旧資料備忘摘録 2020-9-1 Up

▼中沢宇三郎ed.『航空忠魂碑』日本軽飛行機倶楽部 S16-4
 陸海軍の戦死した航空兵を全員、リストアップ。遺族の全住所までも。

 張り線がMG弾で切られるときは「バチン」と大音がする。
 陸軍最初の戦死航空兵は大正2年で、中尉が2名、墜死。
 大3は1人。モ式1911型。着陸前にストール。

 大4、ナシ。
 大5、1人。モ式4型が空中分解。
 大6、2人。カーチス駆逐機の機体故障。モ式4型の烈風空中分解。

 大7、4人。うち一人は、イタリアに留学中。※WWIの休戦年。
 大8、5人。
 大9、4人。うち2人は気化器の不備から空中火災。1人は200mから琵琶湖に墜落。

 大10、4人。
 大11、11人。写真偵察中に、エアポケットで機外へ投げ出された少佐も。
 大12、5人。明野海岸で、繋留バルーンを射撃中、破壊した気球の索に絡まり、墜落。1人は、日本初の空中衝突事故。大12-2-10、於・所沢上空。品部左右一郎、陸軍歩兵特務曹長。僚機のパイロットは、死なずに済んだ。

 大13、8人。錐揉み練習中にバーティゴー → 死。電柱に衝突した者も。
 大14、6人。
 大15、9人。
 S2、8人。
 S3、10人。濃霧で山腹に激突。
 S4、17人。八七重爆が墜落。中将と少将も1人ずつ含まれている。

 S5、11人。八七重の後部ペラに触れ、死。
 S6、16人。ポテで「行方不明」。
 S7、44人。ポテで対地攻撃中、AAにやられる。※第一次上海事変。 旅客機フォッカーM3がAAに墜とされ、不時着したところを囲まれて8人全滅。演習で、探照灯に照らされて墜落。

 S8、29人。
 S9、新京に降りたところ、吊下爆弾が爆発して2人同時に死亡。
 S10、?。

 S11、所沢の教官の大尉、後ろから滑走してきた学生機のペラで死亡。 所沢~各務ヶ原の夜間往復中、針路を失い、静岡の林に不時着。 普通に飛んでいたとき、高圧電線に触れた最初の事故は、S11-8-21で川崎市内。

 以下、海軍の事故。
 大4に海軍パイロットの最初の殉職。いきなり4名。
 大15、鳳翔に13式攻撃機が着艦失敗。1人死亡。
 S4-4-20、演習で13式艦攻が飛んだが荒天で母艦に戻れず、不時着して3人以上死亡。

 S8-6-10、八九式艦攻が加賀の艦橋に触れて墜落。1名死。
 S9-1-22、赤城の戦闘機パイロットの少佐が着艦に失敗し、水死。S9-7-4、三式艦戦が鳳翔の艦側に衝突し、でんぐり返しとなり、死。この時点でも13式艦攻を使っていて、エンジン事故が多い。空中衝突も。

 S10-2-6、横須賀で八九式艦攻が行方不明。3人殉職。 S10-7-13、夜間対抗演習で赤木の八九式艦攻が戻れず、中佐1人死。
 S11からは、艦攻の機種名を記していない。※秘密保持がうるさくなった?

 S12-11-9、三座艦攻が帰艦時に空母に激突。2人は助かったが1人は放り出された。
 S13-8-16、中攻隊が午前11時に衡陽に達し、飛行場を爆撃していたところへ20機の敵戦闘機が。デボアチンに燃料系を銃撃されてもガソリンが漏れるだけで火災になるとは決まっていない。エンジンに当たると火災になる。

 民間飛行家が、大正1年に米国で1人、死んでいる。国内で民間パイロットが初めて事故死したのは大2だった。

▼『陸軍喇叭譜』S6-2
 号音には、以下の種類がある。
 起床、点呼、食事、会報、消燈、火災、非常、飛行機警報、着ヲ著ケ、休メ、解レ、故〔?〕ヘ、前へ、止レ、駈歩、撃方待テ、集レ、突撃(襲撃)。

▼岡田三郎『白瀬中尉』S18-7
 11歳の矗[のぶ]少年、狼に仔犬を3匹喰われた。その報復のため鎌を研ぎ、1里ほど山中へ。

 あまりに水泳が得意なので、陸軍教導団で水泳助教を命ぜらる。M13。
 M25-10-1、予備役に。これは『兵事新報』第23号に投書したのが祟った。お情けで少尉。
 兒玉に知られる。

 M17に、占守島の100人足らずの露化されたアイヌを、色丹島に『函館丸』で移住させた。
 33歳で、スペンサー銃と、父の僧にもらった日本刀を肩からかけたいでたちで、予備海軍大尉の郡司(幸田露伴の実兄。天才5人兄妹の長兄)とともに、千島へ。

