旧資料備忘摘録 2020-8-4 Up

▼石井稔『異色の提督 百武源吾』S54-12
 ※著者は終戦時海軍少佐。戦後陸自に入り、一佐で退職。

 源吾のすぐ下の弟が陸軍中将の晴吉。第17軍司令官としてガ島戦。脳溢血で倒れ、S21-2に内地に帰還したが、22-3-10死去。

 兵学校に入るとき、親父が、当時最新式の竜頭式のスイス時計をくれた。普及品は、裏蓋を開けてネジをかけるのである。

 対露開戦前夜の『三笠』にはアッパートップとカニングタワーを結ぶボイスチューブがなかったので、廃品のゴムホースから自作した。

 8-10の海戦。その前日に『嚴島』は、弾丸の換栓のまま発放したので砲5門が破壊されていた。
 6インチ砲は、徹甲弾と、鍛鋼弾をまぜて打てと途中で命令された。
 わが方の砲弾は、外れると水面炸裂するのがよく見えた。

 池田成彬の弟の宏平は、駆逐艦『雷』に乗っていたが、日本海海戦で戦死。
 当時は、7000mから撃ち始めた。そして5000mまで近づく。
 双眼鏡が国産品で間に合うようになったのは大正6年頃だった。

 『多摩』艦長のとき、瀬戸内海から下関海峡を抜けて行けといわれた。そこで、潮が止まったときに東口に到着するようにして、あまり強い追い潮にならないように計算した。

 陸上から軍艦へ伝書鳩を飛ばす場合、軍艦が8ノット以下ならどうにかなるが、10ノット以上だと鳩は追いつけない。

 セサ=先任参謀。司令官の訓示の草稿を書くのが仕事。
 管内の視察をするときは、天象最悪の時節をえらぶべし。北陸だったら、いちばん大雪が降る時機が適当である。

 梅津何応欽協定というものは存在しない。こっちの参謀長の陸軍大佐が勝手な話を敵に押し付け、協定が成立したと勝手に電報した。新聞報道されたのに「正文」はどこにもないのだ。大使も駐在武官も持っていなかった(pp.111-2)。

 日清戦争前に、軍令部長の中牟田倉之助中将が左遷された。これは開戦に反対したためだった。
 百武とは同郷の佐賀出身。

 先輩や上官の私邸を訪問したことは一度もない。
 百武は加藤寛治から嫌われた。兄の三郎も。それで中央で長く仕事できなかった。
 現役大将であった源吾はS17-7-13に突如として待命。7-15予備役。

 それから九州帝国大学総長になった。
 学習院以外では、とても珍しい。生粋の軍人が総長になったのは。

 S21-6に、世田谷から、都田に移住した。静岡県浜松市。
 それから90歳になるまで30年間、本当に農業を続けてプロ農家となった。

 七面鳥は大食いなのでたいへんだった。
 恩給が復活したとき、役場の人が気をきかせて、軍人恩給ではなく、九大総長の文官恩給(支給額が3倍くらい多い)にしてくれようとしたのに、敢えてそれを断り、軍人恩給を貰った。

 何事も慌てるのはよくないが、子どもの病気のときだけは急いで医者に診てもらえ。

 砲術科でないと海軍大将になれないような風潮のときに、航海術専攻者の百武が大将になってみせた。

 対米戦前の『八雲』は石炭焚きのピストンエンジン。燃料炭は、塀に使われるブロックに似た大きさの、粉炭を固めたブロック炭だった。

 揚子江は夏の増水期だと『出雲』が漢口まで遡行できた。そこから砲艦に乗り換えれば重慶まで行けた。

 兵学校60期の日野虎雄の証言。開戦前、軍事参議官をあつめた御前会議で、百武大将一人が、開戦に反対の意見を陛下の前で述べたということを、及川大将の副官から聞いた(p.302)。

 巻末年表。
 M37-6-25~26、艦載水雷艇の指揮官として、旅順口外に機械水雷を沈置。
 8月2~5日にも。

 大2-10-14、水底電線切断要具調査委員を命ぜられる。

▼白戸仁康『北海道の捕虜収容所』2008-8
 戦前日本では、法令用語として「俘虜」を用いた。
 当時の俘虜関係の国際法には、1907改定ハーグ条約、1929ジュネーブ条約、1929赤十字条約あり。1929ジュネーブ条約だけは、日本政府は批准せず。

