旧資料備忘摘録 2020-9-9 Up

▼小林精一『戦時日本重工業』S13
 機械類はS4に、1億5000万円の入超。
 その後、漸減して、S11に出超に転じ、S12もわずかに出超。
 トレードバランスから見て、自給に達した。

 日露戦争の前夜。ドイツから、38式野砲用の単一プリズム固定接眼鏡を購め、それをもとに、「三八指揮表尺眼鏡」を初国産。東京砲兵工廠の精機製作所にて。

 またクルップ砲とともに、プリズム双眼鏡、カニ眼式砲隊鏡も輸入され、それらは日露戦争後に、37式双眼鏡、37式砲隊鏡になった。

 大震災で、陸海ともに、民間頼みに切り替えた。「日本光学」が浮上する。
 昭和初頭、陸軍は間接射撃に全面転換。測遠機の需要が急増。

 海軍の測距儀は、大5のジュットランド海戦教訓により、ドイツのステレオ式を採ろうとするも、結局、単眼複合式に。そのご航空機が発達して、ようやくステレオ化。

 S2頃、12センチ双眼望遠鏡があらわれた。艦隊は、夜戦を重視するので、さらに大きな型をリクエストした。
 しかし人間の眼の瞳孔の制約から、レンズを矢鱈に大きくしても効果はないのである。この理論を百万遍説明しても、海軍側は理解せず、大型のものが欲しいと言う。それならば、極限のものをつくってやって、たしかにこれ以上大型にしても何にもならぬと体験で知ってもらうよりあるまいと、製作したのが21糎双眼望遠鏡であった。

 艦の振動の関係で、倍率は20倍が実用上の最大限界なのである。かたや、瞳孔Maxは7ミリ。その20倍だと、140ミリ径でいいわけだ。ところが海軍はそれでは小さくて不満だという。ならばと、実用にならぬのは承知のうえで、30倍の21糎径のモノをこしらえて納品してややった。
 振動が、倍率だけ倍加されるということを、海軍エリートたちは、なかなか理解しなかった。
 結局、日本海軍の双眼鏡は、18cm以下になっている。

 M23、英国で、正像合致式プリズム測距儀が発明された。
 M26、『吉野』に武式FA2型4フィート半の測距儀を初搭載。日露戦争の『三笠』などの大艦は、これであった。

 武式とは、英国のバー・エンド・ストラウド社製のこと。
 ただし陸軍では、イタリアのブラチャリニー(電気式)を指す。

 陸軍技術界の主幹は要塞砲兵(のちに重砲兵科となる)。
 これは海軍と同じで、終始、科学の先端で勝負するためだ。

 38式野砲用に、38式表尺眼鏡が国産された。跳躍ショックの大な野戦砲に光学兵器がついたのは画期的だった。

 S7において、3年式MGは1500円。38式歩兵銃は40円。38式野砲は9000円した。
 37式砲隊鏡、98式、2式、93式、91式は、2種で充分なのに、まったくムダなことをしていた。
 気象眼鏡は、曇らない。

 支那軍のエリコン20ミリの対空・対地威力は、日本軍には印象的であった。
 さっそく、味方の歩騎兵から、20ミリを持たせろという声が上がった。

 S5に、3年式重機関銃を92式重機関銃に更新するのにあたり、後付け式の専用照準具も開発された。先鋭弾を使用するようになって、重機のレンジが3500m→6000mと倍増していたので、倍率のあるスコープ式でないともはや狙撃はできない。

 最初ホチキスから来た、対空射撃用の照準眼鏡は、非追随式。空の一点に照準を固定して一連射すれば、敵機の方からその火線に飛び込んできて、1発があたるだろうと期待をする。
 この方式は不満なので、別なものを国産した。
 S9に東京光学で試作。

 砲身は小倉造兵廠、砲架は「日本車輛」、弾丸は東京造兵廠。
 しかし砲口を出た瞬間、被甲が破れ、横弾になることが分り、タマを改良した。
 S12に第4回の試作を完了。

 成績は良くなかった。そこへ、ドイツのラインメタルが売り込みに来た。が、500~600m先の吹流しに1発も当たらなかった。
 けっきょく、国産の98式20ミリ機関砲になった。

 S7に20ミリMGの設計要領書の作成を命ぜられた。
 S8-2に第一回試験。
 S8-7以後、8門増加試作。

 従来なら設計要領書の作成に1ヵ年、試作に2~4年なのに、これは1ヵ年で実用化した。
 当時、最強。
 エリコンL型が、タマ125グラム、初速700m/秒なのに、98式は、タマ190グラム、初速980m/秒だった。

 当時最も新しい管状無煙火薬72グラムを装薬に用いた。輸入列車砲以外で、初速が800m/秒を超えたのは、これが初めてだった。

 海軍航空隊では、S15夏以前は、ドボアチン銃(ターレットガン)とその照準具ノルマン式と動力がそのまま国産されていた?

