旧資料備忘摘録 2020-9-19 Up

▼鳥居民『昭和二十年 第一部=3』1987
 WWI後に英国の相続税率は暴騰し、ロスチャイルドは「自分は死ねない」と叫んだ。
 S19に辻は、モスクワ=延安=東京 で枢軸をつくり直そうと考えた。

 ソ連通の秦彦三郎(24期)は、S12-3に『隣邦ロシア』というクールな本を書き、皇道派の対ソ予防戦争論をたしなめた。
 秦は、ソ連に和平仲介をたのむ見返りとして、北千島、南樺太は譲渡するつもりだった。

 鳥居の推理。対ソ交渉の切り札は、延安支持を日本政府が打ち出すことだった。

 バターン半島を攻めあぐねたとき日本陸軍はなぜ海軍の戦艦の応援を頼まなかったのか?
 ナパームは1944-8のテニアン島で初使用された。米軍内で秘密扱いで、米人の新聞記者は一言も書けなかった。同様、カミカゼの米本国内での報道も禁じられた。

 ※鳥居氏は榴弾(艦砲の普通弾)の曳火射撃と榴霰弾の違いが分っていない(p.153)。

 初期南方作戦で、香港からビルマ、比島からインドネシアまで占領するのに、日本兵は1万5000人死んでいる。
 鳥居いわく。海軍に艦砲射撃で手伝わせていたら、5000人で済んだだろう、と。

 ガダルカナルでは日本兵は25000人死亡、米兵は1500人死亡。
 アッツでは、その比較は、2600人:600人。
 タラワでは、3000人:1000人。
 マーシャルのクエゼリンとエニウェトクでは、12000人:600。
 ニューブリテン島西端では、5000:500。
 アドミラルティのマヌス島では、4000:200。
 ニューギニアのホーランディアとアイタペでは、8000:800。
 ビアクでは、5000:500。
 マリアナのサイパン、テニアン、グァムでは、60000:5000。
 ペリリューでは、10000:1600。
 レイテでは、5万以上(不明):3500。
 S20-2月末のコレヒドールでは、6000:200。

 鳥居いわく、硫黄島式は、本土ではできない。民間人はどうするのか?

 合資会社は当主が2人つづけて早死にすれば財を失う。よって株式会社化するしかない。
 高田商会の阿片を積んだ船がWWI後にウラジオで捕らえられたことあり。
 鳥居いわく岸信介は中国本土での阿片栽培で巨利を得、それを原資に、権力を握った。

▼鳥居民『昭和二十年 第一部=4』1990
 鳥居いわく、台湾沖の発表は政治的なもの。海軍が全滅したと思われては、無条件降伏しかないと判断したからだと。
 つまり敗戦責任をかわしたかった。
 南方の油を遮断され、GFもなくなっても、航空機さえあれば、戦い続けられるのだ――と、国民に対して宣伝をしたかった。

 ※海軍が全滅したと陸軍に知られるのが怖かった。その瞬間から、日本国内には、陸軍単独政権が成立してしまう。その結果は、日本国のソ連圏入り=皇室廃絶でしかなかった。

 S18に出版された、アーネスト・サトウの回想録の抄訳中に、勝海舟がサトウに会い、パークスが西郷に警告していることが出ていた。

 近衛は、GFが全滅したら終戦内閣をつくる気でいた。

 戦時標準船の最小モデルたる改E型が、1隻で1000トンを運べたのに、のべ39隻の潜水艦がガダルカナルへ運漕できた物資は500トンでしかなかった。輸送船の輸送作業効率は、やはり絶大なのである。

 陸軍省の情報部長、報道部長は、国民にとっては、陸相よりも有名になる。

▼橋本裕ed.『若き空の御楯』H6
 千葉陸軍防空学校を出た少年兵たちの回想録。
 93式2米測高機。
 視力が1.2以上の、目に自信のある者をその担当にしていた。

 教育は、2米のものと3米のものを使った。
 他に、4mのイタリア製があった。
 また、月島陣地には9mのものがあった。

 2mはコンパクトで、野戦移動に適した。まず鉄塔で、つぎに、飛んでいる九八直協で訓練する。
 7高は、高角70度以上にしてようやくH=9000mに達する。これでは実用性は無い。
 「航速○○」と呼称。

