旧資料備忘摘録 2020-9-27 Up

▼胡邁・著、井田啓勝tr.『華僑新生記』S19-1
 マレーの総督も9-4に対独宣戦。東西海岸に戒厳令 および 数百浬にわたり機雷を敷設。ノルウェー船が沈没した。
 WWI中、『エムデン』はペナン島を砲撃した。

 来栖特使は香港からクリッパー機で米国に向かった。
 『プリンスオブウェルズ』のポンポン砲は、シカゴ・ピアノと呼ばれていた。

 シンガポール島内にはランダムにトーチカを設けてあった。
 相互の連携が皆無だった。

 極東総司令官のポパムは空軍元帥。海軍との折り合いは悪い。
 2艦が沈んだというニュースは、ロンドン経由で。つまりチャーチルが発表した後に、マレーへもたらされた。

 『レパルス』は旧式なので仕方がないと思われていた。が、もう1艦は違った。
 『プリンスオブウェルズ』の水偵は、早々と射出され、陸へ向かえと指示された。

 重慶のスローガン。有銭出銭、有力出力。
 マライ共産党は、戦前からあった。
 ビクトリア女王は、23という数を嫌った。

▼濱田昇『黄塵』S13-11
 山西宣戦は、コミーが相手だった。
 シナ人いわく。いゝ鉄は決して靴鋲にはならない(p.48)。

 シナ人は日本人の表情をみることにすこぶる敏感で、どんな早口でも意味を聞き取り、2度目からは「明白(ミンパイ)\/」である(p.107)。

▼間宮茂輔『火箭の譜』S19-11
 著者は報道班員か?
 ニューギニアの陸戦隊。
 敵は自動小銃。
 空襲は朝夕が多い。
 「ネシヤの前で日本人が泣いてよいのか」

 ※東南アジアのイスラム土俗のディテール描写あり。

 敵潜水艦にやられたらどうするというリアルな心得。かなり戦況が悪いことを書いている。珍。
 ボーキサイトを満載してニューギニアから日本に向かう。

▼秦賢助『白い戦手』S19-9
 航空機製造工場の女工。
 昼は8時間、夜は6時間労働である。
 その3直で24時間。

 近江絹紡績が、近江航空工業(株)になっていた。繊維工場だったところ。
 ジュラルミンは割れ易く、加工中によくヒビが入ってオシャカになる。

 海軍の陸攻らしい。どうやら。
 女学生である女子工員。会社が女学校を経営していた。

▼佐藤光貞『海上封鎖』S14-5
 著者は海軍三等兵曹。
 内火艇でシナ舟を臨検している写真。
 親日保安隊の拳銃はルガーか南部らしい。
 装面の写真。

 封鎖作戦に従事する軍艦には、内火艇、通船、カッター(救助艇)を積む。
 内火艇は、ランチより小さいモーターボートである。
 固縛するのをセキヤという。
 もやいをとる「バーメン」という用員。これはS12-12-1時点。

 「後部 もやひ レッコ(放せ)」
 「ようそろ(真直向)」

 反英気分が充溢しており、ロシア小説を読んでいる。※貧家出身の兵隊はソ連に共感していた。
 12月中に、ソビエトの軍艦や潜水艦についての注意がある。

 シナ語で 要々 は、いります。
 【にんべんに爾】は「ニー」と発音し、それだけで、おいキミ という呼びかけになる。
 請坐 ……どうぞ。
 吃飯了 ……おかげさまで。疑問形にすると、吃飯了麼? どううですか になる。

 子どもに内火艇を引いてもらおうとして頼んでもまったくダメ。しかし、やれ と命令するとやってくれる。その代価をくれてやろうとすると、何も手伝わなかった奴までが手を出す。

 とにかくシナ舟、シナ人は、隅から隅まで大蒜臭いのである。
 近くの商船にコレラが発生すると、海水使用禁止。上甲板洗ひ方 も無し。

 シナではトーチカをすべて「砲台」と呼ぶのである(p.191)。

 実話麼\/ ほんとですか。
 【言荒】話\/ うそだ。

 禁制品を積んでいたら、人は他のジャンクに移して、船体は焼いてしまう。

 海軍用語。
 柄のついたハケ  ……ブルーム。
 ずる棒  ……ソーフ。
 内舷マッチ  ……ぞうきん。
 バス  ……ふろ。

 なんと著者の乗艦は石炭焚きである。
 フネは、1年で、帰った。

▼杉山平助『揚子江艦隊従軍記』S13-12
 著者は文人である。
 前線へ行った兵士は、たいてい、歯を悪くして帰ってくる。
 9月の南京にはまだアイスクリームは復活していなかった。
 あったのは、散髪屋、金銀入牙店(入れ歯)、時計修繕店、写真店、カフェー、食堂。

