21~23、イギリスへ出張。
 給料は、229円、239円、250円、275円、280円と昇給した。
  ※この人が、『帝国海軍水雷術史』に出てくる「ゼー・バール」であろう。

▼光岡 明『機雷』1881-7
 S19-11時点。GFは、瀬戸内海と、リンガ泊地に避退していた。すでにマリアナ陥落。
 海防艦『大東』は三式爆雷を積んでいた。爆雷庫から電動揚雷機で揚げて、投射機に装填する。

 玄界灘の冬は白波が生ずるので、目視で敵潜水艦の潜望鏡はまず見つけられない。

 駆逐艦は30ノットを出すときは艦尾が深く沈む。

 呉防備隊に配属される新造艦はまず佐伯で対潜攻撃を訓練する。敷設艦『網代』もあった。訓練目標艦は呂68と呂500。模擬敵潜。

 海軍では10ヵ月引き入れる(病気入院する)と、兵学校出でも大尉になれないといわれていた。頭脳優秀なら依託学生として大学の技術コースに進みなおす道がある。
 凡庸なハンモックナンバーなら、鎮守府防備隊の小艦艇や根拠地隊をドサ回りする。

 主人公の梶井中尉は、呉鎮守府の軍需部勤務。

 敵潜は、船団の斜め後ろから6本を公算発射してくる。ガードする船は、したがって船団の斜め後方に占位しなくてはいけない。

 海防艦長は、ほぼ全員、商船学校出の予備将校。開戦前にすでに大きな船を操っていたから、単艦の操艦はうまい。しかし敵襲下に船団を維持するのは苦手である。

 防水区画のない大き空間を抱えているフネは、一度水が入ると、沈むのは速い。

 最上がMIで衝突したのは、二度目の「赤赤」=取り舵45度回頭を聞き漏らしたため。

 マニラ港は南西航路の重要拠点だった。護衛指揮所も大きい。
 ルソン海峡は深くて機雷を入れられない。波が大きくて駆潜艇が翻弄される。だから米潜の天下。

 S19-6の米軍マリアナ来攻により、横浜~サイパン航路がまず放棄された。ついで、パラオ~台湾、パラオ~マニラ、楡林~高雄、マニラ~カウ、昭南~メダンが、放棄された。

 残ったのは、大陸航路を除けば、門司~マニラ~昭南 の航路だけ。

 開戦劈頭、キャビテ軍港の米潜用魚雷が、空爆で吹き飛んだ僥倖あり。

 S17-11には、敵潜にやられるフネが月に16万トンを越えた。敵潜は140隻が散開していると推定された。

 S18-8、米潜は狼群戦法を採用。3隻が1パックになった。9月に被害は20万トンを越えた。

 S18-11、海上護衛総司令部が創設された。GF司令長官よりも先任の大将が補任された。担任事項においては各鎮守府や警備府を区処できるという権限が与えられた。

 米潜は、夜間潜望鏡、電池魚雷、レーダーをもっていた。

 艦長は艦長室で一人で喫食すべきところ、ダレてくると士官室にやってくる。

 S18年度の鉄鉱石は、その85%を、満州、シナ、海南島から運んだ。17年度は月に130万トンだったが、18年になると100万トンを切った。19年度は70万トン以下になるだろう。

 S18-5に呉工廠から佐世保鎮守府へ機雷を2000個、輸送した。
 済州島の北西から、日向礁を通る線に、深深度機雷×6000個の機雷堰を設置するため。機雷輸送は、敷設艦の他、掃海艇や、特設艦西貢丸などで運ぶ。

 米機動部隊には、補給専門の大輸送船団が随伴する。だからいつまでも軍港に戻る必要がない。日本のGFは、出撃するたびに、ブルネイかリンガか内地にいちいち戻る必要があった。

 護衛艦では厠に行く時間にやられることが怖いので、将校が便秘になる。

 総員配置が一段階緩むと、艦内第二警備。

 三式一号磁探を搭載した97艦攻は3機の小隊×2個のフォーメーションで高度10mを飛ぶ。機と機の間隔は200m。
 磁場の変化は、理論上、敵潜の深度とは無関係に探知ができる。
 変化を検知すると、目標弾が自動的に発射される。

 兵学校では、生徒館の中であれ校庭であれ、なにものにもよりかかってはならない。
 区画を踏むことも×。たびかさなれば、その防水扉がいざというときに閉まらなくなるかもしれないから。

 アングルバー(鉄棒)ではなく、フレキシブルワイヤーであれ、とも兵学校は教える。

 「ヒ71」船団は、比島への陸兵6000人、昭南に向かう大型油槽船など20隻。S19-8-10に伊万里湾を出撃。海防艦5隻、旧式駆逐艦2隻、護衛空母『大鷹』が囲んだ。
 馬公でさらに護衛艦を5隻増強。

 バシーは危険海峡なので昼間突破に限られていた。艦攻で制圧できるので。しかし、壊滅。

 爆雷投射機はYガンという。
 探信班、これはアクティヴソナーである。

 重油の海から引き揚げた水兵たちには甲板でホースから海水を吹き付ける。

 S20-1中旬、日本の地上軍はレイテを抛棄。1-6にリンガエン湾に大上陸が始まったので。
 ルソン島の前には、オルモック島とミンドロ島にも上陸。

 サイゴン港を利用するには、メコン川を遡行する。

 三式聴音機。搭載艦がディーゼルだと自己ノイズでマスクされる。実効距離は1500mしかなかった。

 仏印沿岸では、バンフォン湾、キノン湾に夜は逃げ込める。B24は執拗に触接してくる。
 米潜が船団を追躡してこないのは、機動部隊の護衛に回っているから。

 合戦が予期されるときは、厨房のレンジの燃料を抜いてしまう。すると蒸気罐しか使えないので、あっさりした料理が出てくる。

 戦闘機だけの襲来なら、船団フォーメーションは崩さない。艦爆や、雷爆混合だったら、崩して散開。

 スコールの中に逃げ込むと、後檣の尖端でセントエルモの火が、たよりなく点滅する。

 米機の航空魚雷には、頭部に赤い輪が描かれている。

 S20-3、佐世保軍港に敷設艦『常盤』が碇泊していた。
 所属は、佐世保鎮守府防備隊。その隷下の敷設艦隊である「18戦隊」の旗艦。
 防備隊隷下には「佐世保護衛隊」もあり。
 93式機雷×6000個で、対馬西水道と壱岐水道に、南北2列。対馬東水道に1列の機雷堰を敷設せよ。

 深度には敷設線ごとに違いをつける。浅いのは3m。深いのは33m。
 敷設したのは、『常盤』『西貢丸』などからなる18戦隊。
 第一機雷堰は、男女群島はるか南方。
 第二機雷堰は、台湾北方澎湖島と魚釣島の間に。
 第三機雷堰は、宮古島と久米島の間。
 第四機雷堰は、その内側の南シナ海寄り。

 S20-1には、第一機雷堰の北方に1960個で第五機雷堰が。また、屋久島南方に、1000個で第六機雷堰がつくられた。

 日本海にはS18-7とS18-10に、米潜が、宗谷海峡から2群(6杯)侵入していた。
 日本の対潜機が、宗谷から逃げ出す1隻を撃沈した。

 しかしS20時点では、太平洋艦隊の潜水艦隊はグァムに前進してきており、第七艦隊の潜水艦隊は、スビック湾に前進してきていた。

 S19-1月下旬から6月下旬にかけて、「支那東海東南機雷堰」を構成した。機雷1万2000個。呉鎮守府の工廠から機雷が運び出された。

 戦前の平時の計画。対ソ戦を考えて、宗谷、津軽、間宮の三海峡を、2万個で封鎖する。これが平時常備定数だった。
 この2万個が手付かずだったので、S19-1に支那東海東南に転用した。すなわち対ソ開戦をあきらめた。

