▼I・ミュージカント著『戦艦ワシントン――米主力戦艦から見た太平洋戦争』1988、原1986
1941-5-15就役式。
進水時には砲塔も環境もなし。1940-6-1。
1923就役の『ウェストバージニア』いらいアメリカでBBはつくられていなかった。
日本は1934に、ワシントン/ロンドン条約の廃棄を通告。
そこで1935にBB×2の建造が決まった。『ノースカロライナ』と『ワシントン』。
ただし基準排水量はあくまで軍縮条約を守り続け、3万5000トン。
これだと16インチ砲の1トン強の砲弾に耐えるのは難しかった。
この2艦の巾も、これまでの米艦で最大の108フィート3インチ=パナマ巾 に制約され、ちょっとした風でも横揺れした。
米港湾の制約から、吃水も38フィートに制限される。水面下防御が弱くなった。
それまでのコロラド級に比べれば6ノット速いが。
真の性能革命は、1940に『アイオワ』『ニュージャージー』が建造されたときとなる。
『ノースカロライナ』も『ワシントン』も、米海軍工廠。
なお、先代の『ワシントン』は1921進水で、1924に、条約にもとづいて砲撃沈没させられている。
『ワシントン』は1940-6-1までに機関搭載。
空母についていくため、8基の超高圧ボイラーを据え、4つのシャフトに12万馬力を与え、28ノットを得た。ギヤードタービン。
砲塔は16インチのニッケルクロム鋼。その屋根は7インチ厚。
砲身は長さ60フィート。径16インチ。重さ108トン。
19マイル離れた13インチの装甲を貫通する2700ポンドの砲弾を発射できる。
マニュアルは、片舷斉射なら30秒ごとに発射できるとしていた。
実際にはさらに半分の時間でできるように訓練された。
1941時点でワシントンには16梃の1.1インチMG(4基×4門砲塔)と12梃のキャリバー.50 がついていたが、2年たらずで交換させられた。※おそらくエリコン20ミリに。
1.1インチは故障しがちで、扱いにくかった。
主砲には、それまでにない「自動砲撃管制装置」「安全装置」がついていた。
砲弾は1発2700ポンドの重さ。
1番と3番砲塔は、300発置けた。
2番砲塔は360発。
キングフィッシャーは爆雷を抱いて飛べた。対潜上空警戒もできたのだ。スペアフロートも積まれていた。
連装5インチ砲(2連装で20門)はレーダー制御だった。
推薬は600ポンド。
訓練ではP-40とPBYが模擬魚雷攻撃。
第一次ソロモン海海戦の直後、8月に、ワシントンの.50 は20ミリに換装された。さらに門数も増設。
1.1 インチは しかし残したままであった。
電力が途絶えると揚弾機が動かなくなる。
索敵機が爆撃もできる米海軍の強み。10月26日にエンプラから発信したドントレス×2機が『瑞鳳』を見つけ、2発当てている。南太平洋海戦。
ワシントンが22ノットで面舵一杯を切り、同時に25ノット全速に増速しようとすると、30秒以上かかってコースが変わる。
ニューカレドニアには下士官兵用の公認あいまい宿があった。もちろん士官用も。
11月13日、『アトランタ』は、敵艦に右後方の舷側砲12門を発射することが可能だった。が、発射電路が接続されたとたんに、艦内の全電力が落ちてしまった。歯車列に固定されている砲架や砲身は、艦の揺れにつれて砲口が上下するばかり。砲弾は目標から2000ヤードも手前にむなしく落ちた。
1943初めまでの米魚雷は不発が多かった。※斜めにヒットすると起爆するが、直角だと不発になったという。
16吋砲の砲員は、1門1門、砲長、装填手、揺架手、装薬手、点火手から構成されていた。
点火手は、砲尾に雷管〔門管か?〕をさしこみ、それから砲長が砲尾を閉める。そして準備完了の信号灯をつける(艦橋内でつく)。ここまで規定で30秒。それを訓練で14秒まで短縮した。
米駆逐艦は、探照灯ではなく、照明弾を使用した。
米艦砲の推薬は「低閃光」と称されていたが、白く光る。日本艦のは消炎タイプだった。
米艦内に密造酒あり。ただし上級士官には絶対になし。
主砲レーダーFCSが利かないときは、舷側5インチの光学照準のスレーブに入るようになっていた。夜は照明弾を使用する。
まずオーバー、次に手前、それから命中という、いつもの日本艦の撃ち方。
護衛空母はジープ空母とも称された。18ノットしか出ない。
B-24によるスキップボミングを3月1~2日に実施。
戦艦に棺桶は置いてない。帆布につつんで、5インチ砲弾を重しとして、海中へ沈める。
5月にパールハーバーに戻り、4連装の1.1インチ砲に換えて、ボフォース40ミリ×60門(4連装)にした。
それまでに、80門以上の20ミリがついていた。
1.1インチは弾丸に炸薬なし?