 シナ女がパーマネントをやっている。
 往来に多数の若い女が闊歩している(p.63)。
 いずれも日本人に寄生した商売という。

 「去年の暮の、陥落直後の荒涼たる南京の姿を、私は見て知つてゐるのだが、少し小奇麗な娘なんぞ、どこを探してもカケラも見えなかつたものである。」

 路店で金魚を売っている男。
 「去年の暮には、十万人ぐらゐの下層民がこの落城した都の片隅にゴロついてゐた。日本軍の南京進撃にあたつて、二十元の金のあるものはすべて逃げ延びたといはれるから、この十万人は資産二十元以下のその日暮[ぐらし]の住民である筈だ。……《中略》……。そして今は四十万人にまで増えてゐる。」(pp.64-5)。

 「洋車に乗つて走つて行く支那人には、髪を綺麗に分けて光らせてゐる中流の上といふやうなものもゐる。戦争によつて支那人は、特にその下層階級は、ひどい目に合はされたが、同じ支那人の中にも、大儲けに儲けてニコニコしてゐるものもゐるのである。それは上海あたりには特に多い。南京に来てみて、やはりこゝにもゐるな、と私は気がついた。《改行》ロシアの、ソヴェート革命によつても、やはり『儲けた』人間は、無数にゐる。」(p.65)。

 上海は蘇州河で南北に分断されており、北に日本人が暮らし、南にシナ人と白人が住む。対日テロは南側で起きていた。
 南京は、夜は真っ暗。城外数里に、敗残兵が出没す(p.80)。

 揚子江の浮流水雷は、直径3尺で、円筒形。その切断面の一方に、5つの触角が……。ガラスでできていて、鉛でコーティングされている。壊れると、薬液が流れて電気が起き、爆発する。※醸成電池式。
 これを処分する方法は、LMGで触角を射つ。
 この機雷は、シナ陸軍の予算で調達され、シナ陸軍が撒いたのである。

 溯行しながらだと、対岸との相対速度を零にもできるので、火力がよく当たる。

 「支那軍では、インテリが却つて強い」(p.204)。
 溯行して漢口をおとしいれたのが、海軍の手柄。

 著者は12月末の南京にいたが、「戸外のいたるところに死骸がころがつてをり、」……「街にはほとんど人間並の住人はゐなかつた。まるで乞食同然の貧民の群が片隅の方に蠢いてゐるだけであつた。」(pp.234-5)。

 甲板に畳を敷いて柔道の稽古(p.322)。

▼伊藤永之助『熊』S14-10
 1931年は凶作[けかち]の年だった。その折の鳥海山麓を舞台とする、戯曲構成のフィクション。
 生活苦のため猟用の鉄砲を売ってしまった。しかたなく、鍬、槍、鉈の3人でツキノワグマを仕留めに行く。

 葡萄蔓に火をつけて、木の下穴をいぶす。5分で、熊が出てくる。
 立ち上がったところを突く。

 鑑札なしの鉄砲でのハントは、警察にバレれば没収の上、罰金。

▼中山正雄『脇坂部隊』S14-1
 「わきざか」と濁る。防諜上、当時は部隊番号を語ることができず、団隊長名で部隊を報道していた。その「岸中隊」。
 12月に南京の光華門を一番乗りで占領した。

 「支那兵」と書いて「ツンゴピン」と読ませている。ツンゴは「中国」であろう。不思議。
 61ページに、良いクォータービュー地図あり。

 屋内で迫撃砲弾を避けるには、砲声のする側の壁に寄れ。
 兵隊の会話。シナ兵の死体を見ていて、「いやあ、どうしたら首が上手に斬れるかと思つて、検べてゐるんだ。俺は、いつも、顎にかけてしくじるからな」(p.137)。 ※歯に当たれば刃物はそこで止まる。

 例の 迫撃砲[ペシャンコ](p.159)。
 殺、殺! (シャ、シャ!)
 日本軍、来々[リーベンレン、ライライ]。
 南京は「ニャンキャン」と発音した。

 「恩賜の義眼」というものがあった。
 巻き脚絆を解けば止血に使えた。

 城門の抵抗は、13日午前4時に止んだ。夜半から衰えたので、その頃に離脱が始まっていた。
 最後は、弾薬がないので、飯盒に石を詰めて投げた(p.306)。

▼長谷川重治『科学捜査』?年
 死体は地上に置くと最も早く白骨化する。
 水中は2倍、土中は8倍の時間がかかる。

 デコルマンとは、タイヤの摩擦によって生ずる、皮膚と肉とのあいだの隙間。
 .22口径のピストル弾すら、最大1.6km飛ぶのである。

 刻印を削っても、ひずみを電気的に浮かび上がらせることができる。

▼農商務省山林局『松脂 及 松精油に関する調査』大8-9
 コロフォニーとテレピン油が採れる。
 テレピン油はようやく最近、松根から国産できるようになった。しかし、採りすぎると山を荒らす。