 S20時点では、93式機雷だけでは6000個は揃わないので、5号機雷、89式機雷もまぜられた。繋維式ならなんでも使うしかなかった。

 機雷の戦時量産は、S17の15000個がピークだった。

 1隻が300個を積んで敷設作業できた。
 『常盤』は運搬するだけなら500個を載せられるが、上甲板と中甲板の敷設甲板に置けるのは350個ぐらいまでだった。

 小船を改造したものだと、200個も積んだらトップヘビーでだめ。100個までである。

 計画日数の倍を見ておくのが、船隊行動の鉄則である。

 機雷の罐体の鉄板の厚さは3.95ミリ。
 お椀をふたつあわせて熔接する。
 径86センチの球となる。
 I型なら触角4本。II型なら7本。III型なら9本。
 触角の中には、ゴムで覆ったガラス瓶があり、液状の重クロム酸カリが入っている。
 触角の中の炭素と亜鉛の棒がこの液で浸されると、起電が始まる。
 93式の爆薬は、IV型の110kg以外はすべて100kg。

 深度1mで95グラムを爆発させたとき真横60cmの板にどのくらいの圧力がかかるかを比べると、ピクリン酸よりカーリットの方が数割強力。

 日露戦争でペトロパウロフスクを沈めたのは、特務艦『蛟龍丸』と、第四駆逐隊が敷設した機雷。

 ピクリン酸は、鋳填ができない。和紙で小包にして詰めねばならぬ。罐体内側には漆を塗る必要もある。水中威力も小さい。

 そこでS5にカーリットが八八式爆薬として制式採用された。
 食塩水を電気分解すれば過塩素酸アンモニウムの原料が得られるので量産向き。

 常盤は2本煙突の石炭焚き。
 艦砲は5%しか当たらない。魚雷は15%当たる。

 魚雷の「擁弾頭部」という新案。爆発すると弾丸を打ち出し、それで敵艦のダメージを大きくする。

 S20-2~3月、加計呂麻要塞へ、上陸阻止用の「水際機雷」を運ぶ。奄美大島のすぐ隣。
 奄美大島には「瀬戸内」がある。その南北に入り口がある。すでにそこには92式機雷が敷設されていた。

 92式機雷は、水中長音機を使い、陸上衛所から電纜で管制し、潜水艦を仕留める。1個の重さ1300kg、それが6個。炸薬は500kg×6個。

 水際機雷は、直径60cmの球罐の中に40kgの爆薬が入っている。繋維索は50m。

 S19-11-7に、恵山岬沖で、米潜撃沈確実。
 恵山機雷礁の南端。
 恵山灯台の105度、3.5浬の場所を哨戒していた掃海艇が、そこから左170度、2500mのところで水中爆発音を感知した。海深は260m。

 もうひとつのケース。日付不明。下北半島の白糠灯台沖の機雷堰に米潜を追い込んで触雷させた。3日にわたって重油が流出したが、浮遊物は得られていない。

 S20-4-10、第七艦隊が編成された。麾下に「18戦隊」「下関防備隊」。門司に司令部。常盤が旗艦。

 機雷搭載は、舷側エレベーターを使って甲板へ揚げる。
 4-13、早くも沖縄の飛行場からP-51が南九州の飛行場を空襲。

 『常盤』はS19なかごろ、比島で敷設している。艦齢47年。日本海海戦に装甲巡洋艦として参加。

 豊後水道に向き合っているのが佐伯。佐伯から対馬に機雷敷設に行くには、まず豊予海峡(速吸瀬戸)を北上。ここがいちばん狭い。
 続いて左手に国東半島が。

 機雷はすでに甲板上で触角装着。砂糖が溶けていないから不意に爆発しても外殻の外ではじけるだけ。
 砂糖がとけるとバネの力に水圧が勝ち、信管は爆薬筒の中へ押し下げられる。これを伸縮器という。

 甲板上では繋止鉤によりレールと固縛されている。

 B29のエンジンは規則的に火花を出す。超高空でも見える。

 常盤の艦首には吃水線のすぐ上に一つ、丸い穴があいている。昔の魚雷発射孔。

 磁気機雷はドイツとイギリスで競争して開発された。主に潜水艦が敷設するものだと聞いたことがある(p.152)。
 日本海軍は、磁気機雷用の五式掃海具を開発し終わっている。

 日本の機雷の中でいちばん軽いのは、三号二式の航空機雷。総重量135kg。

 16日、敷設隊は門司を出撃し、朝鮮の登加島海域へ。
 対馬海峡西水道は、東鮮海流が奔騰していた。暖流独特で、蒼黒い。

 常盤と高栄丸は対馬の郷岬灯台の北西端から、2隻雁行しながら、敷設を開始。
 海流の上流にあたる高栄丸が少し後方からいく。そうしないと浮き出し機雷があったときに下流の僚艦に毀害が及ぶから。
 機雷間隔は70m。これで殉爆しない。

 93式機雷は、艦尾から落とすと、まず繋維器から深度錘が降り始める。繋維機も罐体から離れて少し沈む。錘が海底につくと、ばねがゆるんで滑車にブレーキがかかり、繋維機からの繋維索の繰り出しが止まり、繋維機が罐体をひきずりこむようにして海底へ降りる。
 最初に深度錘が繰り出された長さに、繋維索も等しくなる。

 常盤は深度30m、高栄丸は15mで敷設した。
 10ノットで直線を進み、21秒ごとに落下させる。

 昭和2年の爆発事故は、甲板上で機雷を組み立てねばならない仕組みにそもそも問題があった。甲板で機雷を組み立てる「機雷分隊」と、それを敷設する「水雷分隊」があった。
 爆発したのは5号機雷の前身。慣性式発火。当たった振動で回路がつながる。
 電池の強さを測っていたとき、電流が迷走して爆発した。死者は12人か13人。

 海中に飛ばされて死んだ少尉の被服は、縫い目がばらばらにほどけていた。

 S20の今、93式機雷は、軍需部を出るときに半完成品。だから、「機雷分隊」が敷設までやれる。

 常盤は艦尾に艦長室、各科長室、士官室、公私室がある。その上は、ふだん兵員が立ち入らない後甲板なので、頭を踏まれないということが重視された。

 南北戦争のとき、逆円錐型のシンガーという繋維機雷が、ミシシッピーやポトマックの河口、海岸都市の港口に敷設された。
 発火装置には、ロシアのジャコビ教授が発明した化学触発信管もあった。
 モビル港で、北軍の装甲艦『テカムシ』は、それでやられた。

 ドイツがWWIに潜水艦で敷設した機雷により、1916には80万トンの商船が沈み、1917には160万トンの商船が沈んだ。

 北海機雷堰は、24遮断線、水面下80mまで。アメリカが56760個、イギリスが16300個を置いた。

 下関に撒かれた米軍の沈底機雷。回数起爆装置は、最大8回までプリセットできる。

 感応する磁場の向きは、1個1個、違う。偶然、それと直角に磁気掃海すると、無反応で、回数起爆装置が進まない。よって、磁気機雷原は、8×2回、縦横にやるしかない。

 日本側資料。
 M4機雷。S19-2に台湾高雄港外で初鹵獲された。爆弾形。全重500kg、炸薬320km、深度3mで安全解除される。そこから時限発動装置が動き出し、40分でアクティヴになる。回数起爆装置は調定回数が最大8回。回復復旧時間が10秒。

 投下後15分で、磁場の狂いを自働修正する。ついで40分後に電路が慣性する。
 その状態で閾値以上の磁気変化があれば、回数起爆装置を1回進め、不感の状態を10秒続けてから、もとの待機状態になる。

 磁気感度は敏感で、大発が水深13mのM4を作動させたことがある。※おそらく15mなら反応させなかった。
 「線輪」方向に木造船で8回以上、磁気掃海しないと、掃海の目的を達しない。

