▼銅金義一(大佐)『銃器の科学』S19-12(3版3000部)、初版S18-7
※所蔵は北海道教育大学の函館図書館。
拳銃は、天正13年、伊国にて、青銅製のもの、大村、有馬、大友の使節に、マンドウア〔マントヴァ?〕城主より贈られる。
6連発ピストルは、嘉永6年のぺルリ来港で初めてもたらされた。
米のベネットメルシーLMG。※日本の96式や11年式に近いレイアウトだ。1909の発明という。
小銃の仕事を馬力で表せば、2900馬力。
馬力あたりの重量を算出すれば、0.0014kg/馬力 である。こんな効率の高いエンジンはない。
民国四年式 という よくわからぬLMG。バットストックは11年式。バイポッドはM60のようである。側方給弾らしい。
▼福村省三『弾道ノ数学』S19-5(三版)、初版はS6
著者は兵学校の教官。
数学の専門家は「理学博士」。
存速 remaining velocity
弾道上の任意の点におけるタマのスピードのこと。記号は v である。
計算によれば、両艦の距離が小のとき、追撃艦の方が、発射した砲弾の落速が大となって、有利。
距離大のときは、反対に、射撃しつつ退却する艦の方が、砲弾の落速が大となり、有利になる。
弾道学では、半数必中界は「楕円」である。
このテキストでは「半数必中楕円」と書いてある(p.335)。
1918にパリに189発落下したベルタ砲の弾着データから計算すると、半数必中楕円は、長径4540m、短径2600mだった。
▼雑誌『ニコニコ』
第一号 M44-2-11。
第13号 M45-2。記者が、汚穢屋になる。それも銀座で。舟で木挽橋から持ち去るのだが、陸上は大八車に桶を12個ばかり積んで行く。
第28号。
本間さまには及びもないが……は明治の前。もともと姫路の油屋手代で、大坂で巨富を成した者。
家憲は絶対秘密だが、こんな感じらしい。あらゆる業は一門内で分担する。投機しない。蓄妾しない。富豪と縁組しない。当主は相続前後に全国を見て回れ。
本間家は、写真も外部には出さない。
第32号。
海軍省は、建物は立派だが、入ろうとする者に対して威圧的である。陸軍省は、古い木造の粗末なものだが、受付は親切丁寧。大臣が、新聞記者にもすぐ会ってくれる。もちろん、局長や次官も。
第53号。
井上剣花坊「維新史の裏面(下)」。幕末のテロリストが家を焼くには「焼玉」あり。桐灰を細末に砕き、それに火薬を混ぜて紙に包み、口火をつけて用いる。
▼牧野輝智『現代発明家伝』M44-9
※『発明界之四十七士 発明及発明家』という出版物も、まったく同じ牧野の『発明』誌の連載をまとめてある。
村田経芳。天保3-6-10生まれ。戊辰では参謀心得。
専門知識の少ない下級技術者を相手に、みずから槌を執って、苦心惨憺。ついに十三年式銃を案出した。
M15に13年式を携え、遍く欧州諸国を巡視した。
日清戦争においてわが陸兵のほとんど全部に使用せられ、連戦連捷の栄誉を荷ふに至った軍銃は実にこの十三年式および十八年式村田銃である。尤も日清戦争以前において翁はさらに十連発の軍銃を完成し、二十三年式村田銃の名を以てその製作に着手していたけれども、日清戦争のときまでは支給が行きわたらず、二十三年式は僅に台湾占領の節、使用せられただけに過ぎなかった。故に日清戦争は十三年式銃および十八年式銃の活劇舞台とも言ふべきである(携行数十一万梃)。その後、三十三年、北清事変の頃には、二十三年式銃が各師団に行き渡り、その特長は広島兵および善通寺兵により充分発揮せられた。
もし翁が出ずして我が兵器を一新しなかったならば有坂銃の如き精鋭なる銃器が突然に起るはずはない。要するに翁は我が兵器界の鼻祖である。大恩人である。
村田刀を数本試作したところで、ある日、部下の愛剣家を招き、競剣会を催した。
別役少将、富岡少将ら十数名がやってきて、まず豚の首、次に銅の延べ金、最後に鉄線を切った。
村田刀は少し曲がったが鉄線を断ち切り、ひとり応じた富岡の兼元は延べ銅にきりつけボロボロに。
翁、齢ようやく加わり、特に昨今は著しく健康を害している。※この本はM44-9-7に納本されている。序文はM44-7、著者前文はM44-8。博文館の類似本はM42-5、雑誌『発明』はM39創刊。
村田は、肺炎で赤十字病院に入院中に「回転家」を案出した。冬と夏とで、向きを変えられる。
