旧資料備忘摘録 2020-9-8 Up

▼教育総監部ed.『戸山学校史』M30-7?
 M7-2-4に、戸山出張所を戸山学校と改称。
 同日、兵学寮の第三学舎を廃し、本校へ移す。
 ただし、第三学舎は射的一般の諸学術ならびに体操の諸学術を掌る。
 陸軍中佐の武田成章が舎長を命ぜられて、これを統括した。
 次官は陸軍大尉の村田経芳。専ら舎中の事務。
 以下、諸僚属、本校へ合併、事務を執る。

 戸山学校からの最初の欧行者は村田である。「射的学研究の為 孛仏両国へ差遣」。M8-1-18出発。同年11月16日帰朝。歩兵少佐。

 M7-8-4、游泳場を新築する。これは仏制に倣った。
 M7-9-8、弾薬庫、射的室できる。標的納屋も新築。このうち射的室はM30-4に、初速試験場へ移設した。

 M13-8-24、小銃の試験はそのつどに委員が任命されていたが、自今、小銃試験はすべて本校に於てすることに。達あり。

 M9-5-20、遠距離射場を人民が通行することを禁ず。※いまでも田舎駐屯地の中を住民が通り抜ける道があったりするが、それが危ないので。

 M9-5-31、遠距離射撃場が落成する。技師ヱシュマンの建言により、M9-3着工していた。

 M9-6-12、動的限秒射撃場ができる。開校いらい、この日まで、300ヤードの静的射撃場しかなかった。
 欧州から戻った村田が設けさせた。胸壁2個新付く。監的場を模様替え。

 M18-9-1、500m射場が落成する。
 M23-1に、600m射場も落成。

 校内字箱根山の西麓へ狭窄射撃場をM23-8-12に落成。※東京都内のささやかな高地であったため「箱根山」というふざけた地名が付いていた。

 第一期学生は、M18-9-25に入校した。
 士官には、術科として、村田式歩兵銃、村田式騎銃、ピポヂーマルチニー〔ピーボディーマルティニー〕銃、スニーデル銃、拳銃 を習わせる。
 下士には、村田銃とスニーデル銃のみ。

 「各国軍用銃の説明」という術科もあった。
 学科には「火薬弾薬筒製造論」もあり。

 M26の第11期射撃学生には、学科で「村田銃保存法」を教えていたが、M28の第1期臨時射撃学生には「村田連発銃保存法」を教えている。
 術科も連発銃操法となり、外国銃は消える。

▼『明治史研究叢書 vol.1 明治政権の確立過程』
 洞富雄「幕末維新における英仏軍隊の横浜駐屯」

 赤隊は、軍艦乗組の英海兵隊のうちの歩兵。砲兵は青服だった。
 初期横浜駐屯のフランス海兵隊には、旧「猟兵」と新「燧石銃隊」があった。1864-5頃。※燧石銃隊というのは部隊固有名詞の直訳で、なにもフリントロック銃で装備されていたわけではない。1861には日本の火縄銃もすべて管打ちになっている。

 四国艦隊から上陸作戦に参加したのは、英軍が最多で1330名強、仏350名、蘭200名、米50名。
 横浜の野毛の日本人番所の前には、長いあいだ、一対のガットリング機関銃が据えられていた。※幕府所有か。
 これがM1-1-3以後の早い時期に、取り除かれた。

 明治元年中に横浜には12518梃の銃砲が輸入されている。
 M8-3にこれら外国軍隊は横浜を撤退した。※日本軍による台湾征討作戦が直接のきっかけになった。

 以上の洞論文はS27-10に初出、訂補がS31-11。

 原口清「長州藩諸隊の叛乱」。
 M2-11に遊撃隊隊員が長官(隊長)を排斥する理由書に「招魂場之事」があった。
 戦死者の招魂場を設けようとしないことは隊兵に対する愛情の欠如だと。

 増長する一般徴募兵卒の戊辰役後の反乱を封ずる意味で木戸孝允は征韓を唱えた。
 大村は9月に襲撃され11月死亡。彼自身「戦死志士」に入るわけで、靖国にまつられることは不思議ではない。