 日露戦争では79367人のロシア軍捕虜あり。WWIでは4700人の独軍捕虜あり。
 当時は捕虜労働は志願制。1700人のドイツ人は戦後、日本国内に残留する道を選んだ。

 警備は内地の傷痍軍人にやらせた。
 捕虜将校には、日本陸軍将校と同一金額の俸給を支給した。

 ハーグ条約では軍の作戦に関係する就労が禁じられている。
 鉄鉱石の採掘も、戦争産業に寄与するものである。

 朝鮮人労働者の内地大量投入は1939から。

 八雲には1943-6-16に新収容所がつくられ、陸軍の飛行場建設を進めた。1943-10-25閉鎖。
 1942-9-27に内地に向けて香港を出航した『りすぼん丸』は敵潜によって沈められ、捕虜839人が水死。捕虜移送の旗を掲げるべきところ、それをしていなかった。

 1943-5のアッツ島玉砕が契機だった。参本は、「北東方面飛行場設定計画」をつくり、帯広、計根別、札幌、苫小牧の飛行場を拡張するとともに、重爆用に浅茅野飛行場を、軽爆用に八雲飛行場を新設することにしたのだ。

 八雲の工法。全体を、生石灰、粘土、砂利で固める三和土(たたき)舗装。R/Wは1200×100m。煉瓦舗装。掩体壕×30。

 キスカを引き払った5183人は、そのまま幌筵[パラムシル]島の守備隊とされた。

 二代目の函館俘虜収容所長は英語ができたほうがいいというので、江本茂夫中佐(陸士23期)が選ばれた。1888年生まれで55歳。徳島中学から陸士へ。陸大のかわりに東京外国語学校へ行き、香港留学。英・独・仏語を修めて、退役後は横浜専門学校(現・神奈川大学)の英語科主任教授。1941に召集されてた。
 江本は1940に、リデル・ハートの『英帝国崩潰の真因』を訳刊している。

 樋口季一郎・北方軍司令官の方針に適った人事だった。
 樋口は大阪幼年学校から陸士21期。同期には蒋介石がいた。※樋口の伝記には触れられていない。

 江本は、いかなる理由があっても捕虜に対する殴打を禁じた。樋口も、私的制裁の根絶に努めた。

 国際法では、将校も希望すれば、無報酬で就労することはできた。
 函館ドック会社は、函館山にトンネル工場を設ける計画があった。

 ガラスの入っていない窓を無双窓という。
 1944実績で北海道は1441万トンの石炭を産出していた。日本全国だと5000万トン。

 北部軍管区司令官がポツダム宣言受諾を知ったのは8月14日深夜。
 米軍機から物資を投下してもらうために、南から北に向かって「PW」と読めるような標識を描く。大きさ20フィート四方の黒地に黄色で1文字。

 陸奥湾には米軍の北太平洋艦隊が集結した。9-4までに、空母、巡洋艦など24隻。旗艦は『パナミント』。そこから、赤十字派遣員が、掃海艇に先導されて小樽へ。
 日本海軍が仕掛けた機雷は、室蘭沖から噴火湾にかけて960個、恵山岬に395個、津軽海峡西口に800個。その処分は未了であった。

 連合軍の指令により、8-24以降、日本側のいっさいの艦船および航空機の行動は禁止られ、青函航路も運航できず。

 1941-12-8に上海であっけなく投降した米海兵隊203人の指揮官、アシャースト大佐は、芦別第四分所に収容されていた。

 歌志内の第三分所には、ウェーク島で降伏したデブルウ少佐らが収容されていた。
 これら米軍人捕虜は、千歳海軍航空基地からC47輸送機で東京まで、さらに沖縄経由でマニラまで空輸され、そこからサンフランシスコ行きの船に乗せた。

 1945-7-15の北海道空襲のとき、TBM-3Eが、じぶんで投下した爆弾の破片にやられて不時着水。3人の乗員は救命ボートで1週間漂流したのち、増毛に上陸して拘束・収容された。ただし1人は衰弱死。

