旧資料備忘摘録 2020-9-18 Up

▼中条一雄『日本のスポーツはなぜ衰退したか』1988
 ソウルの敗因は、コーチが男子一生の仕事になっていないから。20年来の膿。
 日本体育協会は民間団体のはずだが、文部省の下請け外部団体となっており、国庫から補助金を貰うから、予算は役所と同じで、前例主義となる。

 体協事務局長は代々、文部省のスポーツ課長が天下る。
 外国ではそのポストは、五輪金メダリストのもの。

 佐藤栄作「私は、新聞はスポーツ紙しか読まない」。
 日本陸上競技連盟に加盟していない選手が8秒で百を走っても、世界記録として公認されないし、五輪にも出られない。

 自転車連盟の役員は日大が主流で、橋本聖子のコーチの村田統司は早大だったため、ソウルの選手村に入れてもらえず、アドバイスもでぎず、惨敗に。
 これは他の競技でもよくある話。

 カナダは、モントリオール76夏季大会で金メダル零という、輝かしい歴史をもつ。
 今から十年あまり前に、運動選手の将来の成績を予測できるソフトウェアが完成してしまった。
 「骨年齢」と戸籍年齢のズレに注目する。戸籍上15歳で、WR級の実績があるのに、ホネは12才相当ならば、のびしろがじゅうぶんだから、将来も有望。

 この選才理論はソ連で発達し、中共コーチはそれを学んだ。中共では5歳から17歳までの数十万人をピックアップして特訓する。
 自己血液ドーピング、すでにあり。

 走、投、泳の「道具なし」競技だけ強い東独は、あきらかに、筋肉ドーピング。

 織田幹雄いわく。ソ連がロスをボイコットしたのは、たまたま勝てる選手のいない年にあたっていたため。ソウルでは圧勝する自信があったので、ボイコットしなかった。

 英国のスポーツは雨天でも決行する。米国の野球やアメフトは、悪天候だと中止する。
 北の湖は、初めて、竹刀を持たない親方になった。

 王は、バッティングはメソッドではどうにもならないと分っているので、子どもたちに対して、ボールを見て振り回せ、としか言わない。

 テニスと卓球では、異国籍でダブルスが組めるのに、五輪ではそれは不可。

▼石川泰司『もう金メダルはいらない』1990
 カトリックのスペインでは女子スポーツは盛んではない。アランチャ・サンチェスは例外的なスポーツ家庭に育った。

 NBAでは四分の三、NFLでは63%が黒人だが、野球ではまだ三分の一。

 エチオピア、タンザニア、ジブチ、ケニアは高地があるので、中~長距離選手を輩出する。
 アベベを発掘したのはスウェーデン人のコーチだった。
 米国籍の黒人はもともと西アフリカから連行されたので、東アフリカ系とは体格が異なり、短距離向きなのである。

▼バリー・リドル著、樋口・西納らtr.『欧米スポーツ名言名句1200』1991
 コーチの目標は、ひとりの努力ではこれ以上は到達できないというところまで競技者を高めること。
 サッカーでは、隙間を見ている選手が「上」、人を見ている選手が「中」、ボールを見ている選手が「下」。
 ゴルフについて会得すべき、最も難しいことは、ゴルフについて語らずにおれること。

▼T・G・ベルデンら著『IBM創立者ワトソンの伝記』S43、原1966
 トーマス・ワトソンは、馬車で移動するセールスマン暦11年。1892年から。
 父は材木商で開拓農民。アイリッシュ。すでに蒸気鋸はあった。
 1年間だけ、商学と会計学を学んだ。

 同じ場所を巡回するのが正直セールスマン。
 同じ場所に二度と立ち寄らないのがビジネスマン。

 イギリスのメーカーは、電気計算機で米資本の下に入ろうとしなかった。戦後の苦況期にも。

 1940か41にワトソンは、20ミリ機関砲を造る工場を9ヶ月で新設。見本はウォーターヴリエットの機関銃工場。
 WWIIが終わるまで、爆撃照準器、飛行機用エンジン部品など、数十種類、総額2億ドル弱の兵器を納品した。

