旧資料備忘摘録 2020-8-19 Up

▼Lionel Giles 著『Sun Tzu Wu The Art of War』1957三版、初版1944
 グリフィス等の巻末ビブリオグラフィによれば、最初の単行本は1910年にロンドンで発行された。
 本書はペンシルヴェニアで印刷されている。
 本書には、T.R.フィリップスが注をつけている。

 兵:The art of war
 詭道:deception
 久:lengthy
 速:Rapidity
 斉:Chi’i state

 当時の弓は強さにより三種あり。各人150矢を持つ。ヤジリは青銅のものが2種。
 衛生兵の記述なし(p.17)。

 クビライカン(1216-96)まで、軍事水上交通は大して用いられていない。AD280と969にちょっとした内水利用が試みられただけ。

 ジャイルズは、M.A.にして、British Museum の「東洋書冊および草稿」の部のアシスタント。

 Moral Law は死をも恐れぬ忠誠を説いている。

 伐謀:to balk the enemy’s plans

 ※九地篇の解釈が、特になっていないという感じを受ける。
 ジャイルズの疑問。「第8章(九地篇)は9つのバリエーションに触れねばならないのに5つしか見えないし、この章は異常に短い」(p.90)。

 the coyness of a maiden ←→ a running hare

 To ensure that your whole host may withstand the brunt of the enemy’s attack and remain unshaken is effected by direct and indirect maneuvers.
 ※おそらくリデルハートはここに注目した。

 ……but indirect methods will be needed in order to insure victory.

In battle, there are not more than two methods of attack ―― the direct and indirect; ……

 62ページに、ハートの感動した水の譬え。

▼『軍事史学』第19巻1号(S58-6)
 M24初制定の野外要務令は、1887ドイツ野外要務令の訳に近い。同じく歩兵操典は、1888ドイツ歩兵操典の訳に近い。
 独人ブルメが書いた戦略書は、訳されたのも早かった。
 クラウゼヴィッツの思想は、メッケルやブルーメなどを通じて日本陸軍に流入した。

 クラウゼヴィッツ訳語の「殲滅」の後は、日露役中の勅語に使われて定着した。「撃破」は奉天会戦語の勅語に使われて定着した。

 クラウゼヴィッツの「殲滅」は、敵の損害が我が損害よりも相対的に大きいことをしか意味していなかった。
 海軍では overthrow, annihilate の訳を「撃滅」とした。

 対露戦争中、日本軍は、数による正面押しができないので、常に機動による包囲体勢による敵の心理に働きかけての敵後退を誘導しようとした。ところがWWIは、この迂回を不可能にした。そこで、ナポレオン戦争時代に戻って、突破の戦術に活路を探すしかなくなった。

 殲滅戦略の対抗概念として消耗戦略があると定義したのは石原莞爾。デルブリュックの影響だった。
 武藤論文中の「○○綱領」とは、統帥綱領のこと。

▼『軍事史学』第19巻 第2号(S58-9)
 田中新一はS13頃からルデンドルフに傾倒した。
 オイゲン・ピルヒア著『シュリーフェン将軍伝』S17邦訳。南北戦争では敵を要塞の中で餓死させることが戦争目標になっていたとし、欧州はこれを看過したと批評。

 武藤は、じぶんの論文の中で、クラウゼヴィッツに反発して、孫子の将帥独断専行論にクラウゼヴィッツを捻じ曲げられないかと努めた。明治憲法が統帥権独立を規定したとするなら、クラウゼヴィッツはそれに背反しているのだ。

 訳語の「戦争指導」は昭和10年代の熟語である。
 森・清水訳は「作戦」。馬込訳は「用兵」。篠田訳は「戦争指導」。

▼『軍事史学』第9巻 第2号
 外国兵語辞書のいちばん古いのは、M14の『五国対照兵語字書〔字彙?〕』。
 その時点での軍人の留学先としては、独>仏>蘇>支 の順であった。

 仏語 Tactique の村上英俊・訳は、「答屈智機」。音標はオランダ式であった。

▼『軍事史学』第9巻 第2号
 萩野三七彦によれば、合戦について調べるときの古文書として、軍勢催促状、着到状、軍忠状、頸[くび]注文、合戦手負注文、合戦太刀討注文、感状 があるという。

▼『軍事史学』第10巻 第3号
 WWIまでの軍艦は、自艦の位置、速度ともに、絶対値を計測算出するような手段を持たなかった。
 キスカの撤退成功は、電探航法の多用によるか?
 勝海舟の倅はアナポリスに留学した(p.108)。