 函館市内の永全寺に、死亡捕虜の慰霊碑あり。
 1942にアッツ島とキスカ島を占領した直後の7月24日と26日、米潜が択捉島を砲撃した。 ※だったら単冠湾も終始、見張られていたとしてもおかしくない。米軍戦史にはまだ隠された部分がある。

▼樋口季一郎『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』芙蓉書房 S46-10
 著者はS45-10-11、老衰のため、文京区白山4丁目の自宅で死去している。

 鴎外が、プレーゲンを「温存」と初めて和訳した。その講義を聴いた。
 ロシア語は、入り難く、達し易いと樋口は思う。
 星はスウェヅダ。

 革命後3年で、ロシア語は綴りも文法も単略化されている。
 ドイツの幼年学校、士官学校を出て日本の陸軍将校となったティゲルゾーン。

 1926のドイツ。敗戦後なのに、庶民は、ビールだけは安価に満喫することができた。これが、WWII後の日本の政策にも必要な着眼だ。

 大正8年冬のインフルエンザ。日本でも死者数万。「死者中姙婦の死亡率が最も大であった」(p.51)。

 シベリア出兵当時のシベリア居留民なるものの正体は、多くが、不逞鮮人であった。朝鮮総督府から彼らを取り締まるための専門の係官がウラジオ総領事館に派遣されていた(p.78)。

 石炭産地に近接していないシベリア鉄道の区画は薪で走っていたので牽引力はいかにも緩徐であった。

 ロシアには戸籍がない。かわりに、旅行券・身許証明書というべき「プロープスク」があった。それさえ所持すれば移動も居住も自由なのだ。
 地方の治安はミリチア=武装警官 が保っていた。

 特務機関員のピストル(樋口はブローニングを私弁)は考え物だった。ピストルで護身したという例は稀で、ほとんど、自傷事故や他傷事故の役にばかり立っていた。そういう連中はピストルに対する敬意が足りなかったわけである。玩具のように扱うから事故になる。

 陸士21期の最下位の劣等生Hは、トップの石原莞爾と仲がよかった。
 ロシア人は横浜をヨコガマと発音する。

 ヴラヂ・ウォストークのヴラヂは、動詞のヴラデーチ(領有す)の命令形。すなわち、東方を経略せよ。

 同期の百武晴吉は、ポーランドで不眠症になるぐらいに暗号を学び究め、日本陸軍の暗号を一流に引き上げた。病死している。百武の長兄が海軍大将=侍従長の三郎。次兄の源吾も海軍大将。

 松花江上で真冬の演習をしたときは、火砲の架尾は破損し、戦車は履帯が壊れた。※冷脆性。
 ベルリンよりポーランドは5度寒い。
 独ソ戦の最初の冬を、露兵は塹壕内でしのぐことができたが、攻め手の独兵はそれができないから、自滅した。ヒトラーはとりあえずポーランドまで戦線をひきさげて冬営させるべきだったのだ。

 ハバロフスクでの貴重品は塩であった。食塩がないならば、サケマスがいくら獲れても、捨てるしかなかった。
 シベリア出兵中に樋口は初めてマージャンを見た。日本で知っている人は稀だった。

 ハーサン湖事件は、ロシアがしかけたイントリーガであり、日本の実力偵知のための威力偵察であった。※この解釈はあとで変更される。当時はそう思っていたということ。

 中江鎮の刑務所には首カセがあった。
 江界は朝鮮のキーサン(妓生)の発祥地だというが、産地かならずしも富まず、の見本のようだった。
 豆満江には、満州事変後、7年くらいしてはじめて鉄道橋がかかった。
 処刑された馬賊の肝が市民によって抜かれ、胃散薬にされていた。熊の胆よりも効くというので。

 東満州の上空を飛行機で飛ぶと、大森林のそこここに、小屋を伴う空き地を発見する。それが芥子畑だった。そこに通じる道路はない。小径すら存在しないようになっていた。

 明治43年頃、日野熊雄という歩兵大尉がいた。一種の工学的天才で、ブレゲーの発動機の図面を見ただけで、東京砲兵工廠の器具を駆使して「日野式発動機」をこしらえた。日野式拳銃という、ブローニングに対抗し得る拳銃も発明していた(p.155)。
 日野は、竹、綿布、自転車の車輪を組み合わせ、飛行機までつくった。