 山口一太郎(M39生まれ)。92式装甲車用 15ミリ〔?〕機関砲用の折曲式照準眼鏡をつくった。

▼村井幸雄(留辺蕊住民、自衛隊を応援)、前田哲夫(1938長崎生まれ)、手嶋龍一(NHK)『東京発・北方脅威論』S55-12
 TBSの時事放談で、細川と藤原弘達は、北海道にはスパイがうようよいると語った。
 日ソ友好会館は、札幌、釧路、猿払にあり、S55に稚内にもできた。

 ソ連脅威論は週刊誌では78年から。月刊『現代』でも78年から。

 S53に公明党が自衛隊認知。金丸防衛庁長官のプッシュ。
 S55頃、雑誌『国防』の元気がよかった。

 栗栖は『仮想敵国ソ連――われらこう迎えうつ』の中で、ソ連軍は道東の標津町、次に道北に来るだろうと。第二師団は玉砕するかも、と書いた。
 当時、ソ連の師団砲兵は、レンジ25000mもあり、国後島から標津町の体育館に届くはずだった。

 アフガン戦争の当時、西独人いわく。
 ソ連はアフガニスタンに侵入したからこそ、日本を侵略する余裕など、向こう十年間は、ありえないだろう。

 この1年半あまりで、空母『ミッドウェー』と『レインジャー』は、タンカーとの衝突事故を起こした。
 海自は一貫して、北方脅威論(含む・栗栖)を批判した。現役もOBも。
 代表は大賀良平・前海幕長。今年9月に札幌市で、ソ連の北海道上陸はありえず、あるとすれば半島づたいだ、と講演した。
 しかもそれはWWIIIの一環としてだという。
 ソ連軍の兵站線は、石油燃料も含め、シベリア鉄道のみ。それで、ウラジオストックを防衛するだけで汲々としているのだ。

 この頃すでに海自は「シーレーン防衛」という錦旗を得ていた。それを持たない陸自が焦っていた。
 室蘭に、楢崎造船あり。中小造船のホープだった。

 S51の「鉄冷え」で、室蘭を軍港化しようという提案があった。※1976には経済危機はあった。
 戦前は、大湊と室蘭で、軍港誘致を競ったものだった。※室蘭は艦砲射撃されたが、大湊は無事。選択は、正しかった。

 函館どっく は 労組が強く、その支社のあった室蘭も、総評=社会党に支配されていたことあり。

 海自はソ連が北海道に来ないと分っているので、防衛は大湊地方総監部がやっている。出先として函館(基地隊)と余市(防備隊)と稚内(基地分遣隊)に、ごくわずかのフネを置くだけ。

 標津分屯地 第302沿岸監視隊。
 稚内駐屯地 第301沿岸監視隊。
 礼文島   第301沿岸監視派遣隊。

 外務省は55年度版の『外交青書』で、初めて本格的に防衛問題に触れた。
 木村汎はこの頃から、北海道侵攻はまずありえないと言っていた。
 木村は左翼ではなく、反モスクワ発言が多い。北海道に永住すると決めた。

 日露戦争は、外交によってまず不敗の立場を得ていた戦争。日米戦争は、外交の自滅。ところが日本の民衆は、そういう話に興味がない。だから小説でもノンフィクションでも、将軍や兵隊の活躍ばかりが、語られてきた。

 この頃、旧海軍の中佐参謀だった関野英夫が元気がいい。シーレーンを名分に、海自拡張をブチ上げている。
 USSBSは米国の単独勝因として船舶攻撃を挙げている。
 チャーチルも、日本は原爆を落とされる前にSLOC消滅で負けたと言っていた。

 堀田善衛は、島原の乱を題材にした小説『海鳴りの底から』を書くとき、古文書に「百姓ばら皆ことごとく素肌なれば、誰か城中の鉄砲を恐れざらんや」とあるのを見て、民衆が非武装なのは日本史の異常なところではないかと思った。
 ※素肌が恐れるのは弓矢なのである。鉄砲は甲冑を貫通してしまうのでどうでもいいのだ。

