▼『萬國舶旗圖譜』嘉永甲寅〔=6年〕秋 新雕、不老館蔵板
※わたしが函館市に2002-12に引っ越してきて市立図書館(移転前の旧館)で最初にヒットした激レア資料。当時はこれをいとも簡単に書庫から出してもらって閲読することが可能であった。いまはさすがにそれは無理だろう。
※幕末に早々と開港している関係から、外国船が掲げて来るさまざまな旗旒信号の意味がとれなくてはいけないというので、色刷りの図を添えて、その意味や国際慣行について解説してある。港湾関係者のための参考書であろう。
外国船舶が、港内近く乗り来て、その地勢に熟せず、郷導(アンナイ)を乞はんと欲する時は、舳檣の上に自国の旗を建つ。
船中災厄あり、扶助を乞はんとする時は、舳檣第2段の縄梯子に、旗をシホリテ建つ。
争乱の世には、旗を建てざる前に、大【石駁】を一発して、然る後に旗を建つ。是れ、敵国に非ざるを示す所の信なり。 ※信=信号か。
敵を欺かんと欲して大【石駁】を発し、偽旗を建つる等の事は、決してある事なし。是れ各国会盟して定めたるところの法なりと云。
北アメリカの測量旗は、白旗(方形)。または、白の、烏賊状の吹き流し。
プロイセンの測量旗は、方形、白地、黒縁である。
その黒縁の色を、藍色にすれば、すなわちフランスの測量旗。
ロシアの測量旗は、方形、白地、青縁に、青×字である。
イギリスの測量舩は、方形の二色旗を掲げる。上半分が白地、下半分が赤色である。
▼小泉策太郎『織田信長』M30-11 (M30-9の前編との合冊)
天正3年5月、「諸隊の銃手三千人」。「其の已[すで]に逼[せま]るに及び毎千迭ひに齊発せよと」……。
▼伊東浩三『四提督の最期』S18-12
※著者は黒潮会。つまり海軍省担当のブンヤ。
加来(戦死して少将)は「航空母艦○○艦長」、柳本柳作は「軍艦○○艦長」としている。
※MI海戦ではこっちの空母は1隻しか沈められなかったことになっているので、戦死した空母艦長としてはただ1人しか紹介できない。その他、空母1隻大破、巡洋艦1隻大破というのが公式報道。
柳本は「燃え狂ふ軍艦○○艦橋に、毅然として、ただ一人踏みとどまりつつ、他艦に移乗を命じた部下総員の退去を、最後の一人まで、じつと見届けたのち、帰するが如く乗艦と運命をともにした。○○艦長海軍少将柳本柳作提督の壮絶な最期もまた、……」(p.277)。
柳本の乗艦が沈められたのは、インド洋作戦の次の「某方面作戦」に力闘中のことであった。※それがミッドウェーであったとは言えないわけである。空母が2隻沈んだことになってしまうから。
※「この間 艦内は爆弾の誘爆が絶えず」とあれば、空母以外ではあり得ない。当時の読者も馬鹿ではないから、すぐに気づいただろう。
柳本は水雷科出身だが、駆逐隊では砲術長もしたし、『比叡』の副砲長もやった。酒、煙草を呑まない。
「海の乃木大将とまでいはれた高潔な人格者」(p.316)。
山口提督と、加来艦長は、S17-6の東太平洋で戦死した。
※柳本の戦死の新聞公表は、加来とは日を違えてあるらしい(p.314)。
▼和田東蔵ed.『戊辰庄内戦争録』巻之一~巻之三+附録、M29-9月~12月pub.