 張作霖の宴会には、塩漬け蛙のスープが出たものだ。
 関東長官は、児玉秀雄伯爵だった。みるからに明敏・聡明だった。源太郎の子である。
 源太郎大将の子は、上から、秀雄、友雄、国雄、常雄。

 児玉友雄は陸士14期。
 菅野軍務局長の時代、軍事課の先任中佐課員が友雄だった。陸軍省の高級副官の松本大佐も長州。おもうに、「長閥」というものがあった、最後の時代だった。

 寺内が朝鮮総督としてなしたことは、治山治水。樋口が大13に南鮮を訪れたときはハゲ山しかなかった。それが、15年後には、見受けられなくなっていた。
 ベオグラードとは「白い都」の意味。

 日本の騎兵旅団がいかに穀潰し集団であったか。満州に駐留しながら、現地の雑草で自給自足させることはできないというのだ。わざわざ、良質の牧草を干して圧搾したものを自動車によって補給させていた。それになお、内地から燕麦も追送させていた。
 こんな兵種は滅びて当然だった(p.181)。

 岩塩は、いちど水に溶かし、不純物を除去しないと、食塩にならない。
 ドイツ語では「錠」と「城」が同一名詞であるのが面白い。

 ポーランドで代理公使をしていた千葉書記官。千葉県の出身で、夫人は北里博士の令嬢であった。敗戦時、トルコかルーマニアの公使館に居て、夫妻ともに自決した。

 なぜロシア人は黒海という名をつけたか。カスピ海にくらべると魔の海のように思えたから。大海を知らなかったので、黒海ごときの広さに、怖じけづいたのである。

 ヨーグルトはロシア語。ポーランド語ではスメターナ。
 ベルリンのカフェでは誰も長居はできない。ウィーンでは、1杯で半日粘れる。

 ブレストリトウスク地方は何百kmにもわたる湿地帯。しかし冬には、地障としての機能がなくなる。
 広田弘毅は村夫子のようで、無口で、ちっとも外交官のようでなかった。
 ロシア人はウォトカを飲むときに舌に触れさせないようにする。咽喉へいきなり放り込むようにする。

 塩沢海軍中佐は、信州伊那郷の薬草酒(養命酒)の総本家の坊ちゃんだった。
 外国駐在武官は、帰朝すると、田舎聯隊附をやらされる。これは不文律だった。

 樋口が中尉ぐらいの時代、陸軍省は、青年将校の外国語学習にたいへんに力を入れていた。語学の成績のよいものは、それだけで、1年間、外国に留学させてもらえた。 ※樋口は大正2年に中尉になっている。
 英語だったらインドのシムラへ。
 ドイツ語だったら、青島殖民地へ。
 ロシア人はウラジオを日本人に見せたがらなかったので、ロシア・スクールの語学留学はペトログラードだった。

 青島の背面防禦は軽易なものだった。支那軍の攻撃しか想定していないようだった。

 日露戦争後、日本国内に南京虫が入り込んだので、各連隊には、寝台を直接熱湯浴させる装置が備えられた。樋口は歩1で候補生だったとき、この虫に首や手首を刺されるため、終夜安眠できないことが1ヶ月も続いた。
 おそろしいことに、1ヶ月で免疫となる。
 ワルソーの一流ホテルにも南京虫(クロープ)は大量にいた。

 宇垣はなぜ「新聞班」を創設したか。それは、首相になりたいからだった。加藤友三郎は海軍軍縮でマスコミから褒められたおかげで首相になったと宇垣は信じていた。じぶんも陸軍軍縮をして首相になれると考えた。そのためには対新聞工作をして陸軍のことを良く書かせたかったのだ。当時、朝日新聞の陸軍に対する風当たりが特に悪かった。その対策をしたかった。

 相沢中佐は、感激居士だった。虚偽を持ち得ない、子どものごとき純粋さが、彼の危険性だった。

 北一輝からの影響力を、相沢の上司の樋口は禦ぎ得ないと思った。それで相沢を台湾へ転任させるよう中央部に進言した。
 「皇道派」の名付け親は北一輝だと樋口は信じている(p.297)。