 この頃、スイスの民兵制度と、米国のモーゲンソー理論〔国際関係論。要はクラウゼヴィッツの学的翻訳〕がようやく流行。

 1973、札幌地裁の福島裁判長は、長沼ナイキ訴訟の判決で自衛隊を違憲と言い、ソ連が攻めてきたら民衆が武器をもって群民蜂起して抵抗すればいいと言った。

 元防衛庁官房長の海原治すら、日本本土は百万人の郷土軍の志願兵で守ればよい〔=陸自はとことん弱めるべし〕というのが持論。シーレーン分担にも反対。※元内務官僚としてはこっちが自然なスタンス。同じ内務省出身者でも栗栖氏はとびぬけて異端であった。

 マルクス主義教授の宮田光男は岩波新書で『非武装国民党抵抗の思想』を書いた。
 この頃、フランスの軍事費は、GNPの3.3%で、国家予算の17.5%を占める。そのうち人件費が58%だった。
 スイスでは、パンは、3年前の古い貯蔵小麦で焼かなければならない。つまり、常にストックが3年分あるわけ。

▼伊藤七司『米国の対日謀略史』S19-10
 ペルリの白旗のエピソード(p.36)。
 著者は新聞記者として20年も米英支で過ごしてきた。NYCやDCの朝日新聞の支局長だった。
 参考文献として、匝嵯胤次『深まりゆく日米の危機』、原田棟一郎『米国の朦朧主義』など。

約2ヶ年の米比戦争。比人は北ルソン島で1014人戦死。南ルソン島で3227人戦死。
 この当時、ボーア戦争では、戦死1に対して平均5人の戦傷。だがこのときの比人は逆で、戦死5に対し、戦傷1であった。つまり、米軍は捕虜殺しをしていた(p.71)。

 S19現在、米国人口は1億3000万人である。
 ライフ、タイム、フォーチュンなどのエディターを集め、戦後問題を研究させている。その対日占領案が紹介されている(p.273)。
 第七項目として、陸海軍高級将校、官吏、新聞、産業の指導者層は処刑する、という。

▼高橋清蔵『水路隧道施工法』S26
 発破で「悪瓦斯」が生ずると、作業員が頭痛をおこす。※COだ。

 大10までニトロ・ダイナマイトはすべて輸入であった。
 桜印ダイナマイトは、吸収材にもコロディオンという爆薬を用いた。それ以前は、発破とともに吸収材がミストとなって坑内に浮遊し、作業しにくかった。

 松は、桜よりニトロの量が多い。特別硬い岩盤に用いる。
 商品としてのダイナマイトは50ポンドが1単位で、S16頃、米国で8.375ドル~5.76ドル。
 この当時、1ドルはほぼ2円だったが、日本では30円から38円した。国産品はコスト高すぎた。

 いきおい、日本では、人夫をたくさん投入し、発破の代わりをさせるという非能率コースに……。米国とはまるで逆だったのである。

 崩落現場まで鉄管が通っているときは、まず、縦割りにしてつぎ足した青竹を押し込む。その端にワイヤーを結ぶ。
 それからワイヤーに食い物をむすぶ。
 あとは両端で引っ張ることで往復させる。
 坑内からは、キャラメルと煙草がよく所望される。
 ただし、崩落から9時間くらいは、呆然としていて、鉄管での連絡など思いもよらない。これが浦島太郎現象。

▼荒井潔『航空無線と車輛無線』S19-4
 マルコーニの発明は、ベルツの電磁波がローパワーすぎたのを、懸垂空中線(数十m)と、アースによって大容量とし、実用化したこと。

 短波はカミナリの影響が少ない。
 ヒッシングは、吹雪のときに起こる。

 土がまともなら、銅線数十條を地下1mに放射状に埋めれば、アースは十分。「地線」という。埋められないときに地上に置くもの、これを「カウンターポイズ」(アーススクリーン)という。

 航空機の車輪や尾橇には、接地時に機体の帯電を一気に逃がす銅線が垂らしてある。

▼赤根、落合『日本の安全保障』2004
 1970年にベトナムでの米人の戦死者は、朝鮮戦争の55000人を超えた。
 1969から「ベトナム化」。

 ソ連もアンゴラに出兵したので、1970年代なかばに、デタントは形骸化。
 米国内には厭戦の感情。
 それを追い風にして、カーター大統領が当選。
 1979-1には米支国交正常化。
 ソ連が猛反発。
 79-12にソ連はアフガニスタンに侵攻。