▼兵法全集 全7巻 の月報 第4号
 公田連太郎。司馬法は七書の中では毛色が違う。あきらかに、儒者傾倒なのである。
 齊の大司馬・田穣苴[でんじょうしょ]が撰したというが、史記の列伝を見れば、齊の威王が、穣苴をして、古来の周の大司馬の兵法をまとめさせたと。
 これは破綻している。穣苴は齊の景公の時の人。齊の威王はそれより120年以上後の人。

 漢の司馬遷が史記を撰した時代には、『司馬法』はすでに手に入り易い書であったように読める。
 さりながら漢書の藝文志には載っていない。53家の兵家を網羅しているのに。
 そのかわり、《礼13家》のうちに、『軍礼司馬法』155篇が載っている。これであろう。

▼新釈漢文大系 の季報 N..30 (S47)
 天野鎮雄。呉子の「国図篇」は孫子計篇の君主有道政治論に該当。儒家的。
 呉子は武侯との問答と論説から成り、思想は断片的。
 韓非子の中にも呉起のキャラクターが描写されている。

▼保阪正康『陸軍良識派の研究』2005-3 光人社FN文庫
 ※単行本はH8。

 S12-10に石井秋穂は武藤が弱音を吐いたのを聞いた。いくらやってもだめだというのなら考え直さなくてはなるまいかのう、と。
 石井は、外務省の暗号が読まれているとピンときた。

 今村は、省部の要職には就いていない。
 ジャワで捕虜虐待がすくなかったことは、敵も認めた。

 大江志乃夫いわく、『統帥綱領』や『統帥参考』は参本の参謀しか閲覧ができない。最後に改訂されたのが昭和3年。そのライターの中に、荒木貞夫。

 終戦時の参本第一部長、宮崎周一。S20-2-6に、参本の部長たちを集めて、敵の本土上陸後2週間以内に20個師団を決戦場に集中したいから、そのためにさらに16個師団を新編する、と。

 昭和期に参本の第一部に籍をおいた参謀は1000人強だろう。
 参本内部でも、隣の机に座っていた者の軍務については、知ることなし。

 石原は陸軍省の軍政畑を体験していない。
 2.26のとき荒木に、お前みたいな馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだ、と怒鳴った。
 支那事変の前から石原は、持久戦争では戦争目的を確立し、攻勢終末点を決めておかなくてはいけないという見識。

 石原は、直接上奏のできる近衛に、蒋介石と会談させて、日支を同盟させ、日本が豪州を占領し、南方は支那軍と日本海軍が分け取りすればいいと構想した。そうなってしまえば米英は手が出せないと。しかし近衛が動かず、構想倒れ。

 石原がS17-8に高松宮に語ったこと。戦力は、根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するものだから、ガダルカナルで決戦しようとすれば必敗だと。

 東條さんは日本の英雄になった、と開戦時に発言したのは田中隆吉じしん。武藤ではなく(p.96)。

 2.26のとき拳銃で応戦したのは渡辺錠太郎だけ。まず私邸をまもっていた2人の憲兵が応戦。しかし寝室まで攻め込まれたので、布団の中からピストルを発射した。
 銃弾十数発、刀傷3箇所で、絶命。

 東久邇宮と下村定は陸幼から同期の陸士20期。この期の優秀者は、ドイツではなくフランスへ送られた。WWI直後なので。仏人は、米兵がいかに勇敢であったかを東久邇に語った。

 ウイロビーと下村は仏語で交話できた。下村はS34から参議院議員を一期。S43-3に交通事故死。

 伊江島に降服打ち合わせに飛んだ河辺虎四郎は米軍高級指揮官たちとドイツ語で話し合った。ミズーリ号には臨場せず。

 宮崎繁三郎の子、繁樹は、明大総長になった。
 宮崎は、ノモンハンの停戦協定の直後、石工に20個弱の石に日付と連隊名を彫らせて、砂利の中に埋めさせた。これが後日、ソ連との国境協議を有利にした。

 スリム中将によれば、インパールでは日本軍の戦死者に対する捕虜の比率は、100名対1名。

 山内正文は少佐時代に駐米補佐官。そのときカンサスの陸軍大学〔?〕に留学した。
 インパールで山内は抗命罪に問われた。

 駐英武官だった辰巳栄一はS17秋に交換船で帰国するまで、ロンドンの疎開を目撃した。戦後に本人が『偕行』に寄稿しているところでは、学童疎開を東條に進言し、拒絶されたという。