 ボラを釣るときは、すこしでも岸から遠くに糸を垂らすのがよい。そのためには、竹竿に投資する必要がある。

 満州事変当時、徳富蘇峰、平泉澄、今泉定助の3人が、思潮のリーダー格であった。この3人にくらべたら、大川周明や安岡正篤は、微々たる影響力しかなかった。
 蘇峰は歴史家なのだが、歴史の因果律を把握してない。英雄と時世は相関するということがわかってない。

 支那上空を飛行機で飛ぶと、部落ごとに城壁があるところとないところがある。山東地方はぜんぶ煉瓦要塞村だが、揚子江方面にはそういうところがない。
 山東が匪賊の巣窟であった。北京や済南という富の中心があったから。

 満州の匪賊は、鉄道沿線でのみ、営業し得た。沿線を離れればもはや寒村のみであり、収奪対象とし得なかったから。

 満州が独立すると、不逞鮮人が日本人として横行した。これが満人に怨まれた(p.318)。

 コサックがシベリアに村をつくるときは、北風を避けられる立地がまず探される。優良耕地から村がいくら離れていても気にしない。耕作シーズンには、一家で畑にキャンプするので。

 ドネープル河でダム発電してソ連は何をしようとしたか。集団農場に、電気モーターの力で農業用水を送水しようと考えたのだ。これが、農業の電化ということの意味だった。

 『スピオン』というカラー映画をベルリンで見た。スパイの意味である。鳳鳴義塾でスナイドル銃の操法を教わった堀内氏(のち駐米大使、外務次官)にそっくりの日本人外交官が、ロシアのハニトラにやられて外交文書を奪われるという筋立てだったので、ウンザリした。

 樋口が警備参謀時代、近衛文麿を何度か観察した。彼は自分の意見を開陳しない。人の言うことに真剣に耳を傾ける。これが彼の処世術だと察した。みずから挺身することは決してなかった。そんな紳士に難局が切り開けるわけがなかった。

 四王天は排ユダヤ主義者だった。四王天の師匠が、ロシア革命はユダヤの陰謀だと信ずる白系亡命露人だったのだ。排ユダヤは、とにかく感情的だった。

 ソ連が原爆技術などを盗む方法は、間接スパイ法による。秘密を詳しく知っている技師から直接に情報をとったりしない。その技士の友人にアプローチをして、友人経由で情報を聞き出すのである。

 満州には3万人の白系ロシア人がいた。
 白系ロシア人の家屋は、冬は床下に通風しないように土で閉ざしてしまう。

 ロータリークラブというのは、催事が商業系実業家のもちまわりなので、ロータリーという。欧州にはなく、米国の社交団体。

 盧溝橋時点で蒋介石は、ソ連が3ヵ月以内に参戦すると力説していた。
 南京が陥落すると中共は、それまでの説を変えて、ソ連の参戦を主張するものを漢奸と呼んで弾圧した。
 樋口の見方。盧溝橋事件は、ソ連のイントリーギュに基づく、支那側の挑発と見るのが自然だ。
 張鼓峰とノモンハンは、蒋介石がソ連に《あの約束はどうした》と迫ったので、実行されたのだろう。
 ノモンハンではソ連は1万台近くのトラックを動かして軍需品を輸送した。

 海軍の米内と山本は、三国同盟反対の強固な信念をもっていた。だが海軍は、上海と揚子江に未練を持ちすぎた。そこから撤兵したくなかった。陸軍内の自重論者は、駐兵を北支だけにとどめるという構想。しかし海軍が中支にこだわったので、まとまらなかった。

 ロシア人は、冬は、毎日必ず1時間は戸外を散歩する。そうしないと病気になると知っているので。

 WWII末期、樋口の考えでは、米軍は千島には来ないで、直接に北海道の本島に上陸するであろう。その場合、水際で「側防」火力を発揮できなくてはならない。だから、海岸のできるだけ汀線ギリギリに点々とトーチカを建設させた。水際撃滅主義だった。

 キスカ撤収のとき、海軍は、装備はぜんぶ置き去りにしてくれと要求。これは正しかった。兵器が陣地に残されていることによって、米軍は、こちらの撤収準備を悟ることがないからである。