▼田中惣五郎『日本軍隊史』1954 評論社
 独立戦争で散開戦法が生まれる。
 ナポレオンが野営を主としはじめる。
 竹橋事件の処分はM9-11に仏から訳された『法朗西陸軍律』に則っておこなわれた。
 日本の徴兵令は仏1872改正法の真似。

 1878の「軍人訓戒」と1882の「軍人勅諭」は、1890訳刊「独逸軍制綱領」にもとづく。
 軍人訓戒の徳目は、忠実、勇敢、服従。
 独逸軍制綱領は、忠節、剛胆、服従。ほぼ直訳である。

 独「軍は憲法に誓詞せずして、軍旗即ち国の統帥者たる国君たる大元帥の身体と直接の誓を為す」→この「身体」が日本では「股肱」「頭首」という表現に直された。
 また「誓(詞)」は日本では不要だった。当時、憲法もまだないし。
 ※米国では軍人は、合衆国憲法を守る、とだけ誓い、大統領や政府への忠誠は一切、誓わない。大統領も就任時に、合衆国憲法を守る、と宣誓する。

 ドイツでは将校だけに誓わせた。しかし日本では下士卒にまで及ぼさせた。
 イギリスの軍隊は、1689-12の権利章典が基準を決めたもの。

 第7条「新教徒である臣民はその防衛のため、かれらの身分にふさわしい、法律によって許された程度の武器を携帯しうる」。
 また、軍隊の編成に関する法律は年々あらため、議会の協賛を得ることを要す、とした。
 これで議会は年々開かざるを得ぬことになった。
 そして毎年保持すべき隊兵の総数をさだめるのは、常に政府の決定に任す。
 平時にも常備軍をおくようになると、1年有効の陸軍違令条例を毎歳更改するようになった。コモンローではないので。

 M2-4に「軍律」制定。西周がオランダ領印度の法を焼きなおした。武器をもって逃げれば死罪。武器を置いて逃げれば50日の仮牢。
 罰は、すばやくしなくてはならない。
 徒党は、党首をその党与の者に斬刑せしめる。

 三藩親兵は、兵卒は小銃と銃剣以外、帯刀禁止で、これに反発して辞退する者が多かった。
 なぜ当初「海陸軍」だったか。それは、幕末の軍制改革の出発点は「攘夷」であったから。
 それが、国内鎮定が主目的になったので「陸海軍」になった。

 戊辰のときに農民に貢課半減を約束し、農兵市民を使いながら、藩兵をしてこれに代え、約束を不渡りにしたことが、一揆の拡大をまねいた。

 M9の広島の田舎では年に数回しか魚を食べられなかったが、軍隊では毎日大きな皿で出た。
 斎藤実は仙台出身のため、薩摩の仁礼景範の入り婿となり、ようやく出世できた。

 M10の教導団(志願の下士官養成学校)では朝昼晩とも生卵×2個がついた。

 百姓で鍛えられた男にも、スナイドルは「重いことといったら肩がめりこみそうであった」。
 背嚢は「ランドセル」と呼んでいた。別名「提灯箱」。各家庭の玄関にあり、提灯を収納したもの。
 予備の靴を両外に1個づつ付け、毛布をまきつけ、外套を結びつける。

 桐野は少将になっても部下から「半どん」と呼ばれていた。
 尉官は艦長となることもできる。これはイギリス式で、少尉でも女王と会話ができる制度。

 官軍は、カットリング砲×2門、ミトライユース砲×1門を持っていた。
 一兵卒の証言。鹿児島へ入城し、まもなく西郷さんが自刃されたという噂を聞いて、官軍の兵もみな泣いた。西郷さんの最後が余りにも痛ましかったからである。

 竹橋暴動の近衛砲兵は、体格がよくなくてはなれず、要するに今の空挺だった。西南戦争の火力を担当した自負もあった。

▼有馬成甫『高島秋帆』S33
 1798に生まれた。
 bomb 破裂弾。
 granade 石榴弾。
 licht kogel 照明弾。
 brand kogel 焼夷弾。

