旧資料備忘摘録 2020-8-5 Up

▼田中隆吉『太平洋戦争の敗因を衝く・改訂版』S59
 巻頭解説。もともとS21-1に本書はリリースされた。ついでS22-10に『日本軍閥暗闘史』、23-10に『裁かれる歴史――敗戦秘話』。

 田中の軍閥批判本が嚆矢となって、岩淵辰雄『敗るゝ日まで』(21年)、『軍閥の系譜』(23年)、山本勝之助『日本を亡ぼしたもの――軍部独裁化とその崩壊過程』(24年)、高宮太平『軍国太平記』(26年)などが続いた。
 丸山真男の雑誌寄稿文「超国家主義の論理と心理」は『世界』のS21-5月号に載った。

 田中の本書の「第三編・敗因」は、戦後の敗因研究者たちにテーマのすべてを与えたと言えるほどの快挙。

 田中は、清浦内閣時の陸相選任のときに軍閥が生まれたとし、S14-10に武藤章が陸軍省軍務局長に就任したことで完成。日米開戦は武藤の主張を受け入れた形で決定されたという。

 本書の刊行前に田中は、東京新聞の記者・江口航のすすめで、「敗北の序幕」という手記をS20-12-18に載せている。
 しかし本書はそれより早く、S20-9-24に脱稿していた。書き始めたのは9-4。

 以下、本文。
 阿南惟幾とは大14いらい、親しい。

 ドイツと日本の違い。ドイツ人は法律や命令とあれば従う。しかし頼まれたからといって応諾するとは限りない。日本人は、命令には反発するが、頼まれれば一肌脱ぐ。

 上等兵から上がった憲兵に思想のことは分からない。
 独ソ戦が始まると、参本の将校のほとんどが、3ヵ月でドイツはウラルまで席捲すると考え、士官学校の幹事は、士官候補生に対して、ソ連は亡びる。汝らの将来の敵はドイツである、と訓示した。

 モスクワ大使館附武官だった山岡道武大佐だけが、ソ連は決して容易に潰滅しないと打電してきた。

 松岡にいわせると、ドイツの対ソ宣戦は三国同盟違反だと。だとするなら、独ソ戦が始まった瞬間に三国同盟は破棄すべきであった。

 9月にドイツの攻勢が減速した。すると、バスに乗り遅れるなと言う者はなくなり、代わって、「スンダを制するものは世界を制する」という標語が流行した。

 辻正信中佐は9月中旬に近衛を罵倒した。対米妥協工作をするなど卑怯者だと。すでに参本は南方作戦準備を本格的に進めていたのだ。

 支那軍に対しては効果があった、歩兵砲的な砲兵運用。これが張鼓峰ではまったく通用しなかった。それを、山砲兵連隊長だった田中隆吉だけが、人に先んじて思い知った。

 米内内閣の蔵相・桜内幸雄は、田中の遠い縁者。同郷(島根県)。

 「東條氏の公私の生活に最も禍を為しその癌とも称すべきは夫人勝子氏であったと思う。勝子夫人は賢夫人の評はあったが、稀に見る出しゃ張りの女である。時としては人事に迄も嘴を入れる」(p.54)。
 要職に就かんとすれば先づ勝子夫人に取り入れ、とは当時の流行語であった。

 東條内閣は、外相の東郷をのぞくと、他は東條の小間使いみたいなキャラクターの大臣ばかりだった。

 西尾大将は東条と好くなかったので、太平洋戦争たけなわなるとき、予備役となった。

 S16-10に、上京中の石原莞爾と会った。石原は、南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油はおろかなこと、ゴムもコメも絶対に内地に持って来ることはできぬ、と断言。さらに、ドイツは地形が異なるバルカンでもロシアでも、西方電撃戦と全く同じ戦法で行こうとしているが、これではドイツは勝てない、とも言った(p.61)。

 田中の直感。東條は、組閣の瞬間に、是が非でも、英米両国に対して先端を開始することを決意したように信ぜらるる節がある。
 組閣直後の官邸の宴会で東條は言った。英米に対する開戦は子供さえ熱望している。福岡の二男から是非戦って呉れと手紙が来たと。