以下、下瀬火薬。下瀬は安政6-12-16生まれ。広島市鉄砲町に、長男として。
藩学問所で英語を学ぶが、蒲柳の質。そのご、広島にできた官立の英語学校に入り、M10に海軍兵学校(東京)をめざしたが、強度の近視などあって×。
M11、工部大学校に3番で入学。ここは私費ゆえ、たいへん苦労した。
M17-5に卒業。首席。同年、印刷局に。
M20-5に海軍省技手として転出。
M26に下瀬火薬をつくった。
M26-6に、海軍技師に昇進。同時に、海軍造兵廠の主幹。
M30暮に英米独へ出張。三年間。
帰朝すると、その年に工学博士。
と同時に海軍設立の下瀬火薬研究所長に。
当時、英国にはリダイト、米にはゼラチン、仏にはメリニットがあった。
※下瀬火薬の成分について一切の言及がない。秘密扱いと心得たようだ。
M40に勲三等旭日中綬章、年金360円を下賜される。
その後もしばらく、海軍技師として下瀬火薬製造所長を務めていたが、健康を害して休職。
白山御殿町に、静かに身心を養うている。
以下、欄木松次郎。わが国のゼンマイ製造業の始祖。
いまより十数年前まで、時計のぜんまいはすべて輸入だった。
今は東洋へ輸出している。
算法を独習。
22歳で深川のブリキ商に奉公。
独立し、婦人髪用「タボ止め」を作っていたときに、鋼鉄の焼き直しが分った。
M26にゼンマイ製造に乗り出す。小石川区西丸町。
はじめはゼンマイ廃物の「鶴掛け鋸」を売ってしのぐ。
ついに服部金太郎への納入に成功。
ランギは、「筆ペン」も発明した。
富を欲するも富の奴隷となることなし。
▼小泉親治(海軍少佐)『軍刀』水交社 S13pub.
韓鍛冶とは刀身ではなく、太刀、刀の拵えを細工せしむるために呼んだ技術者で、それは「黄金鍛治」とか「白金(silver)鍛治」という名を見れば明らか。
つまり「環頭太刀」をつくらせた。
日本のは「円頭大刀」。
鐵の古字は銕である。シナ人は鉄を輸入した。
始皇の「金人」は銅のこと。
平安~吉野時代は馬上戦。ゆえに太刀は2尺4寸~2尺8寸もあった。
室町末期から徒歩戦になり、そんなに長いと地面に切り込むから、すりあげなかご としてしまった。
2尺以上は刀、または太刀という。
1~2尺を 脇差 という。
1尺以下を、短刀という。
包丁鉄とは、玉鋼の製造でできたズク銑を原料として、これに鉧[けら]を交ぜて、脱炭したもの。ほとんど純鉄。
S8に、(財)日本刀鍛錬会が、出雲に玉鋼の自給工場をつくった。よってS13時点で古ながらの刀の原料はここからしか供給されていない。
村正と正宗は時代が違うから、講釈で師弟関係とするのは大ウソ。
上代古墳からは、二、三種の砥石が出ているが、江戸時代には九種を使い分けるようになった。
細名倉 と 内曇 が著名。
今では、ササ口砥→大村砥→伊予砥→改正砥→名倉砥内曇→鳴瀧→さらに細かいことをいろいろと。
明治海軍も、サーベルか日本刀かで迷った。
迷った試作の拵えが、遊就館に各種ある。
戎装するも、武士気概を失はざれば可なり。
M33の北清事変に陸戦隊員として参戦した将校中には、洋剣式拵えの不可を極言する人もあった。
が、日露戦争と大3~大9役に、海軍の白兵戦はなく、沙汰は止んでいた。
S9-2に陸軍の刀、改正。
同時に、天皇御服制が改まり、陸軍式御服装中、通常礼装の御佩刀は陸軍式の太刀と改まり、海軍式御礼装中の長劒は廃せられ、大元帥佩刀と改まった(皇室令第三号)。
つまり、天皇刀は大元帥刀と陸軍式刀のふたつだけとなって、様式剣はなくなった。
これをうけて陸戦隊も、海軍砲術学校などが中心となって働き、陸戦隊規程で、長剣の柄 および鐔を古式に改めた。
S10初夏に、海軍砲術学校では、海軍刀の長剣廃止のことがまとまり、予備役の筆者が、校長の工藤久八中佐から委嘱された。
筆者は 太刀の黄金時代たる 鎌倉中~室町前 の様式を採り、黒漆の柄巻き太刀として製図した。
それで、鐔の外の金物は山銅を金色に、またどこにか軍艦旗を象り、手貫緒をつけよといわれたので、大切羽に旭光を顕した。
その案で一口を試作せしめ、S10-11に砲術学校に引き渡す。→海相に進達。
S12-7の支那事変勃発により、省議で原案通りまとまり、S12-10に勅令制定。
洋剣の柄は中央がふくらんでいる。
日本刀は なかほどが やや窄まっている。
護拳という鉉[つる]も邪魔で、切り合うときは折れ易く、是れあるが由に手を傷つけたという話は各戦役事変毎に聞き及ぶ。