 辰巳と文部省の一官僚の尽力によって学童疎開が実行された。保阪『さまざまなる戦後』。

 ウイロビーの下には、服部卓四郎と、河辺機関の2系列あり。有末精三と杉田一次は河辺機関。

 長野県には陸軍療養所があり、結核の石井秋穂もいたことあり。

 駐日ドイツ武官のクレッチメル少将は、S17-8-17の米軍によるマキン島への急襲作戦は、日本軍の暗号文書をとるためだとすぐ理解した。

 堀栄三の把握。太平洋では、空域こそがいちばん大切なので、島(土地)や海域に執着するのは損なだけ。すなわち、攻める側が絶対に得をする戦場なのだ。日本軍は初盤で無血で多数の島嶼を占領した。それによって、その有利な立場を米軍に進呈したのである。マッカーサーの飛び石作戦も、土地には執着してないからできるのだ。

 比島の山下と武藤に、堀は、「米軍はとにかく山が嫌いです」と教えた。

 作戦計画によれば、一木支隊には、小銃(弾は各150発)、軽機、重機、擲弾筒(各20発)、手榴弾2個、破甲爆雷(各隊12)、破壊筒(各隊3)、火焔放射機(各隊2)を持たせるつもりだった。

 駆逐艦では兵員をいちどに150人しか運搬できなかった。だから第一梯団はその6隻分、916人しか上陸できなかった。

 川口支隊は、聯隊砲と速射砲をもっていたが、攻撃日の延期の命令が伝わらず、前日に、全弾射耗してしまった。

▼保阪正康『陸軍良識派の研究』2005 光人社FN文庫
 ※単行本はH9 

 牧野伸顕は吉田茂の岳父で、大久保利通は実父。
 外務省がハルノートの全文を公開したのは、対米開戦後。
 有田八郎はそれを分析して、ハル・ノートを拒む必要はなかったと結論した。『馬鹿八と人はいう』。

 高松宮の怒り。S11-1-8日記。△△王も△△宮も芸者遊びが過ぎると。
 S16に海軍は、砲戦応急訓練の一環として「涙剤」を使って傷者運搬をやっていたことが分かる。発令所で催涙ガスを使って。
 艦内の備品を壊したときは「毀損報告」が必要。

 瀬島龍蔵は少~中尉時代に匪賊討伐の体験があるが、本格戦場はついに体験しなかった。
 瀬島いわく。テクノクラートが上級者に対案を具申するときは、必ず二案か三案を出すべきである。
 前線を体験した参謀は、軍官僚にはなり切れなくなる。

 田中清玄が入江侍従長から聞いたという話。昭和天皇いわく、日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦後、戦争責任を回避している者を、許しがたいと。

 S19に大本営参謀から南方へ転出しろという命令が瀬島に内示されたのに、健康がすぐれないとして休養をとり、とうとう忌避した。

 日本とソ連の間で結ばれたのは、不可侵条約ではなく、中立条約である。松岡は不可侵条約を提案したのだが、モロトフが拒否したのだ。

 伊藤整一は、兵学校同期148人のうちの15番。海軍ではちょうどこのあたりに位置した者が、知・体・徳を兼備しているとして評価されるという(p.115)。

 城山三郎は三木武夫はニセモノだと見抜いていた。自由言論に関する哲学など無い政治屋だと。
 『大和』の主砲は、発射したあと、かならず仰角3度に復帰する。その角度でないと、装填ができなかった。


▼『艦長たちの太平洋戦争』1993-5 光人社NF文庫
 一斉射撃とは、主砲を1門づつ交互に打つこと。連装砲塔で。
 2門を同時に発砲するのは、斉射または斉発。

 扶桑や山城は、対米戦では使ってはならないフネだった。側面の装甲鈑は30センチもあったが、水平装甲は、2枚あわせて64ミリしかなかった。60kg爆弾以上には、まったく耐えられないのだ。

 スリガオ海峡で、敵巡洋艦の艦砲に弾火薬庫をやられた。それが扶桑。二つに折れた。

 兵学校出は、大尉までは横並びだが、少佐以降は遅速が3グループくらいに分かれる。
 戦前の水雷屋は、支那事変前、駆逐艦から潜水学校にやらされて、潜水艦に転向させられた。

 支那事変が始まると「従軍年」を稼ぐことができた。潜水艦で支那大陸沿岸まで行くだけで、恩給年に参入される年数が3倍になる。これを軍令部がうまく艦長たちに配分してくれる。