▼海軍航空技術廠材料部の会pub.『海軍航空技術廠材料部 終戦50周年記念誌』H8-7
 S12~13年ころ、ニッケル節約代用鋼として、クロムマンガンモリブデン鋼などを規格決定。
 ただし特に強度を要する鋼種には2%までのNi添加を許す。
 ところが、モリブデンもすぐになくなり、タングステンへの代用が図られると、こんどは中国からタングステンが来なくなった。量的にはモリブデンの2倍を要するので絶望。
 やむをえずシリコンマンガンクロム鋼にする。これで終戦へ。

 20ミリ機銃の弾体は自動機械で加工して量産をはかることになり、快削鋼でなくばならずと、硫黄を0.1%含む鋼として、しかも20%の冷間引き抜き加工をしている。

 ブローチはタングステンやコバルト含む高速度鋼。プロペラのスプラインの径の大型化にあわせてつくった。

 飛行機用防弾鋼は、対米開戦後に研究。ニッケルクロモリが足らなくなり、いろいろ工夫した。
 S10から研究した超々ジュラルミンがちょうど零戦に間に合った。
 素材でも一瞬、米国に先行できた次第。

 合成ゴム(ブナN)は、S15に航本がドイツ駐在監督官経由で5トン買い、潜水艦で運んだのを試料として、国産化した。

 タンク用のスポンジゴムはまず一式陸攻、ついで零戦、二式大艇に採用された。開始はS18-3以降。
 戦後は材料の余りで、サンダルを作った。

 大西瀧治郎中将は松下幸之助をじかに口説いて、木製機「明星」(99艦爆)をつくらせた。日本初の全化工木製機として7機つくった。

 魚雷は末期には、銅合金でつくるべきところを、鋼材に代えたので、錆で困った。
 20ミリMGのAP弾は、高炭素高クロム鋼だが、この取得と工作が共に困難に。そこで、弾体を快削鋼(自動旋盤鋼)にし、頭部のみ部分焼入れした。APトレイサーに採用。

 ノモンハンのソ連機MGが使っていた撚り線バネの研究で、おくれをとった。海軍の20ミリMGの銃身リコイルばねは、最初の後座衝撃の強さのため、連射中にみるみるへたってくる。
 ピアノ線はS12から研究しS16に国産化というありさまだった。

 技術大尉の眞部二郎の遺書。大東亜戦争遂に此処に至る。我何をなせしや。一死以て闕下に詫び奉る。

▼網野善彦ed.『馬の文化叢書 第3巻』1995
 著者は山梨生まれの神大教授。
 鎌倉期の犬追物は、平安期には牛追物だった。
 古代の射芸の中心は歩射=かちゆみ。
 中世に、騎射となる。

 弓で相手の足を止め、馬で追いつき、組み付いてとどめを刺す。
 S28に、鎌倉材木座にて、1333合戦の遺骨発掘。馬の体高は109cm~140cmであった。
 今の馬は150~170センチで、150以下はポニーである。

 民俗学者の宮本常一は、絵巻物を見るに、東国武士ののりざまに比べ、都の貴族の乗馬姿がずっと様になっている、と。

 往々、馬を射られるのを嫌って、さっさと下馬していたらしい。
 遠矢を射るには、カブトは脱ぐ。
 近代の遠射のレコードは385mという。

 万葉の常套表現に「馬なめて」と出てくる。これは2頭をならべて、ということ。

 もともと日本に持ち込まれた弥生時代の馬が、アラブ系の血の入ったもので、それが縮んで木曽駒になっていた。蒙古馬とは別系統なのだ。
 安土時代にも鉄炮を「テツハウ」と表記することあり。

▼『馬の博物館 研究紀要 鎌倉の武士と馬』(財)馬事文化財団 1999-12
 以下、深田一元。
 蕪村「背の低き馬に乗る日の霞かな」
 今の競走馬、450~550kg。当時の馬、二百数十kg。

 ポニーに負荷をかけると、9km/時。洋種の小型馬は、22.5km/時。
 M26の日本騎兵の馬。体高143センチ、300mを18km/時で走った。
 当時のドイツの騎兵だと、体高160センチ以上。500mを28km/時で走れた。

 日露戦争の戦訓。馬体重の三分の一の負荷になれば、もう故障を生ずる。
 鎌倉武士は武装すれば100kgにもなっただろう。それで250kgの馬に乗られては、もはや、動くのがやっとである。

