▼鳥居民『昭和史を読み説く』2013-11
2006に出た徳富蘇峰の『終戦後日記』の書評群には驚愕した。誰も、蘇峰の卑怯な責任逃れの態度、他者に八つ当たりする態度を指摘しないのだから。
清沢洌は対極的に偉い。S19-11に日本外交史研究会をつくった。その創設には野村證券車長の飯田清三が資金を出したと推測できる。
学徒勤労動員。鳥居は川崎の日立の飛行機工場で練習機の発動機のやすりがけをした。
たいてい、お寺の本堂に端から端まで敷き詰めた布団に級友たちと寝る。
海軍の高角砲用の弾薬工場ならば、指が火薬で黄色く染まってしまった。炸薬はフェルト(または毛糸)で包んでから充填した。
火薬かぶれをくりかえすと顔面が黒くなる。
昭和55年頃、日本の大使の約100名中、二十数名は元、短現。省庁事務次官の三人に一人も、短現出身。
戦後に防大校長になった土田国保は『武蔵』の主計中尉(短現)だった。熱地での艦内主計兵ぐらいきつくて報われない仕事はないと知った。
鳥居いわく。近衛はシナからは撤兵する気だった。が、東條陸相だけがそれに公然と反対した。この場合、天皇が東條に、反対するな(閣内不一致はゆるさん)と申し渡せば、東條は、自説を曲げるか、単独辞任することにより、それに応えたはず。ところが、木戸はそうさせなかった。そのため閣内不一致は顕在化し、近衛内閣は総辞職するしかなくなってしまった。そして木戸は、近衛のあとがまに、シナ駐兵死守論の東條を起用された。日米開戦の責任者は、木戸である。
大正15年、政友会総裁になったばかりの田中義一の政治資金の出所を調べていた東京検事局次席検事が、謎の死をとげた。久原房之助の下働きの松井成勲が疑われ、松井はしばらく満州に逃れた。
木戸は松井から、2.26事件を事前に耳打ちされていた。
木戸はその日記に、都留重人との面談を、敢えて記載しなかった。
都留にとって木戸は、伯父となった。姻戚。
ハーバート・ノーマンは、木戸を褒め称え、近衛を悪罵している。
木戸は、近衛が主宰したS16-9-6の御前会議を、戦争決定の会議に仕立てた。
戦後、都留は、GHQに対して木戸を弁護した。しかし、じつは木戸こそが、対米戦争を終わらせることができた最重要の地位にいて、敢えて、それをしなかった人物なのだ。
都留+木戸+ノーマンが、近衛を自殺に追い込んだ。
都留はドイツ降伏直後にモスクワまで伝書使として往復しながら、伯父に終戦を働きかけた痕跡がない。
都留は、ソ連軍による日本解放を待ち望んでいたのだろう。
渡米して米国務省の高官と意見を交換した民間人を、松井は支援していた。その件でS16はじめに、憲兵隊によって拘置されたことがある。
木戸には私心があり、それが対米戦争を欲した。
富田朝彦のメモからわかること。昭和天皇は高松宮に強い嫌悪の感情をもっていた。近衛に対する憎悪も、長いものだった。
スターマーが日本の要所要所にカネをばらまき、同盟を急かしていたのを、近衛は見抜けなかった。S15-9-16の緊急閣議は、昭和天皇の注意を無視して開かれた。これで亡国同盟が確定してしまった。陸軍は、三国同盟反対の松平恒雄(宮内大臣)をスパイしていた。海軍の侍従武官はそんなことはしなかった。
天皇は、杉山、梅津、東條を信頼していた。終戦のために、その後任として、小畑敏四郎ら2.26に責任のある皇道派を据えろと主張した近衛と高松宮を、天皇は許せなかった。
昭和天皇ぐらい孤独な人はいなかった。導いてくれる父を持たず、陸士でも海兵でも学んでいない。兵営生活、軍艦生活、上司と部下をもつ体験が、欠けていた。だれとも意見をかわした経験がなく、意見を正確に力強く述べることを学ぶ機会もなかった。
だから木戸がつけいることができた。木戸の好憎が天皇にのりうつった。
対米開戦を定める御前会議をひらく前日に、軍令部作戦課員の高松宮は、異議を奏上した。
小林躋造は高松宮の理解者になった。
加瀬英明が、高松宮から聞き出した。天皇への直諫をうながしたのは、保科善四郎少将(海軍省兵備局長)だった。鳥居の推定。保科をそうさせたのは、山本五十六だろう。
ローズヴェルトが海軍次官だったとき、ウイリアム・レーヒは海軍作戦部長だった。
亡き部下に、読みて聞かする手紙かな。
なぜ天皇は近衛を嫌ったのか。木戸が、近衛の悪口を言ったからだ。
レーヒは原爆などできまいと思っていた。その影響で、FDRは、原爆が完成したらどう使うか、何も考えていなかった。
トルーマンもバーンズも、日本について知識ゼロだった。
ホーンベックは対日経済封鎖を主唱し、開戦後は天皇制廃止を説いた。
グルーはFDRの古くからの学友。
『滞日十年』はS19-5に刊行され、日本はシベリア経由の外交行李で入手した。
2000-10のアーミテージ報告書。こんごアジアにおいて米国は日本と結んで秩序を維持すべし。日本が集団的自衛権行使をクリアしてくれれば普通の国になり、すべてめでたくなる。この報告書は超党派のブレーンがまとめている。
近衛文麿の長男の文隆は、プリンストンに留学。召集されて満州へ。シベリアで十数年。客死。
近衛が戦後、悪者にされているのは、木戸の保身作戦と、ハーバート・ノーマンが共産党と社会党の人民戦線をつくろうとして話をでっちあげたから。