 大佐の2年目になると、もう潜水艦の艦長または司令ではいられない。潜水艦の司令官もしくは、他の軍艦(軽巡以上)の艦長になるしかない。

 ミッドウェー以後、海軍は、戦艦を空母と同等視するのをやめて、戦艦は空母の護衛役でしかないと認識。周防灘でそういう訓練をさせた。

 索敵機が敵空母を発見しても、こっちの空母との距離が240浬以内でないと、攻撃隊は出せない。戻って来られないから。
 MI戦訓で、格納庫内には飛行機も爆弾もなし。可燃物もすべて捨ててあった。南太平洋海戦。

 大きな船は、荒天でもMaxの30ノットが出せる。駆逐艦になると、最大35ノットといっても、波があるだけで、30ノットしか出せなくなる。

 米戦艦の16インチ砲は、30秒で再装填できた。大和は40秒。したがって、大和が2分で3発しか打てないとき、敵は3発打ってくる。10分間なら、15対20となる。

 レイテで瑞鶴を護衛していた伊勢の艦長は中瀬沂。爆弾も魚雷もすべて回避した。その回避方法は、「私」が攝津の艦長だったときに研究してパンフレットにしていた。それを中瀬は読んでいた。利根の黛も、勉強していた。

 伊19は、ハワイ作戦のあとロサンゼルス港まで足を伸ばしたが、敵を得ず、また戻っている。
 ※機雷を撒いていればどれだけ違ったか。

 対空戦闘中は誰も耳が聞こえないからハンドサインの視覚通信の訓練を徹底して反復しておく。
 艦の速度は少しずつ上げて行く。これで敵機は照準できなくなる。艦首は、最初は敵から逃げる方向にしておくが、上に来る頃には、逆に敵の内角へ食い込んでいくようにする。

 水雷長(中尉)、掌航海長(少尉)、工作長(少尉)

 当時の商船は高速でも20ノット。対して空母は最低24ノット必要。
 商船改造空母の隼鷹は、16ノットが経済速力。商船は経済速力が大なので、これは対潜警戒上はとてもよい。
 それに対してふつうの軍艦は12ノット。

 隼鷹は側面装甲がないから至近弾の破片が斜め下から甲板を貫き、表面がささくれだってしまう。
 「罐消火!」が操艦号令の最後。
 敵艦や敵機の姿を見るとみんなが動転してしまい、タマが当たらない。これは日清戦争のときからある現象で、いっぺん艦長が怒鳴って叱り付けると、それから当たるようになる。

 3000mまでこっちの機銃弾があたるから、敵機は3000m以下までは降下したがらない。
 生存者を海面からひきあげるとき、口だけでロープをくわえて上がって来た者がいた。そのあと人事不省に。

 リンガ泊地は、水深が30mしかないので、潜水艦にやられる心配がなくて、安心だった。
 タウイタウイの新泊地の外は敵潜だらけで、空母は訓練できなくなった。これがマリアナの艦上機の不振の原因だろうと。

 レイテに突入したときは、陸地は射撃しないでくれ、と陸軍から頼まれていた。彼我錯綜しているので。

 敵雷撃機は、投下の直前に弾倉の扉を開けるので、発射される直前に舵をとることができた。
 日向は、レイテから生還したあと、兵員たちの士気がガックリと下がった。生死の境をさまようと、二度とゴメンだという気持ちになるのである。

 哨戒艇や駆潜艇のような小型艦は訓練もいきとどいてない。敵味方識別信号にちゃんと返事ができない。それで同士討ちをやってしまうことがある。

 哨戒長の水雷長。
 怪しい影を発見したら、ただちに舵をとって、その怪しい影が正横後になるようにしておく。さすれば、万一魚雷を放たれても、かならず回避することができる。

 東京空襲をさせないために漁船を配したのはひどかった。敵の駆逐艦1隻で全滅させられてしまう。哨戒艇をちゃんと造っていないのでは、バランスのとれたネイヴィーとは言えなかった。

 黛の提案。大和級や長門級、金剛級は、兵員室にスポンジゴムや桐材を充填すれば、不沈にできたのではないか。兵員は、平時は徴傭商船で起居させればいいじゃないかと。すなわち戦艦母艦。
 それで戦艦は少し低速になるが、もともと低速なんだからいまさらなんだと。