 幕末に騎兵集団を創ろうとしたが、馬だけの集団とは何か、理解できなかった。馬は身分を表すもので、従者が分離したら、何の働きもできない。

 高校弓道は28m先の的によく当たる。
 明治の騎兵いわく、馬上射撃は当たらない。よほど近くない限りだめ。

 騎兵が刀の刃を下にして吊るすのは、馬上で片手で抜くからである。
 刃を上にして差すのは、徒歩で両手で使うからである。
 鎌倉の刀は腰で折れていた。室町の刀は先で反る。

 以下、伊藤一美。
 手柄の褒美は、八幡太郎義家の時代から、土地かさもなくば馬。
 馬盗は斬首。
 干しワラビは馬糧だった。これを盗んだ室町のある者、一家皆殺し。

 馬から御家人を引き落とした者、相手にひきわたし、斬首。
 御家人も、60歳以上は、鎌倉で輿に乗ってよかった。

 以下、西本豊弘。
 縄文時代に馬なし。
 弥生の最も末にから、馬の骨が出る。岡山市で一例。
 4世紀の古墳時代から、でかい馬の骨が急に出るようになる。たとえば甲府。

 「甲斐の黒駒」は雄略天皇時代から出る名詞。
 魏志倭人伝は「牛馬なし」とリポートしていたが、じつはいた。

 中世には、大きい馬と小さい馬が混じっていた。
 鎌倉時代には大きい馬もいた。
 日宋貿易では、犬や猫まで輸入している。もちろん馬も輸入した。
 鎌倉以前も以後も、馬の輸入は一貫して続いている。しかし、急に馬が大きくなったと認められるのは、鎌倉時代。

 江戸時代でも百姓馬は120センチ。大名馬は139センチくらいのことも。
 金属加工人は、馬の骨も加工した。
 だから骨の出土は少ない。
 サイコロの普及品も、馬のホネ製である。
 江戸時代にも馬を食べていた。
 武蔵の鎌倉馬は、江戸馬の平均より、あきらかに大型。

 鎌倉では、鏃が束になって出土したことも、太刀が出土したこともない。なぜなら、合戦場にはすぐに拾い屋があつまって、戦場を掃除してしまったからだ。

 牛馬脳による「なめし」技術は、古代からあり。
 大腿骨は、曲がっているので、使われずに捨てる。脛骨は、まっすぐなので、よい。

 脚の九本ある奇形馬が生まれたので、外ヶ浜に追い払えという命令が出ている。
 五行説で、猿は水の性、馬は火の性。よって猿を飼って防火を祈った。

 側対歩は、在来馬におこりやすく、上下動が減るので、騎射に向く。
 絵馬は、生き馬の代わりだった。

 以下、野口実。
 大鎧は中央でできた。騎射も近衛のほうが上手かった。それを武士が真似した。
 蝦夷でしか捕れないアザラシの皮。これも武具には欠かせなかった。
 馬をたくさんもっていれば、それを与えることでかんたんに手下を増やせた。小党の忠誠は、馬で買えたのである。

 以下、川合康。
 長篠の嘘は大田牛一の「信長公記」にはなく、小瀬甫庵の「甫庵信長記」に出る。
 斉藤実盛は実際は富士川と関係ないらしい。
 矢は十数mで射るのが最もよい。

 百姓兵は馬術ではかなわないから、それの巧みな敵に会えば、すぐに引きずりおとさねばならぬ。馬で背後にまわりこまれて弓で射られるようになってはいけない。源平合戦以降は。

▼和田秀穂『海軍航空史話』S19-10
 高度2000mの低速機に対し、2万発の小銃弾を射っても1発の命中もなし。青島の話。
 1000mになると、小銃弾が、あたるようになる。
 240kg爆弾の投下安全距離は、高度950m以上。

 五十六が航本部長になってから、すごい予算をとってくれた。これこそ功績。
 大15-5初、佐世保→青島→呉淞→佐世保の親善飛行。F5飛行艇で。大西瀧治郎少佐。

 三菱神戸造船所の内燃機関製造関係社員がフランスでイスパノスイザ社に学ぶ。それで150馬力エンジンを造れるようになった。650馬力まではイスパノの真似である。
 13式攻撃機は、10年間も制式の座にあった。滞空5時間、180km/時。

 89式改 攻撃機は、鈍重な割りに高価だったことが不評の因。

 S4の艦隊の要求は、艦攻に1トンの兵装をもとめていた。エンジン劣る日本ではそれは双発にするしかなかった。空母の収容機数が減っても、運搬爆弾量が増えればよい。

 金星は初期には1回飛ばすと天麩羅状態=油まみれ。双発の93艦攻。
 S6に、設計は日本臣民に限り、外国人の助けを排除するという制令を設けた。
 技術本部長山本。96艦戦が手柄。

