▼高橋数良、他『警察武道 逮捕と護身』S5-9 松華堂
施縄早縄第一人者の 調所武熊氏も執筆。
わが国現代において、剣をたばさむ者は独り軍人と警察官あるのみ。
武士の気魄をうけつぐ者は警察官なのだ。
昔は鎧が重いから、身体を倒されることがすでに死命を制されることであった。
万治年間に「やはら」の文字あらわれる。
「体術」は支那流の表現。白打(ハッダ)。
老刑事は、泥棒が出てくるところを、すぐに利き腕をとる。凶器をおさめているので。
暗闇の中に入るには、自然体で入るべし。
スリの煙管は、吸い口を、尖らせてあって、それが兇器になる。
「柄まへ」で近づくと、己れの刀で切られることになる。
相手の右手の斜め後ろから、利き腕を制せよ。
ピストルを持った相手には、家族の老婆や、そいつの愛児をかざして近づけ。
屏風や襖は、打ち倒し、それと共に踏み込むようにする。開くのを待っていてはならない。
不意に出会ったら、犯人に近づかず、手招きする。これが心理的にこっちを有利にしてくれる。
この時代、巡査の抜刀はただちに国会で問題にされる。遺憾である(p.114)。
短刀は、柄頭は脇の下、鐺(こぢり)は股の間に落とす。外見上、まったくわからない。
抜くときは、服の中で左手で抜きやすい形に直す。
婦人の逆手短刀は、演劇の世界のことで、絶対にありえない。
出刃は刃肉が厚いから、短刀のごとく、ゑぐる必要がない。刺すだけで大出血する。短刀よりもおそろしいのである(p.132)。※現代の包丁を想起してはいけない。昔は分厚かった。
五人殺し、六人殺しの犯罪は、手斧か金槌以外、ありえない(p.132)。※反証があるはずだ。この本の出版後に。
サーベルは、ナス環を外し、鞘ごと棍棒として使うのが、手加減が要らない。サヤはピカピカ光っている(p.138)。※金属鞘であった。日本刀の木製鞘だと、衝撃で破砕することがあり、危険。
従来の巡査抜剣心得では、先方が兇器を持していないければ抜剣できなかったが、改正の武器使用規程では、先方が素手でも武器を使用しなければ職務の執行または身体の防禦のできない場合には、抜刀OK。
昼の山火事では、葉のついた木の枝をとり、たへず身体を払っていないと、服が燃えているのが分らない。
水中捕り物は、相手を突き放して弱らせる。
巡査は編み上げ靴を水中で脱ぐことができないから、溺死しないように気をつけろ。
船から飛び込むときは、必ず船尾から。それが安全なので。
私服刑事は必ずステッキを持った。
「十手」もハンケチで巻いて持っていくことあり(p.182)。※十手は大正末まではまちがいなく使われていたそうだ。
いかなる無神論者も、夜は七分、神を信ずる。
不審尋問は必ず2人で、前後を挟んでせよ。前に2人で並ぶものではない。
手の甲で相手の両眼または片眼を叩くと、暫時は眼が開かない。しかも決して失明せぬ(p.202)。※柔術の「かすみ当て」。指の力を抜くと、素人が試しても、おそろしく有効である。もちろん裸眼者相手のばあいに限られるのだが……。「シャコパンチ」と筋肉の使われ方が同じようで、プロボクサーの反射神経でも、これをディフェンスできるもんじゃない。
犯人の顎を手のひらで強く押し上げると、倒れる。コンクリート地面の上では、これはやらぬこと。※左手で軽く相手の腰の裏を押さえながら、右手でこれをやると、まるで、手品のように、大男でも倒せてしまう。地面が舗装されていて危険であるときは、じぶんの左膝を倒れる相手の背中の下に入れることにより、後頭部の強打を回避できる。しかしその場合、こちらの右手食指と拇指を途中で一本貫手の形につくりかえるなどして、相手の喉仏をすぐに圧するようにしなければ、こっちが反撃されてしまうだろう。
「警察官武器使用規程」には、佩剣、ピストル、十手等とある。旧来は剣のみであった。新規程は、警部補以上にも適用される。
十手に、ハンケチ・手拭を巻く理由は、民衆を負傷せしめ、傷痕を印せしむることが、後に各種の問題を残すから。