天皇に対して、政治家や役人たちの批判を言上できるのは、戦前は木戸幸一、戦後は侍従長の入江相政だけ。内大臣は常時輔弼。国務大臣や統帥部の総長は、他人の批判は自粛する。
吉田茂はすべてがわかっていたが、昭和帝が近衛嫌いであることも知っていたから、戦後、近衛の名誉のための弁護をいっさい、しなかった。
木戸と近衛は同じ京大で同期だが、長身の近衛に対して木戸は短躯。家柄にも引け目があった。
S5に、商工省からない大臣秘書官に。これは近衛の斡旋による。
木戸は文相や厚相として近衛を助けたと思っているのに、世間の人気は近衛だけに集まった。
もし支那大陸からの撤兵が実現すると、杉山と梅津は引責して予備役になるしかない。そうなると皇道派が返り咲く。皇道派は木戸をうらんでいる。なぜなら2.26直後に切られた経緯があるから。そこで木戸は、みずからの権力欲のために、海軍が対米戦に自信がないという裏事情を、昭和天皇に注進しないことにした。
近衛は対米開戦後に、皇道派の起用を主唱する。開戦経緯のしがらみがないから、対米の手打ちができると。近衛は皇道派と親しかった。
近衛は敗戦直後、マッカーサーも感心させた。そうなると困るのは木戸。木戸こそが真の戦犯だったと天下に知られてしまう。だから近衛には死んでもらわねばならなかった。
ノーマンはモスクワのあやつり人形だった。共産党員だった。そしてマッカーサーから気に入られていた。ノーマンは新聞記事を使って近衛起用を潰した。
都留とノーマンはハーバードの学友で、しかもコミュニスト同志。
木戸が都留にレクチャーし、ノーマンがそれを11-5までに「戦争責任に関する覚書」という膨大なボリュームのリポートにまとめて、GHQ経由、ワシントンへ報告した。木戸はとるにたらないポストにあって開戦責任などなく、近衛に全責任があった、というストーリーがでっちあげられた。これで12-16に近衛に逮捕状が出る。12-16の巣鴨出頭期限の日に近衛は自殺した。
永野が南部仏印進駐を強く主張したのは、陸軍に対ソ戦を始めさせないため。石油がなくなれば対ソ開戦できなくなるので、石油禁輸の反応は却って好都合であった。
※しかし《翼賛ナチ化》は統制派の武藤と近衛が推進したんじゃなかったの?
谷沢永一との対談。軍人勅諭は、第二の西郷隆盛は出ちゃいかんぞと延々説いている。
内閣が全体として天皇を輔弼するようにしてあるのも、一人の独裁権力者を出さないため。
支那事変は2.26の翌年である。杉山と梅津は、事変を拡大することで、陸軍将校が早期退職しなくてもよくなるので、皇道派切りで怨まれていた自分たちも、人気が出て、寝覚めがよくなるだろうと考えた。
※木戸日記には都留重人が墨で塗りつぶしたところがあるというが、今の技術ならば、マルチスペクトラムを使って、その消す前の字を読めるはずだ。なぜ、それをやらないのだ?
富永恭次は敗戦時に満州にいたので、S30までシベリア暮らし。むかしフランス駐在武官で仏語ができた。監獄で、トレッパーというポーランド系ユダヤ人と仏語で交話。
尾崎やゾルゲの調書・公判記録からは、陸軍軍人の名前は抹消されているのだろう。
蒋介石は西安に最良の手兵を置き、いちばん信頼する部下将軍に任せ、アメリカが日本を敗北させる日を待っていた。しかし尾崎は、ソ連が西安への武器援助道路を復活させる前にそこを日本軍が攻略しろとそそのかしていた。日本は、偶然にそれに乗った形になった。一号作戦。
米国は絹織物には関税を高くかけていた。だから絹糸が輸出された。
近衛はS15-11に大きく転向していた。左派や枢軸派とは手を切っていた。
▼鳥居民『それでも戦争できない中国』2013-4
※2008年に『産経新聞』や『正論』に寄稿された文章を集めた。それをもとにして修正がなされる計画だったが、その時間がないまま、著者が2013-1に亡くなったので、出版社において修正なしでそのまま出すことにした。
著者の大掴み。中共指導部は一貫して「穏定圧倒一切」の大原則に立脚して行動する。2007-10の党大会で、百人の太子党が勝利した。彼らの利益も戦争にはない。だから中国は戦争できない。
米国が共産主義をくつがえしたやりかたを中共は「和平演変」と表現する。
ソ連は1980-12と1981-3に、ポーランドへの軍事介入を真剣に検討したが、できなかった。
1983にもクレムリンで戦争勃発の噂が流れた。
シナでは日清戦争を甲午戦争といい、黄海海戦を甲午海戦という。
1994にルワンダで大虐殺がおきた。人口750万人のうち80万人が殺されたが、アメリカは知らぬ顔をし、日本では報道すらなかった。
米国の正規空母が最後に沈められた海戦は、1942-10-26の南太平洋海戦。『ヨークタウン』がやられた。※トドメは駆逐艦『巻雲』と『秋雲』の魚雷。
大正時代に日本が米国から原綿を買うことができたのは、絹織物・絹糸を輸出して外貨を稼いでいたから。
いま、年間1000万個のコンテナがシナ沿岸の七つ以上のコンテナ港から米国へ輸送されている。太平洋航路に就航しているコンテナ船は、平均して1隻5000個を搭載できる。したがって年に2000隻のコンテナ船が必要だが、中国船籍船だけだと足りないので、日本を含めた外国のコンテナ船も輸送を手伝っている(p.50)。