 S8に、沿岸偵察機、のちの中攻をつくれ、と三菱に一社指命。
 三菱はヒスパノ系水冷エンジンの技術でながいあいだ軍用発動機を独占。そこへ中島が、寿(ジュピター)とライト(光、栄)空冷でなぐりこみ。
 やむなく三菱は水冷を捨て、米穂ホワール・ウィンドと結んで、明星、瑞星、金星、火星をつくる。

 大西瀧治郎は英国に行ってヴィッカースと交渉した。
 航空魚雷は大3に、呉工廠で45センチ魚雷を150呎の起重機から落として実験開始。
 金子少佐が主唱者。佐藤鉄太郎少将(のち中将で死)も、敵の港湾にひそむ艦船を攻撃するには、どうしても飛行機でやらねばいかぬ。飛行機でやるには魚雷を研究せねばいかぬ、と。大4にファルマン100馬力にホワイトへットの14吋魚雷を積んで実験。3人乗り機に1人だけ乗せ、ガスも1時間分のみにしたが、フラフラで照準つけられず。

 霞ヶ浦のセンピルは、擬装18吋短魚雷で指導した。
 18吋長魚雷になったのは、10式艦攻でテストしてよかったので、それ以来。

 S5に呉で試製した爆発尖による実装魚雷3本を13式艦攻で『明石』に発射。2本がうまく命中。
 航行艦隊に対する演習頭部付魚雷の発射訓練は、S6以降。

▼阿部信夫『海軍読本』S12-11
 日本は日露戦争がおわったとき、いったん水雷艇を捨てた。
 なぜなら、対米海戦は外洋戦闘になるから。
 しかしロンドン条約で、駆逐艦まで制限されたので、やむなく、制限外の600トン以下で工夫せねばと、『千鳥』『真鶴』『友鶴』(S8-10竣工)『初雁』の4隻――26ノット、公称527トン、12センチ砲×3、発射管×2――をつくり、次に『鴻』(28ノット、発射管3)を8隻、S11から。

 ギュヌメール、フォンクいらい、フランス機にはモーターカノンの伝統があったのだが、さいきん、復活した。

 飛行機搭乗員は、その任務の重要なるところから、なるべく士官をもって充てるのが適当なのであるが、これは人事行政上、不都合の点が多いので、士官に近い教育を施したものを採用し、これを士官代用として勤務させる方針の下に、昭和5年以降、少年航空兵制度を樹立した(p.179)。

 予科練出身も、本人次第で、佐官まで進級できる(p.180)。

 ジュトランドでは、英の信管は瞬発しなかった。AP弾と機能する信管は独だけだった。
 日清戦争の魚雷は14インチ。射程=最大駛走距離は400m。
 日露戦争では、18吋、4000m。
 WWIでは、21インチ、1万5000m。
 いまでは2万m走る。
 英戦艦ネルソンは、24インチ魚雷をもっている。
 米は25インチをテスト中だという。しかも700ポンドの炸薬はTNTより威力のある新式のものという噂。※TORPEXが開発中であった。

 ドイツはWWI末に25インチ魚雷を使ったという。1500mを40ノットで走る。400kg炸薬。

 モントルー会議におけるローザンヌ条約のダーダネルス海峡通航に関する条約の改訂。平時は、どんな軍艦も出入りしてよし(これはもとから)。戦時は、黒海の沿岸国の軍艦しか通過できない。つまりソ連は地中海にいつでも出られることになった。

 1937-7-1現在、米戦艦は15隻。
 長門のライバルは、メリーランド、コロラド、ウエストバージニア(1921-11進水、21ノット)。40センチ砲×8門。

 米軍の航空機は陸海で分かれているが、1935-3から、機材を共通化し合理化すること、パイロット育成などで協力する組織をつくっている。民間のよいとこどりも、ここが決定できる。

▼佐藤光貞『海軍の科学』S16-5
 潜水艦の魚雷は「一発二萬圓もするものですから、……」(p.73)。
 イタリーでは「人間魚雷」が研究され完成されている……らしい(p.121)。

▼南波辰夫『飛行機の歴史』S18-3
 ロールスはランガドック卿の三男。ロイスは弟。どちらもケンブリッヂ出。自動車から始めた。
 ロールスは気球家。もっとも初期の英人パイロットでもある。
 34歳で墜死。英人初の航空犠牲者になった。

 ホーカーは名飛行家。
 ソッピーズ社のテスパイだった。みずからメーカーを起こし、空中で病死した。

 欧州にはアルプスがあり、天候が変わりやすい。だから安全第一の飛行機ができた。
 米国は都市が散在。地上交通との競争上、スピードが命。双発高速旅客機となり、それが大型爆撃機に直結した。

 P-38は1939-2-11に米大陸を7時間43分で横断した。