震災後、持兇器強盗が頻出し、物情騒然。治安維持を為すにあたり、警察官にピストルを携帯させる必要が生じ、使用規定が改まった。
子どもが見ている前で犯人に縄をかけることは避けるべし。
自室内で真に抵抗する犯人は、いないものだ。
短刀とわたりあって負傷してしまった警察官いわく。十手のごときは何の役にも立たない。2間くらいも長さがある竹竿でも、いけない。2尺4寸から2尺5寸の棒が、こっちの道具として手頃である。とにかく、素手ではダメだ(p.266)。
逃走犯は、その後頭部をはハタキつけるに限る(p.266)。
▼名和弓雄『十手捕縄の研究』S39
江戸時代の人は、捕具も不浄の品として忌みきらった。
各藩でも「不浄蔵」に納めていたのである。
北越、上杉軍では、雁棒と称する長柄の鎌を農民に使わせた記録もある。
そでがらみ、つくぼう、さすまた は、シナの『武備誌』を参考にしたことはまちがいない。室町中期~。
木製の十手が室町時代に登場する。
安土桃山時代には「打払い長十手」ができた。これは鉄鞭(かなむち)から進化したのだろう。
吉川英治の『宮本武蔵』の中に、大坂城内を警護する者が三尺の十手をさしていると書かれていた。考証の正確さに、驚く。
6尺以上の捕物道具を「寄道具」「長柄 仕寄具」と呼ぶ。
6尺棒は「仕寄棒」が正しい。
袖絡みでは、犯人の頭髪も狙った。
鳶用の刺す股は、釘を植えてない。
磔でとどめの首を刺すときは、熊手(竜【托のてへんが口へん】)で仰向かせる。
犬も歩けば棒にあたる、とか、藪から棒 の棒は、辻番の六尺棒のこと。
へら状の石突きとなっている長柄は、それによって砂をかけて目潰しをしようという用途である。
「鎖鎌の携行方法は、判然としない」(p.75)。※名和氏は鎖鎌がフェイク武器だったということに遂に気づけなかった。
「ハシャ」という、火縄銃で打ち出す目潰しの砂があった。
空洞のある十手に鉛粒を詰めて、敵の顔面に強く打ち込むものもあった。
鳶口十手。楕円断面の材木の鳶口の部分を柄頭とし、材木の途中に金属カギを植えてある。
太政官符達 第29号 行政警察規則。M8までの羅卒は、官より相渡されたる兵器のほかは携行してはならぬ。すなわち三尺余りの丸棒だけが公許されていた。
羅卒はM8から巡査となる。そしてM15からは丸棒ではなくサーベルを佩用するようになる。
手錠は刑事巡査が私物として昭和初期から国産品を使った。
5.15事件後、一定数の「ブローニング拳銃」を、警視庁の武器庫と、他の二、三署の地下倉庫に貯蔵させたが、厳秘であった。警視庁の幹部だけがそれを知っていた。
警察の射撃場は、小石川の弥生町にあった。歩兵銃まで射っていた。
佩剣が警棒になったのはS21-3の米軍の命令による。長さ45センチはMP警棒と同じだった。それが鼻捻と同じ60センチに改正されるのがS24-4。
三段振り出し式の特殊警棒はS32-10から。伸ばすと39.5センチになる。
▼渡辺万次郎『鉱山史話(東北編)』1968
最初に天武天皇時代の674年に対馬の佐須鉱山の銀が発見された。が、金と銅がみつからない。
そこで文武は、「おしのうみ あらかま」を陸奥へ派遣した。彼がどうなったかは、不明。
けっきょく、天明天皇時代の708年に、秩父市に「にぎどう」(自然銅)が発見されて、和銅と改元された。
天平21年=749年2月、ついに陸奥の小田郡に砂金がみつかり、4月、天平感宝元年と改元。この小田郡は、今の宮城県の遠田郡らしい。
前九年の役 とは、東北の産金を賄賂にして中央の藤原氏から官位を受けていた、その慣行を、安倍父子が停止したことから。さいしょに藤原登任と平重成がさしむけられたが、鬼首(おにこうべ)合戦で撃退される。今の鳴子町。
そこで関東武士の親玉の頼義と義家がさしむけられたのだが、悪戦9年。
出羽の蝦夷・清原武則を助成せしめて、やっと1062衣川で一勝したもの。
宋では、石炭を利用して製鉄と製陶をいとなんでいた。