我、亦、柴垣に潜み三百ヤルトにて打ち居たるに……(p.42)。※当時はヤード法だった。
「七発の馬上銃」を授けられた(p.45)。※スペンサー銃とかその類の連発騎銃。
「弓隊」もいた。合図は太鼓。
※『武器が語る日本史』を書いて明瞭に理解したのだが、戦国時代の甲冑の効能とは、矢までならば、ちゃんと阻止ができることだった。鉄砲と弓が半々に存在するような戦場なら、甲冑の着用には疑いなく価値があったのである。しかし鉄砲が9割で弓が1割の戦場となっては、もはや甲冑の着用には不利の方が多かったわけだ。幕末にはみんな、そこは理解されていた。
敵は、色分けされた手旗を使って、分進してきた。
こちらの「農兵」は、大砲でも小銃でも、たのもしかった。「元気格別」。
暗闇で味方を襲撃してしまい、「小印」で誤りと分かって、「申し訳なし」とすぐに腹に刀を突き立てて、それが背中まで貫通した(p.52)。
本営には「半鐘」を準備していた(p.98)。
閏四月に、「口径三寸の木砲を新製」した(p.100)。
大砲のことを「ライフル」と書いている(p.158)。
日の丸の旗を「相旗」に出して振る(p.165)。
津軽勢300のうち100は鎗。残り200は「三帯銃」。※三ツバンドの小銃。
秋田藩は多くは和銃で、槍も混じっていた。
「榴散弾を天射す」(p.193)。 ※曳火射撃。
以下、中篇。
「七発」銃を持っているのは肥前勢(p.108)。
「焼玉」も撃っている(p.121)。
土工兵が山に登り、日ノ丸の隊旗を振って鬨を作った(p.156)。
今日の親〔藩〕、明日の敵たるはもとより戦国の常。
銃が熱し、筒内が渋滞して、玉込めがひっかかる(p.193)。これは水で洗わないと、どうしようもなかった。
「先手を捨殺しにはなるべからず」(p.213)。
敵の「着発弾の発せざる」を二丸掘り出して、持ち帰った(p.218)。
9月27日、午後5時過ぎ。白木綿の幅5尺ばかりなのに「降伏謝罪」と記した旗をなるだけ「出崎に立置くべし」と。
以下、下巻。
「七連発の奇銃」(p.19)。
敵の隊長とおぼしきが、紅白の手旗を振り、近々と進み来るを……。
農兵の他に「町兵」がいるらしい。
兵たちは、一合宛のコメに唐茄子などを交え、煮て喰った(p.165)。
村方から一人を撰び、白鉢巻に白い旗を持たせて、わが書翰を官軍へ届けさせた(pp.286-7)。
▼橋口義男『翼 随筆 航空技術』S18-10
桁材は、あまり短いものを継ぎ合わせると、組立てた製品の剛性が悪くなる。かといって長辺15mを超えれば、こんどは汽車で輸送することができなくなってしまう。
ジュラルミンよりステンレスの方が、海水には強い。
だから著者はS3に、中島の飛行艇(とうじは大型、今なら中型)の底板に不銹鋼鈑を使ったのである。
来栖と野村は、浅間丸またはコンテヴェルテ号で、在米日本人1500人とともに、ポルトガルのロレンソ・マルケスで交換された。
日本まで55日かかった。
センピルは元大佐で、S16現在は英貴族院議員である。
センピルが持ってきた「F5」飛行艇は、麻布張りだが、均一に「塗粧」しないと翼面が捩れてくる。
艇体はマホガニーのベニアをミシン糸で縫い合わせてあった。
ひどいシロモノだったがアメリカでもこれを手本に「PN・9」を造っている。
日本の16歳の幼年工は、科学素養がないので、単能作業しかさせられない。
日本では、事務員9人につき技師9人の割合。
ドイツでは事務員1人に対して技師9人。
これでは科学で追いつけない。
S15-10の所感。所謂「親方日の丸」式気分は民間ではありえないから、民間の方が経済的。
フランスが敗北したのは、航空機産業を官業にまとめてしまったためだ。
ドイツのK・D・F(歓喜力行団)=よろこびによって得る力 を標榜する。
イサベラ・ダンカンが、バーナード・ショーに秋波を送った。ショーの返信にいわく。貴女の頭と私の肉体の子供ができてはいけない、と。