 秋帆の蘭書は投獄のさいに没収され、2冊をのぞき、散逸した。
 スナッパーン猟用ショットガン。
 高島は1834から歩兵銃を輸入しはじめた。

 天保13の家宅捜索のとき、岩国の弟子・有坂淳蔵父子より注文を受けた大砲鋳造の代金の内金100両があった。
 「西洋銃陣」に使用したのは、1777年型フリントロック歩兵銃と、1815型のうち「ナポレオン燧石銃」と呼ばれたもの。

 弘化3=1846-8に斉彬が、谷山で発火演習検閲。
 1847-8に砲術館が開かれる。
 淳蔵は徳丸原〔いまの高島平である〕演習に「二子と共に参加」した。
 1841-6-28に徳丸から岩国に帰る。

 1853-8時点ですでに江川の教練は雷管銃となっており、号令は日本詞だった。
 1837に秋帆は、薩摩藩の新納主税にゲヴェール×1梃を贈る。

▼海軍造兵大監 吉田太郎ed.『徳川幕府末期ノ造兵事業沿革』大8-1-17
 嘉永6=1853年12月。
 真田信濃守が新計画。早打鉄砲を幕府に献じ、防備を助く。
 当時、江戸付近で大砲発射の稽古場は、大森村、徳丸原、佃島。

 安政元年12月23日、太政官符をもって諸国寺院の梵鐘を鋳潰して大砲小銃用材料となすべき令を発したれども、仏徒の抗議により広くおこなわれず。

 文久3=1863。湯島鉄砲製造所を関口水道町に移す。
 江川の設備と関口大砲製造所を合わせるため、元治元年=1864、滝野川村に反射炉と錐台を建設することに決め、元治元年に、江川中村反射炉と錐入場を廃止。
 しかし滝野川の反射炉は完成せず。

 徳丸参加ゲベールは50梃だった。
 江川は安政2=1855-1-16に没。

 天保14年頃、舶来の小銃「ゲウェール」と「ピストール」は火打だったが、短小の小筒または半台の猟筒等は「ドンドル」打だった。
 しかしドンドルは西洋の実戦にも使われたことはなく、輸入「フーヂー」爆【火へんに冐】も経年劣化していて火移りがよくなかった。発火はするのだが薬室に点火しない。
 試行錯誤の末、ついに粉雷(ドンドル)だけでなく精製硝石を加えることで完全なものを得た。

 幕府は湯島で使うために文久2=1862年12月にオランダに大砲施条機械×1台、小銃施条機械×1台、小銃【月唐】中鑽孔機×1台を注文。

 移転は水力の便が悪かったため。
 関口は湿地なので反射炉を滝野川に分離した。

 元治2年、外国注文した大砲製造機械が到着。
 慶応元年=1865には、池田筑後守が文久3年に出張購入した仏製大砲施条機械も到着。

 脆弱の反対語は、軟靭。

 M1-4に関口大砲製作所は、幕府→兵器司の管理に。
 ※この本は名詞がメチャクチャなので引用しかねる。

 文久3=1863年2月、大久保豊後守が幕府に、わが国はじめての施条砲製造を上申した。

▼大類伸・平塚博『伊太利史』S8-7
 西欧において最初に商業貿易のメカニズムを大成したのがイタリー人。

 イタリーに封建なし。つまり農村なし。いきなり都市ができた。
 典型がベニス。商人だけが支配し、地主はゼロだった。
 だから、土地の支配にも領土拡大にも興味はない。
 土地所有をめぐる「党派争い」のなかったことが、大発展の理由。他国にはすべてこれがあった。

 フィレンツェは内陸にあるゆえ、中継ぎでは儲からない。そこで羊毛を生産して加工して売り、大を成した。
 13世紀には英、フランドルの羊毛を、品質と技術で追い抜いた。
 そして法王庁と関係を強めたことで金融帝国のセンターに。
 教会ネットワークは、そのまま海外銀行支店だったから。