 アメリカの徴兵データはパンチカード化された。個々人の将兵の異動、転勤がすべて記録された。
 1939にはIBMはまだ軍需品をつくっていない。

 ワトソンいわく。適切に指導監督されたことのない者は、将来、決して他の人を監督する地位には就けないだろう。
 戦後、2代目にひきついだ。本人は57年頃、85歳くらいで死んだ。

▼潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』S57
 隕鉄はニッケル鉄なので、叩き延ばすだけでよかった。
 錬鉄では炭素が足りない。それでは利器にならず、青銅の代りにならない。

 スキとクワは、日支で、さししめしているモノが逆さまである。これは古代からそう。

 弩機の金属フレームを「廓」という。外廓は鉄製のものがある。「機」は後まで青銅でつくられたらしい。
 刀布銭は、戦国時代の仲五郎か。
 戦国時代の中期から晩期において、最長150cmの鉄剣あり。
 柄頭デザインは、いずれも青銅剣からの踏襲。

 戈には鉄製が見られない。すべて鉄戟に統一されたらしい。
 A.D.100年代になると、五十錬とか百練清剛とかの、反復鍛打で夾雑物をのぞいた練鋼刀剣が出現する。

 鋼の出現により、鋏やピンセット(いずれも根元の支点が反発バネになっているもの)が可能に。

 鋳造斧は、加熱脱炭しないと、硬すぎて、割れてしまう。
 日本の古墳時代に、蛇鉾と見られる槍穂(根は呑口式)あり。石川県の【てへんに瓜】塚古墳から。「蛇行剣身」。

 折り返しにより、Cの分布が均一になり、しかも滓が除かれる。
 したがって炭素に偏りがあれば、その剣は、折り返しで鍛えられたものではない。

 殷・周の礼玉を構成する圭・璋・笏などは、石包丁や石斧などの利器に起源が求められる。
 つまり利器が神聖物に転じたのだ。

 よって青銅もいつしか神聖視され、そのせいでシナでは人工銑の普及に400年以上も要したのではないか。むしろ農具への鉄器応用が、早かった。

 日本では、刀子、【金施】、ついで斧など工具類から鉄器化した。
 古墳時代に、鉄矛が長大化して鉄剣形鉄鑓ができ、それが鉄剣、鉄刀に推移する。

 素材鉄も朝鮮と同時に国産が始まり、輸入は僅かだった。
 砂鉄製錬は古墳時代に普及。

 比重選鉱のための水、木炭も多量に得られたことが、日本独自の砂鉄ONLY製鉄を可能にした。

▼『高橋健自集 上巻』1971
 「銅鉾銅剣の研究」大12-12の学位論文る
 先秦貨幣の「明刀」。
 日露戦争中、仙波少将が、大石橋の近盟龍山上を工事していたら、大量に出土。
 「刀幣」「刀布」とも称される。

 ※この論文は、ヤマタイ国は畿内だろうと学術的に論じ詰めた画期的なものという。日本の遺物研究の方法論を確立したとも。

▼京都女子大学史学会『史窗』1964
 所収、那波利貞「盛唐時代に突如として現はれた野戦の布陣用兵法の一変態現象について」

 六経に「騎」の字なし。戎【羽のしたにふるとり】の語で「キ」といったのだろう。
 マケドニアのphalanxに相当するものはシナでは唐以降に出る。

 明の章【さんずいに黄】の『圖書編』の巻壹百拾八に、「李靖陣法」として、臨戎対敵、毎作 四面陣 とあり。Pharanx らしい。
 五胡時代に西域から入ったのだろう。