東北金山は慶長年間に急に発達した。技術・ノウハウのブレークスルーがあった。だから慶長大判も、駿府城の大延べ板も、作られた。
東北では農民が農閑期に砂金を採り、市場で品物にかえていた。
1600年代に、銅鉱山に水銀法が導入される。
鉱石を得るための採掘は、北上あたりでは、「ノミ」と称した鉄棒と、それを打ち込む「セットウ」という鉄槌だけで行った。
その鉱石を砕き、水中で淘[よ]り分け、溶かして吹き金とする。
先進鉱業地域は、島根や兵庫だった。
すんぽ……測量士。
だいく……採掘夫。
ほりこ……運搬夫。
山留/留大工……支柱工事技師。
木綿を布いた樋のなかに鉱石の粉を流す。ネコ流しという。
坑道は鋪[しき]。
鉱石を鉑、その他を研[おり]という。
特上鉱……貫き物。
鉱脈にしたがって自由に掘り進むのをタヌキ掘りという。
鉄滓は、鍰[からみ]という。
板取り で分けられる粘土鉱を「くさり箱」または「淘[よ]り物箱」といった。
大きなものは臼で砕いてから板取りにかける。
鉛とともに金銀だけを分離する「灰吹き法」は天正のころ、大陸から石見銀山に伝えられた。
佐藤信淵は山師のノウハウを全国からあつめた『土性論』『国土経済論』を書いている。
▼東京都ed.『都市紀要 三 銀座煉瓦街の建設』S30
M5-2の大火をきっかけに、政府首脳は東京を 江戸的なものから 洋風に改造せんとした。ロンドン、パリが目標だった。
銀座煉瓦街は、市区改正(都市計画、都市再開発)の嚆矢となった。
その後、全面的な市区改正を何度か上程するも、敗戦までな~~んにもできず。
幕末に大儲けした材木商は、江戸にはいないという。
八代吉宗の頃をピークに防火空き地や防火土手が築かれたが、住民が空き地を利用させろという請願に抗しきれず、常に元の木阿弥となり、幕末に至る。
吉宗の施策としては、武家旗本屋敷の瓦屋根化。町方における土蔵塗家造りの奨励。
M5-2-26大火で銀座から築地まで焼いた。
5000戸近くが消えてなくなった。焼死者8人、うち1人が消防人足。
火災後、さらに消防人足2人が死亡。
外人から文句が出た。銀座付近の公道があまりに混雑し、死人も出ている。
牛車、大八、大七、大六、小車(地車と中車)、馬車が入り乱れていた。
これを舗装するのは、条約改正の大目標にも合致した。
日本で都市の不燃化を早く説いたのは、本田利明。北地経営論で有名な学者だが、寛政年間に『経済秘策』を書いている。いわく、永久不朽の石家造りにして、万民を安堵させなければ、王城の地にはふさわしくない。
「欧羅巴洲」の都会の地は、貴賎万民、みな石家造りの住居である。もし火事が発生しても隣家には延焼しないのだ。
いま、備前の大小の橋は、皆、石橋である。これを幕府が賞美すれば、全国に普及し、石家も構築できるようになるはずだ、と。
M1とM3に、土蔵造り、塗家などの家作を町方に奨励。
由利公正が外国都市の道幅を問い合わせた。NYCは24間、ロンドンは25間、ワシントンは24間だという。
そこで銀座大通りを25間巾に決めた。
反対意見は強く、あやうく12間にされそうになったが、押し返して15間にしたのである。
すでに竹橋の近衛兵舎は煉瓦であった。
外見のみ洋風だった築地ホテル館の焼失が、人々の目をさまさせた。外見だけ似せてもダメなんだと。
しかしM6-12に、はやくも、東京総レンガ/石化計画は、頓挫した。
▼出牛政雄『土蔵』S53
左官は火災時には非常線をパスできた。目塗りにかけつけるため。
足場を結ぶ藁縄は、土蔵のような長期工事では、何回も結び替えた。
古舞材は、竹に限る。
戦時中は、黒縞の迷彩もした。
全面、ナマコ壁の蔵もある。
土蔵は火熱に耐えるべく、屋根のはりだしが無いから、風雨には却って弱い。
そのために、雨水のあたりが激しい部分をナマコ壁にするわけ。
これは瓦を垂直面の外皮に張った構造。
扉は、少し軸を狂わせてある。そうすれば、プラプラすることがないからだ。
江戸では寺院と劇場も土蔵造りであった。