またこのとき初めて、陸上攻撃用の16インチ砲弾が積み込まれた。それまではなかった。
※おそらく艦上機から緩降下で投下しても敵戦艦のアーマーに有効なAP爆弾やセミAP爆弾の目処が立って、米戦艦には日本の戦艦との砲戦などをもはや期待しなくなったのだと思われる。
40ミリ弾は1万8000発積む。
ある月は訓練のため、6万4000発積んだ。
20ミリは6万発。
5インチは3200発。
9月1日の一提案。
8000~1万ヤードで16インチ砲で陸用HE弾を斉射。その水柱で敵雷撃機を阻止したいと。→通らず。
1943年10月24日、マーク32近接信管をつけた、5インチ対空弾を、4600発、積み込んだ。
主砲を発砲する間隔は、安全のため、30秒が維持された。※腔発予防。
キングフィッシャーのカタパルトは、火薬式。
『大鳳』の引火爆発の理由。ボルネオ産の原油の蒸気が燃料に混じっていたから。
『翔鶴』も同じ(p.320)。
※原油にはナフサのような揮発成分が含まれる。
1945年1月、16インチ徹甲弾は423発積んでいたが、もう用は無いと判断され、HE×500発、プラス、5インチ黄燐弾×400発に、とりかえられた。
硫黄島には16インチ砲弾を599発、撃ち込んでいる。
ふつう、雷撃機は、太陽を背にするか、月の反対側から襲撃して来る。しかし、特攻機は、全方位から来た。
▼『三世紀の考古学 中巻』S56
所収、中村一夫「狩猟」。
槍は打製の長さ15センチ内外の穂を付けたらしいが、柄の出土が、未だ無い。
▼『三世紀の考古学 上巻』S55
所収、金子浩昌「弥生時代の貝塚と動物遺存体」。
イノシシ、シカ、クマの骨が、九州の縄文晩期の貝塚から出るが、どうやって獲ったのかは分っていない。
イノシシは、飼育されたものがある。
弥生中期の大阪湾岸の遺跡。骨に0歳~2歳のものが多い。これは飼育の証拠。
シカの狩猟絵はある。しかし、イノシシの狩猟絵は無い。飼われていたからだ。
縄文以来、脳髄を食べるために割られたいのししの脳頭蓋部分の骨が出土する。
猪は、小島に暮らすと小型化する。それは飼育しやすい。
▼『考古学ジャーナル』No.52 (1971が亥年なので特集)
貝塚を掘れば、猪の骨の出ないところはない。
背に「怒り毛」という剛毛があり、それは靴を縫う針に使われたほど。
信州諏訪神社の上社の例祭は、御頭祭と称し、鹿と猿の頭を七十五頭、血のしたたるまま奉納。
古事記 穴穂宮の段を見ると、猪養部が賎民あつかいされたこともあった。
亥の子餅=ぼたもち。
猪と萩は相性よいとされ、女言葉の「おはぎ」になった。
日本のイノシシは、北満→北九州→全日本と拡散。ところが最初の大型種は、洪積期に獲り尽くされていったん絶滅。
新石器時代に小型になってまた九州から復活した。
東北には現在イノシシは姿を消したが、旧家にはイノシシ猟用の槍や、落とし穴が残っている。
古代全般に猟の獲物として鹿が最も多い。猪と違って集団なので。
古代に狩猟が最も盛んだったのは、関東から東北の南部の地域。
猪や鹿の骨は人為的に、斧で破砕されている。
続日本紀。天平年間に、飼育されていた猪を買い上げて野山に放し、禁殺の勅が出た。
これで畜産が急減したか。
播磨国風土記によれば、日向の肥人(くまびと。滝川政次郎はこれは隼人だと指摘)が初めて畿内に猪飼を伝えた。その肥人には、南西諸島から伝わったらしい。