 『常盤』は水線下が7.2mもある鉄船だからとても掃海はできない。

 日本側分類 M5機雷。
 航空機から投下される繋維式、磁気感応機雷。
 150mの深さまで敷設可能。
 磁針式。
 水面下10mを保つ。それ以上浮くと自爆する。

 日本側分類 M9機雷。
 S20-3に広島湾で拾い上げられた。罐体は大中小の3種ある。
 大きいのは835kg、炸薬580kg。
 回数は8まで。回復復旧時間は3分40秒。
 たがいに方向の異なる2回の磁場変化があって、はじめて回数が1回進む。
 通電掃海による場合は、プラマイの変化を与えねばならない。ただし回復休止時間中だとそれは無駄になる。
 座頭は客がつかないと、同じところを笛を吹きながらいったりきたりする。掃海は座頭の笛吹きだと揶揄された。

 陸海技術運用委員会の中に対機雷専門委員会が設けられた。

 S20-5-14日、下関海峡東口と西口にB29×24機が40個投下(p.177)。※東西両方に同時に落としているのである。

 S20-5、はじめて機雷による船舶被害が潜水艦による被害を上回った。機雷だけでひとつきに9万8000トン。潜水艦に沈められたのが3万トン。

 日本側分類A6機雷の要目。
 串本方面にB-29が落とした。
 磁気+水圧。
 全835kg、炸薬580kg。
 回数起爆装置なし。
 0.8ミリ・ガウスの磁場が1回切り替わると同時に、水圧が1平方センチあたり255以上のマイナス値を10秒以上継続したときに、爆発する。どちらの現象が先行してもOK。
 どちらかの現象が止んだときは、68秒間、不感になる。
 水圧感度は、深度が増すほど、鋭敏になる。

 海底掃海具で拘束移動させると、地磁気を切り、水圧も変化するので、爆発する。

 科長同士なら、航海、大砲、機雷などと呼び合う。

 航路は港内でも最低、500m巾は必要。100m巾では啓開したことにならない。

 A6機雷は、鋼索でひっくりかえす必要がある。※だからトロールが役立つ。

 鋼鉄船は、艦首近く、戦艦ならば1番砲塔の下で磁気最大となる。だから触雷の危険があるときは、艦首寄りにいてはいけない。艦尾が安全。

 蓋井島[ふたおいじま]。
 五式掃海具に浮力をつけるのは「金魚ブイ」。

 五月前半、機雷投下エリアが広がったが、後半になるとまた関門の東西口に再集中してきた。

 5-17には、B-29×8機が、西口に43個、別の11機が東口に42個を落とした。

 パラシュートは着水後に分離される。

 5月になると、行きたい船長は勝手に行ってよしということになった。船舶統制部。食糧が逼迫したので。

 哨戒特務艇は、機関もブリッヂも艇尾にあるので、艇尾が深い。触雷の可能性は普通の鋼船と逆に後部にある。水兵たちは機雷危険域では前部にあつまる。

 故障不発ではないかと思われる米軍の機雷が半分くらいあるのではないかという掃海部隊の実感(p.208)。

 2ヶ月前に入ったと報告された関門西口の機雷が爆発して商船を沈めた例あり。電池はすくなくも2ヶ月もつとわかった(p.227)。

 6月10日、PB4Yが朝鮮南岸に機雷を投下(p.228)。沖縄から発進した。
 大陸からの貨物は、大豆と高粱。

 機雷堰の途中で味方の艦船を通すための隙間は、3~4kmほどで、そこだけ、堰は入れ違えにしてある(p.236)。もちろんその座標は機密。

 大陸からは「工業塩」も輸入されていたが、それが細ってきているので、軽金属生産、石油生産にもさしつかえ、火薬確保も危惧される。

 掃海艇は「サンドレッド」というものを投げ込む。

 6月中旬時点で、日本海軍の掃海兵力は、1隊が「6対艇」として、下関に4隊、門司、大湊、舞鶴に3隊、新潟と稚内に2隊、舟川、敦賀、函館、小樽、境、伏木、室蘭、七尾、若松に各1隊、計26隊。

 関門海域には、下関、門司、若松に8隊【8隻?】、第七艦隊直属の監視艇を兼ねた掃海用駆潜特務艇8隻あり(p.254)。

 攻撃力としては、駆逐艦19隻と潜水艦38隻。これがS20-6の聯合艦隊。

 駆逐隊は伊予灘にあったが、燃料が、1.5出撃分しかない。駆逐艦の1夜行程は、伊予灘からだと、九州東岸と四国沖まで。それ以遠は自殺行為。

 ※拘束移動掃海法に対しては、罐体自体が動いたときは不感にするスイッチがあればよかったのでは? それで、取扱上も安全になるだろう。

 伏龍隊のためには、攻撃用V型機雷がつくられた。装備重量で25kgしかない。

 チェーン掃海は、ひっかかったときの切り離しの加減が重要。計算と実験の結果、断離器のピンの張力を5トンにしておけばいいだろうと。

 6月30日の午後2時40分、なんの前触れもなく、B-24が、吉見の基地を襲った。

 梶井は終戦を吉見基地の海岸の建物内で迎えた。
 ポツダム宣言受諾の予想は8月13日の夜に上官から聞かされた。

 M4機雷をバラすと、時限発動装置、受磁線輪、2個の乾電池などが……。

 水深10m以内の浅海掃海では、金魚ブイではなく、キンタマとよばれる丸いブイを用いる。
 浅ければ浅いほど、磁気機雷も水圧機雷も鋭敏(p.286)。※前言と矛盾。

 M4の塗料は、暗緑色。
 8-15の放送の直後に、「陸海軍人に対する勅語」が伝達され、その中では、米英蘇ならびに重慶と和を媾ぜんとす、とあった。

 爆雷は、信管と本体をばらして、駆潜特務艇の上から海中へ投げ込まれた。

 9-2、連合軍最高司令部一般命令第一号。9-3、同第二号。
 二号では、まず機雷原に標識をしろ。そして日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高指揮官の所定の海軍代表により、指示せらるるところにしたがい掃海せらるべし。
 ※インナーゾーンは日本で掃海しろということ。

 アメリカ軍は、日本海域に投下したみずからの詳細なマイン・マップに、さらに日本の敷設機雷堰を加えた総合敷設図を製作。縦9掃、横9掃を指令した。

 日本本土の日本の繋維機雷。
 九州近海では、松島西方、長崎沖、橘湾、野母岬、有明湾、日向灘、豊後水道、平戸沖、対馬海峡、唐津沖。
 太平洋沿岸は、土佐沖、紀伊水道、伊勢湾、沖ノ山、浦賀水道、九十九里沖、銚子沖、金華山沖、宮古沖、久慈沖、八戸沖。

 津軽海峡には、機雷堰は皆無であった。『常盤』は敷設を命じられていたが、そこまで余力がなかった。

 日本製の機雷は、本州と四国方面に14927個、九州沿岸に10012個、朝鮮南岸と黄海方面に7640個、東海・南西諸島に15474個、台湾方面7294個(p.305)。

 アメリカ製の「感応機雷」は、襟裳岬、鹿島灘、犬吠岬、東京湾、下田沖、熊野灘に117個。
 博多、唐津、佐世保沖に381個。
 日本海側の「船川」から先崎までの12の港に3022個、瀬戸内と関門海峡に6876個。

 関門海峡だけをみると、磁気機雷1682個、音響機雷1899個、磁気水圧機雷1409個。
  ※低周波音響機雷にこの小説家は着目していないようだ。

 米軍は、93式繋維機雷については、掃海を手伝った。すなわち、対馬西水道、対馬東水道、伊勢水道、豊後水道、済州島。

 米軍には木造船がない。そんなもの米本土から持ってくる気もない。だから、磁気機雷はすべて日本がやれという話。

 米軍は1万703個を撒いた。うち、残存していて危険なのは6546個だった。

 M4機雷の信管を調べたところ、海深78m以上では、磁気信管は作動しないと確認できた。そこで、80m以上の水深エリアは、掃海しないことにした。

 9月18日、掃海作業が始まった。米軍の指揮下で、日本の掃海隊が。
 佐世保と博多が先行優先された。そこには海兵隊が進駐予定だった。

 日本の掃海艦艇348隻は残された。人員は1万人。

 米軍は、機雷の電池が半年もつように作った。しかし水温が低く一定だと、電池はながもちする。1年から5年は、生きてしまうらしかった。実験データはないとのこと(p.321)。