「穏定」がなくなれば、中共の経済も終わる。
中共の国有企業の一部株式を上場するとき、その企業の最高幹部は、オトモダチの国有金融機関から多額の借金をして、その未公開株をじぶんのものにする。そして上場のあとに、持っている株を売却することによって、10億ドル以上の金融資産をたくわえられる。
贈賄もこの仕組みを使う。収賄側は借金をしてでもその非公開株の一部を買いとる。公開後に値上がりしたところで売る。差額は、人によっては1兆円にもなる。じぶんじしんで儲けなくとも、血縁者にそれをやらせればよい。
国有企業を再編成できる権力ポストについている太子党は、この未公開株ビジネスで、庶民が投資したカネを一手に収奪してしまえる。10億ドル以上の資産を持つ「権貴」グループはすでに100以上ある。
中共には富裕税がない。個人所得税はとるにたりない。相続税はゼロ。だから、金持ちの天国。
世界の歴史ある資本主義国には、古いエスタブリッシュメント階級と、新興成金階級の2層が存在するのが普通である。ところが中共は、古いエスタブリッシュメント階級を追放・根絶してしまったので、成金階級しか存在しない。数代前は貧乏人であった家系の成金が権威のすべてを収攬しオールマイティたり得る資本主義なのだ。
戦前、国民党の支配区で活動した共産党員を「白区党」という。劉少奇や周恩来。これに対してほとんどの中共軍人は「紅区党」である。
コミンテルンが解散されると、毛沢東は、コミンテルンに協力した中共幹部を徹底糾弾。
ハリソン・ソールズベリーは回顧した。スターリンは、毛を軍事的に粉砕するために、高崗と組み、朝鮮戦争を始めた。
1946~47に毛沢東が集中したことは、満州を親ソ派の王明の支配地にさせないこと。
1945-6に国民政府の宋子文がモスクワに呼ばれてスターリンから、旅順と大連を租借したいともちかけられていた。これを毛沢東はまったく知らなかった。
満州は北支よりも産業基盤が良好だった。武器は旧日本軍のものが手に入った。北支には余剰食糧はなかったが、満州にはいくらでもあった。満州の人口は4500万人。そこから新兵を集めるのもわけはない。
盧溝橋で対日戦が始まることを望んだのはスターリンと中共だが、それを上海に飛び火させたのは蒋介石だ。コミンテルンにイニシアチブを握られてはいけないので。上海を戦場にしてしまえば、英国とアメリカが介入せざるを得ないと踏んだ。
武昌・漢口に撤退した蒋介石と日本軍は休戦の秘密相談を始めていた。これを粉砕したのが、王明(長江局書記)だった。
蒋介石は1945に、監禁していた張学良を満州にもどしてやればよかった。そうすれば満州が林彪や高崗の手に落ちることはなかったかも。
毛沢東は、満州をみずから掌握したことで、全支を掌握した。
高崗は、東北をソ連邦の一共和国にしたいと1949-7にモスクワで語った。
金門島を中共は奪取できなかった。しかし砲撃をうちきると敗北が明白になるため、68年まで間歇的に砲撃を続けた。さらに、くやしまぎれとして、大陸と台湾のつながりを保たせるためわざと放置してあるんだ、という言説を流布した。
金門島への米軍の補給は、LVTによってなされた。オープントップの履帯式水陸両用装甲車。
人民公社は、その前は「大社」といわれていた。これを毛沢東は福建省につくらせたかった。米艦が支那本土沿岸を砲撃してくれれば、その気運が醸成されるはずだった。しかし毛の目論みは外れたのである。
フルシチョフは1950にアグロゴロドという農業実験都市を手がけたが、翌年失敗した。毛はそれに触発された。
北載河は、北平~天津に居住した欧米商人の避暑地だった。
1996-3-23に予定されていた台湾の最初の総統直接選挙にさきだって、中共は95年夏からミサイル演習を始めた。
目的は、選挙結果を左右しようとしたわけではないのだ。台湾に「戒厳令」を敷かせることが目的だった。戒厳令とは民主化の反対極。戒厳令下では選挙も中止される。中共がいちばん怖れたこととは「選挙」そのものだったのである。選挙とはイコール「民主化」だから。
国民党は1949から1987-7までずっと台湾に戒厳令を強いてきた。選挙のない台湾は、中共と同じ非民主主義国家だった。その状態に引き戻してやりたかったのだ。
C・H・カーンは2007にすでに予言していた。人口統計学からみて、中共の経済成長は2015で終わると。15歳から64歳の労働生産年齢層が減り始めるから。
中共で戸籍のこを「戸口」という。1958-1につくられた戸口登記条例。それから50年、中共憲法は四度変わり、中共党章は八回変わっているが、戸口条例だけはゆるぎなし。
農村戸籍の者と都市戸籍の者が婚姻した場合、子の常住戸籍は、母親の常住戸籍に従わせる。
面倒で失敗するおそれのある課題には、統一的な命令を出さないのが、中共のやり方。
都市戸籍の住民にのみ、年金制度があるが、地域・職域でバラバラ。強制加入が原則なのに、負担を嫌って、未加入の者多し。
天安門からの民主化をゆるしてしまえば、支那社会は「不穏定」になる。その受害者は人民だ、というのが、トウ小平の言い訳。穏定であるかぎり、人民も受益者になる。
▼日本地理研究会『日本地図150の秘密』彩図社 H26-12pub.