古事記・安康天皇の条によれば、山城の猪飼民は「面黥」であった。
▼地方紙研究会ed.『甲府盆地――その歴史と地域性』S59
所収、小野政「縄文時代における猪飼養問題」。
幼獣雌雄多数出土していることは、狩猟殺を意味する。
幼獣の首切り犠牲があったという。
腸管が体長比でヒトの2倍もあるため、人糞までも吸収可能なのである。
ほぼ1年で成体になる。
よって2年以上飼うのは意味がないわけである。
▼『人類学雑誌』52巻8号 S12-8
所収・直良信夫「日本史前時代に於ける豚の問題」。
豚は鹿と違って頭部につかみどころがないので、頭部撲殺はしなかったようだ。鹿は頭を敲かれている。
▼大山柏『史前保安』S13
石剣、骨剣は素材的に50cmを最長とす。
致命傷を与えるためには15cmがミニマムである。
縄文期の青森で出土した石剣は紡錘型51cm。刺すのみと思われる。
縄文期の石剣は片刃形の片手包丁形が多い。世界的には両刃石剣が多いのだが。
石の特性をよく活かしたのは、石斧である。
欧州ではFlint石を使うのが一般的。
スペイン岩壁画の弓人は、上から三分の一のところを握っており、日本とまるで逆だ。
米インディアンは猛獣をまず、かぶら矢の音で威嚇し、次に、尖頭鏃でうちとる。
北米インディアンの矢は野牛の体内に全没するほどの貫通力。南米インディオもかつてその矢で、1人のスペイン人を貫き、次の1人を傷つけたという例が記録されている。
米インディアンは、毎分20射できる。
英ロングボウは、毎分12射である。
▼永瀬康博『皮革産業史の研究――甲冑武具よりみた加工技術とその変遷』1992
甲冑には、牛の生皮[きかわ]が鉄板代わりに使われたことがある。柔軟性が必要な部分には、鹿韋[しかがわ]が用いられていた。
宝亀11年=780年8月18日に鉄甲から革甲への変更の勅が出されている。続日本紀。
蝦夷征伐のため甲冑の増産が必要になって、鉄から革にスペックダウンされた。
東大寺献物帳の中では「征箭」は50隻、などと数えられている。
万葉集1019 鹿猪じもの弓矢圍みて
万葉集3278 射目立てて猪鹿待つごと
脇楯は大鎧の一部分。古くは脇立とも記される。
姫路の明珍家は鎧匠。
明治4年かその前後に陸奥宗光がヨーロッパから技師を入れて軍靴用の鞣工場を作った。牛皮。
乕徹一口
近世に刀の製造技術が進歩したが、ヨロイは廃れ、地金を外商から調達するまでに。
もととも兜鍛治は甲冑師の下鉄師、甲冑工房の外で下に見られていた。
▼鈴木卓夫『たたら製鉄と日本刀の科学』
出雲の真砂砂鉄は純度は高いが溶かすのに長時間かかる。そこから鋼ができる。播州の赤目砂鉄はすぐ溶けるが銑である。
▼『満蒙全書 第二巻』S9-10
所収、柴山兼四郎「満洲国軍事講座」。
張学良はシナ軍閥のような師団はつくらず、旅団を最大の単位としていた。これは反乱をおそれて、部隊をより小規模に分けたのである。
熱河作戦時の海軍はストークブランの相似形の大型重迫をもっていたらしい、その証拠の写真。
多賀万城の述。
英国はシナ人からなる部隊も育てていて、M33の義和団事件では、英国将校の下、彼らを天津城攻撃に投じている。
ロバをスローダウンさせるには、左手の薬指で、尻尾の根を軽く刺激するとよい。
▼関根海軍大佐・述『海戦史話』前編S11-8、後編S11-10 呉警備戦隊司令部pub.