また、片手だと先端が左右に流れ易く、充分に切り込むことができぬ。
つまり突くに徹した構造なのに、日本人はどうしても斬りたがるわけである。
海軍の長剣は鞘が木だが、陸軍のは鉄鞘で、内に折板[へぎ]のように薄い板が貼ってある。
鯉口は発条で留めるように緩くしてあるから、歩行中に刃は皆、まくれてしまう。
筆者より前の世代の兵学校生徒は、舶刀(カットラス)法を教わったが、どうしても左手を添えたくなってダメだった(腰に当てていなければならない)。
※これは動揺する船上では左手は索具などを掴んでいる必要があるため。じっさいにアボルダージュをしないと舶刀の意匠の意義は悟れないのである。
海軍刀の鞘は革か鮫皮を寄せることに定めてある。
石突は太刀。鐺[こじり]は、打ち刀や腰刀。
海軍刀は直刀は不許可である。
海軍は軍刀といい、陸軍は刀という(?)。
打物 とは、鍛工金属の総称で、鋳物の対語。
刀身は1尺7寸以上たるべし。昭和刀のような洋鋼打延べは×、と、うるさい。
柄は最短、5寸5分とす。
古来、太刀の柄沙皮のみは南洋の【魚蕈】[えい]の背皮を輸入していた。強靭なること、鮫皮の比にあらず。
鞘の長さは1尺8寸以上とす。
革は牛または馬または鮫。
昔のよろい職人は、それを買った人が矢玉で死ぬと、さすがにショックであり、改善は急速に進んだ。これが平時ではそうはいかぬ。
草履ばきで直立不動となって刀を右手に提げ、鋒が地につくものは長すぎる。ベターなのは、さらに1~2寸、短くすりあげる。
重さは、己が力量に対しては軽しと思う ほどあいを妙とする。
現在、騎兵科将校の刀が歩兵科より長いのも、馬上戦用ゆえ。
昭和刀は、鋼に二種類ある。炭素鋼と、不銹鋼である。
洋鋼を適度な長さに切って機械打ちするものと、刀形の型を用い圧搾するものとの2種あり。
いっぱんに炭素含有量は、太刀、刀で4~7/1000。
上等の鋸で、8~9/1000。
鉋で、8~12/1000。
剃刀で、11~13/1000。
斧で、7~11/1000。
歌仙拵え=36人斬り倒した。
刀を人に渡すときは、柄を左にし、両手にて鞘を持ち、刀方を手前にする。
筆者は、海軍の准士官以上の短剣も腰刀に改めよ と提議中。
▼『戦記名著集 4』S4-9
軍事談片。新聞記者による聞き書き集成。M37-2-29から。
南北戦争後、機械水雷除去作業で、幾多の人命と船舶が失われている(p.369)。
旅順閉塞作戦。『米山丸』に「機関砲」をのせていた。「小さき鉄砲を四つ並べて」「其上に箱を載せて箱の中には弾丸が沢山入って居る、さうして手が付いて居って、此手を前後すると弾丸が沢山に撃出せる、併し是は今さら効力が無いと云ふので余り用ひて居りませぬが」(pp.387~)。これを閉塞船に搭載し、射手として下士官1名をつけた。6月4日の談話。
※この詳しい解説は『たんたんたたた』でしてある。
ロシアから旅順戦線に撃ち込まれた榴霰弾の模写。スチール製であった(p.401)。
以下、小笠原長生の「旅順戦話」。
3月8日、午前8時。老鉄山の右の方に、巡洋艦×4、戦艦×3が進み、間接射撃。
※3月7日は露暦の2-25。3月8日は露暦の2-26。3月11日は露暦の2-27。3月15日は露暦の3-2 となっており、つじつまが合わぬ。
3月24日、第二回の間接射撃。朝7時。
6隻が老鉄山の陰から東港に対し。午後2時まで。
▼田中榮次(陸軍少尉)『ノモンハン戦記 鬪魂』S16-2
序文が佐々木信綱。著者が竹柏会の投稿会員なので。
道とは名のみ。先導車が「携帯羅針」でコースを決めていた。
輸送中は、空襲を避けるために車間を大きくとる。
先頭車より「停止」の逓伝。
各車は、やや左に避ける。乗員整列。
白木箱をのせたトラック縦隊を挙手目迎目送。
兵は水筒の他、ビール瓶に沸かし湯を入れ、腰に縛り付けて前線へ。
すれ違う傷兵「頼むぞ」「仇を討ってくれ」。
展望哨、監視哨の兵。
軍隊内では、同郷人とばったり会っても、「貴様」「俺」がぴったりくる。
ボイル湖とホロン湖をあわせて「ホロンバイル」という。
下士官および兵の認識票は、所属部隊号と番号。将校のは姓名。兵器室で刻印する。
ナイフで削って書いてもいい。真鍮製。
ハンマーと小十能[こじゅうのう]。
前へ前へ出るにしたがって他人から示される厚意が身に沁みる。
