▼連合国最高司令部 民間情報教育局ed.『眞相箱――太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の眞相』S21-8-25 有楽町・コズモ出版pub.
NHKラジオが、日曜の朝8時から8時半まで放送した、第一回から第20回までを活字化したもの。
S17-8に米潜『ポンパン』号は、東京湾の入り口で浮かび上がったところを、爆雷攻撃されて、あわてて潜ったが、潮流で港内へ。
その後、見つけられずに、浮上して応急修理して、帰投した。
戦陣訓は 誰がつくったか現時点では分らぬ。
中野正剛は東条が自殺させた。
「〔東条〕大将は自分が死んだとき、それが一見して東條英機の死体であると判るやう、頭を射たずに心臓を射つた」。
「大将が三十二粍拳銃で自決を図つた室の」(p.249)。
※コルトの .32オートなのだが、誰も翻訳をチェックできなかったようだ。
南京では、婦女子2万名が惨殺された(pp.251-2)。
イーデンはS17-3に、香港は第二の南京になったと声明した。
▼大類伸『ヴエニスとフロレンス』大3-10
十字軍以前からベニスはアドリア海の制海権をもち、海賊を排してコンスタンチノプルと貿易していた。
十字軍第一回は船の知識がなかったため陸路。
これは損だとわかって、次回からイタリア船を雇った。
シリア沿岸に出先商館を置き、サラセン商人を追い払えたのは、クルセダーのおかげ。
1204の第四回十字軍はベニスのためにあったようなもの。騎士9000、歩兵2万、馬4500、糧秣を輸送した。
護衛の軍船×50隻は自発的に添えた。
代価として占領地の半分を貰う契約。
はじめからエルサレムには目もくれず、一路、コンスタンチノプルへ。
沿アドリアには基地以外に競争市がない。
他はみな西岸なれば。
フロレンスは貿易は振るわず、毛織業で栄えた。それと、大名貸し金融。
▼石川六郎『ウイルソン』大8-8
19歳で老成貴公子の風。南部出身。
当時のプリンストン大学は、全課目を強制履修させられた。その制度下で、41番目の卒順だった。
あだなは「トミー」。
売れない弁護士時代に書いた『米国の議会政治』が英大使から認められ、一躍、有名人に。
大学教授をしているうちに、話し上手になった。
プリンストン大学総長になり、改革推進。金満子弟の4年間の遊び場たるド田舎社交クラブだったのを、真剣に学問する場に改めた。履修科目は選択できるようにした。青年教授が学外でも学生を指導するチューター制も導入。
ついで、NJ州知事。ここでも改革。
ついに大統領に。
ウィルソンにはモンテスキュー流の三権分立はもう古いという確信あり。特に行政と立法をくっつけるべきだと思っていた。
南北戦争後、北部=共和党の天下となって、高関税で外国商品を締め出した。それを背景としてトラスト(同業の国内全社が連合する)があり、政治腐敗の温床にもなっていた。
トラストのリーダーは公益より配当を重視。
また新たな起業者の参入も歓迎しない。
新聞記者すらトラストのための太鼓を叩いた。
リンカンやテディが廃していた、大統領による議会での教書朗読を復活させた。
米では閣僚は議員であってはならぬ。だから英式に交流することが大事なんだと。
FRBを創設して、それまでの有象無象銀行が売った債券に比例して「札」を刷れるという旧式の通貨信用維持法を改めた。すなわちインフレ対策。
米国内のドイツ系有権者の票が大きい。センターはミルウォーキー。ウイルソンは再選を確実にするため、裏では英米の味方顔ばかりはしていられなかった。
▼伊藤銀月『日本海賊史』M37-11
新羅は九州クマソを使嗾して、大和政府の憂患たらしめた。
▼高橋作衛『日米之新関係』M43-12
※著者は日露戦争中に日本軍の国際法顧問もつとめた法学者。
ペリーの航海途中でフィルモア政権が民主党政権に交替していなかったら、沖縄と小笠原は奪われていた。
「六月九日〔?ママ〕米国使節ペリーの書翰 我政府へ白旗差出の件」(pp.15-16)。
「……不承知に候はは 干戈を以 天理に背くの罪を糺し候に付、其方も国法を立て防戦いたすへし 左候はは 防戦の時に臨み必勝は我等に有之、其方敵対成兼可申、若 其節に至り 和睦を乞度は、此度贈り置候所之白旗を押立へし、然は 此方の炮を止め 艦を退て和睦いたすへしと云云。」(「町奉行所類」所収 外国事件書 高麗環雑記)