 B-29の侵入方向が一定だったから、投下海域は容易に推定できた。

 あとで日本人みずから気がついたこと。米軍は朝鮮南岸の浅海を機雷だらけにすれば、日本は物資も兵員も移動できなくなり、もっと早く参っていただろう(p.322)。

 米軍は水圧機雷掃海のため、「YCクラフト」×5隻分の鋼材を米本土から佐世保に送る。
 4500トンの試航筏。船殻重量500トン。しきりだらけで不沈にする。船体には通電コイル。

 敗戦間際に日本も、2隻の船で重しをつけた鉄板(水圧板)を引っ張ることを考えていた。

 戦後は小型漁船被害がひどかった。網で沈底機雷を動かすことにより、磁気が変動して起爆してしまう。

 敷設艦『大東』も対馬で掃海中に触雷沈没。26人死亡。

 関西汽船の『女王丸』は、大阪から九州に向かったが、掃海済みのはずの瀬戸内海で触雷沈没。336人死亡。GHQはこれを報道することを禁じた。

 ヘーグ「コンヴェンション VIII」で見落とされがちな条規。
 そもそも「無繋維自働触発水雷」の敷設は原則、禁止。沈底機雷は禁止なのだ。ただし、敷設者の監理を離れてより長くとも1時間以内に、無害と為るの構造を有すれば、OK。

 アメリカの撒いた機雷は1時間で無効になっていないから、ヘーグ条約違反である(p.358)。

 戦後の掃海艦隊を旧軍の職業軍人が動かすことについては、掃海隊の旧海軍将校は「現に非軍事化に従事している者」という例外規定で、公職追放のまま現職にとどまることが許される。

 アメリカは、第五艦隊の給油艦を、門司港に常駐させてくれた。船艇の修理は、佐世保の旧工廠でしてよい。
 「死にざまということばはあっても、生きざまということばはない」(p.373)。

 第一回安全宣言は、S27-1-5に出された。
 戦後掃海事業で死んだ者、77人。その中には、元山港内で爆死した1名が含まれる。この人はアメリカ海軍の部隊名を与えられた日本の掃海隊に所属し、正式な戦力として朝鮮戦争に参加した。機雷はソ連製。

 試航船による死亡者は、1人もいない。

 あとがき。
 著者は軍隊を知らないが、父が陸軍中佐で、敗戦後、土木人夫であった。戦争について一言も語らなかった。
 海軍関係の取材は、正木生虎、愛甲文雄、松枝五郎、亀田琢磨から。
 取材と書くので3年かかった。
 著者は1932、熊本生まれ。熊本日日新聞編集局次長。

▼隈部五夫『機雷掃海戦 ――第一五四号海防艦長奮戦記』光人社 2008-6、原・成山堂S62-1
 著者はM44熊本出身、H3没。 ※2020-6-9読了す。

 S16-9-12、各船会社に、勤務中の海軍予備士官たちが、一斉に召集されて、広島県の呉鎮守府に集められた。
 同時に、小型商船、漁船、キャッチャーボートが徴傭され、各地の造船所で、特設艦艇に突貫工事で改装。

 この特設艦艇に乗り組んだ予備士官たちは、S16-11末までに、各地の防備隊に配置された。

 著者はS16-9-20に発令されて、283トンの特設掃海艇に乗った。下関防備隊。基地は、吉見。
 関門海峡東部において、投下機雷の監視、ならびに掃海。

 S20-8-15のラジオ放送は、戦闘配置についたまま聞いた。
 戦後は、日米双方の機雷を掃海した。

 著者はS10に神戸高等商船学校の航海科を卒業。大阪商船に入社した。
 写真。掃海艇は、舷外電路 で消磁できた。

 上海航路は長崎に入港するが、舷窓を閉め、カーテンを引き、客室通路にみ見張りを立てて、三菱造船所で建造中の『武蔵』を見せないようにした。しかしバレバレだった。外国人も乗っていた。

 一等運転士だった著者はS16-8-25に、天津から川崎に向けて航行中に、電報で、海軍よりの召集令状を受け取った。
 退船のさい、船長は、万歳ができないので残念だと、舷門まで送ってくれた。海軍は、3ヵ月後に開戦することを極力隠そうとしていた。

 農村では都市より支那事変が身近だった。軍人のものとすぐわかる新墓が目立った。
 阪神地区には、商船士官=海軍予備士官 が集中していた。

 当時、列車の一等車の最後部には、展望車が連結されていた。丸卓と椅子だった。
 一等車の客は、おのずと背筋を伸ばし、貴族ぶらねばならない。そんな気風があった。

 予備士官の徽章はコンパスマークだが、S18-7-1をもって一斉に官名改正。正規の海軍大尉となり、徽章は桜花になった。

 動員のタイミングはタイトなものだったのだなとあとからわかる。対米英戦を辞せずと決めた御前会議はS16-7-2。10月下旬に戦争準備完了と決めたのは9-6御前会議。
 予備士官が集められたのが9-12、特設掃海艇長等に発令されたのが9-20である。

 玉音放送は8-15の正午に聞いた(p.41)。

 開戦の前から存在した防備隊は、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊、鎮海、馬公、旅順、羅津、佐伯(呉からそっくり移った)で、S16-11-1に奄美大島と紀伊(和歌山県由良湾内)が加わる、
 下関防備隊は山口県下関市吉見に設けられ、それはS16-12-8の開戦の日だった。

 S18-5-9に米潜が、北海道の幌別を砲撃した。
 それもあって、七つの防備隊が戦中に追加される。

 三重県の伊勢防備隊がS17-5-2。宮城県の女川防備隊がS18-6-15。宗谷防備隊がS19-3-10、厚岸防備隊がS19-10-1。
 呉防備隊はカラッポであったが、感応機雷を落とされるようになったので、掃海をせねばならず、S20-6-10にあらためて開設された。同日に徳山防備隊も。

 支那方面では、S12-7-28に、「中支第一防備隊」が、艦上に司令部を置いた。
 その後、中支、南支の港や、特設艦上等にも、臨機に設けられ、頻繁に移動した。
 第1~第6防備隊は中支または南支。
 第七防備隊は父島。
 第15&16防備隊は南支。
 対米開戦後は、これら支那方面の防備隊は、特別根拠地隊か、警備隊に編入されている。そして南支にとどまったものと、南洋に転出したものがあった。

 特設掃海艇は、戦前の「海上トラック」を改装したものである。総トン数300トン未満(著者のフネは283トン)。主機は焼玉かディーゼル。ディーゼルは、新しい海トラである。
 船橋は低く、しかも船の後方にあるので、正面の見張りが不自由だった。新しいのはブリッジは高い。

 徴傭キャッチャーボートは、特設駆潜艇にされたが、見張りの点では最高だった。舵効きがよく、船体の振動も少ない。だからソナーに耳を澄ますことができる。

 日本近海では、総トン数が3000トンあれば、まず嵐の航海でも危険を感ずることはない。
 このクラスの商船を改装したのが、特設砲艦である。主に南洋へ動員された。

 予備士官は、見張り能力にすぐれていたので、駆逐艦に配属された場合は、航海長によく任命された。

 著者は、大阪商船では、常に最低3000トンの船に乗務していた。
 軍艦は、速力がなければ敵に優位に立つことはできない。

 特設掃海艇の改装は、船底に穴を開けて、水中探信儀をとりつけるという、不安でたまらないものだった。それを突貫工事でやるのだ。

 上甲板には、兵員の出入り口も2個増設された。それが木製ハッチだから、波にはひとたまりもなく破られるのではないかと心配された。

 軍港には繋留ブイの浮標がある。駆逐艦だと、艦首と艦尾を浮標に繋留する。
 海軍の一般艦艇はすべて推進器が2個以上あるから、その場回頭や、後進で微妙に操船することも自由。
 しかし古い海トラを海送した特設掃海艇は、単軸なのであった。
 前進で入って艇首をまず浮標につけ、そのあと、艇尾から繋留索を出して短艇に手伝わせて牽引し、浮標にひきつけるしかない。

