▼中村新太郎『鬪ふ火砲』S19-4
著者は故実家で、陸軍画報の編集長。既著に『陸戦の華 戦車』ありという〔未見〕。
三脚の上に置かれ、片目レンズにて接眼する、コンパクトな光学機材。「磁針方位板」という。
コンパスとメガネが組み合わされたもので、倍率は4倍から5倍。
特別大演習では砲兵もしっかり全身擬装網を肩からかける。
36連「カチューシャ」の写真。
米軍の203ミリ榴弾砲の写真。
M9にクルップ7.5cm砲を買ったのは、普仏戦で仏が負けて、四斤砲(8.65cm)に魅力が失せたから。
大砲には「高低射界」と「方向射界」がある。
敵アメリカやイギリスには10.5cm加農がない。米軍には要地高射砲として10.5cmAAGはある。陣地の固定式。しかし機械牽引砲としては、11.94cm(4.7インチ)加農である。
英軍だと60ポンド砲(5インチ=12.7cm)がこれにあたる。
ハリケーン2C型とタイフーン1B型は、どちらも翼銃として20ミリ×4門。
ハリケーン2D型は、40ミリ砲である。
英で使用しているミッチェルB-25は、75mm砲である。※この情報が先行してあった。
米軍のM2(新型)7.5cm野砲は、レンジ13700m、装輪開脚式、自動車牽引。
米軍のM1 7.5cm山砲は、レンジ8300m、方向射界6度、単一箭材[せんざい]。
米軍の10榴は、105ミリ、レンジ11000m。
米軍の12加は、レンジ18500m
米軍の155ミリ榴弾砲は、レンジ14600m。
米軍の155ミリ加農M1は、弾種がいろいろだが、代表的なものは、弾重43kgで、レンジ23000m。
米軍の20.32センチ(8インチ)榴弾砲は、砲架が15加と同一共通。弾重90kgで、レンジ17000m。
米軍の240ミリ榴弾砲は、レンジ16400m。4個にバラして機械牽引できる。
米軍の高射砲。機動式3インチと、固定式の105ミリはどちらも旧式。新式は90ミリで、これをもって3インチ高射砲を更新するつもりだ。
この下位の装備が、M3型37ミリ高射砲。初速840m/秒。
米軍のATGには、37ミリ(M3)、76ミリ(自走M10)、155ミリ(自走M12)がある。※15榴が対戦車用だと認められている。
米軍の迫撃砲は、60ミリ(レンジ70m~1750m)と、81ミリ(普通弾レンジ3000m、重榴弾レンジ1200m)。※107ミリはスルーらしい。
歩兵砲として、M2(37ミリ)がある。※なんとこの本は57ミリをスルーしている。
英軍は、中口径まではポンド表記だ。
榴弾砲には、94ミリ(3.7インチ)、114ミリ(4.5インチ)、152ミリ(6インチ)、88ミリ(25ポンド)がある。
加農には、127ミリ(5インチ)、152ミリがある。
ATGは、ビッカーズ40ミリ自動砲。
AAGには、レッチンガム94ミリ(射高12000m、機動式)あり。
単箭の端末にあるリングは「架尾環」という。その上にある「ヘ」の字形のハンドルは「照準棍」という。ここを持ち上げて単箭を旋回させて、砲身の射撃方位を転換するから。
ミルのことを「ミリイ」と発音していた。だから「密位」。
1度は、17.8ミリイに近し。
円周を6400等分しているのがミリイ。そうしておくと、二分の一、四分の一、八分の一……と分割し易く、便利なのである。
「基塔式」は、ボフォース75mmAAGのような形状をいう。
161頁。理研提供のレア写真。茶褐薬(TNT)を溶かした液体を、上蓋のない薬缶のようなものから、砲弾の頂部の穴に注ぎ入れている。ミニ漏斗を介する。液は白い。
175頁~、光学兵器の、図版付きの大解説。