 散開と密集を自在に変換する指揮術も、古来シナにはない。

▼石橋絢彦『甲賀源吾伝』S7-12
 仏国陸軍伝習所は、厩方を騎兵となし、鉄砲方を砲兵となし、小筒方を撒兵となし、旧格を廃停した。

 参考文献は、麦叢録、雨窓紀聞、北州新話、函館交戦記、函館戦争と五稜郭。

 官兵、快【石へんに駁】を以て、艦橋を急射す。源吾、身、数創に中り、遂に斃る。31歳で死んだ。

 M2に3等士官として『春日』乗組だった東郷平八郎はガトリング砲について一言も語っていない。甲鉄は応戦したというのみ。

 回天は暴風で前檣と大檣を折られ、後檣のみとなっていたので、官軍はすっかり騙された。※この話は『有終』vol.174号に載っている。

 回天の船材は、ドイツ産オーク。
 大砲(56斤)×12門。
 回旋砲×1門。

 モニトールの廻旋砲台を備ふる甲鉄艦に類似せり(p.188)

 回天はもともと、プロイセンの『ダンチヒ』号。
 それが廃艦となって英商に売られ、イーグル号となり、慶応2年に長崎において米商より日本へ売り込んだ。

 甲鉄は、前後に回旋砲台あり。その前部砲塔は300斤×1。
 中央より艫のほうに、後砲塔あり。こちらは70斤×2。

 舳首に長さ2間の堅牢な「鎗」を備え、事あらば敵艦を突きやぶる。※水線下のRamのこと。

 宮古で回天が射った56斤砲弾は、甲鉄の船塔にわずかに弾痕を留めただけ。鉄板を貫くことはできなかった(p.191)。

 甲鉄にガトリングがあるとは一言も書いていない。
 56斤砲は霰弾と実弾を撃てた。

 ガトリングガンの話(pp.239~240)。オリジナル情報なし。麦叢録の伝承を咀嚼しているのみ。

 双輪船である回天は、鑓出し が甲鉄の後檣の縄梯子に突き刺さる形で接舷。
 この、舳先の一隘路からしか、乗り移りができなったことが、敗因。
 この隘路を、「速射砲」(ガトリング)で斜めに打ち払われたので敗けた(p.246)。※それが本当だとすれば、甲鉄から見て、後方へ向けてガトリング砲を放ったことになろう。もし、あったのだとすれば、だが。

 開陽丸のクルップ製30斤長加農は、徹甲榴弾を持っていたが、座礁したときに、捨ててしまっていた。

▼服部雅徳『漁船の太平洋戦争』H6
 著者はS7年生。空自→防研。

 監視艇は、32トンから179トンで、平均90トンだった。
 S18-5頃、監視艇が積んでいた「仮称電波探信儀1型」は、高度500mの敵飛行艇を25kmの距離で捉えた。
▼野原 博『初級軍事数学(図形編)』S18-3
 中戦車中隊の行軍速度は、昼間に於て毎時12kmとされていた。
 自動車中隊は20km。馬は8km。歩兵は4km。

 ラジアンは「らぢあん」と書いた。

▼川上清吉『葉隠の哲人 山本常朝』S17-5
 著者は47歳だが、佐賀県に10年間住んでいると。

 常朝は、学者でなく、藩政家でもなく、実戦経験も無い、十人並みの藩士だった。
 佐賀には広葉樹の巨木が多い。肥前風土記には巨大楠の伝説あり。樟脳が採れる。
 真崎や武藤も佐賀県人である。海軍では吉田。

 佐賀民は意地強く押し強く、爆発性あり、闘争性あり。排他主義にもなる。
 他国人を「よそもん」と称す。

 常朝は、藩祖から3代目の鍋島光茂に幼少から側仕す。光茂が死ぬと、世を捨ててわび住まい。
 晩年、隠遁して何十年もしてから、語った。
 その時点で「大慈悲」だの「諸人一和」などと強調しているのは、よほど藩内が乱れていた。

 常朝の役禄は120石であった。
 光茂逝去とともに落飾したのは彼1人ではない。他に十数人あり。
 田代は、祐筆役の武士で、30歳くらい。はじめ、通いながら筆記したが、やがて、近くに転居してきた。