無人島の中には、都道府県までは決まっていても、所属する市町村が未定のところが複数ある。たとえばベヨネーズ列岩。
岐阜県高山市は、香川県よりも大きい。
かつてフェリーを国が運営していたので、航路が国道になっている。
石灰石の八戸鉱山はオープンカットでマイナス標高170mに達し、まだ操業中。
神戸は寺社領地を意味し、全国に多数ある。「亀田」は神社領の「神田」が転じた場合がある。
もともと「かみつ・けぬ」=上毛野といっていた国が、713年の「好字二字化令」によってむりやり「上野」に直され、「こうづけ」と当て読みされることになった。下野も同様。
近畿と畿内はかぶらない。畿内は、大和、山城、河内、摂津、和泉。五畿内とも。その畿内の周辺にある国が、近畿である。大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、滋賀県、和歌山県、三重県、福井県。
上総、下総の「総」は、麻の産地を意味する。
季節により地軸と太陽の関係が変動するため、夏至の頃は、東京より新潟の方が日の出が早い。春分と秋分は、東ほど日の出が早い。
快晴が最も多いのは埼玉県。最もすくないのは沖縄県。
江戸時代の享保の飢饉は西日本の虫害。それ以外の、寛永、天明、天保、元禄の飢饉は、東北の冷害。
白神山地のブナの木は、使い道がなかったので伐採されず、おかげで800年も残った。※まさに老子の世界。
青森県の東通村[ひがしどおりむら]にある猿ヶ森砂丘は、鳥取砂丘の30倍の広さだが、防衛省の射爆場なので一般人の立ち入りはできない。
平安京は緩斜面にあり、東と北ほど高い。西側である右京は低湿地で、桂川の氾濫にも悩まされた。17世紀に桂川を大坂までつなぐ開削工事が成るまでは、とりのこされていた。
出島はもともとポルトガル人用に造成していたが、ポルトガル人が追放されたため、長崎商人が運動して、平戸にあったオランダ商館を機能移転させた。
▼鈴木亨『軍師と家老――ナンバー2の研究』1999-2 中公文庫
夢窓国師による足利直義評。清廉潔白、つねに誠実。人を欺かない。
毛利元就が死んだときには長男の隆元もすでに亡し。よって三本の矢の話は成り立たない。
残った次男と三男ははそれぞれ吉川家と小早川家に養子として押し込み(乗っ取り)、本家は孫に継がせた。
秀吉は北政所の甥の秀秋も養子としていたが、後継者を姉の子の秀次に決めたので、秀秋は毛利家に押し付けた。そこで隆景が輝元の従兄の秀元を輝元の跡継ぎに据え、秀秋をじぶんの養子にした。しかし秀秋には子がなく、小早川家は断絶した。
秀吉の部下で最初に城持ちになったのは、蜂須賀小六。
小牧長久手の戦いでも、大坂城の留守を任された。
小野派が木刀で稽古をつけていたとき、柳生派がいちはやく袋竹刀を採用した。
大岡忠相がじぶんで裁いたと分かっているのは、夫殺しの白子屋お熊事件だけ。
リアルの業績としては、「御定書百ヵ条」の編纂。そして、連座制を廃止したこと。
日本初の出版統制令も。
御三家・一門といえども、登城日は決まっていて、勝手に登城することは禁じられている。
大野九郎兵衛は世襲の家老ではなく、才幹によって一代で出世した。赤穂藩の塩田は、彼が開発した。討ち入りに参加しなかったのは、ある意味、当然。
御家騒動の対立図。逆意方と御為方。
▼国木田独歩『武蔵野』2006イワブン
日本人は楢林の美を歌ってこなかった。
武蔵野の河川は、多摩川を除いては、悉く濁っている。※だから玉川なのか。
水車は「株」なので、誰でも参入するわけにいかない(p.34)。
自脈をとる ……自己診断する。
牛乳屋は ちちや と読む。
M31の話。驢馬を飼っている男。生国の千葉からともなってきたという(p.57)。
M31の話。鉄砲腹(p.192)。 ……鹿撃ちの猟銃による自殺。
天保14年うまれの母上のほうが明治12年うまれの妻よりも育児の上においてむしろ開化主義。
巻末解説。独歩はM29秋から翌年春まで渋谷村に住んでいた。
▼ヴォルテール著、植田裕次tr.『カンディード 他五篇』2005 イワブン
スカルマンタドの旅物語。
国王顧問会議で、足の裏を細長い板で百叩きされる刑を言い渡されたが、その刑は金貨五百ゼッキーノで償うことができた(p.253)。
カンディードまたは最善説。
これでも日本へ四回旅して四回踏み絵を踏んできた(p.286)。
オートダフェ=異端者の火あぶり。
急流探検。岩のドームの下を流れる川が、24時間後に、カンディードと従僕2人の旅人を、見知らぬ国に導いた。人間に登れない山々に囲まれた、理想郷エルドラド。
※王嫌いだったのはヴォルテール。フリードリヒ2世に3年も仕えたが。