十糎双眼鏡。測量用の三脚のようなものの上に固定する。
砲隊鏡。カニメガネ。10~15倍である。
これにカメラを付けると「砲隊鏡写真器」となる。IRで敵の擬装を見破れる。
観測鏡。陸上で用いるペリスコープである。みじかいもので5m、長いものは地上から20m以上も立ち上げる。倍率は7倍から20倍。
掲載写真は「16メートル観測鏡」で、基部には梯子がついている。
地上標定機。目標までの高低角と水平角を測量する。10倍。
「潜望式経緯儀」は、我が砲兵陣地と、敵陣との平面上の位置関係を測量する。大倍率で、8km先まで見える。
この略式が「磁針方位板」なのだ。
測高機は、対空用の測遠機である。
陸軍の測遠機のことを海軍では測距儀と呼ぶ。
基線長75センチだと、10km先では誤差650mとなる。基線長が100センチなら、10km先の誤差は485mだ。
97式高射算定具は、杉本清蔵・技術少佐によって完成された。彼はS18に表彰されている。
なんと昭和5年から開発を始め、S10に概成。完成したのがS14だ。戦前の計算機。
もし1箇所が壊れても他のパーツが補い、機能し続けるようにこころがけたという。
岡本正彦少佐が、97式を簡便化して量産性を高め、故障発見を容易にしたのが「改一」である。
日本陸軍の1個師団内には、1個から2個の砲兵連隊がある。各砲兵連隊は、2個から4個の砲兵大隊からなり、その1個砲兵大隊は3個中隊から、その1個砲兵中隊は砲4門からなっている。
よって師団の固有砲兵は30門から70門である。なお、連隊砲(41式山砲)や対戦車砲はカウントしていない。
独ソにおいては、十五榴までが師団砲兵だ。
日本では、軍(2個師団以上)砲兵になって初めて、十榴、十五加、十五榴弾などの野戦重砲が揃う。
独ソ戦では、重点正面1km巾には火砲が80門、必要であるという。
しかし、砲兵の1個中隊の陣地には、それだけで1ヘクタールの地積が要るのである。
良い観測所があれば、砲が少なくとも、それを補える。
放列のうしろには、段列がある。
▼伊藤銀二『忍術の極意』大6-5
既に活動写真と講談本により、人々は忍術に詳しい。
著者は、戦国時代研究の一環として、20年前から忍術をしらべはじめ、10年ほど前に、東京朝日新聞に連載した。そのあと、三省堂の日本百科大事典に忍術の項目を執筆した。
八犬伝の犬山道節(石塔に切り付けて出た火花に乗じて姿をくらます)のように一閃の火を得れば姿を隠す火遁の術。
甲賀流なるものは、長岡の谷村伊八郎の家からみつかった伝書で明らかになった。
他には、寛保年間の「正忍記」(伊賀法)。
紀州に仕えた。上野図書館にあり。日本唯一の現存書。
スッパ、ラッパ、トッパの語は、信長記や甲陽軍鑑に見える。
武家名目抄によると、関東ではラッパといい、甲斐以西でスッパという。
与謝蕪村に「甲賀衆の忍びの賭けや夜半の秋」があるという。
変装の極は常形にあり。
鍔の大きな刀を踏み台にして塀を越えたあと、かなり長い下げ緒によって回収する図付き。
※鐔が特別なサイズでは、すぐに人から注目されてしまう。いいかげんなものだ。
「呉越軍談」に、道の草を結んで追っ手の軍馬を倒す記述あり。
知らない土地で宿をとるなら、家作がよくてにぎやかなのに限る。
旅先で知らぬ近道をするな。
▼松野勝太郎『大浪小波』大12-7
泅道(しゅうどう)。およぐみち。
著者は、松山市で「神伝流」をつたえている。
先般に大阪で行われた「極東オリンピック大会」。
著者は「龍戦」の競技スポーツ化も提案している。
龍戦とは、水中で人が人を溺れさせ沈めてしまう技術である。