 11巻、1350余章。
 「聞書第一」とあって「巻一」とはしていない。これは死後火中を命じていたことを裏付ける。

 だいたい本人が「一世帯構ふるが悪しきなり」〔一家の見をなすことは悪い〕と言っている。

 親は、山本前神右門といい、「走る馬にも鞭」「金銀はあるものなり。人は、無きものなり」といっていた。※豪胆の子が細心というケースだったか。
 佐賀平野はクリークだらけ。菱の葉が浮いている。堀を干せば鮒がとれる。

 鍋島直義は、朝鮮では清正と駢進。
 直義が70歳のとき、櫓から城下の歩行者を眺めて、皆、目線が下がっていると嘆じた。これでは野戦で鑓は使えないだろう、と。

 父いわく。笠とカブトは前下がりにかぶれ。
 この父の二男が常朝。
 光茂は利口者を嫌うというので、常朝は13歳以後、常に鏡を見て自分の表情に注意した。
 光茂は全国に先んじて「追い腹」を禁じた。幕府より早かった。

 光茂の死を境に「つねとも」を「でふてふ」に言い換えた。妻も共に剃髪した。61歳で死す。
 光茂の歌の相手もつとめた。その挽歌。尋ね入る法のみちしば露ちりて衣手すゞし峯の秋風。
 一回忌には「めぐり来にける○○〔季節〕の空」と入れる。

 芸は身を助くる――とは、もともと侍について言われた表現。
 常朝の時代に「芸者」の意味がいやしくなったのである。それゆえ「御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり」と。

 真実なるものはどこに置かれても必ずその光を見失はれることはない。
 陣基は、綱茂、宗茂の二代に祐筆として仕えて後、32才で常朝をたずねる。宝永7年春。

 いちど近所に庵を結んだが召出されて再仕官し、71歳で没。常朝より29年遅れた。
 7年かけてまとめ、しかも「自分」をのぞかせていない。これは稀有の伝記人だ。師に全く聴従したのだ。

 巻五 「禁裏御崇敲の御心入れの事」。

▼中里介山『日本武術神妙記』S29
 この小説家が、じぶんの蔵書の中から数百箇所を抜書きしたノート。

 フェンシングと違い、日本剣法は必ず相打ち勝負。こちらの傷が敵より浅ければよいのである。よって基本的に「受け」は無い。

 宗矩が子の三厳につぶてを投げ、右の目に当たったが、子は左の目を隠した――。この話の元は不明である(p.48)。

▼森松俊夫『総力戦研究所』1983
 総力戦研究所はS20-3末に廃止された。
 山縣は大6-10-15時点で、今後の戦争に勝利するためには各省が「総力戦段階」に対応しなければならぬとの認識。

 陸軍はWWIの総括のため大4-9に臨時軍事調査委員会を設け、その第2班で国家総動員関係を調べた。
 月報は大5-1以降、報告配布された。
 第2班はそれをさらにまとめた「交戦諸国の陸軍に就て」と称するリポートを大6-1から大8-12の間、5回提出した。火器、弾薬、飛行機、戦車を網羅。
 永田鉄山少佐もその委員だった。

 大9-5に「国家総動員に関する意見」を作成。
 永田によれば、動員分野は、国民、産業、交通、財政、精神 の5つ。
 ※通信や情報動員がない。対外宣伝も、意識されていない。

 大7-4-16、寺内内閣は、軍需工業動員法を制定(これはS13-4-15公布の国家総動員法により廃止)。
 これをうけて 大7-5-3、内閣に軍需局が、また陸軍省兵器局内に「工政課」が、海軍省艦政局に「第六課」が新設された。いずれも軍需動員の担当。

 内閣軍需局は大9-5-14に内閣統計局と合わせ「国務院」になり、大11-11解体。
 大15-10、陸軍省内に「整備局」ができる。当時の参本 総務部 編成動員班長が、酒井鎬次中佐。
 S2-5に内閣に「資源局」ができる。

▼浅野祐吾『軍事思想史入門』S54
 マキャベリの時代、フランスに対しイタリア諸都市は分裂。しかも中核の貴族騎兵の下には、スイス人とならず者の傭兵。
 これではダメだと、歩兵中心の集団戦への転換を説いた。