 特設艇でも、電信、信号、砲術、機銃には、現役水兵が配置された。予備の応召兵員もいた。
 著者のフネは、試運転でも最高11ノットしか出なかった。

 第33掃海隊の司令は、60を過ぎた応召の大佐だった。

 予備士官は、高等商船学校の3年を終えたあとに、海軍砲術学校で6ヶ月、教育を受けるのである。
 短い人でもそれから8年、貨客船を動かしてきた。

 門司にしろ下関にしろ、岸壁には独特のわい潮がある。海峡の本流とは異なる動きをしている水だ。
  ※調べたところ、この「ワイ」には正当とすべき漢字がない。古来海上民族の俗語であるようだ。

 繋維機雷しかないのであれば、あたらしい掃海方法を研究する必要はまったく無かった。
 だからS16-9に掃海艇隊が編成されて、基礎訓練をうけたときに、正規の海軍軍人の中にも、掃海の権威者はゼロだった。WWIの頃から進歩が止まっていたのだ。

 商船学校で教えられたこと。2隻が並んで航行すると、互いに引き寄せられるから危険である。
 掃海作業は、操船作業に尽きていた。

 錨鎖が古くて弱っている場合、前進投錨は危険である。

 吉見は、山口県の日本海側にある。すなわち関門海峡の西口担当である。吉見の北西に浮かんでいるのが蓋井島である。
 吉見は、下関市に含まれている。
 下関の南側の対岸は、門司と小倉である。
 担当海域は、響灘、玄界灘、隠岐までも。

 独断でバラストを積み込み、吃水を深くし、トリムを前下がりにした。残念ながら視界は向上しなかったが、重心が下がったことで、荒天転覆の危険は減った。

 小艇では、当直交代要員がない。航行しているかぎり、夜も昼も船橋を降りることはできなかった。
 ある者は戦後6年も寝込んだ末に死亡。元の病院の証明をもらって戦病死と認定してもらい、靖国神社に合祀させた。

 召集の前に勤めていた会社がなくなっていた(p.76)。

 蓋井島と男島の間、そして蓋井島の東の水島と本土の間に、機雷が敷設されたのは、S18早々。
 関門西口にさしかかった艦船は一刻もはやく防禦海面に入りたいと焦る気持ちは分かる。

 北海道の石炭を満載した船が日本海経由で蓋井島まで来たが、なんと不発魚雷が船体につきささったまま。
 石炭が満載だったので、浸水しても海水の入る余地がすくなかったのだ。

 S18-10-5に関釜連絡線の崑崙丸が響灘まできたところで敵潜に雷撃され沈没。

 風下に陸岸を見ながら時化の日本海を北航する。船乗りなら誰も好かない。

 両錨を打っていると、錨鎖が絡まったときに、巻くことも伸ばすこともできなくなる。
 捨錨をしてケッジアンカー(副錨)を使うべきだったが、それをためらった。

 陸岸に押し付けられる寸前にエンジンがかかった。もし岩に吹き付けられていたら、艇は砕け、必ず乗組員に死者が出た。今も身の毛がよだつ思いがする。

 捨てた錨を探して拾わねばならない。交差方位の正確な記憶などないので、船位の手がかりの一線上を、鉤付き金具を引いて短艇に往復させた。7日目に、探り当てた。

 掃海は単純なので飽きる。だから司令は競技会を工夫して催した。

 ビール瓶はよく潜望鏡に誤認される。しかしそれを見つけた水兵は褒めねばならない。艇員全員が、見張り員であるという自覚を持ってもらうために。

 爆雷訓練は漁民からは嫌われた。爆発点を中心に広範囲にわたって、当分、魚はとれないという。全滅するのだ。せっかくなので、死んで浮いた魚は、短艇を出して拾い集めた。

 機雷と違って爆雷では水柱は立たない。

 戦後の掃海を実施したのは、プロパーの掃海艇ではなく、海防艦を改装した特設掃海隊である。

 海防艦の第一号は、M24の『嚴島』427トンである。
 海防艦は内部は窮屈。

 海防艦には甲乙丙丁の型がある。甲乙には島の名がついた。丙には機数番号。主機はディーゼルで2軸推進。丁型には偶数番号が。主機はタービンで静か。推進器は1軸。
 建造期間は、丁型が最短。
 熔接船体なのだが、困ったのが、甲板に湾曲がないこと。雨水が両舷にはけずに、部屋に落ちる。

 三式爆雷は、爆弾式で、それまでの爆雷より沈降が速い。毎秒5m。重さ180kg。最大調定深度は200m。

 B-29は当初、毎晩のように単機で夜間偵察に飛来し、後日の作戦資料を集めていた。S20-4時点ではもう迎撃する陸軍機もなかった。部埼灯台の南東を定位置とした4月19日より以降、著者は、1機の迎撃機も目撃した覚えなし。
 S19-6に大陸から初襲来したときは、小月の陸軍機が2機を撃墜したのだが。

 丁型海防艦の弱点は燃費が悪いこと。それで、シンガポールへ片道燃料で行かされるところであった。しかし潤滑油の系統に穴があいてそこからビルジが入り、結果としてタービンブレードが錆びるというありえない事故があり、この修理のおかげで、第154号海防艦は、南方にはやられないでおわった。

 S20には、大型艦の出入りできる水路は、豊後水道だけであった。
 大和出航語の呉港内は、急に広くなったような気がした。

 S20-4-4、早朝、上陸員迎えの某艦の内火艇が、触雷沈没。呉に感応機雷が投下されていたと分かった瞬間だった。

 海軍では、回頭とか着岸に、錨を使わない。2軸だから必要ない。「右舷着け」との命令があれば、右舷を着けることができる。

 連合艦隊最後の艦隊として、S20-4-10に第七艦隊が編成された。
 司令長官以下、幕僚は、第一護衛隊兼務。

 部埼灯台は、門司のある岬の突端にあり、その北側は関門海峡の東口である。ここがひとつのランドマーク。

 著者の船はこの灯台の南東1500m地点に夜、碇泊した。
 この灯台は、潮流信号を出していた。昼は腕木に丸と四角を付け、「今は逆潮の末期」「今は順潮の最盛期」などと。夜は灯火で。

 海防艦は、敵機の侵入するのを監視し、射程に入れば射撃することができた。
 「発音弾」を持っていた。
 機雷長は、対潜学校出の新鋭だった。

 4月に入ると、昼間、毎日、ただ1機のB-29が高度1万mから、夜の機雷投下計画の資料を偵察するようになった。

 磁気機雷は、艦船の大小、吃水の浅深を問わず起爆する。大発でも危ない。否、大発や小型漁船の方が轟沈するので危険であった。

 機雷投下は、初期には三晩に一回とインターバルがあった。逐次に、毎夜となり、一夜に4機も飛んできたこともある。
 掃海が追いつかなくなり、仮泊の艦船は東口にも西口にも増加するばかりとなった。

 後日、撃墜したB-29乗員は、サイパンから発進したと言っていた。

 足摺岬電探所は、確実にB-29を捉えていた。敵機は必ず豊後水道を北上し、関門海峡に達する。まったく一定していた。

 関門海峡は要塞地帯なので、写真撮影すら禁止されていた。
 B-29は、海霧が濃くても、狭い航路に的確に投下した。

  ※今日のハイテク機雷は、敷設線を一直線にする必要がない。これはとてつもなく掃海を厄介にするはず。

 敷設機はしだいにAAの非力を察して、高度を下げてきた。
 悪天時の探照灯は、低い雲を照らすだけで、雲中・雲上の敵機にはとどかない。

 味方の海防艦が撃ち上げた機銃弾にも備えねばならなかった。雨の降るように本艦の周囲に落下した。

 S20-6-19、福岡市空襲。ついで、下関市も爆撃された。壇の浦の街が燃えるのが見えた。

 機雷敷設任務のB-29は、高度3000~4000mでやってくる。爆音が耳に入ったら、もう測距も照射もしない。ひたすら機雷の落ちる海面をみつめる。7個から9個の機雷が落下する1分たらずの短い時間に、全神経を集中する。これに、明日の掃海の計画がかかっている。
 落下着水時の泡を見逃すことは、許されなかった。双眼鏡で水泡を追い、その数を数えるのだ。