軍刀は、背に、針金で縛りつけた。
低空攻撃を受けると、兵の目だけが動いて壕内からそれを追う。
イ-16と三度、銃撃を復行した。
「一装用」……新品、大事の品の意。
田舎ほど、「兵隊検査が済んだら嫁を」と親が早婚させる。
前進隊形より戦闘隊形へ。
ソ連兵部隊は、自動車で逃げて、火網に誘致する。敵の常套戦法。
「○○分隊軽機故障」
※ノモンハン戦中のLMG故障は、あきらかに多かったようだと確かめられる。
敵は徹底してこっちの指揮官を狙い撃ちしてくる。
日本軍は、敵機の来襲を、後方から、ラッパの長音で知らせた。
「どうしても我々日本人には守勢といふのが耐へ切れなく苦しい」
敵飛行機が優勢なので、壕は個人壕のみとした。
「小十字嘴[し]」や円匙も、肉攻には必要(p.196)。
「跳梁」とは……TKに飛び乗って天蓋を壊し、手榴弾を突っ込んだりガソリンを注ぎ込むこと。敵は拳銃で反撃してくる。
敵は極東軍のほとんどを消耗してしまい、このごろは、西部国境から将兵を回して来ているという。「装甲も非常に厚く小山の如き重戦車であった」。ちょうど機関部のあたりに金網をはつてやつて来た。今までガソリンで動かしていたのを重油に改めたとも云ふ(p.203)。
砂地では、対戦車地雷の不発が多い。
満州には九州出身兵が多い。よって東京弁は目立つ。
小林恒は、ノモンハンで隻客を失い、東京要塞司令となった。
▼菊地清『ソ連邦の自動車』南満洲鉄道(株)調査部 S17-4
ノモンハンでは、ウランバトルから1000km、チタから500~600kmの間、兵員と物資すべてを車で運んだ。
イタリアが馬→自動車の転換を1935に図ったのは、毒ガス対策を重視した。
1924、フィアットの1.5トン・トラックをモデルに、アモ工場(今のスターリン工場)で10両の自動車を造ったのが、黎明期。
トラック化の比率は、独22%、仏24%、英21%、米13%、蘇83%(1939年度)。
※もちろんプロパガンダ。
タイヤ不足は深刻。
合成ゴムあるも品質粗悪。
欧米製の三分の一の時間しか耐久しない。
「ジス」は、「スターリン記念工場」の頭文字“З[ゼー]И[イー]С[エス]”。
「ガズ」は、「ゴリキー自動車工場」の頭文字“Г[ゲー]А[アー]З[ゼー]”。正確には、その上に「モロトフ記念」がついている。フォードが建ててやった。
1929年、トラック1546台つくった。
1932年、トラック25052台。
1934年、トラック132917台。
1938年、トラック18万4300台。
全種自動車保有量(2輪やトラクター等は含まない)。
1925年、12074台。
1930年、24910台。
1935年、179500台。
1939年、76万台。
ガズAAトラックは40馬力。ハンドブレーキは後2輪に利く。フットブレーキは4輪に利く。
他のトラックも同じ。ハンドは後輪のみ。フットは全輪に。
6輪のジス6の場合、フットは6輪にかかり、ハンドは「センター」にかかる。
ヤロスラーヴリ工場の「ヤー5」「ヤグー3」「ヤグー4」は、いずれも非舗装道で3.5トンを運べるトラックだが、フットもハンドも後輪にしか、かからない。
圧縮比と回転数が増せば、排気量が増えなくとも馬力は上がる。
石油の軍事消費量。陸軍では、米が年間120万バレル。ソ連、イタリア、英、仏は、年間30万バレル。
海軍では、米英仏伊の次がソ連。
しかしソ連の陸軍と海軍の消費量比は、1:5以上。海軍は、石油食い なのだ。
WWI末、連合軍は西部戦線に20万両の車両を集めた。うち9万2000台はトラック。
ドイツは4万の車両をもっていたが、その半分を西部戦線に置いた。
戦車は、連合軍が3500両、ドイツは45両のみだった。休戦時点で。
飛行機はドイツは当初、252機の戦闘機を有した。戦中に、4万7600機を作った。休戦時点では、5000機のみ。
仏は、132機からスタートし、最後は1万2000機。
ドイツは後方では石炭を焚く機関車を徹底活用して凌いだ。
1936年、ソ連国内で、石油を配送していたのは、鉄道が42%、海送が20%、河川が11%、パイプラインが11%である。趨勢として、河川のバージ輸送をパイプに置き換えつつある。
農業トラクターの数。1924年に2.56(千台)。1930年に72.1。1935年に360.3。1938年に483.5。