――これは明治43年3月31日に帝国大学史料編纂掛が発表した、大日本古文書幕末外国関係文書之一(二六九)に掲げられているという。
「嘉永癸丑浦賀一件数条」に「一亜米利加国より贈来る箱の中に、書翰一通、白旗二流〔ママ〕、外に左之通短文一通、《後略》」(p.16)。
著者は仏人カーン氏の基金でM40~41に海外旅行したが、会う者すべて、日米戦争はいつ起こるんだと言うから、研究調査方針をこの誤解の説明に変更した。
※日露戦争直後から米国の対日感情が急激に悪化した。これは兒玉源太郎が満州市場を英米商人に対して完全に閉ざしてしまったため。海軍もすっかり増長して鼻息が荒かった。俄かに《ペリーの白旗》の話も持ち出されるようになったのである。伊藤博文はこれはマズイと思って、久里浜にペリー上陸紀念の碑文を建てた。それはホワイトフリートに見てもらうためだった。
晩香坡=バンクーバー。
米国でのコメづくりは1903、広島県人が「ポートラバカ」で借地にてテスト。また神戸人も同年にテキサスの「デルリヲ」地方で数エーカー、試みた。
テキサスでは反日感情は無い。
▼鳥谷良吉『津軽海峡の史的研究』S19-1
海峡の潮流が凪ぐことがないので、おのずと渡る者は少なかった。
▼タウンゼント・ハリス著、生駒粂蔵tr.『維新秘史・日米外交の真相』大2-11
ハリスの着任直後からの日記である。
ハリス公邸を訪れる日本官憲が水を混ぜずにブランデーやウィスキーを飲むので驚く。
10月30日・金曜日。余は新来の奉行に対してコルト式五連発拳銃を贈りしに、彼れは非常に喜びて之を受けたり。
領事が雇っていた支那人が、薬屋からアヘンを強奪した。
彼らの習慣に従い、まず水に溶かして混和物を除去する。
蹄鉄を打ってない日本の馬は、1時間駈けさせると、馬沓を取り替えねばならない(12月20日)。
馬の値段は、1頭19両。
馬に噛まれて内出血した。それを去らんと、蛭に吸わせた。インドの蛭にくらべてあまりに小さいので驚く。吸血力も弱い(11月27日)。
オランダ人のヒュースケンは、夜、馬で出歩いていたところを、槍で突き殺された。
下田の芸者、唐人お吉は、たった1週間でお暇が出ている。
▼大庭景秋(柯公)『露西亜に遊びて』大6-9
クヌート(鞭)はダッタン語から。
日本の待合いにあたるのは、ドーム・スウイダーニャ。連れ込み宿なり。
ペテルスブルクのネフスキーの北側人道を夜9時以降に歩いている女は全員、街娼。200軒あるホテルに同伴するシステム。
ゲットーは、16世紀のヴェニスとローマにまずできた。
ロンドン、オクスフォード、ヨークには、ジューズ・クォーターがあった。
ロシアでは絶対に猶太人はオフィサーになれない。
主都ペテルスブルクには、歯科医と産婆のみ、ユダヤ人であっても住める。
ブリヤート猟師は、いまだに弓である。
▼『戦記叢書』大2、所収「筑後軍記」
千栗川合戦。
鉄炮が日本に普及して以後、城攻めでは「仕寄り」をしなければならなくなった。一手一手ひきわけて攻め寄せる。竹束でガードする。
遠斥候[とおものみ]を出す。
鉄砲で「かけ鳥」をも撃ち取る。
▼国府種徳『欧米小感』M43-4
中庸にいわく。道は人に遠からず。人に遠きは以って道とすべからず。
ドイツが総体として英国の製艦力に追いつけないのは、民間の力の差がまだあるため。
昨年〔M41? タフト政権時代〕の9~10月のシーズン中、「フットボール」〔アメフトのこと〕のために一流大学生の死者9人、負傷114名を出しているが、インテリの間に尚武心を養成することが重視されており、このスポーツ試合を廃止しようという動きはない。
市民に向上心が強いから、地方自治がいったん腐敗しても、少しづつよくなって行く。
米国からはドイツ国内に技師を派遣してその工業テクノロジーを調べさせている。
▼有川治助『ジョン・ワナメーカ ――人及その事業』S4-10
逓相にもなった。
本店はフィラデルフィア。
東京と京城のYMCAビルは、ワナメーカーが寄附した。
ワナ「友よ、汝もし、人生を照すごとき本を書いたり、行ひを為し得るならば、直ちに着手せよ」
くよくよすることが人を殺す。