 以後、ソ連だけを孤立させて、米国は勝利した。
 そのさい中共との連携が必要であった。
 ただし中共のほうでは1983から対米警戒モードに入っている。そして1989-6の天安門事件。

 69-7にニクソンが、グァム・ドクトリンを発表。米はアジアへのコミットメントは減らす、と。
 1958に北鮮内からシナ兵がいなくなる。
 61にいちおう北鮮は、ソ連と中共と、等距離を保つことにする。

 カーターの方針は韓国にはショックだった。サイゴンと同様に見捨てられてしまうと思った。
 1975に訪支した金日成は、戦争したくてウズウズしていたが、中共が止めた。

▼小沢治郎『アメリカ鉄道業の展開』1992
 メキシコ戦争でも鉄道を少し利用した。
 ドイツ軍は南北戦争を分析して鉄道の利用法を掌握した。

 南部は沿岸海送と、ミシシッピ水運で、南北方向に結ばれていた。しかし北部とは、不完全な線路結合が2箇所ほどあったのみ。

 内戦中、北部には連隊の野営地があった。南部麒次郎には中隊のキャンプ地しかない。
 南軍は最後まで、交通統制はできなかった。

▼海本徹雄『米国のカリビアン政策』S18
 プエルトリコ、ハイチのモオル、セントニコラス、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)にも、米海軍の根拠地があった。

 1917-1に合衆国は、ヴァージン諸島をデンマークから買収した。
 ニカラガと条約を結び、大小コオン諸島を領有。フォンセカ港に根拠地を建設。

 英仏は1852頃、キューバを米国が領有することに反対した。
 ロシアが旅順に出たことで、米国はもう孤立はできないと悟った。

 1912、米はキューバを占領。三度目。
 1914、ハイチで反乱。米独が海兵を上陸させ、外国人を保護した。WWIで独仏はハイチから手を引いた。

 1916~20年に、米海兵隊員のために殺されたハイチ人は三千数百名。
 1916-5、アメリカ海兵隊がドミニカ上陸。

 米西戦争で、プエルトリコは1898-7に占領され、その後、割譲された。
 1902頃、英はカリブから撤退。もしこだわっていたら、米英戦争は避けられなかったろう。

▼笠本良明ed.『米国の中米政策(第一)』S4、満鉄東亜経済調査局pub.
 1906-6、キューバ占領。
 1914、メキシコのVera Cruz 占領。
 1915-6、ハイチ、ドミニカを軍事管理下に置く。
 1916、北部メキシコを占領。

▼上海佐原研究室ed.『支那と米国の関係』大8
 ※佐原篤介。
 大7にすでに米国は支那市場から好意的に迎えられていた。
 米宣教師がビジネスチャンスを調査し、コーディネイト。
 英は米を後押しした。直接対決を避けるために。
 1812、米国水兵が暴行を働いたので、清国政府は通商を一時禁じた。

 日清役後、英国は揚子江の一帯について、フランスは海南島について、日本は福建省について、ともに支那が割譲はしないという条約。
 1899-12、ヘイの門戸開放宣言。支那不分割の世界輿論を一定した。

 一方で支那移民を排斥したので、1905に米貨排斥運動。
 唯一アメリカが獲得していた粤漢鉄道も回収されてしまった。

 米は1909に列国に対し、満洲鉄道の中立化を提議。
 北清事変の賠償金を一部、免除した。

 米は1910に1億円の借款を提議。
 1911に民国政府を最初に承認。親米感情をかちとる。

 1909-11、米ノックス国務長官は満州の一切の鉄道を清国に買収させて、永久中立させるべきだと提言。
 清の歓心を買い、日露の協商を挫く妙手であった。

 陝西省で石油が出ることが分っていた。地名から、延長石油という。岩石の亀裂より自然湧出していて、明末から燈油に用いられていた。最も有望だった。
 その他、四川省、雲南省、広西省などにも油徴はあった。

 光緒32年=1906、仏人がまず延長油田を調査。光緒33年4月、第一号井が開井。
 黄河に近いが、山西~陝西の間は渓流で、とうてい船揖の利なし。鉄道が必要だが、その計画はなかった。

 附録二。ハリマン氏の極東策。/George Kennan 、大6。
 かつてロシアは米国企業家にシベリア鉄道をつくらせようとしたが、ユダヤ資本が反対し、流れた。
 ハリマンは、ユニオン・パシフィック線の改善で実績あり。太平洋汽船も有し、満鉄を拡張し東清鉄道を買収することで世界一周鉄道を持てそうであった。