 商工業の繁栄には、カノンローでは対応できない。ローマ法が再評価され、ボローニャ大学で徹底研究された。ここからローマ法が仏英独に伝わる。つまりバンカーたるフィレンツェ人がローマ法を復活させたのだ。

 この時代を背景に、ディヴィナ・コメディア=神曲が書かれた。中世と近世の境界を画す。
 ミラノは外夷に近きため、フィレンツェのような民主制では×で、君主制都市だった。
 ヴェネツィアは、貴族共和制。
 領土の観念なき、浮島国のヴェネツィアが、陸軍で弱いのはあたりまえで、そのためミラノに対抗するにはどうしても傭兵が入り用だった。

▼セシル・モリソン著、橋口倫介tr.『十字軍の研究』1971、原1969
 馬不足も、船利用の理由だった。
 トルコ領内は水不足。馬が死ぬ。それも一因。

 イタリア艦隊の主力は、ジェノア。
 中心戦力は、フランク槍騎兵隊。
 アラブ側は軽装甲だったので、無敵。

 トルコの弓騎兵が間合いを保った場合のみ互角。
 第三回以降は、1人の騎士は徒歩の射手(アルシエ)または弩手(アルバトリエ)を2人引き連れた。

 ヴェニスはすでに11世紀末からビザンツ内に居留地をもっていた。
 よって十字軍は、販路をきりひらいたのではなく、金貨(輸送賃)をイタリア都市にもたらし、その金貨で、東方の物産を多量に仕入れることが可能になった。

▼『日本と世界の歴史 第9巻 12世紀』S44
 1095 クレルモン宗教会議。
 1099 第一回十字軍がエルサレム占領
 1147~1187 第二~第三回。聖俗老若男女、いっせい参加。

 トルコに押されたビザンツが、ローマ法王に傭兵派遣を懇請したのが1073のこと。
 レコンキスタに同期して、南イタリアのノルマン人は、東方進出を企図。
 北イタリアの諸都市は、相互に競いつつ、東方に経済帝国主義を追求。
 ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、いずれも 寡頭制の共和国。

 西ヨーロッパでは農業生産が発達。騎士は土地不足を感じた。
 イベリア、ドイツ、フランス、南イタリアより4ルートで1097にコンスタンチノプルにいったん終結。総兵力1~10万(よくわかっていない)。
 1099からエルサレム包囲。1ヶ月後の7-15に占領。イスラミックを大虐殺。

 第二回を開始する二十数年まえ、三大騎士修道会ができる。テンプル、聖ヨハネ、ドイツ。ここではじめて「武」と「聖」が一致。

 サラーフ=アル=ディーン →サラディン。

 12世紀に工業製品の交換地として欧州に都市ができた。
 12世紀に「村の鍛冶屋」あらわれ、鉄製有輪犂ができる。肥沃な、重く湿った土を深く掘り起こせる。
 三大発明。蹄鉄。馬の肩に掛ける牽綱。牛の前額を使う牽綱による縦列繋駕法。

 馬は牛より牽引力は小さい。しかし縦列化させると、馬力×スピードで無敵となる。
 馬はそれ以前はもっぱら軍用だった。12世紀から、三圃農法で燕麦がとれるようになり、馬が増え、それが耕作用になった。

 粉挽きに投じていた人力は、水車で代用された。
 冬秋畑(小麦とライ麦)→夏春畑(燕麦と大麦とえんどう豆)→休耕&放牧地→冬秋畑………これをえんえん繰り返すサイクル。19世紀まで不変だった。

 英国では穀物栽培が遅れて、領主が発達できないでいたところ、12世紀に突如として最高品質の羊毛がとれるようになった。おかげで14世紀に一挙に近代化。

 中世城塔(ダンジヨン)は、H=30mくらいが多い。壁厚は2~3m。
 石造の城は、十字軍でコンスタンチノプルなどを見て、模倣が広まった。~13世紀。

 フランスのシュバリエは、ドイツのリッターである。
 マーシャルの原義は「厩吏」である。

▼メーリー・A・ウォード著、加藤直士tr.『英国戦時の努力』大6-10
 ドイツ軍の前進で、仏はスチールの四分の三を生産できなくなった。そこで英は shell 用のスチールの三分の一をフランスに送っているところだ。1916-8月中旬。