 はじめて実戦で敵機と対決する段になると、あちこちで一斉に帯剣がバタバタと鳴り出し、靴の鋲がガチガチと音を立て始める。全員が、武者震いしているのだ。

 7高は、連射するとすぐ閉鎖機が焼きつく。
 遠くで聞くAAMGは、カンカンと高い音がする。

 B-29が墜ちるときは、まず青い火がパチパチと見える。
 パレンバン精油所には阻塞気球を揚げていた。英軍が空襲してきた頃。

 「た号」で、高度も分った。しかしAAを撃ち始めると、震動でレーダーは使えなくなってしまう。土台は、コンクリートでなければならなかった。

 「信管射撃でB-24を撃墜」……タイムフューズを使わずに、着発信管をとりつけて、ダイレクトヒットだけを最初から狙って成功したということ。75ミリ級ならそれが正しい場合がある。戦後の英軍の地対空ミサイルも直撃主義だ。ただし、国内でそれをやって外した場合は、空中自爆機能がついてないから、地上の人家がたいへんなことに……。

 「将校バンド」夏服でも。長靴。

 出生兵士は神棚に最近の写真を飾られ、据え膳される。死ねばそのまま遺影となる。
 通夜には「屍衛兵」が立つ。
 午後7時すぎにラジオで「復員だより」のニュースがある。

 二等兵からやっておる中尉は、連隊長の前へ行ってもポケットから手を出さん。
 少尉候補者は陸士出身者と6~7歳の差があり、少佐で定年。陸大へも行けない。
 ちなみに「のらくろ」は少尉候補者なわけである。S7~S14の連載。
 ※のらくろは大尉の中隊長で退役したことになっている。作者は、少佐以上にもなって馬鹿なことはさせられないからと説明していたが、ほんとうは、昇進が打ち止めになる現実に、フィクションといえども、触れたくなかったのか。

▼鳥居民『周恩来と毛沢東』1975
 ※『諸君』に連載された企画。
 1924-10にソ連軍事顧問団の船が黄埔に至り、銃と砲を初供給した。
 ソ連の飛行機は1937-12-1にスペインから、戦闘機23機が南京に到来。その日のうちに五回もCAPに飛んだ。

 さらに爆撃機×20機も到着し、12-2に、早くも上海の日本艦船を爆撃した。
 このときまでに国府は500機を失い、残っていたのはカーチスホーク×5機だけだった。

▼岩波書店『世界』1988-4月号
 山之内靖「戦時動員体制の比較史的考察」
 ヴェーバーは、WWIにさいして、戦争が社会的規律と合理化を生み出す作用に注目した。
 1948にウェイツいわく。ヴェーバーは、マルクスの経済的唯物論を、政治的軍事的唯物論によって補完したのだ。

 WWI時の統制ノウハウが、1929大恐慌の対策として再導入された。
 WWI中に生じたもの。官僚機構の肥大。年金制度の準備。政府が科学技術を奨励する枠組み。
 T.H.マーシャルいわく。WWI後の世界は、福祉国家体制だ。

 WWIは、不熟練労働者の価値を高めた。それで英国は1918に選挙法を改正した。

▼山之内靖『総力戦と現代化』1995
 フックス&ジュソームJr.「戦争行為と国家の変容――第二次大戦における日本とアメリカ」 は注目されるべきである。
 WWIIでは、日本はそれまでの軍事国家から、企業家に官僚が協力する国家になった。
 米国は日本と逆に、国家が企業を統制できる国になった。

 戦前の日本国家(=役人)は民間企業に対してかなりの妥協をしなければならなかった。役人が企業を統制する能力はアメリカの方が上だった。

 フォーチュン誌が引用している面白事実。米国は1776から1935にかけて、大英帝国を除けばいかなる国よりも広い領土を軍隊によって獲得した。

 米政府はWWIでは経済全体の統制に失敗している。

 WWII後、米国内で余剰に製造された航空機は、国防総省が買い取った。
 この救済措置のおかげで、戦後においては、米国の航空産業は、DoDの支配に対して頭が上がらなくなった。

▼東京都経済局『空襲時応急物資配給要綱』S18-8
 水は、1人に1日 2合5勺=350グラム必要。それを5日分用意すること。
 木炭1俵、または薪5束。これが避難1世帯分である。