米は1938年に、1528.0(千台)のトラクターを持っている。
ソ連は質よりも量を重視し、車種やパーツを極少化させようとしている。そうすれば運転の習熟が楽になる。寒冷地では、気化されないガスがシリンダーに送り込まれてしまう。すると潤滑油が洗い流されてしまって、磨耗が加速する。
▼Engelbecht & Hanighen 『Merchants of Death』1934、ロンドン
1855~1870の間のイギリスは、アメリカから多数の工作機械を買って、小銃と拳銃を造った。
ニューヨークの古兵器商 フランシス Bannerman & Sons 社は1865設立で、日露戦争中、陸軍省に Army Rifles ×10万梃 他のサンプルを personally submitted したという。
1932-2-7にチェコの Skoda が日本向けに1700ケースの弾薬を、また8日にはフランスが100万フラン相当の自動火器を、日本向けに船積みした。
1933-3-11にUPが伝えたところでは、ホチキス社は、日本からのMGの大量注文を抱えており、パリ駐在の日本武官はホ社のテストレンジに Parmanent Room を持っていると。
1933-1-17~2-23の間に、米ニューポートニューズ港からTNT原料の Nitrate of soda が5000トン、日本向けに出荷されたと。
▼米国現大統領ルーズベルト著、村上俊蔵・抄訳『鉄騎隊――米国義勇軍実戦記』M40-6
※ラフ・ライダーズである。
応募ものすごく、東部エリート大学から来た若者が、将校でなくともよいというのに感心。
インディアン多数が、混じっていた。
アパッチ族がおそれられたのは、まったく姿が見えないから。そして白人を殺すと1夜で50マイル逃げてしまう。
このときTRの馬は、1頭50ドルでもとめた。
部下には、剣など使える者ひとりもおらず。よって剣は持たせずに、連発ピストルと小銃を持たせることにした。
※ただし挿絵では皆サーベルをふりまわしているように画いている。
このころの老人は皆、Civil Warの経験者である。
鉄道と輸送船に政府の統制は皆無。TRみずからが才覚せねばならなかった。
ダイキリは地名。
馬の上陸に困ったらどうするか?
答え。ただ海に投げ込めば、勝手に岸まで泳ぎ着く。
ただし 溺れる馬もある。
「遥かにヤング蒋軍のホッチキッス砲の音聞え……」「敵のモーゼル銃の弾丸は、……」(p.58)。
キューバでは大蟹が死者を食べてしまう。
「カットリング砲」も味方にあり(p.86)。
「穿壕工事」は野戦の常識になっている(p.95)。
サンチヤゴで見物していた外人ら、いわく。米国兵はトルコ兵より勇敢だが、組織と行政はギリシャ軍にも劣る、と。TR、同意す。
新兵が、乗馬と射撃を二つともに習得するには、2年はかかる(p.131)。
▼西沢勇志智『日本火術考』S2 聚芳閣pub.
東京帝大の火薬学教室が所蔵する、世に稀な古写本の数々。
フロントサイトは「先目当」。リアサイトは「前目当」という。
アジャスタブルなリアサイトは「矢倉」という。
凱旋門形の枠の中で横棒の上下調節ができるタイプだと、「猿矢倉」と称した。
「煙リカヘシ」「カニノ目」は火縄銃について既に用いられていた。
導火薬 は、花火用語だった。
ピンのことは「横鋲」。
用心金、引金 も昔からの用語である。
払い下げのことを幕末には「御払」といった。
修理は「修復」。
ケウエール筒。
幕末の幕府の武器庫に、和筒製ミニー銃×157(大手前 伝習第一大隊 予備銃)、ベルギー製 鳥羽ミニー銃×1200、鳥羽短ミニー銃×1400(うち800梃箱入りのまま)(小川町 伝習第二大隊 同断)。
鳥羽ミニー銃×100、舶来磨ミニー銃×221、舶来ゲヱール銃×460(うち156は損耗品)。60梃は残兵へ渡し、御役立分は208梃。
錆色付御銃×144(稽古筒)。
ステイン直し銃×20。
和製ゲヱール、英鳥羽ミニー銃、……などなど、ミニエー銃が過半であることが分る。
石川確太郎(訳官)は、数冊の洋書をみて、機械を8個選び、英人の「応篤爾斯」に計って、鹿児島火薬製造所をつくった。
他に仏人「魯間」、蘭商社長「篤双武士」、も関与。
嘉永甲年に計画が始まり、M2-7に半成し、M5-2に全成。
鳥羽=鳥渡=アントワープ?