本書刊行時の庶民のモラル。寄席から退散するときは、われがちに強者が弱者をさしおいて下足を受け取るのが当然という気風。
大5-2に独潜に沈められた『ルシタニア』合に米紳商のヴァンダービルトが乗っていた。彼はボートに乗り移らず、溺死した。
龍戦術の基本。まず両手を立てて相手に目潰しの水をかける。次にこちらの片足を相手のふんどしにかけて、こちらの片手で相手の頭を押さえて沈めてしまう。
能く泳ぐ者、能く溺る。
飲酒して泳ぐとなぜ死ぬか。この当時は、脳貧血のためと考えられていた。
高杉晋作は松陰の感化によって煙草を廃した?(p.126)。
「しようびん術」……水深わずか3尺、そこに向かって高所から飛び込む術。
▼古賀円蔵『速成水泳術自在』M37-7
多くの本は越中褌の前2、3尺を下げろというが、ダメだ。
畚[もっこ]褌、越中の短いものの両端に縫い止めたものでなくば、まとわりつくから。
平泳ぎは、一名、亀泳ぎという。足はバタ足で、手は犬掻きである。
抜き手およぎ。手はクロール、足ははさみ足である。
「飛入法」もある。
▼水谷温『馬上集』S16-2
駒に乗る技いかばかり進むとも つまづくことをかへりみよかし(明治帝)。
久しくもわが飼ふ駒の老いゆくを をしむは人にかはらざりけり(明治帝)。
『信長公記』に天正9年正月の馬揃えで「爆竹に火を附」とあり。
多摩川に「二子渡」あり。
応永15年に、高さ6尺余の馬が大陸からもたらされた。(東寺王代記)
享徳年間、南部藩は蒙古韃靼から良馬数百頭を輸入した(南部産馬中緒考)。
天文年間、島津藩はローマ〔おそらくスペイン人〕、ポルトガル人からアラビア馬を九州に輸入した(邦馬略記)。
東北馬は、細頚細脚である。
西中尉は、S7のローマ五輪には、予備馬として、豪州産のサラブレッドも持っていった。
馬は嬉しいときは目を細くする。
「書を以て御する者、馬の情を尽くさず」(戦国策)。
馬は帰路は必ず足が速くなる。
2騎で行くことを【馬非】行(ひこう)という。
疲馬は鞭【竹かんむりに垂】を畏れず……貧窮者は刑罰など気にしない。
蒼蝿、驥尾に附して千里を致す。
老馬の智の話は韓非子に出る。管仲が言ったことになっている。
盲人、【目害】馬に騎す(晋書)……あぶなくてしょうがない例え。
放牧された馬は同毛同色で集まる。ここから「毛嫌い」という。
晋書には、「鎧馬」や「錫鑁」(馬の額用のヘルメット)という字が出る。
馬の腹を両足で締められず、ぶらぶらしているのを「ダク足」という。これを避けるため、陸軍は、乗馬兵には長身者をあてた(p.108)。
※昔の武人が小型馬を好んだのは当然だ。そしてモンゴル軍の馬が大型ではなかったのも、当然なのだ。
乗馬に秘法なし。
渇驥、泉に奔る(唐書)。
著者は永田鉄山とは乗馬講習で一緒であった。信州人気質で、理屈で議論する男だが、馬上では一言も発するなし。
馬皮は毛が多いので、なめすのが面倒。そして、毛があるがゆえに、皮は弱いのである。
信州人の馬肉食は、冬ときまっていた。牛蒡とともに鍋にする。ネギは使わない。
信州出身の文官の会は「馬風会」という。
同じく、陸海軍人の団体は「信武会」。
さらに操觚に業の者は「信文会」。
栗林忠道少将は、馬政ほやるようになってから、馬肉は喰わぬ主義に。
「はめをはずす」という言い回し、もともとは、銜(はみ)のことだった。
伯楽一顧、名馬みいださる。
江戸では、炭は野州屋または塩原屋。コメは越後屋。味噌は信州屋。酒は三河屋。蜜柑は紀州屋。茶は駿河屋、と、屋号はきまっていた。
▼石山賢吉『利益が多くて配当の少い独逸の会社』S15-12