 コメまたは乾麺。
 コメならば1人1日 2合5勺。
 乾麺ならば1人1日 1把3食分。

 塩は、炊き出し20日につき、500グラム。

▼大越一二『東京大空襲時における消防隊の活躍』S32
 寒い時期だったが、1週間で死体は腐り、鼻が曲がりそうであった。
 河の中の死骸は、膨れ上がっていて、トラックに8体しか載せられず。それを上野の山まで運ぶのに40日かかった。

 大規模停電で水が止まることも。
 水利によっては、ポンプ車を集中させても、かんじんの水がない。

 当時、消防の帯剣は短剣。※明治時代はサーベル。

 S16-12-20に改正防空法が実施された。
 防火改修が義務化された。
 それでも、モルタルでなんとかなるだろうと甘く考えられていた。S19-11の首都空襲開始で、建物疎開に方針が変わった。

 武蔵野町(今は武蔵野市)消防署は、中島飛行機のお抱えみたいだった。
 原宿の海軍館は早々に焼けた。

 当時のサイドブレーキは、風に吹かれると車が動いてしまう。
 8-12頃に、降服すると知られ、13日には「グリコだ、グリコだ」と騒ぐ者があり、軍は書類を焼き始めた(p.914)。
 新潟では、次の原爆はここだと、山へ避難した人も沢山あった(p.914)。

 靖国神社の本殿は焼けずに済んだ。
 後日の陛下の御言葉。「……独り宮殿だけが残ると云うことはない。木造である限り焔上するのは当然である。之で気持もさつぱりした」と。
 この本の時点ではまだ正殿は建たず、御文庫ぐらし。

 8-15に小石川・丸山町にあった鈴木貫太郎総理の私邸は軍人によって焼かれた。 

 金庫の中に、水を入れた1杯の茶碗を置いていた人は、家が空襲で丸焼けになっても、金庫の中身は焼けずに済んだ。
 亀戸では地面からちょっとしか出ていなかった枕木すらも焼けて、そこが空洞となっている状態。

 焼死人の臭いは1ヶ月以上、身についていた。
 東京大空襲の記録の私的な編集作業に4年かかった。それは最も早いリポートであった。

▼G・オーウェル著、鶴見俊輔tr.『右であれ左であれ、わが祖国』S46、原1968
 スペイン内乱に飛び入りしたことで、オーウェルは自身の愛国心を自覚した。
 5歳にしてすでに自分が将来作家になるだろうと知っていた。

 タイタニック号事件はWWI中においてもまだ、欧州と北米においては大事件であった。
 船尾を立てて沈むときに船尾は100mも高く上がった。

 WWIで英本土でも馬はぜんぶ徴発された。
 OTC……イートン校の仕官訓練隊。

 飛行機の数を除くと、スペイン内戦は、WWIの出来の悪い複製だった。

▼武井明通『最新 機関車操縦法』S9-11
 初版では練炭が無かった。増補で加筆した。
 制動は、いまや空気式が主流だ。

 褐炭は、入山五坑のが5910カロリー。福島のが4670カロリー。
 瀝青炭は、夕張のが7650カロリー。
 無煙炭は、【さんずい、くくくのしたに田】川のが7120カロリー。
 ※つまり夕張炭が日本一高カロリー。

 なぜ瀝青(コールタール)と称するのかといえば、乾溜するとそれを出すので。
 無煙炭は火つきが悪いので、機関車用としては不向き。瀝青炭の古いやつが無煙炭になる。

 火室内の温度は1400度になる。摂氏。
 練炭は、配合粉を圧縮してつくったもので、煤煙が出ない。

 機関車の最も後方部分で燃やした火熱が、えんえんと最前部まで達して、そこで煙突から吸い出される。
 毎秒、何度回転するかを「角速度」という。単位はラジアンである。1ラジアンは57.5度である。1回転は2πラジアンである。

▼中村幸八『発明五十年史』S19-10
 M17に、海軍三等技師・肥後盛良の発明した信管が、「肥後信管」として採用された。1月9日の官報に布達が載っている。着発信管である。

 特許条例はM22-2-1施行。
 日清戦争がいかに余裕をもって戦われていたか。役中、大阪砲兵工廠は、大阪市の水道鉄管を鋳造し続けていた(p.51)。

 宮原の水管式汽罐は、日露役以前は、『水雷敷設第一大湊丸』と、軍艦『橋立』のみが搭載。
 艦本式も、軍艦『宇治』(M36)と『音羽』(M37)のみで、あとはM40以降となる。