「彼〔カンディード〕の妻はといえば、日ごとにますます醜くなり、口うるさく耐えがたくなった」(p.450)。※これをトルストイは読んでいるのだろう。
「理屈をこねずに働こう」と、マルチンが言った。「人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」
以下、巻末訳注。
ヴォルテールはスウィフトを賞讃している。
18世紀のフランスの教会にはベンチや椅子は無かった。
シリウス星のアラビア語名がシェラ。
『千一夜』の仏訳は1704刊行。
ゾロアスター教では、善に力を尽くした者の魂はハラ山にかかる橋を通って楽園に入る。悪人はこの橋から地獄へ落とされてしまう。
ゾロアスターは肉食を禁じた。
2世紀から5世紀のローマの神に「ミトラ」というのがあって、これはゾロアスター教ではないかと。
ギリシャ神話のバシリスク蛇は、ひと睨みするだけで女性を除くあらゆる生物を殺す。
最善説の発明者はライプニッツ。英訳するとオプティミズム。あらゆるものは人間の善のために組織されていると考える。
ライプニツは、悪も善をきわだたせると説いた。
ミンデンはウェストファリア地方の都市で1759-8-1にその付近で7年戦争の血みどろの戦闘あり。
1740とその十年後に同地方を通りかかったヴォルテールは、あまりの貧しさに強い印象を受け、どの家も大きな小屋でしかない、と手紙に書いている。
小教区の主任司祭は7年間、いちども結婚式を執り行なったことがなく、子どもはひとりも生まれず、住民の食べ物は黒パンだけ。それでも税吏がやってきて投獄する。
プロイセン軍の徴募官の制服は青色だった。
パケットは、若い小間使いを表す代名詞。
サレは今のモロッコのラバトに面する港で、海賊の本拠地だった。
ヨハネ騎士団はトルコによってロードス島を逐われ、神聖ローマ皇帝からマルタ島を与えられて、マルタ騎士団になった。
ピョートル大帝は黒海の輸送路を確保するため長期の攻囲の末、アゾフ港を制圧した。1696のこと。
1754、ヴォルテールはプロイセンから戻った。当時、イエズス会士には同性愛者が多いという風評あり。
なぜエルドラドはアマゾン上流にあると信じられたか。インカ族がスペインに追われて最後に逃れたのがオリノコとアマゾンの中間帯だと信じられたから。
1685のフランスの黒人法典。2回逃亡した奴隷は、ひかがみの腱を切る。
ビング提督は、仏軍に囲まれたミノルカ島の解囲に失敗したとされ、1757-3に英軍艦上で処刑された。
コーランは胸をあらわにすることを禁じている。
ヴォルテールの考え。人間は労働のために生まれたので、労働は罰ではない。
以下、巻末解説。
ヴォルテールはペンネームである。
3万人が死んだリスボン大地震と、七年戦争が、ヴォルテールを目覚めさせた。
▼浅井建爾『日本の道路がわかる事典』2015-10
日本初の舗装道路は大正15年。歴史が浅すぎる。
馬車の時代がなく、1960年代にモータリゼーションを迎えた。だから1960年代に、ゴム長靴の需要がなくなった。舗装が急に進んだので。
「本舗装」とは、20年耐久できる舗装。
公道と遮断されていれば、それは道路ではない。道路交通法は適用されない。たとえば公園内や工場内。ナンバープレートも無用である。
豪雪地帯は、歩道橋より地下横断歩道。
欧州は、美観重視で、歩道橋禁止。
先進国で自転車が歩道を走る国はない。
ナンバープレートの左端のひらがなとして、お・し・ヘ・ん の四文字は使用されない。
車道と分離して設置された高架による歩行者せんようの歩道を、ぺデストリアンデッキという。
PAは北海道では25kmごとにある。SAは北海道で80kmごとにある。
「道の駅」は1993年から始まった。一般道のPA。
戸越は銀座で不要になったレンガをもらいうけて低湿地を舗装した。それで戸越銀座と称する。
交通事故のリスクは、一般道よりも、高速道路の方が低い。10倍の開きがある。
▼R・P・アーノット著、風間信三tr.『帝国主義と石油問題』S2、原1924
※著者はマルキスト。
ロイド船舶業記録によると1914には船の3.1%が、1924には29.9%が石油動力となっていた。
▼長野営林局作業課『索道集』S29-2
2~3年前までは索道がほとんどなく、桟道だった。
架線の近くで焚き火をすれば、たちまち切断する。
谷渡しのまんなかのところを、谷底から支索で引っ張ることもある。これをガイドケーブルという。
トロッコのことは「作業軌道」という。
機械集材作業を最初にスタートしたのはスイス。
日本は大正9年にアメリカから輸入して木曽で用いた。動力は蒸気だった。
▼中村英碩『軽架線』S62-3