※元ネタはジョークであったのだと知られる。
▼市島謙吉『大隈侯一言一行』早稲田大学出版部 大11
対独宣戦に軍部は反対した。戦後も、それを失政だと呼ぶ者がいた(pp.355-7)。
日露役後の演説。いずれの国も戦争の後で却って国が興るものである。
▼山田毅一『南進策と小笠原群島』大5 放天義塾出版部
現今、外地に在留する邦人30万人。北米6万、ハワイ8万、南洋1万、ブラジルとチリ他1万弱、中国には3万。
南洋邦人の多くは、低級な行商、露天、ポン引きの類。WWIでこれらはみな休業状態となり、失業した。
支那人の方がよほど、企業家らしさがある。
グァムではもともと鳥糞を米人が採集していた。
小笠原の港としては、沖、東、北 等があるが、二見港(父島)こそ「太平洋中の良港」。横須賀から20ノットで2昼夜の距離。軍港要塞化は可能である。
南洋では、セレベスが、航通上の中心点になろう。
今日、わが海軍の御用船が、占領諸島〔ミクロネシアのこと〕に往来する場合、かならず小笠原に寄港して、炭水の供給を受けている。
小笠原へは、毎年18回の定期航海があった(p.59)。
1673年の探検隊は、鶉5つがいを離した。
父島と内地、父島と母島の間には、海底電信の設備あり。
硫黄島にも森林があった。開拓により全滅しつつある(p.138)。
海底ケーブルはグアム経由で米本土までつながっている。
八丈島が振るわないのは良港が無いせいだが、60万円あれば完全な築港が可能。
▼ダン・カーズマン著、水野谷とおるtr.『ナチ原爆破壊工作』1998、原1997
1938-12、オットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラウスマンが、核分裂を解明。
1940春、英情報部は、ノルウェー南部で「酸化重水素」が増産されていることを知る。
1942末、グライダーで奇襲したが失敗。
1943-2、パラ降下+徒歩潜入に切り換えて成功。
U235 の濃縮には、電磁気法、遠心分離法、ガス拡散法があると考えられていた。
重水は、金、銀、硼素、有機物に接触すると使いモノにならなくなる(p.35)。
英軍は混入物としてヒマシ油を選択した。
独のボーテは、中性子減速材として黒鉛は重水に置換できないと結論。
シラードは然らず。これが開発の行方を分けた。
米は重水で何をしたのかは書いてない。しかし自動継続可能な原子炉であることは示唆されている。
▼ノーマン・マクレイ著、渡辺・芦田tr.『フォン・ノイマンの生涯』1998、原1992
ノイマンは、20世紀末までには核融合と気象コントロールが実現すると予想していた。
興味の無い人間の顔を覚えるのが苦手であった。
数学は一次言語ではなく、脳の中にこそ真の一次言語が隠れているだろうと思っていた。
ニュートンが微分を発見したから物理学は飛躍できた。
この《物理に於ける微分》に相当するものが、経済学や社会学にも必要なはず、と考えた。
量子の動きを方程式化できれば、化学も数学の領分となろう。
すでに1941~43において、通常爆弾解析の全米的な権威だった。
その武器は、非線形偏微分。
アルキメデスは投石器の巨岩に殺された。
ノイマンは、立ち会った原爆実験、46年の「クロスロード」で白血病に罹った。
20世紀初めのハンガリーには、世界に自慢できる教育システムがあった。
ノイマンは1930年代後半にホロコーストを見越し、友人に警告した。
WWII前にフランスを講演旅行したとき、そのひ弱さに気づいた。国外に出てから、フランスはドイツに負けるだろうと予言した。
ヨーロッパ人の癖として、官僚を尊重した。米気象局すらも。
1992時点にて、世界で年に30万人が自動車で死亡している。
ヒロシマとナガサキの実際の出力を割り出す「ヒッポ計算」で、ノイマンは、それぞれ、13キロトン=1万3000トン、と、21キロトンだった――とハジキ出した。