 ※無飛沫・無水泡着水機雷が、開発される必要があるのか。

 機雷を減速させている落下傘は、下からは白く見えた。大型ではなく、機雷はかなりの速力で突き刺すように落下した。
 機雷の着水間隔は、300mくらい。

 敵は、水深6m以上と思われる海域全面に投下するようになった。

 沈船の真上や、陸上に落下した機雷が、落下と同時に爆発することはなかった。

 米軍の機雷は、スパナを使えば頭部を取り外すことができる。それを艦内に持ち帰って、調査できた。
 岸壁のコンクリートに斜めに突き刺さった機雷もあった。爆発しておらず、外殻はかなりの衝撃に耐えるようだった。

 落下傘の機能は、起爆装置が下を向くことがないようにすることにあると思われた。
 著者の推定では、5m未満の浅い水中では、起爆装置は発動しないようになっていた。

 本書の「起爆装置」などの名詞は、著者が勝手につけたものである。海軍は、何の教育もしてくれなかったので。

 荒天の大波の中で自爆した機雷があり、その自爆に殉爆した機雷があった。断定は無理だが、これらは音響機雷だろうと思った。

 荒天の、波が高くなった沖で自爆する機雷をたびたび見た。それらは水圧機雷だろうと思った。岸近くでは波の音が引き金になり得るが、沖では音は引き金たり得ないのだ。

 水圧変化に感応するものだけだったら、荒天を待っておればよかった。だが磁気+水圧の組み合わせだと、そうはいかない。

 夜の間は掃海は難しいので、夜明けを待った(p.148)。
 敵艦上機の銃撃を呉あたりで体験している駆逐艦長は、灯台近くで仮泊しているのが気がかりでたまらないようだった。ここには艦載機は来ないと説明しても無駄であった。

 鋼索に磁【金へんに旱】をつるし、小型漁船か大発の「対艦式」で掃海するのは、三式掃海具二型ではないか。

 応召いらい3年、磁気機雷のことやその掃海法のことを海軍からは一度も教えられなかった。だからS20にいきなり本番に直面させられた。
 あとで知ったが、S19には台湾の高雄に磁気機雷が投下されていたのだ。それを教えてくれなかったのだ。

 感応機雷の掃海には、内火艇をリモコンしたらどうか、とは、誰でも考える。しかし、物資面でも技術面でも、当時は無理だった。

 陸軍は「暁部隊」の掃海船で助力しようとしたことがあったが、1個も処分できずに、ひきあげていった。小型船2隻で通電式掃海具を引く方法だったので、海軍が最初に採用した「2式掃海具1型」ではないかと思った。

 機雷投下のB-29は5月から増加した。
 「掃海完了」がありえなくなり、しびれをきらした司令部は、50トン未満の船は航行せよ、という指令を出した。それらは機帆船で、船体は木造、エンジンは焼玉。風があれば帆でも走れた。夫が船長、奥さんが機関長というパターンが多かった。甲板に洗濯物が干してあり、子どもも船の中で遊ばせていた。
 機帆船が触雷すれば1発轟沈だった。

 戦時標準船に「改E型」というのがあり、沿岸航路に就役していた。
 主機は船尾近くにあり、感応起爆すると船首は水柱の外にある。区画がすくないので、在来船よりも早く沈んだ。

 戦時標準船Aは、大型に属する。中央部で感応すると船体がへの字に曲げられた。大型なので、全没しないで、浸水・沈底してしまう。

 触雷は、朗報でもあった。すくなくもその近辺に機雷はなくなったのだ。艦船の航行可能水路である。
 レッキとした敷設艦が、関門を東に抜けようとして、田野浦寄りの航路で触雷し沈んだ。まだこの艦が残っていたのかと驚いた。日本海から瀬戸内海に入ろうとした。とうぜん海軍は最大の注意を払ったはずだが、それでもやられた。

 感応機雷に船底をやられた船。擱坐されては航路塞ぎなので、防水作業を手伝った。ハッチカバーをはぎとって、四隅に穴をあけてマニラロープを通し、船首から船底にまわして破孔に当てた。そして通りすがりの小型船に曳航してもらい、浜に擱坐させた。

 機雷にやられて沈没した船から浮いてきた仏は、みな、顔を下に向けていた。
 浮いてきた時点で腐爛していた。
 それを昼間、部埼の南の「青浜」で荼毘に付した。夜は焚き火禁止だったので。
 遺骨は翌日、門司市役所に納める。幾柱あったかは、終戦時に書類を命令で焼却したので、わからなくなった。

 S20-5-25に、GFが緊急指令。瀬戸内海の全艦船は至急出港せよ、という。
 この一斉通峡の日、商船18隻が感応沈没した。
 軍艦では、駆逐艦1隻がひっかかって、東方へ引き返して行った。巡洋艦や伊号潜水艦は、うまく出られた。

 水中爆圧で内臓をやられた人は、しきりと腹部をおさえて、言葉は出せない。
 本艦は、探照灯は位置を示すことになるのでつけなかったが、高角砲と機銃は、最も有利な場所にあったので、撃った。

 8センチ砲でB-29を高度4000でついに当てた。ただし、巧妙手柄を主張する艦は他にも多かった。
 この機からベイルアウトしたガナーを、翌朝、すぐ近くで収揚した。沈船のベンチレーター(通風筒)に隠れていた。

 8-14夜は、1機の米軍機も飛んでこなかった。
 8-15正午の重大放送については、電信で予告された。

 艦内、いかに防音につとめても、玉音はよくききとれなかった。しかし引き続いてアナウンサーが、はっきりした声で説明してくれた。これで、終戦だと判明した。

 終戦後の内火艇による移動は、吃水のゆるすかぎりの浅い海岸を航行した。
 艦を呉までもっていくのには、機関を微速にして行った。
 宇部沖から伊予灘までは、機雷投下の話を聞いてないので、ないものとみなした。

 米士官から、短剣も捨てろといわれたときは躊躇した。切れる刃はついてないのだが、応召いらい4年間の海軍生活のすべてが染み込んでいるので。しかし、海に投げ捨てた。

 日本が仕掛けた防禦機雷には、日数の経過によって安全となる装置はなかった。
 米軍は進駐に先立ってみずから新入航路を掃海した。豊後水道から瀬戸内海に入るとき(p.186)。

 丁型海防艦×6隻には、掃海艦への改造の命令が下された。
 引き揚げ船にすぐ使えたのは、病院船であった。飢餓状態の孤島からのエバキュエーションに回された。

 九州の海岸に敷設された、対上陸用舟艇の機雷は、水面に露出したのがあって、危険だった。

 戦前は、プロパーの掃海艇が二十数隻あったが、すべて船団護衛艦に転用された。
 戦後の掃海拠点は、佐伯であった。

 豊後水道は、水深80mから90mである(p.195)。
 繋維機雷が、海面から海底近くまで、幾重にも膚接されていた。
 米軍はそのうちの、海面近くの機雷を掃海済みだった。

 浮き出した機雷の処分には機銃は使えなかった。とりはずされていた。
 小銃で、触角に命中すればすぐ爆発するが、なかなかそういうことはなく、小穴から浸水して沈むのを見届けねばならなかった。それまで、ひたすら、小銃を撃ち続ける。