 開戦直後に武藤は我々局長に対して言った。「来栖大使が出発するときには既に戦争の決意と準備とはできておった。来栖大使の派遣は戦争の決意を秘匿するのに非常に役立った。来栖大使は誠に気の毒であった」(p.63)。

 12月7日は日曜だった。午後、陸軍省に戻ると、明くる8日、宣戦の大詔が布告せられることを知った。
 8日午前6時、陸軍省から電話があって、真珠湾の奇襲が成功したことを知った。
 正午、宣戦の大詔は渙発せられた。
 午後1時、陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。

 陸軍省内では、軍務局だけが、開戦スケジュールを知っていた。
 企画院の秋永少将すら、前日まではぜんぜん知らず、いよいよ開戦と聞いて呆然自失したという。

 9日午後に至って、真珠湾およびマレー沖の海戦の戦果があきらかになった。

 海戦前夜、東條首相は、在郷の陸軍大将全員を陸軍省に招いて、欧州情勢を説明した。宇垣以外、全員あつまった。
 東條は、陸軍航空部隊の第一線機は1500機で、月産数は500と打ち明けた。田中の記憶では、そのときすでに米国は月産4000機であった。

 ようするに陸軍の首脳部は、ドイツが必ず勝つことを前提としておったのである。S17秋にはソ連は屈服すると信じていた。
 だからこそ、国力が不足でも、開戦できるなら開戦する、などというレトリックが東條の口から出てくるのだ。

 マレーにおける、ゴムと錫、蘭印におけるキニーネの独占は、わが需要を充たし得るにとどまらず、進んで英米の死命を制するに足るなどという都合のよい理屈が宣伝された。すべて画ける餅にすぎなかった。

 支那事変当時ですでに日本国内の鉄道レールは酷使されすぎてガタガタであった。

 開戦の前月、勅任調査官の毛利英於兎が田中に語った。日本の鋼鉄の生産量は、楽観値でMax430万トン/年である。しかるに企画院の上層から、英米と開戦した場合に、陸海軍の軍需と民需の合計480万トンが必要であるから、480万トン生産できるということにして欲しいと要求された。しょうがないので、屑鉄と民間の鉄を大量に回収できることにして、つじつまを合わせた、と。

 開戦後半年。陸軍省兵器局長の菅中将が田中に耳語した。実際のことを言うと年間300万トンも困難だ。深刻に考えたら死か逃避の外はない、と。

 田中は兵務局長だが、ハルノートの内容を見せてもらったことがない。武藤は局長会報で、アメリカの最後通牒を受諾するなら日本はジリ貧になつて亡びる、と説明した。
 ※田中は、ハルノートの中で満州放棄も求められていたことは知らなかった。

 開戦前、陸軍も海軍も、いまだ爆撃によって敗れた国はない、と豪語した。東條の理屈はこうだった。ドイツの都市は立体的なので爆弾の被害が大きい。日本の都市は高層化しておらず、平面的なので被害は甚だしくならない、と。

 開戦時点で、1トン爆弾に耐えられるまともな防空壕は、宮城と市ヶ谷台(陸軍省)の2箇所にしかなかった。

 田中は再三、工場疎開や老幼疎開を提言したが、すべて東條により一蹴された。
 案の定、4月18日に帝都が初空襲を喰らった。計算してみると、爆弾1トンに対し、死者10名、重軽傷20名だった。それは、英国政府が発表していた損害比率の10倍なので、田中は愕然とした。

 その後、東條は、経費と資材を要しない施設なら建設してよいと態度を変えた。それで内務省が苦心して考案したのが「室内退避所」だったが、結果は、S20-3-9の本所深川に現出した《人間の蒸し焼き場》だった。

 英国は、1936から本格的防空壕の建設に着手し、10億ポンドをついやして、全国にその施設を完成した。だから対独戦の緒戦から、空襲によく耐えたのである。

 日本の弱点は、川崎と大森地区に工場が密集しすぎていることだった。

 田中は東條に、工費を節約できる横穴式防空壕を提案した。上野山、愛宕山、外堀の堤防にその適地があった。東條は、山や丘のないところと不公平になるから、政府が奨励・指導することはせぬ、と言った。