日本の会社の利潤は平均2割前後だが、1939のドイツの決算、50社分を見ると、6割1分だ。そして配当は利潤の11%しかない。
利益の多いのは、生産能率が良く、原料を無駄にせずに完全利用し、物価決定には相当の利潤をみてあるから。
大不況を経験すると、経費が切り詰められる。その後、政府が増産策に出ると、会社の利益は急に高まるものである。日本では濱口内閣後、独ではナチ党の初めにそうなった。
WWIの独捕虜に牛缶をやったら、1頭まるごとくれという。やったら、自分たちで屠殺して、骨、皮、はらわた、全部利用した。
王子製紙が米人技師を招いたとき、能率の点のみをやかましくいわれた。次に独人技師を招いたとき、物の使用量をやかましくいわれた。
蒸気圧のムダ使いまで。
プレス50ポンド必要なところに80ポンドの蒸気圧を使うな、と。
鮎川義介いわく。米でも独でも古い工場は人の熟練で動かす。新しい工場は思い切って能率的にする。
そしてすでにこの頃から米車の燃費は欧州車の2倍、悪かった。それなのに日本はアメ車ばかり輸入していた。
安全かみそりも、独製は米製より薄いのである。
日本の会社は「民有国営」になりつつあるが、独では実質「国有民営」だ。大きく納税させ、早期償却による自己資金拡張を認めるので。
▼白石浩之『旧石器時代の石槍』1989
考古学では尖頭石器/石鏃すべて Point と呼ぶ。
人類史で完成された石槍が現れるのは、後期旧石器時代の後半。
日本では、石鏃(弓矢)が縄文に登場すると、石槍は東日本のみに残った。
欧州ではフリントだが、日本では黒曜石その他である。
瀬戸内海でまだナイフ形石器を使っていたとき、中部~東北に石槍文化が登場する。
明確に槍先である石器の日本最古品は1万6000年前。
▼塚田六郎『古典と狩猟史』S59
生肉は鉄よりも石包丁の方がよくさばける。
歴史時代に入り、狩りといえば、シカ狩りのことであった。
最古の武家狩猟書に、そうあるという。
鹿も猪も広葉樹実を食べる。
記紀の時代から、トリは網猟だった。
古代の「むさし」は今の大宮を中心とする周域。
鹿はイノシシより矢に弱い。
1824の江戸・本所に、カワウソがいた。
猟銃コンバートの村田銃の普及でM17には東関東の鴻、トキ、丹頂ヅルは全滅した(品田穣『都市の自然史』)。
弓矢(石鏃)は、1万年前から現れるという。
そのころから日本の森林が、常緑広葉樹に変わって、縄文時代が始まった。
芭蕉 猪も共に吹かるる野分かな。
冬の季語。狩りの宿。猪狩。勢子。よこひき(タヌキの夜狩)。
春の季語。はらみ鹿。春の鹿。鹿の角落つ。
雄鹿を「せのか」といい、これが「しか」に転訛したとも。
狐、タヌキは、わな猟。
鹿は追われると水に入る習性あり。
ヨーロッパは土が薄く、すぐ岩盤なので、牛犂が必要だった。
▼直良信夫『古代の漁猟』S16-9
出土する鳥類はなんといっても雉が最多。
四季は大昔から、今のようにあった。
古代人は蟹は好まなかった。貝塚に少ししか見えない。
頴娃(エイ)は、潮の干いた砂中に残っていることもあり、そのトゲを踏むと大人でも七転八倒する。
関東ではエイはよく食べられていた。
新石器時代の遺物に、この頴娃の棘をヤリの先にしたものがある(p.51)。
巻貝を煮るには、水から沸かさぬこと。肉が中に引っ込んで取り出しにくくなるから。熱湯に投げ込む。
東北の石鏃でギザのあるのは、ホオジロザメの歯を模しているのだろう。
古代の日本猿は、大型だった。
貝塚から出る大型釣り針は、「鹿釣り」用である。
※ニワトリの骨は、この本の出版後、登呂遺跡で初出土した。