 宮崎から日向の海岸の、上陸阻止用機雷の処分。
 敷設の計画線よりずれているところがあった。夜間の大慌ての敷設だから。

 「わが軍には感応機雷はなかった」(p.202)。

 著者はS21-3-2に、第154海防艦を退艦した。6-5には、召集解除、第二復員事務官も退官。

 S20-11-6、掃海艦『大東』(海防艦から改装されていた)が対馬海峡で触雷沈没。予備士官の艦長以下、犠牲者を出した。機雷は、日本軍のものであった。

 掃海艦に改装された海防艦は21隻あった。
 水産講習所から予備士官になった人たちもいる。

▼桜林美佐『海をひらく――知られざる掃海部隊』2008-9
 大阪港には毎月186隻入稿していたが94隻に減少。機雷のせいで。
 S20-7-11から食糧の一部減配。六大都市は8-11から。

 徴傭漁船の掃海艇にはトイレがない。
 周防灘は深い。五式掃海具を揚収する作業は地獄だった。

 S20-12-26に対馬海峡で掃海中の米艦が触雷。水兵の死体にブリとカモメがむらがっていたという。爪竿で揚収。

 9-29には東京湾で護衛駆逐艦『ロッシュ』が触雷し3人死亡。
 掃海関係者は公職追放から除外されていた。
 今井鉄太郎。最後は二佐。

 S21-8-17時点で海面近くの繋維機雷は処分完了したが、深さ25mより低い位置の繋維機雷はそのままだった。恵山岬も含めて1365個も残っていた。ほとんどは、罐体が腐食して自滅した。

 『日本の掃海』によれば、S23-3-20までに米本土に33個の機雷が漂着した。S30と32にはハワイに8個が漂着。太平洋航路で船舶5隻が触雷。

 三式掃海具は、S17にできたもので、英国鹵獲品のコピー。ワイヤーに多数の磁性棒を吊り下げた。
 五式掃海具は戦後も長く使われた。400アンペアの電流を15秒ごとにターンさせる。それを曳航する。

 水圧機雷は、艦首であがった波が中央で下がり、また艦尾で上がる、その変化に感応する。中型船がじっさいに5ノット以上で動かないとダメ。

 試航筏=YCクラフト

 米国通知。感応機雷の内蔵電池はS25-8月くらいで切れると(p.51)。

 燃料。真水。生糧品。

 米軍は、朝鮮休戦後も、ゲリラ的に関門海峡に敷設があるかもしれないと考えて、佐世保と東京湾に人員をひきつづいて温存させた。

 900トンくらいでも、ソ連製機雷にかかると3分で沈む。

 朝鮮戦争ではさまざまな日本人が200人くらい参加して死んでいるという。個人契約で国連軍に雇われた者、多し。※つくづく靖国の霊璽簿の非合理性がわかる。

 ソ連機雷の流出が多くなるのも冬。海が荒れるから。
 青函連絡船には海保が機雷処分員として同乗した。銃を持って。2人が交代で。
 もともとの敷設場所は、北鮮の南部海岸と特定されている。

 元山で戦死した中谷坂太郎の遺族には米軍から400万円が支払われた。今の2億円ぐらい。

 公職追放を早く解除されたのは、陸士58期以降と、海兵74期以降。少尉なりたててで終戦だった。

 総員配置=ジェネラル・クォーター。

 イペリットは海中で漏出するとダイバーを中毒させる。S29-3に別府湾で実例あり。

 木造掃海艇の断面は、日本の海では、角型が適しているとわかった。
 ダイバーの呼吸音も感応機雷の近くでは控えねばならぬ。
 罐体に腐蝕があれば大安心。
 腐蝕がなければ、200m以上のロープをまきつけ、東西南北に引き摺ってみてから、あらためて揚収する。こすれてピカピカになっている。

 EODは、水中で書けるメモ帳を持っている。
 30mもぐると頭の働きが鈍る。

 自衛艦が外国へ行くときは、必ずEODが同乗している。
 国際信号のUW旗。ご安航を祈る。

 木造船であっても、長い時間航行を続けたあとは、船そのものが磁石になっているという。

 ペルシャ湾のハエに刺されると、半月くらい、傷が残る。
 サメも多い。
 30m潜るときの作業限界は8分。

 ソ連製沈底機雷 UDM、繋維機雷 LUGM145、イタリア製のマンタ。
 掃海艇は昔はヒノキだった。その材木が涸渇したので、米マツに変わっている。

▼桜林美佐『軌跡の船「宗谷」』2006-11
 川南豊作が造船所を立ち上げ。
 まずソ連から発注された。カムチャツカ沿岸で使う、音響測深儀つきの砕氷型貨物船×3隻。

 竣工したのに試運転でソ連は文句をつけて買い取らない。そこで海軍が買うことになった。砕氷艦が足りなかったので。『大泊』という旧式×1しかなかった。

 海軍はノモンハン事件の前年まで、対ソ準備をしていたと分かる。船の科学館の飯沼一雄がつきとめた。S13-5-4に「改装新砕氷船」という図面が存在するのだ。

 石炭搭載作業者は頭に白粉を塗らないとはげてしまうという。
 宗谷は石炭焚きだった。

 S20の特攻輸送。石炭を積み、室蘭~八戸~横須賀を往復する。
 工廠は石炭がなくてボイラーが止まっている状態。下にも置かぬ待遇を受けた。

 終戦直後の北鮮ではほとんど日本語が通じた。
 1947になるとソ連兵が北鮮住民に暴虐を働くようになった。すでに北鮮政府があるのに。

 南極観測隊には、日本山岳会員が多かった。
 川南の本郷の自宅には、東條の三男の俊男(陸士59期、空将補)も身を寄せていた。

▼別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない 日本海海戦』2005-4
 石炭には揮発成分が遺留していることがある。カージフ炭にはそれがなく、国内炭にはそれがある。それで碇泊中の爆発になる。メイン号もたぶんそれだ。

 デューイ代将のアジア艦隊。『オリンピア』は1891-1時点で長崎にいた。他に『ボストン』『ペトレル』、河用の外輪船『モノカシー』。
 増派で『ボルチモア』、商船改造の『ラレイ』。

 スペイン海軍は、電気水雷をマニラ湾口に敷設。スービック湾口は沈船で固めた。
 モントホ艦隊は、マニラ市街に砲弾が飛ばないように、すこし離れたカビテ・サングレイ泊地に移動。ここは海面が浅い。

 マニラ湾口には2水路あった。ボカチカ水路と、ボカグランデ水路。
 デューイは後者を通った。海水温が高いから水雷は爆発しないと信じた。
 スペイン人はボカグランデ水路に電気水雷を敷設していた。なぜか爆発せず。その後、そこを通った商船も。

 アジア艦隊は、『オリンピア』先頭で、同水路を夜11時に通過した。8ノットで。
 このマニラ湾海戦を、斎藤実は観戦武官として見ていた。

 旅順は浅水港。満潮25m、干潮5mだった。

 吉田孟子[たけし]少将の証言。露軍の浮流機雷は「ツノ」、日本のは「オケシ」と呼んでいた。距離20mから小銃でツノに当てると爆発した。「オケシ」は沈み、海底で爆発する。『参戦二十提督日露大海戦を語る』。

 英の機雷が一時不振だったのは、フィッシャーが消極的だった。

 ルチン岩礁の東は水深があったので、そこで沈めばもう浮揚は無理だ。だから機雷堰をしかけた。

 ウラジオは当時は12月から3月まで凍結した。今は厳冬期3週間のみ。

 ロシア艦隊は中立のマダガスカルに24時間以上、滞留した。国際法をまったく尊重する気がなかった。

 日露戦争がはじまるや、フランスは困った。ドイツの後方が真空になった。だからイギリスにエジプトを譲って、イギリスを味方につけた。

 オランダは、日露戦争直後に蘭印を獲られてはいけないので、日本を怒らせない方針を貫いた。スンダ海峡は国際海峡ではなかった。バリとロンボクはOKだったが、給炭は拒否した。