1838、フィラデルフィアの煉瓦焼き工の長子として生まれる。
13歳で弁護士事務所のボーイに。
両親は移民。父はパラチネート、母はユグノー。
子どもの頃、商人が商品をとりかえてくれなかった。自分はそうしないと誓う。
ひやかしも、返品も、自由にしよう、と。
16歳で、目をつけていた一流洋服店員に。
民主党政府が関税を下げた。結果、1857の不況を、小僧の身で経験する。→共和党支持者に。
珍姓ゆえ、銀行家がすぐ覚えてくれた。
20歳にしてYMCAの主事となり、会員数を倍増させた。
南北戦争が始まると、志願将校のための軍服を作った。
ビルボードに「W.&.B.」の文字だけの広告を出した。ワナメーカー&ブラウンとはせずに。通行人をギョッとさせる新手法。これを創始した。他の業者が真似ると、やめた。
ショップは7年で潰れた。
時計台に広告を出すのはよくないと学んだ。時計が狂っていたり故障すると、こっちの信用が落ちるから。
ワンプライスシステム=定価売り。これを、景品ぬきで本当に実行したのはワナメーカが最初。
※江戸時代の先進性が光る話。
新聞半ページ広告も、ワナメーカーが最初に出した。
CMでのモットー。 Full Garrantee One Price Cash Payment(現金払いのみ) Cash Returned(返金可)。
10日以内なら全額返金できるようにした。
定価が信用されるかわり、seasonable でない商品は置いておけなくなる。
商店主は、全国の小売店を見て歩け。
日曜のYMCAの仕事もあったので、チェーンストア化は断念した。
当時、米国都市の人口集中は、欧州ほどには極端でなかった。
NYCの百貨店すら、実態は、全国向けの「卸し」であった。
組合商店 も、この頃、出現した。火曜日は午後2時で店を閉じ、定員の休みにするのである。
一案破るれば、一案あらたに出る。
フォードとワナメーカーの二人は、事業のための借金も、先天的に嫌っていた。それで大を成したのだから、すごいのである。
米国の保険は、地震でも払うことになっていた。だからサンフランシスコ地震で大ピンチ。それもあって、1929の大恐慌に。
逓信長官には1893まで在任。郵便貯金法を提言した。それは1910にようやく連邦議会を通過した。3億ドルとみられた箪笥預金を社会に回転させるため。
1884に、宗教的禁酒運動である White Ribbon Army を組織している。
フーバーは、禁酒法支持を掲げて、スミスを破っている。
この世をエデンの園となすことを得ずとも、死海とせぬやうに心掛くべし。
▼秩父宮殿下&妃殿下『英米生活の思い出』S22-12
大正天皇崩御までの1学期をオクスフォードですごしている。その前にも1年間滞英。
O.T.C.=Officers’ Training Corps に申し込めば、騎兵訓練が受けられた。ただし外国人は×。
イートンのウォールゲーム(フットボールの一種)は、得点が非常に困難で、数年に1点入る。最近3年はスコアがない(p.43)。
※これが英国系スポーツの精神。みずからをエンパイアビルダーとして鍛えぬくために球技スポーツがあったので、観客から見た試合のおもしろさなどは度外視されていた。だから審判も最少でよく、選手本人の自己申告だけでルールは機能した。
フォックスハンティングでは、狐のたおれた場所へ一番先に到着した者に功名が。ただし婦人と戦陣を競って先に障害を飛越するようなマネはご法度。女子は横乗りで柵を越す。
徒歩の人間と犬とで、ウサギを追いかける Beagling という遊びあり。
眼鏡を外せぬ者は、ラグビーはできない。そこでボートを選んだ。
ボートは、ポジションがFixしているので、ひとりだけ練習を休むことができない。特に冬季のコーチがたいへんである。最も我が儘がゆるされない世界だった。
ピンクのカラーは、英国ボート界最高の倶楽部であるリアンダー・クラブを意味し、羨望された。2年生でこれをつけている者などいない。
鹿狩りは Deer’ stalking という。
1926のゼネストでは、バッキンガムの衛兵すら、カーキ色軍服に着替えた。革命になるんじゃないかと皆、思った。
▼柳元静馬『財界名士失敗談 上』M42-5 毎夕新聞社pub.