水爆出力を増やすには、単に重水を増やすだけでよい。
When in Rome, do as the Romans do. 郷に入りては郷に従え。
1952-11実験は、重水を液状のまま利用していた。それはクーラー建物を要するので、兵器にはならんのである。
1500発のV2で2500人の英人が死んでいる(p.352)。
※CS番組の紹介数値。V-2は1発1500万円だった。終速はマッハ3.5もあり、地面にめりこみすぎる欠点があった。ロンドンに向け、1100発射って、半数しか市街には落下しなかった。
ノイマンの死の床でのうわごとは、やはりハンガリー語であった(p.371)。
一都市が生んだ天才の数で、ブダに並ぶのは、ルネサンス・イタリアだけである。
天才は上流地区のペストからではなく、中の上のユダヤ人が住むブダ丘地区から出た。
シラードもテラーもブダ出身のユダヤ人。
6階以上のビルは許されなかった。
そして全人口の5%の金持ちだけが選挙権を持っていた。
超高度成長により、貧富差があっても認容された。それで住民の精神が堕落しなかったのは、ユダヤ移民を受け入れたおかげであった。これこそ、ブダペストとNYCの共通点だったのだ。
公務員が「元貴族」たちの指定席であったので、ユダヤ系は、医師、法曹、金融、芸術分野を目指した。
やはり天才には選り抜きの両親も必要だった。
当初は、NYCまでの船賃を負担できないユダヤ人は皆、ブダを目指した。
1880以降は、船賃が安くなったけれども、NYCよりもブダにおいて、リッチな暮らしが可能だった。
だから真の金持ちも、ブダでの王侯暮らしを志向した。
公定就学年齢は10歳。
金持ち家庭では、より早くから外語を習わされる。
墺洪帝国では、バンカーならば、猶太人でもフォンの名を許された。
ハンガリーの学校は、オーストリーへの対抗意識で、熱気があった。
ヴァイスは独語の白。
アインシュタインも応用工学大学の入試に一度落ちて、それで特待生となれば、卒後、特許局員になるしかなかった。
笑うことを教わらなかった子供が、ナチやスターリンの信者になるのだ。
ノイマンは自著の中で、もし「バロック化」の段階に達してしまったら、原点に戻れ、と言っている。
▼『北海道産業史』2002-11 北大pub.
1854から外国船のための石炭需要が生じた。北海道では白糠と茅沼で開発開始。
M7~8ごろ、官営炭坑は、三池以外は赤字だった。それで民間へ払い下げた。
大4時点で、国内出炭高の58%が九州、13%が北海道だった。
日本の石炭はコークスに向かない。それで重化学工業が伸びるにともない、石炭は輸入に切り替わった。
北海道からは横浜と釜石へ主に輸送されていた。横浜では九州炭との競合だった。
切羽が深くなると、坑夫が往復する時間が延び、実労時間が減り、ますます人件費が負担になる。そこで、閉山に至る。
戦後も、機械採炭の導入があまりにスローペースだったから、自滅した。
つまり掘り方に伝統的な無駄がかなりあって、それを自助改善し得なかった。
石炭産業は、役人や企業役員の利権と、人夫たちの救済装置に堕していたのだ。
▼ウィリアム・L・ニューマン著、本間長世tr.『アメリカと日本』1986、原1963
1819にモンローがフリゲートを支那周辺へ派して海賊対策とす。
ナポレオン戦争中に英に駆逐されたオランダ東インド会社は、米船をチャーターして長崎貿易を維持。
粗製の燃費が悪い初期のボイラーは大量の石炭を消費した。蒸気船には大容積の石炭庫が必要で、積荷のスペースが制約された。
米国は馬関戦争の賠償金を日本に返した。この資金で横浜港が改修された。
1909年、米議会はスパイを恐れ、日本人や外国人のアナポリス入学を禁じた。
ウェストポイントへの入学許可は、1872年に出たが、けっきょく実現しなかった。1905年に中国人に対しては許している。