 9月22日に辞表を提出したときの理由説明。死中に活路を求めて始めたという対米戦は、果てしのない長期持久戦でしか目的は達成されまい。とすれば防空設備は最も大事だが、東條がその必要がないというのでは、自分が戦争指導を妨害することになってしまうので、職を辞する。

 開戦直後、星野書記官長は、これで東條はチャーチル、FDRと比肩し得る世界の英雄となった。やがてインド洋上において、ヒトラー、ムソリーニと三頭会談が行なわれるだろうと得意になって威張った。

 谷情報局総裁(元外交官)はS17-1初旬の地方長官会議後の総理官邸の宴会で「アメリカは近く崩壊するであろう」と隣席の田中に言った。田中は呆れて怒った。観念右翼や低級庶民のたわごとならとがめないが、プロ外交官が痴人の夢を語るとは……そんな軽薄者が情報局総裁では、国民はたまったものではないと。

 3月下旬に星野に勝算を問うと、星野は米国の地図を出して得意に説明した。米本土では鉄道が少なくて物資の輸送に困っているようだ。船舶は1000万トンあるかなしだ。膨大な物資があっても、輸送機関がなくてはそれを戦力化できない。そのうちソ連は倒れ、アメリカは手を引くと。
 ※生産されているモノが車両や軍用輸送艦や輸送用航空機であったら結果はどうなるのか、それを考えられないとは……。

 ※田中隆吉はじぶんでじぶんのことを「悲観論者」だと定義し、対米開戦前後の東條指導部の他の幹部連を「非常な楽観論者」と表現する。これは田中のキャラを理解するうえで無視できないところ。内蒙工作失敗や張鼓峰の苦戦で、早い段階で現実の厳しさを味わっていたことが、対米英戦争への醒めた目を田中に与えていた。大佐ぐらいのときに失敗しておくことが重要なのだ。

 鈴木貞一は、日本は西南南洋に無数の根拠地を有するが、アメリカ海軍にはそれがないから、日本は不敗だと豪語した。しかし日本の輸送力規模ではその広大無数の根拠地に補給を届けることが困難なのが現実だった。

 東條のブレントラストだった星野と鈴木の認識がこの程度なのだった。

 「海軍は知らず、開戦当時の陸軍の航空機の生産は月産五百機を上下しておった」(p.80)。※なんと海軍の軍需生産統計を、陸軍の中枢で、数字として把握できていなかったのである。戦争がもう始まっているのに。

 情報局は、アメリカの呼号する生産の数値は、天文学的であって、その実現は不可能なのだと宣伝しはじめた。これについて、外国事情を専門的に研究している参謀本部の第二部の岡本少将に尋ねた。
 岡本いわく。約3割の掛値があると思う。WWIのパターンから推測できることは、生産力上昇は戦争第二年度を絶頂とし、第三年度より漸次低下する。日本は第三年度〔S19のこと〕には3万機を生産できる。ドイツが敗れざるかぎり、第三年度以降は航空機戦力は伯仲するはずだと。これまた非常な楽観論だった。

 さらに、航空総監部の河辺中将に聞いてみた。河辺いわく。現有設備をもってしては、月産五百機が最高である。それ以上出せと言われても、不可能だ。それは馬を肺充血にして殺すようなものだ。それ以上の増産は、工場を拡張しなければ絶対にできない、と。

 東條内閣が航空機工場に本格的に設備投資させ始めたのは、第二年度、すなわちS18年度からだった。S17年度には、航空機工場の拡張はされなかった。怠慢・油断も甚だしかった。

 現物や現員の動員は、陸海軍には計画可能であった。問題は、生産力の動員だった。これは、国家総動員法(S15)を作っただけでは無意味。そこから計画を立てねばならないが、全国町村の末端まで関係する話なので、その計画だけでも2年くらいかかる大事業なのである。それを、日本は、やってなかった。

 S17年度の端境期には、コメは300万石、足らなくなった。政府は老若男女をとわず、一律に、配給標準量を2合2勺と定めた。吉田悳中将は子福者だったが、2月に家庭の惨状を切々と訴えてきた。しかし陸軍省の幹部連中は、外食券(配給切符)なしで、25銭払えば昼飯をたらふく食えるので、気にしなかった。