※ネタ本は英書らしい。
筆者はブラジルで米海軍士官と意見交換した。独英戦から米国は何を学ぶか。ユニラテラルな艦隊拡張では、何の実りもない。それを「軍縮条約」の押し付けと連動させることで、政治的勝利が得られる。
華府条約は、これなのである。想定敵国を軍縮条約に巻き込み、想定敵国がこっちを脅威できない枠組に固定してしまう。これが目標でなくてはならぬと。
渡洋接敵陣列、主力部隊の警戒航行序列、「リング・フオーメーシヨン」(輪形陣)も研究されつつある(後篇 p.309)。
これは「キャリアー・グループ」の集合である。航空母艦団。
※空母機動部隊は日本が発明したんだとかいうベースレスな話をする人はさすがにもういないですよね?
米空母の3層デッキは、「フライング・オフ」の前甲板、「サービス(整備)」の中甲板、「ランディング」の後甲板に分けている。
1914いらい米海軍は、水中弾を研究している。毎年10万ドル使って(p.314)。
▼田中館秀三『南方文化施設の接収』S19-4
※著者は学者で、戦争初盤にスマトラ以外のマレーとジャワへ派された。たぶん石油探査を押収文献からバックアップすることが期待されていた。
石油の獲得なしには此の戦は、飛行機に対する竹槍の戦争となる(p.4)。
WWIの青島では、民政部がドイツの図書館を「解放」し、日本内地の中学校等に数冊づつ分けてしまった。著者はこれに反対。これこそ文化の破壊だと。
しかしこのとき、図書館や各機関の文庫から、地下資源の重要書類が出てきた。それがおそろしく役立った。それをもとに『山東省の地質鉱山』という本が書けたぐらいである。
こんな先例があるので、シンガポール占領とともに、派遣された。
目当ては、ラッフルス博物館内の図書と、植物園。
S17-2月にシンガポール入りしたとき、まだ一部の英兵たちは、武装のまま、隊伍整然と並び居るのを見た。
昭南図書館には、小説5万冊、マジメな本5万冊があった。
オランダ女は皆、肥っていた。
英人は現地民と決して交わらない。オランダ人は、かなり対等視していた。
▼コリン・タッジ著、竹内久美子tr.『農業は人類の原罪である』2002-10
氷河期が終わり、海面が上昇。
それまで快適だった土地が「ペルシャ湾」になってしまい、人々は高台であるメソポタミアへ逃げた。これがジェネシスの意味だ。
氷河期のおわり頃、ギリシャとトルコの住民は、男178センチ、女168センチが平均だった。
しかし農業が普及すると人々はチビになり、BC4000頃は、男160、女155センチに縮んでしまった。
ヘレン・フィッシャーいわく。鋤の発明で、女の地位は決定的に下がった。それは女の力では扱えぬ。
農業で食い扶持が安定したので、野生動物は殺しつくしても苦しくなくなった。
アラビアンナイトに出てくる怪鳥ロックのモデルは、マダガスカルでAD0頃に絶滅したエレファントバードだろう。
旧約時代の小麦はまだ改良されておらず、穂がすぐに種軸から脱落する。落ち穂となる。
アンナ・カレーニナによれば、その刈取りは両手大鎌による。
▼藤原彰『軍事史』S36-2 東洋経済
著者は1922生まれ、41陸士卒、45大尉で復員。
49年、東大文学部 史学科卒。
1950、歴史学研究会書記。
53、都立大講師、千葉大講師。
参考にしている文献は、エンゲルス、井上清、松下芳男、小山弘健、林克也らの著作。
写真が多く、まるで教科書のようである。