人肥に比し、牛糞は肥料になりにくい。
高田慎蔵は相場には手を染めたことがない(p.83)。
ある親父、訓していわく。女にホレて金を使っても大した高にならん。しかし男に惚れると、一身一家を失うことになるかもよと。
▼『米国研究』大5-11 同文館pub.
陸軍正規兵は全く志願兵で、18~35歳が対象。
※陸自も35歳までOKにしたら?
1契約は、4年現役、3年予備。
4年まじめに勤めたものは、継続して30年間、勤めることができる。
民兵は州兵である。
義勇兵は、大統領の臨時直率である。これは全州に人数を割り当てねばならないことになっている。
ウエストポイントやアナポリスが、各州の推薦枠を平等にしてあるのも、地域の偏りを防ぐため。
普通学校で軍事教育をさせるようになったのは、南北戦争ですぐ将校が足りなくなった北部の反省から。
1862の「モーリル法」から始まる。
この時点で、米有権者2700万人中、180万人がドイツ系である。
▼三枝博音『日本の知性と技術』S14-5
家康は「山令五十三ヶ条」を布いたという。
「山師、金掘師[かなほりし]を野武士と号すべし」
普通の侍は坑内では「腰の物」はダメ。
しかし、山師、金掘師は命がけの仕事なのでOK。
▼中小路彰『イギリス革命戦争史』S15-7
スピノザはユダヤ人。ゲーテもスピノザ主義。
シェークスビアの中ににキリスト賛美が一言もない。だからユダヤ人なのだと。
クロムウェルもユダヤ人だと。
※もうむちゃくちゃ。
プラトンの『国家』、アウグスチヌスの『神の国』。この系譜につらなるのが、トマス・モアの『ユートピア』。モアは、オランダと羊毛貿易している業者のための法律屋であった。
無敵艦隊を破ったことを背景に、シェークスピアの喜劇がある。
しかし最後の『あらし』は、イギリスの没落を暗示している。
ベーコンがIdola(アイドル)を破壊せよと言ったのは、ムスリムの影響だ(p.177)。
鉄騎隊(アイアンサイド)をトレーニングしたのは、ダルビア大佐であった。
▼中小路彰『北清事変』S14-8
インド兵が最も勇敢で、水路をつたって北京城内に一番乗り。
6月25日、「午後五時過、英国公使館の北端に當りて白旗見られ、降伏の情を示せしも、素より之を顧みず、我歩哨線の防備を厳にせり」。
※偽降伏はシナ兵の得意技だった。
▼馬渕逸雄『日本の方向』S16-12
著者は大本営陸軍報道部長の大佐。S16-6まで在任。
事変4年で、日本軍の戦死・戦病死は、約11万人。
「外国留学生は、概して其の留学先の国のファンになるのが、普通であるのに拘らず、支那の日本留学生だけは、その大部分は帰国すれば排日家となつた。」(p.77)。
▼長瀬鳳輔『土耳其及土耳其人』大4-3
自称は「オスマンリー」である。
オットマンというのは仏語。
スタンブール=スルタンの都。
ターバンをフヱッス(トルコ帽)に改めさせたのは、マームード2世(在位1808~)。
本書時点で、男子は8歳までハーレムで母親と暮らす。サーカムンジョンの後は二度とハレムには出入りできぬ。女子は16で結婚。
日没を零時と定め、日の長短により標準時も変わる。それを汽車の時刻表にも適用しているのである。
トルコの民法は、ナポレオン法典に準拠。
▼ヲット・ハンス著、イスラム文化協会tr.『回教諸国の財政機構』S13-10
トルコ共和国は1923のローザンヌ会議で国際法上から正式に承認された。