 キングストン弁は直径30センチくらい。両舷にあって、傾きを調節できる。しかし爆弾破孔はもっと大きい。だから復元できない。

 米海軍も独海軍も、潜水艦あがりが潜水艦隊司令長官だ。日本には潜水艦あがりの司令官はひとりもいなかった。そのくせ潜水艦の活躍が期待はずれだったという。

 わずか5分でも充電ができる。蓄電池がカラッポなら、大容量で入ってくる。100%充電に30分でいい。充電は、最後の10%にやたら時間がかかる。最初のうちはどんどん入る。

 深度30mでうねりを感じたら、海上は大嵐。どんなに荒れていても40m下は静かなものである。
 日本海軍にも、「船底起爆」の電池魚雷があった。それを潜水艦から打った。
 伊41は、水上全速力から潜望鏡がかくれるまで40秒。

 対潜哨戒機は、その海面に味方潜水艦がいないという情報のもとで行動している。だが人間はいざというときには迷いが生ずる。こっちが帽をふってやると、それが味方のフネかもしれんと思ってしまう。

 レーダーを備えた敵潜水艦にやられないように、伊41は、夜間は潜航し、昼間は水上を行く。

 夜間潜望鏡を陸に向け、懐中電灯を接眼鏡にあててモールス符号を送ると、陸で青ランプが上下に揺れる。
 そこで浮上すると、大発が寄ってくる。揚搭開始。

 機雷原の上を通過するには、2.5ノットで行けば、磁気機雷も音響機雷も騙せる。人が歩くよりも遅く。

 ムダな行為に華あり。ブインから引き揚げた長官、現地で、部下艦長から差し入れられたウイスキーの空き瓶だけを持って復員したという。それが床の間に飾ってあった。栄養失調で口がきけないが、床の間を指さす。奥さんが説明してくれた。

 海軍も、大発を使っていた。

 リーフというのは外側がすぐに深くなっている。敵機は、そのリーフに沿って機雷を撒くことはできない。リーフの外縁の50mくらいから機雷原ができる。すなわち、まさらにリーフのギリギリを行けば、機雷にかからない。

 駆逐艦には「機雷長」が乗っている。
 敵潜は、魚雷の発射位置から1000m前後のどこかにいる。

 あらかじめ作らせておくイカダ。角材を格子状に組んでおく。それを、艦の前部、中部、後部に置いておく。負傷者を載せ、元気な者はそれにつかまって立ち泳ぎで陸岸をめざす。

 海軍の不文律。司令は、いちばん若い艦長の艦に乗る。
 パナマ運河は、せいぜい3ヵ月くらいしか機能停止させられないだろうとこっちでは見積もっていた。
 潜水艦は、ハッチを開けて潜航すれば、自沈できる。

 爆雷は、100kgのものでも、半径100mしか毀害距離がない。
 たった1隻で船団護衛する駆逐艦は、船団の前ではなく、後ろにいるのが正しい。敵潜が正面から攻撃してきたら、前衛艦はUターンしなけれぱならない。それでは手間がかかりすぎる。
 敵潜が魚雷を発射すると、圧搾空気が出て、それに反応して夜光虫が光る。

 95式爆雷は、安全装置が三段階。爆雷戦! の号令で第一の安全装置を取る。投射用意 で二つ目をとる。投射はじめ で最後のをとる。 有事には2つめまでを事前に外しておくことがあるが、そうすると、沈没したときにそれが自爆しはじめる。泳いでいる者は、腸に穴があく「爆雷爆傷」を負い、半数は死ぬ。

 ムンダに駆逐艦で輸送作戦していた時『親潮』『陽炎』が機雷でやられた。これはコースがいつも同じなのでやられた。敵潜水艦が、クラ湾の道筋に機雷をまいた。

 商船を沈めるのに魚雷がもったいないときは、爆雷でも沈められる。距離100mから舷側に投射して。
 朝鮮海峡は満ち潮のときは西から東へ潮流。引き潮のときは、東から西へ潮流。

 とうじ、優速貨物船でも16ノット。船団を組めば13ノット。だから海防艦は17.5ノットで十分。
 駆潜艇のAAは13ミリの連装ではダメ。旋回が人力なので遅すぎる。単装機銃でないと、とりまわしがおいつかない。

 けっきょく訓練時間の差。商船学校の出身者の方が、操艦は上手かった。

 PBYはエンジンをとめて滑空で忍び寄って、月と反対側の暗い方から奇襲爆撃することがある。
 ※これは大嘘で、カタリナはエンジン音が下からはまったく聞こえないという不思議な性能があったのである。