ルジャンドルは、モルモン教徒の北海道屯田策を〔副島に?〕提案している。
ホーマー・リーは加州人。
1916にランシングは、比島を日本へ売却したがった。
1919に米海軍は14隻の最新最大の戦艦を太平洋へ集中配備。これにより、WWI中の日本の太平洋支配は逆転した。
バイウォーターはイギリス人である。
FDRはアリューシャンから対日爆撃が可能であると信じて居た(p.215)。
スチムソンは、シベリアから日本軍を追い出したのは米国による禁輸の脅しであったと信じて居た。しかし後になって、それは歴史上の事実とは異なると認めた(pp.275-6)。
▼宮嵜来城・田岡嶺雲『侠文章』大学館 M33
前半:義和団戦参加兵士の手記
支那の汽車や汽船では、客室が男女別である。
支那語の従軍通訳官は、それまでは非常に見下されて使われていて、下士官待遇であった。
露国は、蒙古や遼東付近から支那人を雇って戦地に派出している。とうぜんそのような傭兵に規律などない。狼藉にも無辜を殺し、人の財宝を掠むを以って務めとする。
某国兵は、ほとんどまじめに戦っていなかった(p.215)。※ドイツ兵もしくはフランス兵のことをそのまま書けない空気がこの頃すでにあった。伏字すらあり。ということはこの記者は陸軍のアゴアシ持ちで大陸に渡っていたのか。
天津攻撃では、英国兵だけが剛であった。
▼長谷川正『対立せる戦争論』教材社、S13
クラウゼヴィッツ、赤軍戦争理論と、ルデンドルフ派の対立があるとする。
▼月刊『海防』海防義会pub.
フランスの雑誌『Le Yacht』からの翻訳記事が多い。※長野県立図書館に収蔵されているのだが、落ち着いて閲読する機会が持てないのは残念である。
▼ジャン・カタラ著、工藤信tr.『戦争を製造する人々』三一書房、1952
戦後の仏共産主義者による、アンチ・ドゴール、アンチ・アングロサクソンの書。
▼WTNB生『交通教範研究』(上) 厚生堂 M42
ドイツ語原典を紹介しているように思われる。退却について詳しいところが、当時の日本人から見れば、異色だったろう。
未舗装道路には、砂利を撒くべきだが、満州ではそれは得られないから、川砂を撒くべし。厚さは20cmから30センチ。
ガケ面は、枝付きの木杭で維持せよ。
▼滝本誠一ed.『日本経済大典』vol.10
所収、有沢武貞「軍役古今通解」(pp.411~590)。
江戸時代の賀州の軍役を解説。
▼小林一美『義和団戦争と明治国家』1986
日本では、北清事変についての単行本がない。中国では、日露戦争についての単行本がない。
福島は、清国が財源を官吏軍人の減給にもとめるため、横領が当然化し、日清はともに手をとりあえない、と判断した。彼が『明治三十三年清国事変戦史』六巻の編者である。
汽車の中では英兵の規律も厳ではなかった。
露兵と仏兵は、将校までも略奪に励んでいた。インド兵は下士官・兵のみで、将校はおらず。日米両軍兵が最も優秀に見えた。
英国は、威海衛で清国人傭兵を集めて投入していた(p.355)。
▼クラウゼヴィッツ『ロシアにおける1812戦役と1813~15年の解放戦争』の前部訳「ナポレオンのモスクワ遠征」
敗亡したドイツの将校は、露か英に渡って再就職したが、ロシア皇帝幕僚になるには仏語の力が必要だった。多くのドイツ人は露語も仏語も苦手だった。
このときクラウゼヴィッツは中佐。独人プールは将軍。
露幕僚中はジョミニ思想にすでにかぶれている者あり。
じぶんがロシア語を全く話せぬことの告白(p.52)。
仏軍は、18万2000頭の馬匹をもって侵略し、うち16万7000頭を失った。火砲は1372門をもって侵略し、1200門以上を失った。
露兵は防禦よりも攻撃に適している(p.145)。
焼土戦法=アブレンヌングスジステム。
将軍を一兵卒にしてしまう「奪官」は、ロシア特有の伝統。
ロシア人は軍人に「阿諛的な態度」を要求する。それを持たないドイツ人は反発されていた。