1920のイスタンブール政府が呑んだセーブル条約の対「連合国」賠償がなくなった。また、それまでの治外法権も廃止された。
1917夏に英印軍(主力はインド兵)がモスールとバグダッドを含めた「ウイラヂエット地方」を占領した。
1921にそこをイラクとなす。
1923ローザンヌ会議でトルコもそれを呑む。
1932にイラクは国際連盟に入り、英の保護国ではなくなった。
15世紀のドイツ都市には、ゲルマンの種族法、サクソニア法、シュワーベン法などがあったが、ローマ法により全部駆逐された。
※これと同じことがイスラム圏では起こり得ないのだ。
イタリアvs.アビシニア 戦争は1936-5に終結。
キルクーク油田(バグダッドの北250km)と地中海の港市のトリポリ(シリア)やハイファ(パレスチナ)を結ぶ2本のパイプラインを英国は敷いた。
ハイファへ行く管は、トランス・ヨルダンを通過する。
全体で1850km。1937頃から石油収益は巨額。
アラブ世界に紙幣が普及したのはここ20年。
トルコはケマリズム以前から不換紙幣を濫発していたが、ケマルが収拾した。
石油以前は、メッカ、メディナ巡礼者こそがサウディの最大の収益(特に膨大な数のインド回教徒)。
▼河本正義『覗き眼鏡口上歌』S10-1
この執筆時点でもうすっかり見なくなったので、回想的にまとめた。
2種あり。
レンズがひとつで、6~7枚の看板絵が、謡声につれて次々替わるものを「昼夜物」。
絵が30枚並んでいて、眼鏡をかけて一つ一つ次から次へ見ていくのを「ポンイチ」(いっぽんの逆さ読み)と言った。
ポンイチの方が、製作費はずっと高い。
これらは、活動写真によって駆逐された。
南山の戦闘を題材とする「血染めの軍旗」の歌謡中に「天下はれての結婚に三々九度のさかづきも」と出る。
▼『太陽』M44-11-15日増刊号
所収、武富時敏「財政経済上より観たる戦争の価値」。
日露役で日本は15億円支出した。
日清役の賠償金の正貨はM28-10から流入。
これをアテにして政府は29年度予算を戦役前の2倍に膨張させた。
これによりM29-12までに通貨量は6000万円増えた。
およそ通貨は1年間に100回も1000回も循環するものだから、通過の6000万円増は国内取引の60億~600億増を意味せねばならぬ。→インフレになった。
日銀は引き締めに回らず、それどころか全国の銀行に大いに融通を与え、後の恐慌を避け難くした。
M31に恐慌が来た。
▼本阿弥光遜『近代戦と日本刀』S18-7
インド兵の前で日本刀で頭右の号令をかけ、顔正面から斜め下にサッと振り下ろすと、兵たちは怖がってあとじさりする。よって今では鞭で代用している。
大陸の寒地では日本刀は確かに折れやすい。大問題。
床屋も、寒いときはカミソリを湯に入れてから使う。
耐寒刀も目的とした製品が「満鉄刀」(スチールの両側を軟鉄で挟んだ構造)と、広島の一刀工による「新日本刀」で、これは『刀剣工芸』S15-2月号に詳しい。
偽物に注意。一枚のスチールをヤスリがけして焼き入れしただけのモノは偽物である。明治時代からある。
桜花の中に「昭」とあるのが、テスト済みの昭和刀。
しかし、曲がったものをまっすぐにしようとすると、そのときに折れる。
寸法は、近代戦では1尺9寸から2尺1寸がよい。それより長いのはダメだ。壕内でとても邪魔だし、行軍時に腰ガヘタる。剣道も、短いのに変えるべきだ。
元亀天正の備前長船は、ちゃんと2尺1寸前後になっている(p.92)。
現在では、陸軍の新作刀の規格も2尺1寸だ。