 小村はポーツマス条約第6条に反するといった。南満洲鉄道を日本に譲渡する場合は清国の承諾が必要としてあった。その承諾を得て満鉄をぜんぶ手中にして後でなくばハリマンとの交渉は不可である、と。

 この計画が流れたことによりWWIのロシア政府は単線のシベリア鉄道から十分な米日の物資を受け取ることができず、亡びた。

▼恒川真『ルーズヴエルト東亜政策史』S19
 1934春から満洲で石油資源調査。
 1934-2に満洲国石油会社法。三井、三菱、満鉄、小倉石油、日本石油と政府が出資。150万トン/年(満洲需要の半分)の生産を目標として、油井を探した。

 1934-11に、石油統制法を公布。
 米英は、満洲への石油輸出にいろいろな制限をつけられたので、たびたび抗議した。

 S14-10に、米水上機母艦『ラングレー』がフィリピンに増派される。重爆×15機も。
 1940-8に米国は対ソのガソリン輸出を解禁。

▼川崎柴山(三郎)『西南戦史』M26
 「丁丑乱概」「戦袍日記」は薩側の基本資料だ。
 第一旅団の川口武定「従征日記」も。

 官軍、およそ兵餉は、精米1合で1団飯とし、中に白梅を入れ、あるいはミリを入れる。
 その2個を紙につつみ、百口餉を苞に入れ、二名の車夫に一苞を担わせた。

 スナイドルの弾薬は、500発または450~460発を1箱に入れ、2箱を1担として軍夫2名に担わせた。200発入りの布嚢もあった。

 格之助、綱良は、西郷をたすけて私学党を軌道にのせた。
 西郷はかならずまず篠原ひとりに相談した。桐野、村田は既決のあとでなくば聞かされなかったという。

 エンピール=夜比耳銃。
 官軍は、後装銃用の弾薬×14万発をつくった(田原坂前期)。
 4月4日、官軍の村田〔経芳〕少佐の報告(征西戦記)。――後装銃弾×400万発を、31日をもって福岡に送った。なお341万発が、神戸・大坂にある、次船で送られるところだ。東京に100万発、仙台と青森の間には100万発ある。これらも大坂に送る。以上が、製造中のものを除く、後装銃弾の全部である。

 エンピール×3000梃、弾薬200万発は次船で送る。
 エンピール×5000、タマ100万発は東京砲兵本廠にあり、不日、大坂に至るべし。経芳は次船を以てこの弾薬とともに福岡へ帰るべし。

 山砲弾は十分、足りていた。
 16日には西郷従道中将は山縣に、今から30日経てば日産20万発製造できる、そのための機械を工部省と横浜で徹夜で造り上げた、と。

 熊本城守備の谷干城は初め、桐野が私学党を扇動しているのだと思った。ところが西郷が率いて来るというので、心ひそかに驚き、断然、守城の策に決した。
 谷の思惑。唐が安禄山に亡ぼされなかったのは、張巡が【目へんに隹】陽城を守ったからだと。谷は、のちに斯文学会を設立するほど、兵学と史学に通じていた。

 万馬騰蹴、弾丸紛飛。

 守城中は互いにその喉をしめ肉を食いたいと思ったほどだと、谷は述懐した。
 樺山資紀は、開拓使の払い下げ汚職のとき、匕首を懐にして黒田に迫り、罷めさせたと。
 別府晋介は桐野の従兄弟。

 官軍の支給統計。
 スナイドル×8287
 アルミニー×3845
 マルチネー×2903
 ツンナール×2533
 短スペンセル×204
 スタール×375
 エンヒール×24480
 短レカルツ×70
 長スナイドル×143
 長ツンナール×300
 長スペンセル×1000
 シャーフル×142
 ヒストール銃×440
 四斤山砲×45
 四斤野砲×9
 長四斤山砲×2
 クルップ野砲×12
 ブロードエル山砲×6
 二十拇臼砲×11
 十三拇臼砲×14
 十二拇臼砲×4
 アルムストロング砲×1
 ウイットル砲×2
 カツトリング砲×2
 ミトライユース砲×1

 海軍消耗の弾数。
 「ミトライ」と「カツトリング」合計して13万1120発。
 ミトライ 47120発。 カットリング84000発。 これらは全部陸上に置いたらしい。