 S10-7-2特許の「ガソリン節約装置」は、水を電気分解してO2 とHにし、それをガソリンに混ぜるというもの。

 粉末燃料機関のネックは、いかにして、シリンダー内部を傷つけないように、回転させるか。
 S17-10-5の特許。捕鯨砲の引き金を引く瞬間に、砲身を自動固定するメカ。

 ※本書に潜航艇の話は無い。

▼CN毒性研究グループ『催涙ガス』1970-12
 クロルアセトフェノン5%、四塩化エチレン95% からなるもの。1968から使用。
 メチル基がSH基の水素と置換される「アルキル化」で催奇性が生ずる。イペリットはその代表。

 RNAやDNAをアルキル化するものは発癌性。

 エチオビアでのイペリット使用は、1935~1936。空から撒いた。
 日本は1937~1943に使った(p.186)。※シナ大陸。
 FDRは、1942-6に声明。中国へのガス兵器の使用は、アメリカに対する攻撃とみなし、同様方法で報復する、と。

 霧社事件では、毒ガスも使用した。
 緑1号(クロルアセトフェノン)とイペリットだった。

 米国のペンシルベニアに、催涙ガス工場がある。
 1966のベトナムでは、まずヘリコプターから催涙弾を落とし、地下トンネルからコミーが出てくるところを、B-52でカーペットボミング。仕上げは、歩兵がヘリボーンで。
 「フラッシュアウト」と称した。

 神奈川県寒川町の相模海軍工廠あとの三光化学工業。1949から催涙弾を造る。

▼出口林次郎『世界体育史』S2
 シナ人の漢方(コンポー)とは、道教士がひろめた治癒体操で、ほとんどヨガである。

 古代エジプトの撃剣。右手には、簡易な護拳つきの片手剣。直剣である。左腕には、腕と同じくらいの幅の防護板を装着する。防護板の長さは肘から指先までに均しい。この板が左腕の外側(動脈の無い側)をカバーするように縛着していた方法が詳しくはわからないが、手首から肘にかけて3箇所のベルトのようなもので固定した。腕の内側はノーガードであるから、常に左掌を自分の方に向けるようにして、防護板を敵正面に向け、以って、自身の上半身をガードした。

 ギリシャ人は、亜鈴を握って幅跳びをした。それゆえドイツ語では、ギリシャ語の「跳躍」が、「亜鈴」の語源となっている。

 古代ギリシャの投げ槍は、紐輪がついていて、そこに食指と中指とを入れて、投擲していた。
 古代ギリシャの拳闘家は耳が潰れているのですぐ分かった。耳のプロテクターも発明されている。

 古代の五種は、まず短距離走、巾跳び、槍投げ、円盤投げで選手をふりおとし、最後に残った2名をレスリングで勝負させた。

 スパルタには女子選手もいた。むろん裸ではない。
 アテネ人は、させなかった。

 衰退期には、客のよろこぶ格闘と拳闘が流行。選手にはプロのコーチがつき、特別待遇だった。
 指を拡げたまま相手の腹壁を破り腸を掴み出すことのできる者すらいた(p.37)。

 ローマ時代、競技者は、不正をするのがあたりまえだった。
 ゲルマン人は、寒さと飢えには強かったが、暑さと渇きには弱かった。
 ゲルマンの「牡馬相撲」。乗馬同士を突き当て、後退した方が負け。

 ギリシャ競技の賞品として、カップがあった。
 鞍馬は、もともと本当の馬の形をしており、鞍の出っ張りに手をついて人間が飛び越した。まったく乗馬の訓練用であった。

 第2回の五輪パリ大会。米国がほとんどのメダルを独占した。
 第三回のセントルイス大会も。390競技中、非米人の優勝は14種のみ。
 抗議失格事件は1908ロンドン五輪で生じた。
 1920のアントワープ大会は大不評。ベルギー人は世界中から嫌われてしまった。

 当時の日本には、武道の地方団体して、(財)国粋館 と (財)尚武館 があった。
 ゲーテは、スケート、水泳、撃剣、射撃、馬をたしなみ、64歳のとき、6時間以上乗りづめにできた。