金属鞘は、西洋サーベルの悪模倣。湿気の多い日本では、刀身を錆びさせるだけでメリットがない。
柄が折れるのは、柄中に空隙を作ってないから。ショックをダイレクトに伝えぬようにしなければならぬ。
目釘も昔は金属だったのが、竹に進化した。ショックを和らげるためである(p.121)。
▼オーヴァストリート夫妻著、白神鉱一tr.『平和という名の戦争』1962、原1962米国
※反共本である。
▼ハイラム・モダーウエル著、横山有策tr.『近代劇研究』大10-4
ドレー・ビューネ Drehbuhne 廻り舞台 は15年前に発明された。NYCにもこの設備は3箇所にできている。もうじき世界中で常識になるだろう。
昔はフットライトしかなかったから、誰も影がない。テーブル下が、テーブル上よりも、明るかったのである。
ひとつのアーク燈と、さまざまな色の絹布片スライド数個でできたフォーチュニー式灯が革命した。
これは2階席から使用するスポットライト。これを3~5台、使う。
色は5枚。白、黒、赤、青、黄。
▼イルゼ・ブレッシュリーベ著、高沖陽造tr.『決戦下の独逸婦人』S18-4
ドイツも追い詰められて、工場で婦人を働かせるようになった。
▼森三郎『麦の穂の乙女』S16-9
「勤労奉仕」という、日本人には未知である概念を、紹介する本。
▼豊原文雄『家庭職業読本』S12-9
都会では内職といい、田舎では副業という。
京都では江戸時代に、公家が内職していた。
ついで武家が……。
松本藩の雛人形。米沢藩の機織り。
▼栗栖赳夫『一般金融の知識』S9-5
信組はM25-8の掛川町にできたのが早い。
法律はM33の農商務省の産業組合法で整った。
産組には4つあり。信用組合は、借りるが専門。販売組合。購買組合。利用組合は設備を共用する。
最低7人集まらないと信組はつくれず、また、存続も不可。
▼陸軍省徴募課『野戦歩兵小隊長必携』S7-8
※満州事変を背景に、在郷軍人幹部の能力工場用に作られた。
対匪賊の教訓。
ニセ降服に気をつけろ。
分散するな。単独伝令は、やられる。
村に籠もった相手は、まず砲撃(41式山砲など)で追い出し、門前に出てくるのMGで待ち伏せる。
敗残兵が急に側背に出ることがある。必ず予備を控置せよ。
鉄道では敵の裏は掻けない。自動車を使え。
深い追撃は禁物。
追撃は山砲がgood。歩兵砲はレンジが短かすぎる。
畑に人が出ていて、門前で子女が遊んでいたら、そこは安全村。
畑に人がおらず、男子が屋上で見張っていたら、近くに匪賊あり。
まったく人影がないのは、村内に匪賊がいるのである。
支那馬の牽引力は、日本馬の半分だ。
▼富岡定恭(海軍中尉)『水雷新論』M15-5 海軍兵学校pub.
この「水雷」とはグラウンドマイン=沈底機雷のこと。イボ信管がついている。
炸薬は、綿火薬700~1000斤。
浮泛水雷(ブイヤント・マイン)は、500~700斤。
抵触水雷(コンタクト・マイン)は、200~300斤。
牽引水雷(トウイング・トーピード)および氣機水雷(ロコモチフ・トルピード)は30~50斤。
レー氏式「水雷【?読めぬ】舟」は、炸薬無制限。
※「鶴」という字の簡略体ではないかと思われるのだが……。Spar torpedo を取り付けた小舟をその外観から「鶴舟」と称したのか?
英式混合薬は、砲用火薬と、必屈里屈[ピクリック]火薬 である。
ニトログリセリンは「尼多魯虞里斯林」と書く。
ダイナマイトは「代那迷篤」と書いている。