 普仏戦争でメッツ城には3ヶ月の糧食と30万の兵が残っていたが、算数に精しかった司令官は降伏した、と西郷。

 大山は「ウドの人望取り主義」と言って、西郷流を好んでいなかった。

▼市瀬敬三郎ed.『熊本城史梗概』大6
 第六師団がそのまま使っていた。

 M10-2-22~23の部隊配置図をみると、城の北西方向は囲みを設けていない。
 桐野はまさにその反対、南東から攻めていた。
 村田新八と別府晋介は南西から。
 篠原国幹はその空けた側、遠くにまわりこむような布陣をしているから、この「囲師必闕」策は篠原の戦術なのだろう。

 地雷は、濠のない崖の直前の道路に埋伏してあった。つまり北~西。

 賊の1個小隊は200名(別府の小隊のみ80名)。
 10個小隊で大隊。

 白川左岸(外濠)には漆畑があったが、官軍が放火し、M10-4-8に焼けた。6Dがそう書いているので間違いなかろう。

 M5-4、桐野少将が鎮台司令官。
 M6-3-3、桐野は帰京し、4月5日に谷が鎮台司令官に。
 M7-7-15、谷が辞めて野津鎮雄にかわる。
 M9-6-15、野津→種田政明に。
 11月9日、種田からふたたび野津に。
 ※西郷下野を承けて薩人を外したのか。

 M10-11-21、谷は中将になり、東部監軍部長に。
 12月10日、曾我祐準少将が熊本鎮台司令官に。

 官軍は1個大隊750名=4個中隊。1個中隊は4個小隊。

 谷は14日に多数の市井職工を雇役して地雷を製造せしめ、15日、火薬を散蔵する措置をとった。
 19日午前11時40分、城中発火。火元は鎮台文庫附近。
 この日、大山・西郷従道の手紙がもたらされ、斥候すでに潜入。

 守城官軍の歩工兵、警視隊の執銃者はすべてスナイドル。これは直前に支給された。
 砲卒はスペンサー。
 馭卒は拳銃。
 臼砲は12拇と20拇の2種。

 歩工兵はスナイドル銃剣。
 曹長以上と警視隊員は軍刀。
 砲卒は砲兵刀。

 スナイドルのタマ、1285800準備し、630800消費。
 エンピールのタマ、878700準備し、573000消費。
 ピストールのタマ、7459準備し、3992消費。

 右の外、守城軍は3月27日に至り、「抛擲弾」の製作に着手し、1週日の後、約100個を得。出撃に際しこれを敵塁に抛擲し、多少の効果を挙げたりといふ。
 兒玉少佐が武庫主管に命じて作らせた。硝子瓶中に火薬、硝子破片、釘等の鉄片を填実し、紙布をもって硝子瓶を貼し、木管を栓し、導火索を挿入した。
 これ以後、明治37年まで陸軍は手榴弾を作らなかった、とする。

 「工兵用の丁字鍬」。
 賊は熊本隊と協同隊のみが、新型の「ライフル」銃を持っていたという。

▼江沢譲爾『黄河流域に於ける農業形態の経済地理的考察』S14-12
 黄土は高原地帯では100m厚ある。
 既に水により脱塩されている。
 黄土なら、海抜2500mでも耕せるが、南支では700mが限度。いかに沃地か。
 粒は、小さいのは0.01mm以下。そして多孔質。

 小麦はコメより気温に敏感。
 北支は自然降雨が無灌漑畑作の必要量には足りない。
 北支はいつのまにかコメから小麦中心になった。が、北支の役畜利用はヨーロッパより少ない。
 理由。人口が多すぎ、牧草地がない。また、牧草が堅い。また、牧草を燃料にしてしまう。

 なぜ欧州ではプラウの必要があったか。
 地力の疲弊を防ぐためには、深耕が不可欠。重いプラウを6~7頭の牛か馬(どちらも濃厚飼料を要す)で引かせる必要があった。
 北支では黄土に毛細管現象があって、地下の養分が勝手に上の方に出てくる。
 むしろプラウを入れるとその管構造が壊れる。

 年25mmの自然雨水があれば、小麦はかってに育つ。
 高粱はさらに少なくてよい。しかし反収に劣る。

 小麦作はどうしてもそれだけでは暮らせるものではないので、副作商品を要す。
 北支は石炭が少ない。だから木も草もみな、燃料にされる。
 黄河が一部で澄んだことは過去にじつは数度ある(p.63)。

 アヘンは北支で作り、中支で消費す。多いのは、甘粛省、陝西省、河南省、山東省(pp.82~)。
 阿片は8世紀に知られ(アラビアから来た)、12世紀以後、加工されている。