慶応3年3月、小栗上野介と武田斐三郎(成章)が、西洋式火薬製造所を創立せんとして、王子滝野川に撰定す。
▼防研史料 極秘『挺進砲兵破壊隊ニ関スル説明』S18-9 雪部隊本部
この資料は、歩兵科は中隊まで配布。その他は大隊まで配布する。
歩兵特殊潜入(斥候)群を以って、敵砲兵を撃滅破摧せんとするにあり。
……他に如何なる有利なる目標現出するも介意することなく一意衷心敵火砲撲滅破壊に邁進するを要す。
理想は、鹵獲使用、押収にある。
※ガダルカナル以後の調製なのに、やはり対ソ戦を念頭している。
破壊の方法。
一。榴弾を装填し、砲腔に土塊を投げ込み、長い綱で発射、粉砕。
二。小銃、拳銃で揺架を打ち貫き、駐退液を流出せしむ。
三。手榴弾2~3個を腔内で爆発させる。
四。黄色薬 10~15kgを薬室に挿入し、緩燃導火薬で点火。
▼陸軍航空本部監修、航空五條[ごすじ]会ed.『空征かば(ビルマ航空戦記)』S17-11
ビルマで最も手強いのは、重慶マークのP-40の米人パイロット。
B-17には非常ベルがあり、それが鳴るとパラ降下で脱出す。
重爆の後方銃手は、互いに足を蹴飛ばしあいながら合図する。
MGは、ガタガタガタ\/と音を立て、大掃除の畳叩きを連想させる。
MG故障、弾倉を足で蹴って外す。
切れた前の薬莢を「万能鋏」で排除。※89式旋回機関銃か。
撃つのは、片手でもできる。
▼磯部祐二(朝日特派員)『倫敦防空戦』S16-4
チャーチルの娘と結婚したのは、喜劇役者のヴィック・オリヴァー。
独機はスモークで空に輪を描き、爆撃目標を示す。※写真あり。
開戦と同時に子供と妊婦をたった2日で全交通手段を動員して田舎へ疎開させた(p.51)。
フォニーウォーゆえ、その後、勝手に都市に戻る子供が多かったが。
のちには、カナダや豪州へも子供を疎開させた。
一般外国人は、地図はおろか旅行ガイドの所持も禁ぜられた。
スパイ容疑者500人逮捕(6月中)。
敵性外人2万人抑留(7月7日まで)。
200ある映画館(一部はニュース映画専用)にはすべて専用防空壕が設けられている。
ホワイトホールの官庁は、各ビルの屋上見張りが、第二のサイレンを鳴らすことで、初めて全員避難。
地下鉄ホームは、近郊から押しかける連夜の人でパンクしたので、男は入れぬことになった。
小駅は、人を入れず、警報でゲート封鎖。
地下鉄には三段ベッドの備えが必要。
地下鉄では、ヂフテリアの子供間感染に要注意。
犬には犬専門の防空室。
壕はもちろん戦間期から準備してあった。
山の水平壕の場合、入り口の上部斜面は、コンクリートで固めること。
WWIで独は英を103回空襲した。うち52回はプレーン、51回はツェッペリン。総計270トン、8776発の爆弾を落とした。ほとんどが飛行船から。死者1414人。倫敦のみでは、441名死。1発の最大被害は、小学校に命中して46人の子供が死んだことあり。次は、重爆弾が住宅地に落ち、12名が即死。
ロンドンのWWIのAAGは、294門だった。
WWIIの独の時計爆弾は、100kgぐらいで、ビルの3階くらい貫く。
遅延タイムは、1時間から24時間くらいまである。だから、爆弾処理は、2から3昼夜してから、行なう。
ビルの屋上に、空爆監視用の小塔を増設。RC製。円錐形。その天井は鈍角に尖っていて、特に分厚い。
英政府は、ガスマスクを4万5000個用意し、それを国民と外国人にタダで配った(p.132)。
地下室では、ガス調理や、何かを燃やすストーブは×。
普通警報とは別に、ガス警報を出すようになっている。
▼田村周助『軍法会議判例挿入 法の裁き実例鑑』S3-1
哨兵睡眠罪。 禁固1ヶ月~2ヶ月。
下級者に対する私的制裁は「陵虐罪」。禁固1ヶ月。
傷身図免役罪。 兵役をのがれようとして手を切る者がほとんどである。 懲役3ヶ月から4ヶ月。
▼阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』S18
旅順の鉄条網は2000ボルトだったという。
妓生は世界一の優遇をうけ、正三品、正四品という高位をおくられた者も。正三品は郡守と同等官。