▼ケビン・メア『決断できない日本』2011-8 文春新書
 非常時にこそ、人員にゆとりを与えねばならない。疲労した現場の要員はかならず大きいミスを起こすから。
 フクイチの炉の温度が異常に高いことは16日時点でワシントンには把握されていた。「RQ-4 グローバルホーク」のセンサーによる。

 2011の事故時点で東京在住の米国民(非軍人)は9万人いた(p.30)。
 Hope is not a plan.
 CBIIRF 化学生物事態対処部隊 は、ダーティボム攻撃をうけたときに負傷者を救助するのが本務で、そもそも原子炉対策チームではない。

 米政府が、無人ヘリを供給できるとオファーすると、日本政府からは、それが放射能で汚染された場合の補償はどうなるのかといった長い問い合わせが返信されてきた。

 1885のJAL機墜落事故のときも、横田基地には夜間捜索能力のあるヘリと捜索救助隊員が待機してオファーを伝えたのに、日本政府がそれを謝絶した。生存者の証言によれば、暗くなる前にはたくさんの人の声が聞こえていた。およそ20人くらいの生存者が、日本政府のために見殺しにされたのだ。

 米国の原発は、電源喪失、中央制御室の機能喪失といった非常事態を想定した訓練をおこなっている。しかるに東電幹部はそれらは想定外だとほざいた。

 国務省内ではレコーダーやPCの持ち込みは全面的に禁止されている。
 沖縄では亜熱帯性の果物があまり栽培されていない。かわりに、価格競争力のないサトウキビがやたらに作付けされている。理由は、サトウキビなら補助金が出るから。

 共同通信はアカだった。
 米外交官は、大学を卒業してただちに国務省に入省する者は稀で、何か他の仕事をしてから外交官試験にパスして国務省に入ってくる。試験合格者の平均年齢は30歳を少し越える。

 駐日大使は、政治任命の方がいい。というのは、大統領からの直接サポートが受けられたり、議会に太いパイプをもっている人材は、プロパーの普通の外交官にはいないから。
 しかしルース大使は無能だった。オバマの選挙資金を集めた論功行賞で大使にされたのだが。

 それに比べてシーファー大使はさすがであった。
 米国が北鮮のテロ支援国家指定を解除してしまったのは、北鮮担当のクリストファー・ヒル国務次官補が、日本に関心をもっていなかったため。基本、欧州派。

 2007-6に、与那国島への米艦(佐世保所属の掃海艦×2)が初めて実現した。すると日本の新聞記者が「中国を挑発する恐れはないですか」と聞いてきた。
 2009-4には、この2隻は石垣島に初寄港し、対支有事のさいの八重山諸島の港湾施設を実地に確認した。
 石垣島では警察まで反米だった(pp.174-7)。

 シニア・フォーリン・サービス・オフィサーは、外交官の中の将官なみのポスト(認証官)で、全外交官の2割ほどしか昇進できない。メアは2008秋に昇進した。

 普天間基地よりも人口密度が高い地域に所在し、二、三分おきに大型旅客機が発着するのが福岡空港。おなじような、兵庫の伊丹空港も。

 米政府は世界中でざっと100ヵ国と地位協定を結んでいる。ドイツで在独米兵が罪を犯せば地位協定によってアメリカ軍法が適用される。日本では、公務執行中でないならば、日本の法律が適用され、日本の裁判所が裁く。

 普天間に滑走路ができたとき、周囲は農地ばかりだった。その周辺に学校などさまざまな施設の建設を次々に許可したのは、当の宜野湾市。もちろん米本土の基準ではそんなところに学校などつくらせることはないだろう。しかしここは日本だからアメリカ人は口を出さなかった。

 日本政府の借地料の付いた土地は、売買の対象になっており、取引されている。
 米軍基地の底地に対して、日本政府から支払われている借地料は、918億円に上る(平成23年度)。
 沖縄では、他の地価が下がっても、この借地料は年々、値上がりし続けている。
 それが、3万9000人の地主に分配されている。単純計算すれば、ひとりあたり235万円だ。

 普天間飛行場の近くの小学校の移転にいちばん反対していたのは、宜野湾市の伊波前市長であった。小学校がなくなれば、基地に反対する材料が減るからである。

 普天間の嘉手納統合案は、嘉手納町の町長、沖縄市の市長、北谷町長が統合に猛反対しているから、無理。
 ※軍事的には何の問題もない。地元が抵抗するので、無理。

 デザートストームのとき、日本政府のカネで米軍が三菱パジェロを3000台ほど買った。それに加えてトヨタのランドクルーザーも前線へ送られた(p.197)。