 ロシアはサイゴンに領事館を置いておらず、旅順=チーフーの海底電線は開戦直後切断された。
 日露戦争中、カムチャツカからオムスクまで飢餓。食料品が入らないので。

 旅順艦隊の『セバストポル』艦長だったエッセンは、同艦が触雷したとき水兵がパニックに陥り、拳銃で元の配置にもどさねばならなかった、とネボガトフに語った。

 ロジェストウェンスキーは5-11までに、津軽海峡に機雷敷設船が集中していることを知った(p.263)。
 これはウラジオ艦隊の水雷艇の現地捜索による。5-5には白糸崎(島牧沖)で漁船を襲撃。

 洋上給炭は丸2日かかる。それを東京沖ではしたくない。
 旅順艦隊は13ノットを無理に出そうとして石炭が尽きた。9ノットならなんとか行けたのだ。

 ボロジノ級は石炭を1250トン積める。アリヨールは2100トン積んでいた。

 津軽海峡は、汐首~大間崎に浮標機雷。竜飛沖には電気水雷を敷設。

 1904-12に海軍省は津軽海峡防衛隊を発足させ、函館に水雷艇を配備した。
 東郷は手の内を敵に教えないように、終生、著作してない。ロジェストウェンスキーも同様。

▼『丸6月臨時増刊 日米戦争・ミッドウェー』H4-6
 索敵には艦攻を出すべきだが、攻撃力が減るのが惜しくて、それができなかった。

 元防大教官の外山三郎いわく、「大変に売れ行きのよい著作『失敗の本質』のとらえる「連合艦隊の末期症状」のごときは、現実を知らず、わきまえない机上の空論でしかありえない」(p.23)。

 村松剛いわく。五十六はドゥーリトル空襲後、周囲が驚くほど欝ぎ込んだ。

 ユーゲン・ローヴァーいわく。フレッチャー少将は『ヨークタウン』の攻撃機の半数を偵察に当てている。

 福留もMI作戦には反対した。それはハワイ作戦と同一方向から同類奇襲をしようというもので、芸がなさ過ぎるから。古来、兵法がいましめるところだと。

 戸川幸夫いわく。主力が豊後水道を出るやすぐに米潜が触接しているのが無電傍受でわかった。四隻がリレーしてウェークまでついてきた。

 『飛龍』の加来艦長は、爆弾116発、魚雷26本を回避している。

 安西二郎いわく。日本は大作戦に先立ってかならず、予定地点がらみの気象情報を前もって流すので、バレバレであった。

 熊谷直いわく。『赤城』の青木大佐は、4-25に艦長に発令されたばかりで、操艦に不慣れだった。

 千早正隆いわく。GFは勝手にセイロン攻略作戦計画を練って人と時間を投入していた。ところが軍令部はそれをご破算にした。これでMI作戦は準備不足の粗雑な計画になった。

 軍令部と『大和』の秘話装置付きホットラインは、大和の作戦室の一隅の専用の電話ボックスでしか電話できなかった。

 小林台三いわく。宇垣は戦艦決戦主義者で、艦政本部長だった。五十六としては邪魔者だったので、GF参謀長に引き抜いた。

▼田中美知太郎・他tr.『筑摩世界文學大系 3 プラトン』S47-9
 ソクラテスの弁明。
 この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。

 子供時代から、ソクラテスは、神からの合図をときどき、声として聞く。なにかしようとしているときに、それを止める声が。

 70歳で死刑裁判にかけられたとき、3人の息子があった。

 パイドン。
 なぜ自殺をしてはいけないか。
 人間は神の家畜であるから、神が死ねと言っていないのに死んだら神が怒る。

 白鳥は、じぶんたちが死ぬとき、つねにもまして歌い、その声は常にも増して美しい。

 スチュクス=戦慄の湖(p.90)。
 地獄めぐりの描写。

 毒をのむ前に湯浴みをして、女たちに屍体を洗ってもらう手数をかけないようにする。

 饗宴。
 前417のできごとについて前400頃に人に語るという構造。登場人物は全員存命。脱稿したときはペロポネソス戦争中。

 ギリシャ・ローマでは、正式に招かれた客は、勝手に友人を同伴してよい。
 出生=ゲネシス。天地生成。
 少年への恋。パイデラスチア。
 ウラニア・アプロヂテに属するエロースは、人を高める。パンデモス・アプロヂテに属するエロースは、×。
 ソクラテス、すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠しているのです。そして或る年齢に達すると、われわれの本性は産むことを熱望します(p.129)。

 人は幼児から老人になるまで同一人とみなされるが、その髪、肉、骨、血、すべて常に若返っているとともに他方消滅している。魂や知識も。

 ソクラテスの酔っ払っているのをいまだかつて誰一人見たものはない(pp.140-1)。

 ラケス。
 ステシレオスは、乗り組んでいた船が敵の運送船とぶつかったとき、鎌付き槍を工夫して持って戦っていた。それは他の戦士の武器とは違っていた。それは物にからまると引き取れなくなるので、海戦向きではなかった。

 ソロンいわく。生きているかぎりは学ぶべきである。老齢が思慮をもたらしてくれるのではないから。
 行きづまり。アポリア。

 アルキビアデス。
 ペリクレスの二人の息子は精神薄弱だった。
 奴隷は短髪を強いられていた。

 テアイテトス。
 ※知識にどんな定義を与えようとしても循環論になる。これがテアイテトスの悟れなかった事。
 ※真実の発見者は永遠に他人のロゴスの中に生きる。

▼相沢忠洋『「岩宿」の発見』S44-1 講談社
 西住戦車隊長戦死のニュースが広がったと思ったら、徐州が陥落したことが伝わった。すぐに「麦と兵隊」の歌が町じゅうに流れた。

 スフや人絹の糸はミシンに使うとすぐに切れるので、ホンモノの木綿糸を人々は買い置きしようとした。これがS13-6末以降。
 S14-7に青年学校が義務教育となり、ふたたび校門をくぐることができた。

 軍需工場への徴傭は、白紙召集である。
 S18-7に海軍志願兵と陸軍少年戦車兵に応募した。

 駆逐艦『鳶』の艤装員に。艤装とは、一般工員には防諜上まかせられない武器のとりつけを、兵隊がすること。

 敗戦後、桐生の町に帰ると、第三国人がはじめた支那そば屋のあかりが目にしみた(p.114)。
 S21秋から翌年にかけ、夕方は停電続きになった。市内の学校や住宅には「ガラス泥棒」が入った。
 農村部では強制開墾。夕方には根焼きの煙がいくすじも立ちのぼった。

 S23暮には、モチ米、味噌、しょうゆ、砂糖が特配された。これで正月を迎えろというわけ。
 脱脂綿は、当時は「衛生綿」と呼ばれていた。もちろん統制品。

▼相沢忠洋[ただひろ]『赤土への執念――岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ』S55-7
 大山柏の『欧州舊石器時代』はS4に出ている。『基礎史前学(第一巻)』はS19-11に出ている。

 発掘地を見極めるときは陽当たりを重視。いまより15度も寒かったときに、日蔭に集落があったわけがない。
 酸性土壌は、骨、骨格器、木製・皮製道具を、溶かしてしまう。江戸中期以前の人骨は墓の中で完全に消えている。

 相沢は、朝3時に桐生を自転車で出発し、東大赤門に昼に着いた。9時間。時速は18km弱だろう。空気入れを積んでおく必要があった。パンクしたときは最寄の自転車屋まで押す。※100kmぐらいあったようだ。

 終戦直後、自転車のうしろには市町村発行の「鑑札」がついていた。そのくらい貴重。

 相沢は水兵長だった。陸軍の兵長。大山柏は師団長まで勤めた人。いかにも武人らしいがっちりした体躯の老人であった。

 S19初めかS18末、相沢は、織物工場を改装した防毒面工場で、特殊なミシン仕事をしていた。3ヵ月間。

 吉川英治章の第一回を受けた。S42-4。日本の文化につくしながら、報われることの少ない人に贈られる。