▼水野祐『勾玉』S44
 鏡は太陽で、勾玉は月。だから日本海側に「攻玉」技が発達した。航海文化だから。

 ヤサカニノマガタマは何色なのか?
 勾玉の多くは碧玉製。碧玉は出雲にしか出ない。それで玉造という町名がある。

 後藤守一の説。三種神器と皇位継承のしるしの神器は別なものである。天皇になったときの祭にもちだされるのは、さいしょは鏡と剣だけだった。剣は青銅剣、鏡は白銅鏡だから時代も神武まではさかのぼれまい、と。

 小林行雄の説。弥生といえば銅鐸。その銅鐸が三種神器にも神話にも出てこないということは、銅鐸がすっかり忘れられた時代に「三種」「神器」が定着したことを示唆する。
 それは古墳時代前期だ。仲哀紀には、筑紫の土豪が天皇を迎えるとき、白銅鏡(ますみのかがみ)、十握剣、八尺瓊勾玉を木に飾って迎えに出た、と。

 敗戦後は古代史家の信用が地を払い、古代史については考古学者に語らせる風潮となる。

 後藤氏いわく。鉄剣は時代が下るほどにみすぼらしく思われただろう。誇示の目的ではむしろ銅剣の方がよかっただろう。
 ※もし壇ノ浦の時点で鉄劒がボロボロに錆びていてみすぼらしかったなら、捨てても構わんと思えたのかも……。

 日本国内の鋳造品を、「【にんべんに方】製品」という。
 すべて古銅器の鋳なおしである。なにしろ銅鉱山は7世紀まで未発見なので。
 古銅器は神聖な場所に埋めておき、後で掘り出して鋳直す。そのあいだに「霊」もつくのだ。

 スサノヲがやまたのおろちの尾から得た劒を、伊勢神宮に置き、それをヤマトタケルがたずさえて東征した。 その途中で焼畑を切り抜けて、「草ナギ」と呼ばれるようになった。
 帰路に死亡したため、剣は熱田神宮に留まった。

 アメノムラクモ……大河の源頭の高地はいつも雲がかかっている。その霊が移っている。

 安徳帝は三種神器もろとも沈み、神剣のみ浮かんでこなかった。
 それで代用とした神剣を、江戸時代にこっそり見た者がある。それによると、両刃の柳葉状の切っ先部分が2尺1寸から2尺2寸あり、それと柄との間に6寸の、刃がついていない金属部分があった。その6寸の金属部分は、小鼓状に側面が弯入した糸巻きの芯を3段重ねて直列させたような意匠であったと。
 金属部分は白色だったというから、白銅製らしい。
 剣は三重の箱に収められていた。いちばん外側は木箱。その内側の石の箱との間に赤土が詰めてあった。石箱の内側には樟の丸木をくりぬいた容器があって、剣とともにGoldが敷き詰められていたと。

▼田村栄太郎『日本工業文化史』S18
 祟神天皇のとき、弓弭の調として鹿皮、羚羊皮、猿皮、熊皮を徴収した。これが日本の税徴収の初め。
 やがて顕宗天皇の頃になると、皮は絹布でおきかえられ、税ではなく、副物(貢献)になってしまった。

 シナでは毛があれば皮、なければ革と書く。柔らかにしたのは韋である。
 祟神の代は、なめしではなく松枝燻製だろう。

 鉄砲製造が盛んになると、国産鉄では脆いので、シャム鉄が輸入された。いわゆる南蛮鉄。これは刀剣や鎧用としては不適なものだった。

 陣笠は幕末からある。紙製。
 江川の韮山笠(藪潜り)も紙製。
 明治に軍帽にかわった。