平壌が第一の産地で普州これに次ぐ。
平壌には妓生学校があり、いやしくも京城の高位大官と起居寝食、風流頤事を共にするのに事欠かぬよう訓練されている。
妓生には一牌、二牌、三牌の三段階があり、一~二牌は相手の門地品位を撰ぶが、三牌は節操も風尚も右に劣る。
一人の娘を持ち、それが善い妓生になれば一族はその恵に浴して他の羨望の的となる。
のみならず土地の恵にもなった。
高位大官の寵を受ければそれをツルにネポティズムおこなわれ、立身、減刑も可だった。
当時、奉天は名古屋と同じ、人口百数十万人で、三百両のバスが動いていなければならない計算。
しかし自動車は統制で、一台も見ず。
一輪車(ネコ)のことは、推車(トイチョー)という。
満洲の計画工業は、小さいもので困っていた。下請け工業が未発達なのだ。
哈爾浜にはロシア人が集中している。
タクシーは全員、露人の運転手。燃料はアルコール。
彼らは自動車をじぶんひとりで修理し、20年以上も走らせ続ける能力をもつ。部品も自分で作ってしまうのだ。
代燃車(非液体燃料)は、停止待機中も、エンジンを切ることができない。
▼『麗澤大学紀要』1986-12 所収「北東アジア猟漁民の猟漁システムの特長とその先史学的・進化的意義(I) 銛漁と弓矢漁」/渡辺仁
アイヌの漁矢を「ペラ・アイ」という。
子供に持たせた松明で夜間、魚を誘う。木製の撥形の鏃をとりつけた矢の先を水に入れて、魚の頭部を狙って発射。打撃のショックで魚は死す。
死魚回収の必要から、これは浅瀬でしかできない。鏃材は、サビタ、イタヤなどの堅木。
矢柄はヤナギ。
狙うのは、サケマスよりは小さい雑魚、ドジョウの類である。
弓矢は、槍や銛より、コントロールが効く。また自分より高い樹上の獲物に対しても有効。
けれども、超大物には弓は無効。象や鯨は狩れない。
▼『日本民俗学』1993-2 「弓神事の原初的意味をさぐる――三本足の烏の的を中心に」/萩原法子
そもそも 3本弓で占う流鏑馬の前には、歩的(かちゆみ)の神事があった。民間土着として。
ビシャ、モモテ、マトイ、ユミギトウ などと言った。
さらにその元をたどると、これは占いではなくて、必ず射破る、魔よけの儀式であった。
漁民にとっては、カラスもネズミも害獣。
カラスは韓国ではカルサという。
太陽黒点の象徴でもあり、ウサギは月の象徴。
つまりカラスと兎で、日月を射ることになる。
「山海経」「淮南子」とも通じる。
▼『大阪大学文学部 待兼山論叢 史学篇』1984 「原始・古代における弓の発達――とくに弭の形態を中心に」/松本武彦
弓は腐りやすく、出土は稀。
しかし、ここ十数年間に、低湿地から百例以上、出ている。
筆者はアーチェリーをたしなむ。
弓の長さは時代によって変わらぬ。径1センチと細ければ長さ50センチ~。径3センチと太ければ、150センチ強、の範囲だ。
最大で276センチの巨大弓も出土しているが、これは祭祀用と考えられる。
加工としては、樹皮や糸を巻く。漆や朱を塗る。横反れや乾燥割れをふせぐため樋とよばれる縦溝を刻む。
副葬品は必ず装飾的な加工がされている。
縄文、弥生、古墳時代を通じて材は、イヌガヤ、カヤ、イヌマキの三針葉樹。
旧説では、針葉樹→広葉樹の変化があったとする。
マユミ、ケヤキなどは確かにあるが、すべて副葬品だ。
広葉樹は、硬度、反発力にすぐれるが、乾燥割れしやすく、加工しにくい。
この加工技術の限界が、古墳時代まで続いた。
ゆはず とは、弓の両端の、弦をかけるこしらえである。その変化は、時代とともに、大きい。
古代の大陸の弓は、中央部をわずかに内弯させ、上下弭部にかけて外弯させてある。
すなわち「弓」の字形に、定形加工する。
打製石鏃は、弥生中期に、畿内を中心として、重畳急増す。
弓の材質は変わっていないので、射技が変わったと論者は見る。
弓の下の方を握ると、上下のもどりに時間差ができ、矢は上方へ向かって飛び、飛距離が伸びる。
引き込みを顔の前で止めるのは狙撃・狩猟に向いている。
引き込みを後頭部までするのは、戦争向きだ。
E・S・Morseによれば、今の日本の弓道の原形は、最も発達したモンゴル式であると。