 アッツの玉砕は、戦死と戦傷(捕虜)の比率が異常である。これは、部隊附の軍医大尉が戦病者を毒殺し、独歩可能患者とともに最後の突撃に参加したからだと信じられる。

▼ジェームズ・B・ウッド著、茂木弘道tr.『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』2009-12
 原題は「Japanese Military Strategy In The Pacific War」。なぜか訳者らは刊年を隠しているのだが、2007年である。

 WWII中の日本のGNPはイタリアやカナダ並。
 開戦初期、米国政府は、日本の降伏を1948までにと考えていた。
 1943-8のケベック会議で、ラバウルを迂回して日本本土へツーフィンガーで進攻すると決定。
 1943末時点で、日本の降伏は1945-10以前には期待できないと結論されていた。

 ドイツは3年半にわたり、昼夜、のべつ空襲にさらされていた。それに比して日本の都市への空爆は1945-3からの半年弱にすぎない。

 焦点はマリアナ諸島だった。ここの防備が手薄すぎた。

 「アジアの作戦基地を失ったことで、真珠湾やオーストラリアのフリマントルから出撃した米軍潜水艦は、作戦目標への行き来だけでも非常に多くの時間を哨戒任務に割かなければならなかった」(p.116)。

 対日戦を通じて米潜は25%損失。
 1945-2以降は米潜が魚雷で沈める対象が消えてしまった。だから、あとは航空機と機雷が仕事をした。

 大洋においては、護送船団は、バラバラの航海よりも、敵から発見されにくくなる。護衛艦なしだったとしても、それで被害が減る。
 WWIIの統計では、護送船団の規模が大きくなるほど、護衛の労力は節約された。

 日米戦の後半、太平洋には常時、200隻以上の潜水艦が遊弋。

 日本は42隻の伊号潜水艦で戦争を始めた。
 ドイツはUボートを1000隻以上投入したが、勝てなかった。
 1944-10にサンフランシスコとハワイの中間で日本の潜水艦が1隻の商船を沈め、パニックが起きた。

 太平洋の目的地に貨物を運ぶには大西洋の2.5倍、日数が必要だった。つまり太平洋で貨物船を1隻沈めることは、大西洋で2.5隻沈めたのと同じなのだ。
 北米大陸の西海岸には、避泊港が乏しいので、敵の潜水艦にはとても良い狩り場になったはず。

 ※その潜水艦への補給の手間は2.5倍じゃすまない。距離の二乗に比例して負担がかかる。

 戦時中、38隻の呂号潜水艦が建造された。
 日本の潜水艦が米潜を撃沈した例は1件だけ。
 米潜は、25隻の日本の潜水艦を撃沈した。

 1945-3月~8月までの沖縄周辺で、米海軍と海兵隊員は、日本機の攻撃により4900人戦死、4800人負傷。

 米国は1944に航空機96000機を製造した。これだけで、日本が戦争中に製造した航空機の総数より多かった。
 米海軍は開戦時にパイロット3500名を擁していただけでなく、予備要員を6000名、あてにすることができた。 日本海軍の開戦時のパイロットは1500人。

 沖縄の守備戦力と同じだけの兵員がラバウルで遊兵になっていた。カヴィエンにも同数の守備隊があった。

 訳者注。ノモンハンの実際のソ連側の損害は死者9703名、負傷15952名。日本側は戦死8741名、負傷8664名。
 極東ソ連軍は当時、40~50万人だった。

▼『叢書・日本の思想家 37 梁川星巌・藤森弘庵』H10-3
 士が不幸にして当代に志を得られないなら、文章を書いて不朽に伝うべきである。
 弘庵はひどい短視であった。

 古今の成敗得失を知らなくては学問を活用できない。だから歴史を読め。

 貧人はひがみ恥づるものゆえ、望みの人は御出であるべしと丁寧に云ふべし。※天保の飢饉のとき、粥を施す小屋の注意。

 嘉永6年の『海防備論』
 まず志を定め、国是を明らかにするのが最初。
 総督は水戸の斉昭にしろとほのめかす。

 迂儒はややもすれば和戎を議す………当時の大学頭の林家を誹謗した。

 和親条約はこっちから破ってはいけない。信用をなくし、人心に引け目を生ずるから。
 弘庵は脚気で病死した。