モスクワ街道は、四列縦隊でも退却できた。
退却時には鞍を卸して馬を楽にする(p.202)。
ロシア国内での戦争は、水の補給が命脈。
同役より著者は、西欧はロシアを、ただ内部分裂によってのみ征服できる――との結論に達す(p.209)。
摩擦のために、戦争では、最も簡単なことが極めて困難になる。前線の危険や緊張。これは部屋の中ではぜんぜん判らない。
著者によれば、モスクワ大火はコザックの仕業。また、特に長年、ロシア国外にやられていたロストプシン伯の独断。
著者は民兵からフランス人と間違えられて抑留された(p.222)。
全体のために自身を犠牲にする……なんてことは実戦では起こらない(p.236)。
クラウゼヴィッツは士官学校で医学のコースもとった。仏軍後方にも勤務したから仏語は分かる。
▼シドリル・D・カリノフ『赤い十八人の元帥』S27
著者は脱走ソ連軍人の大佐。ジューコフ派。
1937~38の粛清は、陸軍、空軍、海軍、陸軍省政治部、赤い星編集部の順に進行した。
穴うめに、下級将校を2年で参謀に仕立てる講座をつくった。それがWWIIに間に合った。
スタは1942に、二度とルースキーを出さない、と言った。ニコライ2世を退位させた名物将軍のことである。
WWII前の軍情報は、内務省のベリアを経て上申される仕組みだった。
ゾルゲの功績は、スターリンにでなく、軍参議会にドイツ軍の戦況を知らせたこと(p.14)。
ドイツはソ連内務省の出先を手玉にとっていた。
軍情報は正しかったが、内務省が握りつぶした。
軍内部にはルーマニア油田を先制奪取せよとの意見あり。
独ソ開戦後は旱魃で、スモレンスクの前縁の湖沼は浅瀬になっていた。
反撃に失敗したブジョンヌイ元帥は、レニングラード防衛に成功していたヴォロシロフ元帥とともにウラルへ送られ、予備にされた。共に、粛清最後の生き残り。
WWII中モスクワは、七重のAA環で防空された。
モスクワ防衛以来、ポリトビュローは、いやいや乍ら、《英雄元帥》をつくりはじめた。
ソ連西部のトラックは40万台で、うち20万が英米からの援助(p.31)。
ドイツ新聞が敗北の心理的用意を見せたのは1944-2月。
チモシェンコは中共軍に、鉄道沿いにしか戦闘せぬという伝統を捨てさせた(p.80)。
ドイツ軍はモスクワ周辺の正確な地図を持っていなかった(pp.87-8)。
ユダヤ人元帥のチェルニヤコフスキーが、砲塔だけ出す戦車壕の発明者である(p.110)。
当時、戦車1台は、自走砲×8門分の鉄を用いた。製造労力も5倍必要だった(p.174)。
ロトミストロフは重過ぎる戦車に反対した。
▼エル・ヤ・マリノフスキー『関東軍壊滅す』S43、原1966
※マリノフスキーは1967に死去した。
1937から1939にかけて、米国の対支輸出は三分の一に。かたや、日支間の貿易額は6倍に。
1940-7に英は日本と協定を結び、対支物流主道たるビルマ鉄道と香港を3ヵ月間、閉鎖した。
1940-6にフランスとオランダが降服した1ヶ月後に日本は「共栄圏」と言い出した。
ハンソン・ボールドウィンは戦後は反ヤルタの論客。
戦時中の対ソ細菌戦準備への言及(p.54)。
WWII中、宗谷、朝鮮、千島の各海峡は、ソ連船に対し閉ざされた〔?〕(p.55)。
バルガ高原西部は自動車通行きわめて困難。
大興安嶺南部なら森林がないので自動車が通れる。
中央部は沼と木が多く、通過困難。
北部は高度が大で、表土は歩兵すら歩き難い腐蝕土。
イリフリアン山脈は全く通れない。小興安嶺は部隊機動に適す。
東北山系は人は通れるが車両の道はない。
7月末から9月初め以降の雨期には、舗装道路以外、機動不可能。
日本海西海岸は、夏の終わりに濃霧となる。
戦時中の満州には、日本の合成石油設備の55%があった。
関東軍の永久トーチカは、牡丹江、延吉、琿春にしかなかった。いずれも第二線か第三線。