 湾曲銃床をとりいれた燧発式小銃は、ナポレオン戦争時代にできた。これは散開戦術を容易にしたという。

 1814 英・ネパール戦争。
 1824 英・ビルマ戦争。
 1838 アフガン戦争。
 1840 阿片戦争。
 1852 ビルマ戦争。
 1898 ふたたびアフガニスタン戦争。

▼原朗[あきら]・山崎志郎ed.『軍需省関係初期資料』1997 (株)現代資料出版
 「戦時経済総動員関係資料」第二期分の1巻目である。
 原は1939生まれ。山崎は1957生まれ。

 軍需省は1943-11に設置された。
 1942-11に臨時生産増強委員会が設置され、鉄鋼、石炭、軽金属、航空機、造船の5大重点産業に増産努力を集中しようとしたが、航空機と艦船部門は商工省と陸海軍の分掌であったため、商工プロパーの原料、機械工業に混乱がもたらされた。それで、一元化しようとした。

 陸軍航空本部と海軍航空本部もライバル。
 陸軍兵器行政本部と海軍艦政本部もライバル。

 軍・官・民一体となって航空機増産に集中すべきだとのコンセンサスに到達したのは1943-8のこと。
 陸軍航空本部は「まるヒ」研究と称して、44年度物資動員計画を、また船についても検討開始。
 8-30に藤原銀次郎を査察使として、飛行機関係の行政査察。両航本、企画院、中島、三菱等には、陸海で発注を一元しようという機運が生じた(~10月)。

 失敗した原因は、多元統制。

 行革もおこなわれた。地方行政を強化し、中央各庁はその業務を委譲する。予算を単純化する。官庁人員を減らす。昼夜休日の官庁執務継続。外郭団体・統制機関の整理。

 機関と機関の間の協議による「調整」では、何にもならない。

 逓信省海務院と鉄道省の統合による海陸輸送一元化。これによって運輸通信省ができた。海軍は反対したが。
 経済総動員の最大ネックは、陸海輸送力だった。
 逓信省は電力局ももっていた。

 43年後半から、軍需動員の中心は航空機へ決定的に傾斜し、陸海軍も軍需省に協力することになった。
 44-2-25、閣議決定「決戦非常措置要綱」で、「高級享楽の廃止」。

 軍需省にも航空兵器総局があった。
 次のネックは液体燃料と真空管。
 ※ここまで、都市防災・民間防衛の着眼が抜けている。そこを最初に考えてないから、工場疎開などが間に合わなくなった。

 食料、燃料の自給。
 輸入途絶状態での運輸をどうするか。

 軍需省行政の基本は、あらゆる動員機関を利用して、重点産業の生産系列に物資を集中し、常に隘路対策を講じることにあった。

 1945は飛行機工場の疎開と地下工場化、輸送力の確保がテーマに。※これを戦時中に考えるようではもう敗けだというのがわが国の得た教訓。

 S19-3-30、企業国営化試案。
 株の配当率(平均利回り)を考慮した国債(特殊決済債権)で、国債保有会社とし、株主にはその利子を配当する。
 国が企業を借上げ、利子と償却は国庫から出す。
 既存のコンツェルン(営団)をして、それらを代行せしめる。

▼正木千冬tr.『アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 日本戦争経済の崩壊――戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』S25-6
 The United States Strategig Bombing Survey “The Effects of Strategic Bombing on Japan’s War Economy”
Over-All Economic Effects Division (Dec. 1946) 刊。

 結論。戦争の初期~中期の対船舶攻撃と、末期の無差別爆撃が勝因だ。
 日本は、封鎖に対するヴァルネラビリティーが大だった。

 1941に年産7000機以上に達した。
 1942-1における弾薬貯蔵量は1942の生産率での5ヵ年分あった。
 また1942-1には、8万1000台の自動車があった。
 戦車は1180両だった。

 米国は1941にいきなりMAX動員体制に転じた。
 しかるに日本はただ、南方から石油とボーキサイトをもってくるという限定的な目標を追ったのみで、1942まで生産量に大変化がない。
 むしろ1940以前、1943以降の方が大軍拡だった。