話は幕末の「大塩の乱」から。
当時、同心は3匁5分筒をもちだしたのだが、それは4町届かなかった。
この乱は、終始、銃砲戦。斬り合いはまったく無かった。
鉄砲の国産史は、本書時点では、小山の『近代日本軍事史概説』しか参考がない。
海軍砲で「拇」は「センチ」。
村田銃で統一されていたから清国に勝った(p.82)。
日露戦争の歩兵の火線構成の写真に「いぜん散兵の間隔は密集に近い」とキャプション。
日本はマキシムMGをついに実用化できなかった(p.102)。
ロシアは貴族将校&封建農奴の軍隊だから負けた。
露兵の7割は文盲(p.103)。
よって、鉄砲も当たらない。鉄砲や砲を壊す。
小山いわく、日露戦当時の日本兵の2割は無教育者で、その半分はまったく読み書き算術できない。
『偕行社記事』1906-11は、勝因は、彼我軍人精神の優劣だったとし、将校に武士道を鼓吹する必要がある、と。
M42操典で初めて、「攻撃精神」「必勝の信念」という綱領(項目)が謳われた。
無形の要素が物質的威力を凌駕する、と。
「真空地帯」という表現(p.115)。
M42頃から、営内に樹木花卉を植え、菜園を設けろ、と。農民兵の精神を都会化しないために。
軍上層では、都市化=反抗 ととらえていた。
3年現役→2年現役となり、上流子弟が現役になるようになった。
軍隊の擬似民主性。
ルデンドルフ1935にいわく。戦争は短期総力でなくちゃいかんと。ゼークトも。
それにはエリートフォースが必要で、在営期間の長い基幹部隊で勝て、と。特にゼークト。
工業動員ではなく、事前大量な「貯蔵」で勝つ。
戦争が長期化すれば、兵=国民は不穏化する。
この反対の考えがフランスなのだ/デブネ。
民主主義国は、常備軍の精強や動員速度ではなく、守勢から始めて、その後、工業動員と大衆軍持久で勝てばよい/ポソニー。
WWI当時、歩兵は2年だったが、他は3年現役だった。
師団は常備21個。戦時に動員するとMax100万。
コメ騒動の鎮圧には軍隊も出動。
プラス、シベリア出兵で世論は不穏化した。
佐藤鋼次郎は、大川周明や北一輝と方向が似ていた。『国防上の社会問題』。
デブネやポソニーが言うように、兵器は民間で造らせればいい、と思うようになった。それが総力戦だから。
宇垣一成は、世論をなだめつつ、それを背景に、LMG、HMG、迫撃砲を導入。野砲を減らして重砲を増やした。ともかくも、WWI型の戦争に備える近代化の道をつけた。
陸軍は、都市民を信用しなかった。だから甲種は、農村で、より多く合格させた。
この指向が、日本兵が近代装備を使いこなすのを難しくした。
1928には「一年志願兵」にかえて「幹部候補生」制度を導入したが、知識階級への不信から、せいぜい小隊長にまでしかさせない制度だった。
中等教育までは受けられたが、資産がなくて高等教育は受けられなかった者。このグループが陸軍内で出世しようとしたのが、大正時代。
将校は、中小地主層から出た。
武官の世襲傾向は、大正時代に強まった。なぜか。佐官以上で退職すれば、軍人恩給により、中流以上の生活ができたのである。
盧溝橋の顛末は、清水節郎の手記にもとづき、秦郁彦が『盧溝橋事件』にまとめている。
183ページの写真キャプション:「歩兵連隊砲(四一式山砲)は輓馬1頭引きであったが、馬が倒れ人力によって運ぶことが多かった」。