搬器の腕の滑車の凹面のRが大きく、ケーブル径がそれよりも小さいという組み合わせは、もっともよくない。搬器がふらふらと左右に揺れてしまう。
ケーブルが太く、搬器の滑車の凹みRはそれよりも小さいという場合、むしろ、安定する。
もちろん理想は、Rがピタリと一致することである。
▼(財)日本交通公社『県別・観光開発状況調査』S41-12
徳島バスは、25席、1回50人輸送できるアベックリフトを、なると公園の「4帖敷上有料休憩所」とRC・3階展望台の間の100mに1700万円で建設予定。 ※ロープウェイの本を書くとき、これについて問い合わせてみたが、まったくワカランとのこと。
こんな計画もあった。S40-3時点。
蓼科有料道路の茅野市・城の平から、八ヶ岳横岳の山頂付近を結び、さらにそれを反対側の南佐久郡佐久町双子池におろす。
全長4.5km、6人乗り、自動循環。毎時710人を運搬。
途中、諏訪側に、中間停留所×1を設ける。4億5000万円。
京浜急行は、S40-4に、飯綱山の東斜面などを開発して、その中心点と、飯綱山山頂とのあいだ2kmにロープウェイを架設するつもりでいた。
長野県は、野尻湖の西岸・立が鼻~弁天島~東岸県有林を結ぶ湖上ロープウェーを41年度に1億5000万円で構想していた。
山梨県は「富士モグラケーブル」の建設計画あり。S40-4時点。60億円を見込む。
▼眞島卯太郎『架空索道』S30-11
ヤエンは、木曽、大和にあり。四国では「つなわたり」という。
静岡県飯田村の山原に建設した索道。
山原テレビ中継所の建設用としてつくり、完成後は、その通勤者と小荷物を運んだ。片側走行式の25m支柱もあり。
初期の旅客索道は、イタリアの規則を準用している。
尾鷲に大15-5にオープンした2人用ゴンドラのロープウェイ。
紀伊自動車(株)の運営。
単線循環式。
矢の川峠、和歌山。
峠越えの客の便をはかった。ただし、単線ロープウェイに人を乗せることは日本では禁止。
▼二宮勝太郎『架空索道』S16-1
WWIで伊軍と独軍は、アルプスに索道をかけた。
うまく工事すれば、敵空軍にはみつからない輸送手段となる。
日本もWWI中、シベリアで架設しようとしたことがある。
▼加藤誠平『林業用索道設計法』1959-3
奥秩父の大洞川索道は、雲取山の積み出し場から延々6500m。最大支間1600m。
今のワイヤーでは、支間はMax2000mにできるが、1000m以下におさえるのが得。
走行スピードも、部品の損耗を抑えるために、低くした方がよい。
ヤエン は、明治中期には、麻縄にタールを染ませてあったので、客の手が汚れて難儀した。
傾斜が10度以下だと、鉄線ヤエンで自然に滑らすのは無理。滑車が要る。
ロケット架線は、伐開(3m幅)が不要になるので、有利。400mまで飛ばせる。「ロープ投射銃」というのも市販されている。
▼二宮嘉弘『建設工事用 簡易索道の計画と設計』S38-11
単スパンの簡易索道で、調子よいのは、400~600mまで。
無理すれば1kmまで単スパンで可能だが……。
主索のカテナリー(垂直線)をつくれ。
▼新潟地方索道協会『索道20年のあゆみ』S51-11
この時点で日本索道工業界には、安全索道kk、廣大産業kk、太平索道kk、東京索道kk、日本ケーブルkkあり。
信州車山高原に夏山リフトあり。
S47だけでリフト100基新設され、全国総数600基に。
S25、池の平スキー場で、木柱、ふたりがけリフト。
S27、藻岩山スキー場で、背中合わせの二人乗り、しかも複線式(曳索と支索が1本づつ)。
S28、霧ヶ峰スキー場で木柱、1人乗りリフト。
自動循環のゴンドラの嚆矢はS31の蔵王空中ケーブル。
S39、阿蘇には121人乗りゴンドラ。
戦後、最初の旅客リフトは、S21-11に藻岩山に進駐軍が完成した。
邦人用としては、S23の草津町のリフトが早い。
大鰐スキー場は大10の開発で、非常に早い。
インドアスキー場はS34の狭山が早い。
S32まではスキー場とは、雪の降る温泉地だった。
日本最初の邦人用リフトは、木柱、S23、草津天狗山。もともと硫黄鉱石搬出用のものを改造した、無法律時代のシロモノ。長さ450m。
寝て喰うしかすることのなかった冬の温泉場を、スキー場のリフトが一変させた。
ロープトーは、アノラックがまきこまれたり、よく死傷事故が起きた。フランスでは自己責任で済むが、日本ではそうはいかず、廃れてしまった。
頭陀袋脱出装置は、下で人が紐をたぐることで静かにおろす。腰から下を袋に入れ、半分ミノ虫になる形。
救助用竹竿は、下からフックを支索にかけ、乗客が垂直の棒を自力ですべりおりる。握力が弱いと、途中から墜落する。