 そこで田中が、南方からのゴムや錫のとりよせを抑制させてそのぶん、コメを搬送させた。これを、重労働者と学童に対して増配し、さらに緊急用ストック=「警察米」にした。大森の一婦人は「シンガポールの陥落よりも嬉しかった」との礼状をよこした。

 ドーリトル空襲の直後の4-25に、陸相官邸で、対策協議が開かれた。電探には旧式と新式がある。陸軍がもっていたのは、2局の間を通過する航空機を把握できる旧式のみで、それは朝鮮海峡と東京湾口にあった。誰も、米軍式の新式電探について知らなかった。

 S17の翼賛選挙で、東條の足軽になるのをよしとしなかった候補のために、田中は、「此人は純粋の日本人なり」と田中の名刺に明記して捺印して渡してやった。おかげで鳩山一郎や北【口令】吉は憲兵から邪魔されずに当選を果たすことができたのである。
 選挙の指揮を執ったのは武藤。臨時軍事費をふんだんに翼賛候補に渡した。とうとうS18の春の議会で、言論、結社、出版の自由は法律によってなくされた。

 ミッドウェー敗戦に羞じた海軍は、それから1年ならずして、新聞雑誌に「無敵海軍」という形容詞を使うことを禁じた。

 S17-7月下旬、豪州から、特殊潜航艇の戦死者の遺骸が、軍刀とともに日本に送り届けられた。

 ガ島でどうして、所要に充たざる兵力を逐次戦場に集中させて次々に全滅させたのか。大兵力を輸送する船舶がなかったのである。米海兵隊の火力は、同一兵力において我軍の十倍だった。

 大東亜省というのは英国のインド省のマネで、要するに搾取機関である。こんなものを作ったらアジア人が日本をどう見るか、分かっていなかった。
 田中は東郷外相に、閣内不一致で東條内閣を総辞職に追い込めと説いた。しかし東郷はけっきょく丸め込まれてしまった。

 阿部信行大将の長男の最初の妻は、木戸内府の娘である。だから木戸が阿部を首相に推薦した。
 支那事変の解決を不可能にした汪精衛政権。その責任は米内首相にある。

 近衛は聡明といってもいわゆる物識りの程度を一歩も出ない。第一次近衛内閣のときも、またS15秋にも、陸軍から一喝されて、事変解決を諦めた。そして陸軍に操縦されて大政翼賛会=ナチス党を創設した。

 阿部大将、林大将、そして佐藤賢了大佐は、同郷だった。
 加藤泊次郎少将は、木戸内府と同郷だった。

 平沼騏一郎は、愛憎の念強くして人を容れず、立身出世主義の権化たる点において官僚の活ける模範。終身独身を装った。

 法務局は、軍機保護を名とし、しばしば軍人軍属にあらざるものを軍法会議の法廷に立たしめた。批判なきところ、必ず腐敗を伴う。

 クリスチー氏の『奉天三十年』。日清戦争の日本軍は良質だったが、続行した人夫が現地人を恐怖させ失望させ、それが最後には軽蔑に変わったと。

 田中いわく。海軍に島嶼の陸上守備をさせたのが大間違い。陸上守備は陸軍と決めていたら、陸海はどこまでも協力できた。
 ガ島、ブーゲンビル、ギルバート、サイパンの失陥は、ことごとく、さいしょの守備担当の海軍陸戦隊の戦力が不足していたから。

 二宮治重中将は、小磯の無二の親友。事実上の副総理として文相に就いた。
 梅津を推輓したのは先輩の二宮。しかしS20-2に二宮が急逝したとき梅津は花輪も贈らず焼香にも赴かなかった。

 軍政下では裁判は一審制になる。
 S20-2下旬に、全国の連隊区司令官が中将もしくは少将になった。それは県知事よりも地位が高い。軍政の準備だった。

 谷田勇の巻末証言。東京裁判のとき、誰がA級戦犯なのかにつき、日本人が告発/密告してきた書状の綴りを見る機会があった。そのような密告者の数が多かったこと、そして、その中に陸軍将校がまじっていたことに呆然とした。そかも、証人として法廷に立つ意志はないと添え書きしてあった。

 「内面指導」という言葉は満州事変いらい、さかんに使われた。私的に面談して説得すること。