 ※S15に対ソ戦を考えていたので。

 労働市場は逼迫しておらず、そのためサービス産業は1942にも上向きであった。
 日本の戦争経済のピークは1944の中ごろである。

 1945-3に本土爆撃が始まるが、その前の1944中ごろから、船舶減耗だけで日本の戦争経済は減退を開始した。
 ドイツはチェコを占領することでアルミナ工業も手に入れた。が、日本はあくまで国内で加工する他なかった。

 東條内閣の書記官長の星野は、日本の戦時経済はガダルカナル以後に始まると証言。
 アルミ原料たるボーキサイトの9割は、ビンタン島、マレイ、パラオから来た。

 企画庁は1937春にできた。
 1937-10に企画院に拡大。
 1941~42年、各統制会ができた。カルテル財閥の役員が仕切った。各大臣の力は弱く、「財界統制」であった。

 1941の優先表でAは、戦車、トラック、中口径砲、小口径砲、大口径砲、車載無線機、大型ラジオの順。
 1942では、戦車、トラック、大型ラジオ、無線探知機。
 ※これも、対ソ戦をまだあきらめていなかったから。

 航空弾薬および部品は、1941年にはC3 、1942年にはB6 、1943年にはA2 という冷遇っぷりである。
 1940~41年、大型タンカーの建造はゼロ。
 1943年からそれを最優先にしたが、とりかえしつかず。

 1941-12に、海軍は2120機、陸軍は4840機あった。しかし陸軍機のうち第一線機といえたのは1068機のみ。
 1944で航空機生産が頭打ちとなった理由。労働力が隘路のひとつ。

 1941-12から1945-8まで、航空機の機体6万5971、エンジン10万3950製造。
 航空機と同弾薬の増産優先とひきかえに、自動車、海上弾薬、陸上弾薬の製造は減らされた。戦車と火砲は、終始、一定していた。

 海軍の機銃と同弾薬は、航空機用も艦船用も、最後まで足りていた。

 トラック生産。1941年には42000台。1944年には20500台。1945-4~7月には2000台弱。トラックの生産低迷は戦地への影響はさほどでもなかったが、経済への影響は大だった。

 44年にコメが尽きた。
 日本軍に対して合衆国軍の航空機は爆弾を58万3962トン落とした。うち、本土へは28%の16万1425トン。うちわけは、第20空軍が147576トン、その他の米陸軍機が7109トン、米海軍機が740トン。

 比較すると、ドイツ軍に対しては269万7433トン落としており、そのうちドイツ国内へは135万6808トンであった。

 揚子江の港から、日本の鉄鋼は積み出された。
 セレベスにニッケル工場あり。

 米軍も一時、焼夷弾を使い果たした。S20-4月はじめのこと。侵入高度を下げて大量投下したために。
 それでまた精密爆撃目標に切り替えた。
 6月後半、対都市の焼夷弾空襲を再開。

 第315飛行中隊のB-29のみが、レーダー爆撃可能だった。彼らには、石油関連施設がわりあてられた。テトラエチル鉛など。

 下関は機雷により最もダメージを受けた。

 1945-6に4000ポンドの試験爆弾を1発、トラック工場に落としたら、日本側は慌てふためいてその工場の疎開を開始した。ために、終戦まで、1台の自動車も生産できなくなった。

 石炭が減ると、コークス炉が動かない。コークスの副産物であるベンゾールとトルオールの生産も減る。

 2トントラックの生産実績。
 1940年30687台、41年39297台、42年33129台、43年21987台、44年19546台、45-4月~7月に1695台。
 1936年には1180台国産、14476台輸入。
 1937年には6152台国産、17081台輸入。
 1938年には13771台国産、13817台輸入。
 1939年には26334台国産、輸入はゼロだった。

 4トントラックの生産実績。
 1940年2551台、41年2828台、42年2257台、43年2013台、44年900台、45年4月から7月には63台。
 1936と1937年には国産も輸入もゼロ。
 1938には1325台国産、輸入はゼロ。
 1939年には3357台国産、輸入はゼロ。