※著者は山砲兵部隊に所属させられ、この分解担送でほとほと厭になったんだなと察することができる。1個のパーツが100kgもあるのだ。
湯浅倉平・内大臣は、上海戦以後、ソ連に備えるために、シナの相手は飛行機でいておき、地上軍部隊は早く撤収させねば――と言っていた。
USSBSの見解。1941までの日本の軍拡は民需犠牲の上に成立していた。それは永続できない発展であり、日本の総力戦敗因の基盤もそこにあった、と。
兵士の自発性に依頼せぬので、幹部の指揮能力がたのみだが、それが足りない。幹部候補生は、2年前は初年兵であり、よって古兵は従わぬ。
ミッドウェー敗戦は5分違いの不運などではない(p.199)。
依然、戦艦中心主義であり、偵察、通信、援護が手薄だったのだ。
ガ島の写真キャプション。「分解搬送している連隊砲の砲身と砲架は、ともに100キロをこえる重量があった」。
予算をとっていたから、自信がないと言えなかった。by 豊田副武『最後の帝国海軍』。
秘密主義、自由な批判をゆるさず、国民を信頼しない。そのため自由言論による自由な軍事思想の発展がなかった。
福留繁は『海軍の反省』の中で、潜水艦が期待はずれだったといっている。
大井篤は『海上護衛戦』の中で、魚雷が逆転した、と言っている。
クズ鉄利用の平炉・電気炉に頼っていたこと。
『大和』も細部はダメで、外国技術依存だった。
下士官が、中農の次男・三男ではなくなったとき、軍紀は崩壊した。
GHQ参謀長ウイロビー少将は、作戦参謀を戦史室にあつめて、対ソ戦用に温存した。
攻勢のみが群集心理から士気高揚を期し得る。これ、プロシア操典の背景。
敵戦力の撃滅ではなく、都市や島、土地の占領にこだわった。封建的。銃後の士気に自信がないから。
シナに食糧が余っていたので兵站は軽視された。
メッケル式教育。統裁官が抱いている答解。その原案をいかに的中させたかで、陸大の学生の能力は判定された。
敵を一歩も国土に入れないのが国防だとしたのは、佐藤鉄太郎の『帝国国防論』。
S29に鈴木安蔵と浅田光輝が『ファシズムと軍事国家』という本を出版したが、これが、ミリタリー書籍が「ファシズム」をタイトルに使った嚆矢。
S21には、石井三郎と富田泰次が『軍閥・官僚・ファッショ』を出している。
他の参考文献。
佐野学『共産主義戦争論』。S25の森守人『真珠湾・リスボン・東京』。
▼『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2>』S46-3
S18に米軍は、アッツ作戦の直前に室蘭北東15kmの幌別村を砲撃した。5月17日より前である。
根室のすぐ下にある落石岬。
最も西の特警中隊は、紋別の西の「興部」に置かれた。
最も南の特警中隊は、釧路の少し西。大楽毛?
千島はもともと海軍のナワバリだった。陸軍は樺太に関心を集中していた。
海軍の滑走路は、北千島、松輪島、択捉島にしかなかった。
S18-8、他に適地がないか探したが、本島の計根別を拡張した方がよいと結論された。
べトン陣地は、1トン爆弾に耐えることを基準にした。だから、たかがMG掩蓋なのに、巨大なサイコロ状となった。
大楽毛は湧水のため普通の工作ができず、1.5m厚の上屋とし、屋根をかけて民家に擬装した。
十字鍬すら不足していた。
標茶と中標津のあいだに、計根別飛行場はあった。
室蘭には、15加用の掩体があった。
▼陸軍少佐 荘司武夫『火砲の発達』S18 愛之事業社pub.