それは、地中海式よりも発達しているのだと。
ただし、オリジナルのMorseの論の初出が不明。皆、引用らしい。
基本文献として、『古代学研究 78』(1975)佐原真「かつて戦争があった」。
インディアン含め、狩猟民族を観察したところでは、弓は近接必中武器である。
▼国立国会図書館調査立法考査局『米国の戦時行政』第二巻 S27
“The United States at War”の訳。第一巻は欠。
開戦後、二、三ヶ月で「戦時生産局」が設立された。
それまでは、生産管理局供給優先割当委員会があった。
民間には物資使用制限が課されたので、民間はむしろ官注を望んだ。
そして1942の前半に1千億ドルの官注をした。
かつて最も景気のよかった年の総生産額以上の軍需生産の発注であった。
ゴムは海軍の「弁」にも必要。
パイプラインを大増設して、鋼材が足りなくなった。
機関車工場は機関車が非常に必要なときに、戦車生産に転換した。
トラック工場は飛行機ラインに転換し、それでトラック不足になった。
WWII中の生産額で見ると、順番は、飛行機>船>鉄鋼>弾薬>他のケミカル(オイル含む)>非鉄>食糧>航空用ガソリン>戦車とトラック>人造ゴム>機械器具。
圧倒的に、飛行機が大。
クロームを乳母車に使うことを1942に禁止。
一人の長官代理に、計画と実行の両権を結合させることが鍵。委員会では絶対にダメ。
※個人は、永続しない。いつでも除去できる。悪の不死身組織にはさせない。
鉄くずと、アルミくずも、集められた。
1940にリバティー船を策定。鉄鋼運搬船。
旧式の、三連式往復エンジン、蒸気ウインチ、英国の貨物船の型を採用。11ノット。1万トン(重量トン)積載可。溶接船体とした。
議会の発注承認は1941。
米はガルフや南西部からタンカーで東部に油を運んでいた。東部にパイプラインはなかった。
鉄道タンク車、艀、パイプラインの増産を必要とした。
短距離ではタンクトラックを増産。
1943までテキサス~東部のパイプラインは無い。
国内トラックは速度35マイル/時に制限された。
五大湖の鉄鋼輸送は艀を使った。
以下、第三巻。
WWII中、米人口は、1億3000万人。
1942の新聞検閲局の方針。「社説に対する干渉を避けてはならない。この種の意見は自発的には統制できないものである」。
宣戦後の1月6日、大統領は、目標として、飛行機5万機、戦車45000両、AAG×2万、船800万トンを掲げた。
以下、第四巻。
石油は、メキシコ湾、カリブ諸港から、北部諸港へ。そこから、英船に積み替えられて、ヨーロッパへ。
ゴムは、1942まで天然のストックあり。1943からほとんど合成にきりかわったものの、総供給量は1941のピークに達していない。
ロシアは独自に合成ゴムをつくっていた。その製法は米国にも教えなかった。
生産額でみると、WWII中、米は「砲」の略1.5~2倍の「弾薬」を生産した。
以下、第五巻。
WWII中、カナダで油井を開発した。アラスカからパイプラインを引いた。
以下、第六巻。
ドイツは1943に初めて軍需省を設け、アルベルト・シュペールが「有期限集中生産」方式で、まずは戦車、次に飛行機、ある時期は砲、と重点を変えさせた。
工場に大量生産対応がとれなかったのて、設計と計画でデザインの単一化、製品の標準化をした。
しかし全部門を統括する計画は遂におこなわれなかった。
また空軍の飛行機は1944まで軍需省の下になかった。
1943の戦車増産は、部品がアンバランスで失敗。
飛行機は爆撃機か戦闘機かで紛糾。
1944半ばにガス欠。なのに飛行機ばかり作り続けたのは、計画の失敗といえる。
モスクワ以降、弾薬も不足。
鋼の割当が機構的に不全。
熟練工を無計画に軍に投入した。
アメリカにおいては戦時動員が必然もたらす犠牲に対して利己的グループが敢えてした抵抗は公衆の手によって直ちに阻止せられた。
失敗は永く放置されなかった。
米は、二交替制がふつう。
独は、飛行機エンジン以外、一交替制に終始。
また、婦人の工業動員なし。
ドイツは鋼は余っており、アメリカと違って民間にも大量に流した。
米は、バランスのとれた極限動員だった。