▼沼田鎌次『鐔・小道具画題事典』上下 H10-7
機関誌『刀剣美術』に連載したもの10年分をまとめた。
孔明には武装した姿はない。
三十三間堂は、南から北に向けて射る。
弁天をのけるとあとはかたわ也
姜という姓は神農から始まった。
東坡とは、東の岡という意味。
333ページ所掲の、おにやらい の図柄の鐔。走る姿が「ナンバ」ではない。
人なればとふに出て行く佐野の馬
明け六ツの鐘を合図に吉原では客を帰さねばならなかった。
頼朝は鶴の寿命を調査しようとして、年号を記したこがねの札をあまたの鶴の脛につけて放したという伝説あり。千羽鶴はここから始まるとも。
以下、下巻。
昔は農家からじいさんが働きに出て行くと残ったばあさんが石臼をひなたで挽いていたものだった。
寛保年間に佐野川市松という役者が自己宣伝に着用した着物の模様が「市松模様」。
一里塚には、成長の早い榎が植えられた。
ウナギは、後進で脱出することが得意である。頭から逃げない。
花魁の原義は「梅」のこと。松の異称が「太夫」である。
槲[かしわ]はタンニンを多く含むので、獣皮を鞣めすのに有用である。
蟹はヨロイを着て天下を横行するので、戦国時代の牢人に図柄として好まれた。
蕪と馬の図柄は、投機の祈り。
亀は四肢と首尾とを格納してしまえるので別名「蔵六」。外骨というのも、カメのこと。
エト とは、兄と弟。
牛車の人の乗るところを屋形という。轅[ながえ]の先端の横木を軛[くびき]といい、それを置く台を榻[しぢ]という。
牛車の童は、老人になってもやはり「童」と呼ばれた。
胡桃の外皮が駆虫剤として薬効があるという。
虚無僧は有髪。関西では京都の妙安寺、関東では下総小金の一月寺に属し、身分は武士で、短刀を帯びる。明治以降は、物乞い。
獅子舞は勝手にやってきて金をせびるので庶民は迷惑した。三河万歳も同じ。
漫歳は諸国を歩いても怪しまれないので、密偵に雇われたこともあり。
銭湯の「石榴口」は、屈み入る→鏡と連想し、鏡を磨くのにザクロを使っていたから。
江戸期に茶筌を売り歩いた賎民も茶筌と呼ばれた。
鶏は夜半から鳴き始める。夜明けにはじめて一番鶏が鳴くわけではないのだ。
鳴子はかつては秋の景物だった。
ヒヨドリは、ナンテン、モチノキ、オモトなどの赤い実を好むという。
吹き寄せは、富貴寄せのゲンをかついだ図柄。
日、月、星を三光という。
瓜盗人はまた参る。
松葉は、枯れて落ちても二人連れ。
抱冥加の紋は、「冥加を抱く」の含意。
大名行列用の槍はしだいに目方が増えて、ついには8貫匁などという槍まで作られた。鎗持奴はたまったものではなかった。ただし、市街地だけ。
弓矢は仏説の愛染明王の標示でもある。
▼江藤淳『保守とはなにか』H8-9
※雑誌寄稿記事の集成である。表題記事は『諸君!』平成8年7月号初出。
「保守とは感覚である」。
イデオロギーではなく感覚だから、保守するためには改革しなければならないときもある。
野田宣雄氏との対談。
福田内閣のさいの日本赤軍ハイジャック事件のときは、獄中犯の釈放のほか、要求をのんで、六百万ドルの身代金まで与えた。
阪神大震災のとき、新進党が「超法規的にやれ」といわれると、政府閣僚は「もう超法規的に近いことをやっております」と答弁。ムチャクチャ。
非常事態にさいして法律を離れればいいんだという感覚はドイツにはない。あらかじめ非常事態を予想して法制を考えておく。※ここが大人と12歳の違い。
岡崎久彦との対談。
ソ連崩壊後、3年くらいのあいだ、キッシンジャーを筆頭に、チャイナと添い寝しようという幻想が横行した。ようやくこのごろ、その間違いに米国主流が気づき、日本が戦略上の相棒であることが再確認されつつある。
老子が「六親和せずして孝慈あり。国家昏乱して忠臣あり」と言っているように、国防総省のアジア専門家が主張し続けてきたことがようやくに、ホワイトハウスの阿呆ども=クリントン一派 には理解されるようになってきた。比島に続いて日本からも米軍が引き揚げてしまえば、ディエゴガルシア基地だって兵站が続かなくなってしまうのである。
故・村山泰亮理論。もし覇権国がなく、対等の国民国家だけしか地球になかったら、経済競争の均衡点は見出せず、1930年代のブロック経済がおとしどころになるのみ。覇権国が指導力を発揮したとき、はじめて、自由貿易の均衡点が設定されると。
現憲法についての岡崎の一貫した主張。総理大臣が国会で、日本固有の自衛権には集団自衛権も含みます、と一言いえば、すべては済む。
与党がきちんとしていて、総理がそのように発言し、外務大臣はどう思うかと質問され、私も総理と同意見ですと答弁すれば、それで収まる。
1920年代以前の日本政治が、近代日本の原点であるべきだ。