マホメット教が拡がったのは大砲のおかげ。
イタリアとフランスで、甲冑材の青銅から鋳造砲をつくった。
鋳鉄砲は1440アウグスブルグでつくられた。
銅製より軽いが耐力は劣る。
黄銅の場合、鋳込んだだけで中グリ不要。しかし鋳鉄の場合は疎密があるので中グリ絶対必要。
木工の中グリ盤が転用された。
水力で砲身体を回転させるようになって大成。偏差がなくなるので。
15世紀ごろ、反動励起を抑えるため砲口縁を厚くし重くするという、構造力学的には逆のことをやっていたために、砲身破裂が多発。スコットランド王のジェームズ2世は、味方砲の破裂で死亡している。
前装でもこれだから、後装式など思いもよらなかった。
砲に点火する、雨中でも消えない火種として、火索(火縄)が発明された。1455以降のいつか。
西洋榴弾は1421、コルシカで初使用。グルナード。
16世紀に、榴弾の二重点火手順が、一回自動点火式に改まる。於ドイツ。
16世紀に、象限儀(射角付与)、照準歯弧、照尺が考案される。
15世紀末に、小銃にライフルが切られたが、これが16世紀末に前装大砲に応用された。於ドイツ。
またその頃、青銅資源が枯渇。溶鋼炉の開発に向かい、水力鞴が発明された。
16世紀中葉、ビリングッチオが、水力中グリ工作機械を発明。ダビンチと同時代。
1577に、大友宗麟がポルトガルから買った「国くずし」は、15世紀のポルトガル製青銅砲で、滑腔、後装式。薬室に穴をあけ、横栓を差す。
松の生木に鉄箍を嵌めてもダメだが、竹タガを主材にするとOK。
1718、仏ボンヌブアールが、撃茎式後装砲を考案。生火を使わない。
次に、断隔螺式閉鎖機が工夫された。
1743に英で腔圧が測定され、以後、比率の研究が、砲、タマ、火薬について、おこなわれた。
1713のマリッツ(スイス人)の鑽孔機(ボール盤)は、円筒に穴をあけていくもので、芯までつまった鋳込みをすることで、素材の強弱のない砲が量産できるようになった。
1760~1780 蒸気中グリ盤、できる。
1794~1797に、砲兵工廠の一工員モーズレが、旋盤の送り台を発明。→旋盤が、精密機械に進化。
1787、フランスのサンテシャンヌの官営武器製作所は、年に、1万4000梃の小銃と、5000門の砲、9000梃のピストルを造っていた。
18世紀に英はプロシアに対して120門の加農と6万梃の小銃をいちどに補給してやっている。※ナポレオン戦争中のことだろう。
1772、グルボーワル蒋軍が、砲具、砲車各部の互換性を制定。
日本での大砲の張り初めは、堺の芝辻利右衛門(道逸)である。『本朝世事談綺正誤』によると。
彼は1611に初の銑製砲を家康に献上した。
口径1尺3寸、砲身長1丈、タマ1貫500匁。
ただし製法は鉄砲そのもの。鉄板を巻いて鍛接したものだった。
ナポレオンのツーロン港俯瞰砲撃の偉功は1793-12のこと。24歳で、少尉から少将に特進した。
1803、英将校シュラプネルが榴霰弾を発明。
1804、仏でボムカノンを発明。
グルナードは球形榴弾。ボムカノンは、長形榴弾である。
フォーサイスはスコットランドの牧師。
雷汞は、1774、ルイ15世の軍医監バイヤンが発見。
秋帆が350梃買ったのは天保2(1831)とする。
鳥居について。「当時の徳川幕府と云ふものが、如何に馬鹿気て、その人なきかを物語ってゐるものである」。
1833、仏チェリー少佐が装箍砲を発明。これは自緊を分業にしたもので、外側の皮が内側の肉を常時しめつけている。
天保14年5月、吉野常三は雷汞で爆死。
M15の朝鮮暴動に20ドイム臼砲を1大隊4門携行。
これら滑腔臼砲はようやくM16に廃止となり、大阪工廠に廻送したが、3000門近くもあり、靖国神社の鳥居に鋳直した。
佐賀藩は天保13(1842)に蘭式青銅砲を造りはじめる。
水戸藩は天保10(1839)から青銅砲を造っている。
薩摩は弘化3(1846)から。
幕府は嘉永3(1850)に24ポンド加農と80ポンド・ボムカノンを輸入。象山の選定による。