1945春に、白露系の2個部隊、1500名を編成したが、7月に召集解除した(p.79)。
関東軍の装備は劣っていた(pp.79-80)。
支那人捕虜に対する細菌実験(pp.80-81)。
優勢ソ連軍であっても、長春~錦州以南へは入れないこととされた。
7月より、関東軍は、国境鉄道や道路を破壊し始めた。
米空軍が敷設した着津と羅津の機雷でソ連艦が損傷した。
極東機甲部隊主力は、T-26とBTだったのが、45年3月の決定で、極東方面軍とザバイカル方面軍の全戦車旅団の各頭号大隊をT-34化することにした。旧型戦車は旅団長の手元予備にさせた。1945-4~5月に、T-34×670台が、極東に送られようとした(p.93)。 ※送られたとは書いてない。
侵攻準備中に、貨車13万6000両が、東行。燃料は、コムソモリスクからアムール川によって輸送。ウラジオからは、食糧、燃料、兵器を河船で輸送。
ザバイカル=モンゴル方面では、酷暑のため、エンジンの冷却水がなくなって、オーバーヒート。
井戸水を枯らしてしまわないように、縦隊の間隔を4時間、あけさせた。
車両部隊の1昼夜行軍距離は、100km。
シベリア鉄道を利用した大部隊の1万km移動には、25日かかる。
ソ連の要請で、米国は、自動車を極東の諸港へ送った(p.98)。
BT-7、BT-5、T-26が投入された(p.108)。※つまりT-34は間に合ってない。
1日平均の進攻距離は90kmとされた。
右翼担当、第6親衛戦車軍は、1日平均100kmと計画。
いちばん濃密に集中した正面では、1km幅に、戦車・自走砲を40両、あつめた。
左翼には関東軍の陣地があるため、せいぜい1日に10km前進させる予定だった。
山獄、密林地帯の夜間侵攻は、無理であった。
第6親衛戦車軍は、空から燃料補給を受けた。
1日の水消費量は、戦車1台につき100リッター。兵1人につき5リッター。
ハバロフスクは、鉄道と河川の、最大の積み換え地である。
準備期間中、チョイバルサン駅からザバイカル方面軍へ、毎日トラックで3000トンを補給した。1945-6~7月、3方面軍に計51万3000トン補給。
トラックは10万台あった(p.154)。
ソ連では1941~42年にガソリンが不足した。
左翼では馬匹を多用した。そこは山地なので。
独ソ戦開始以後、1945-4月まで、艦隊用重油は、バクーから極東へ送られていた。1945-4以降、それを樺太石油にきりかえようとした。しかし樺太重油は、他の油を混ぜないと使えない品質だった(p.158)。
対独戦線から来た者は、日本軍を舐めていた。もとから極東にいた者は、日本軍を過大評価していた(p.163)。
8月9日の暮までに、右翼と中央の先遣部隊は最大150km前進した。主力はそれぞれ50kmであった。左翼は40kmが最大だった。
150km進んだのは、長春をめざした第6戦車軍である。
第6軍は8月10日に大興安嶺の峠に近づいた。先遣隊が峠を越えたのは8-11である。
ザバイカル方面軍も、開戦2日目以降は、40km/日にペースが落ちている。
8月9日から19日まで、1日あたりの侵攻距離が最長であった部隊は、第6軍で、82km。
最低は、第25軍の17km。
第9親衛機械化軍団は、戦車の三分の二がガス欠に。
空輸した油脂は940トンであった。
蒙古騎兵は1週間で600km機動できた。
スンガリ川は大船の溯行は困難である。
占守とカムチャツカ半島のあいだの第一千島海峡は、幅が12.4km、深度は25~40mだった(p.231)。※沈底機雷が有効だ。
関東軍の戦車600台が鹵獲された(p.289)。
WWII中、インド人は3500万人以上が死んだ(p.308)。
空軍全体で、燃料2777トン、弾薬550トンも輸送した。
第6軍に、8月9日から9月3日の間、送られた油脂は2100トン。そのうち940トンは空輸であった(p.328)。