幕末に、公武合体という情勢になったら、もう公武合体では止まらない。維新になる。
ケレンスキー内閣ができる情勢になったら、もう止まらない。ボルシェビキまでいってしまう。
民衆は、生計があるから、変わるのは嫌がる。しかし、一度変わると、どうせ変わるならいい加減なことをしてほしくない。徹底的によくしてほしいという気持ちになる。
解釈改憲が可能な情勢となったら、決して、そこで止まらないだろう。
▼石川謙・校訂『松翁道話』1936 イワブン
文化年間。
「自由自在」とある(p.26)。
人多き人の中にも人ぞなき人になれ人人になせ人
芝居は「勧善懲悪」だからお上が許している(p.34)。
鍋尻こそげる炭かき包丁 というものがある。
かぶりをふる←→うなづく=合点する
ふまれても咲くたんぽぽの笑顔かな(p.97)。
川船が、「もう楫」「とり楫」と、たがひに挨拶しあうて、船をかはして〔=すれちがい〕往来する(p.105)。
※むかしはオモカジではなかった。
けんけんけん は犬の鳴き声。
はるばると安達が原へゆかずとも心の内に鬼こもるなり
一文惜しみの百しらず
両替屋の丁稚には、11歳から、純良な銀ばかりを見せる。すると悪い銀を見たとき、すぐにそれが悪いと分かる。
ヤドカリは、宿借り貝 といった。
日々に三度づつ御神楽が上がる(p.172)。 ※一日三食していた。
竹薮の中に植えれば、桐はまっすぐに育つ。
▼別宮暖朗『軍事学入門』2007-6 ちくま文庫
※2004の『軍事のイロハ』に加筆したもの。
予備役年限を8年とすれば、平時20万人の軍隊は、総動員によって100万人にできる。
WWIでは欧州人860万人が戦死した。
ドイツは180万人戦死。ところがヒトラーは3万人の戦死者で、1ヶ月半でパリを占領した。
開戦法規は、1907の第二回ハーグ万国平和会議から1928ケロッグブリアン条約までの間、存在した。
ニコライ2世は仁川が『ワリヤーグ』が自沈を強いられたのがトラウマで、この会議を主催した。
WWIIではデンマークは首都を空挺部隊で急襲され、国王が捕らえられた。近衛兵の戦死は2名。
シアヌーク時代、カンボジアは国土の東北部を北ベトナムに使わせた。米国と南ベトナムは抗議した。ここでシアヌークが何もできなかったことは、カンボジアの内戦自滅を不可避にした。
独仏露墺は、ハガキで召集をかける余裕すらない。役場に総動員下令の張り紙が出るだけ。
WWI前の欧州で共和制だったのは、スイス、フランス、ポルトガルだけ。
「止揚」を、レーニンと各国共産党は、反対派の根絶のことだと解釈する
ふたつの世界戦争は、ドイツによるヨーロッパ支配、ついでに日本によるアジア支配を、永遠に阻止した。
ナポレオンがスペインを崩壊させたので、南米諸国は独立できた。
汽船が殖民地をつくり、鉄道が殖民地を脅かした。
セルビアはバルカンの最貧国で、その理由は海がないからだと思われた。ボスニア=ヘルツェゴビナは海岸国なので狙われた。
イタリア統一戦争は、トリノによるミラノの吸収。
インド占領英軍の悩みは、北西辺境のイスラム教徒の反乱。
WWI前の仏露の参謀本部は持ち回りで作戦計画を共同で毎年練っていた。
能動的に勢力均衡を図れとしたのが英保守党。勝手に勢力均衡はできあがると放任したかったのが英自由党。欧州に対しては武装中立でよいと。
産業資本家が戦争を起こすという説が現実に合っていないのでレーニンはWWI中に、銀行家が戦争を起こすという英人ホブソンの説に宗旨替え。これが「帝国主義論」。
ヒトラーはミュンヘンでそれを信じ、銀行家=ユダヤであるとして、憎んだ。
1848の都市動乱。もはや絶対王制は維持不能とみられ、立憲君主制しかありえなくなった。プロイセンとオーストリーが。
汽船時代の殖民地支配は、やすあがりだった。4000人の連隊でカタがついた。インドにはさすがに3個師団が必要だったが。
WWIIの東部戦線では独兵の三人に一人は死んだ。露兵は二人に一人。独ソ戦は絶滅戦争だった。
WWIの全期間を通じた消費砲弾数。ドイツ5億8000万発、イタリア4億7000万発。フランス3億4000万発。イギリス3億発。
イスラム法には相続法がない。アフガニスタンでは従兄弟は敵である。争いを防ぎたくば、親が次男以下を都市の神学校に預けるしかない。
▼桂博史『のんびりゆったり長距離フェリー』1993-1
薩摩硫黄島の近くを通るのは、博多発の『えめらるどおきなわ』。
フィンスタビライザーは主機関には抵抗になるので、0.4%ぐらいエネルギーをロスする。
出入港時と、明石海峡、備讃瀬戸、来島海峡、釣島水道は、「船長立直義務航路」。
仕立て船……船長以外すべて外国人。