紅烙弾と装薬の間には泥を詰めた。
盒弾=霰弾(ブリキドース)15kg。子弾49個入り。装薬4kg。最大射程750m、有効射程200~300m。
実弾は2793m射程。700~800mでは3~4回、跳飛させる。
300~400mでは、4~5回、跳飛させる。
1865から摩擦管を輸入するようになり、以後、門管と拉縄式に。
12ドイム臼砲は、M23に廃砲とされた。
1855(安政2)年に、英人ブレークレーによって、螺式閉鎖機が。
安政2年(1855)、オランダから船舶修理用の蒸気式工作機械類が渡来。
普仏戦争で、プロイセンには後装ライフル砲があり、仏にはそれは少なかった。
しかし仏はシャスポー銃のおかげで善戦できた。
独軍は小銃に負けて火砲で勝った。
M5-5、ドイツから8センチ・クルップ砲×16門が到着。廃砲を磨いたシロモノであった。キニフラル商会の手を経て、陸軍に納められた。キニフラルと契約したのは、M4の和歌山藩である。
のちに常識となる褐色の皮革(馬具)は、M10頃までは珍しく、クルップ砲を曳かされた馬がそれで驚いた。
クルップ野砲の榴霰弾は、弾子80個を硫黄によって詰める。
同砲は、西南役で使われたのみ。7.5cmクルップとは異なる。
M9(1876)、ドイツ商ハーレンスが持っていた75ミリ・クルップを3650ドルでまず1門購入。
このとき駐独武官が意見書をよこし、ハーレンス商会などを通すな、今後は日本からクルップに将校を派遣するか、駐独将校に買わせろ、と。
1873式75mmは、ハーレンスにやらせたが、以後、そのように改められた。
日清戦争押収野砲は、台湾警備に長く使われた。
M16以降、造兵予算に回すため、毛織り軍服を小倉地とし、金属ボタンはホックに代へ、飾具を省いた。
7センチ野砲(75mm)はM16制式。
M22に、そのための複働信管が制定された。M18の大廠のイタリア人、ポンペ・グリロ少佐の考案を数次、改良したもの。その後も、頻々改正。
1889、クルップ工場で、ニッケル鋼がつくられる。これ、特殊鋼のはじめ。
これなくしてベルタ砲もなし。
1900、テーラーおよびホワイトが、高速度鋼をつくる。タングステン合金鋼。
刃具に用いられる。
M34、大廠でニッケル鋼やタングステン鋼がつくられ始める。
三十一年式速射野砲の信管は、M32-6制定時点で「C号信管」と呼ばれた。
火道が三段式のもの。
柄付信管廻し(M35後まで修正、改正された)で、分画を測合する。
M35、これら火砲を考案した人々に対し、それぞれ行賞の御沙汰があった。
M32暮に31年式野砲の試製が7門、できあがる。
M34から各隊に交付開始。
M36-2に全砲兵隊に支給終了。
ロシア野砲は 初速590m/秒。
31年式野砲は、初速490m/秒。
レンジは、ロシアのが8000m、31年式は、6200m。ただし戦役中に改造して7800mに延ばした。
31年式野砲は、砲架後坐式。ロシアのは、砲身後坐式。
駐退機は、1897の仏で75mm砲用に制定されている。
ロシア軍の野砲は、榴霰弾のみ。榴弾なし。日本の野砲には榴弾の用意もあった。
M32-6、「三十一年式速射山砲」制定。C号信管。
水圧駐退機を使うつもりだったが、野砲と同じ、ベルビール発条に。※皿型バネ。
砲身(輸入。初期110本)を軽くしたもので、閉鎖機は同じものである。※然らず。閉鎖機は違う。
英の野砲は83ミリ。
独の野砲は77ミリ。
仏伊日の野砲は75ミリ。
米露の野砲は76ミリ。
日本初の著発信管はデマレー式で、慶応年間に4斤野山砲が使った。
有坂信管は、15cm、9cm臼砲にも使われた。
18秒複働信管(曳火が主だが、着発にもできる信管)。
本書ではこれは31年式野砲用とされている。
M31-5に仮制定。
初速が大きい野砲だと、点火しなかったり、途中で消えることあり。
M32に火道を三段薬盤にしたが、曳火精度が悪かった。
これを二段薬盤としたのがM33、修正を加えて(耐水性とした?)M35に制式。
日露戦争中の榴霰弾用に広く使われた。