 樹脂は、根 > 地上2mまでの幹 > 枝 > 枝あるところの幹 > 枝なきところの幹 の順に、多く含まれている。
 樹齢200年を過ぎると、含有量は減って行く。
 暖地の木ほど、多い。

 欧州では1835年から抽出の研究がされている。
 アメリカでは17世紀前半から。ピッチとタールを採り、船の隙間に塗ったのである。

 日本では、島根と秋田が先進地だ。
 ササで巻き、「よじろう」、別名「馬鹿蝋燭」としたのである。
 明治維新で廃れたが。
 M25に、広島と島根で、テレピン油工業として復活した。
 和歌山、鳥取、千葉、宮崎でも、少しやっている。

▼篠崎英之助『日本産針葉樹の精油の研究(第一回)』大11-12
 著者は、幡ヶ谷の東京工業試験所の者。

 クロマツ、アカマツ、ツガ、イラモミ、カヤ。
 葉からも油を採る。

 川合誠治「松脂より石油の製造に就て」(大11-10)。
 最も早い文献は、1816の Engler である。
 ※ようやく燃料問題への関心が高くなっていたのだとわかる。

 川合誠治「二、三の樹脂より石油の生成」(大12-3)。
 ダムマー、コーパル(マニラコーパル)、サンダラック でも試した。

 中山岩蔵「土管の強度」(大14-3)
 常滑産、内径3寸~1尺5寸。
 ドイツに、ケーネン式土管試験機 あり。
 大径物ほどムラがあり、強度がバラつく。 ※それでヒューム管が発明されたのか。

▼西嶋東洲『紙業叢書』S18-5
 ランドセルも、紙またはファイバーに代った。
 ザラ紙(更紙)……新聞紙もコレである。
 砕木パルプ配合率70%以上。
 インク吸収が速いので輪転機印刷に使える。

 1885(M18)にエジプトで、サマルカンド製の紙が発見されるまで、紙の起源は欧州だと思われていた。
 ついで1907、1909に、欧人探検家がゴビ砂漠で古文書を相次ぎ発見した。
 尤も、『後漢書』には蔡倫の話は出ていたのだが。

 ロール紙が量産できるようになったのは、1800年代初め。

▼内務省『時局防空必携』(改訂版)S18-8
 1トン爆弾が爆発した場合、8.5m以内では防空壕も崩壊してしまう。
 また17m以内は、半壊す。

 50kg爆弾でも、3m以内は崩壊す。

▼『野戦重砲兵 第四聯隊史』S55
 96式十五榴を装填する砲尾のクロースアップ写真。
 4年式15榴のすばらしい写真。

 四年式の前の徒歩重砲兵は、人間が30人がかりぐらいで引っ張った。
 「輓曳索」の先が輪になっていて、それを肩にはめてひっぱる。

 5トン牽引車は故障が多かった。
 6トン牽引車は優秀だったが、数が少なかった。

 一ツ、軍人は要領を本分とすべし。
 放馬は、乗馬隊を編成して、つかまえに行く。
 満人は常に初年兵のように兵隊に対してはオドオドしていた。

 大豆を食い放題にさせれば、馬は疝痛になる。
 S17に釜山から乗船。戦車隊と同船になったが、船は車両でいっぱい。最下段が重砲にわりあてられた。トラック諸島経由で、ラバウルへ。

 15Hを遺棄するときは、閉鎖機を埋め、歯脈をハンマーで潰す。
 ガ島にも、確かに、96式15榴は持って行った。

 ガ島への荷上げ中、異様な格好の兵たちが手伝いに来たが、皆、泥棒だった。
 海水でも炊事はやれる。

 牽引車もちゃんと揚陸させた。ガダルカナルに。
 段列は、94式6輪自動貨車も揚陸している。
 段列1個中隊に1両。1個中隊分の弾丸は364発であった。37人。
 時に戦車に、貨車搬送の牽引を頼んだ。

 砂にガソリンを滲み込ませて、飯盒を炊くこともできる。天幕で囲って夜やれば、見えぬ。

 なぜか96式には使えない、4年式の薬筒が追送されてきた。後方(タサファロング)の弾薬交付所も、敵の爆撃をうけて混乱しているため。
 中味だけ詰め替えて使うしかなかった。

 ガ島に襲来した敵機。「ベル」と呼んでいた、機首が長い敵機は、よく地上を銃撃してきた(p.157)。
 ビンロウ樹の芯は、食える。
 寝ている者の大部はパンツを脱ぎ捨て居びたれの状態。

 ガ島のトカゲは皮がキラキラ光るのは有毒で、艶のない土色は食用。
 逃げるときは椰子の木に登るので、拳銃で落とすしかない。
 有袋類の大ネズミも居た。美味。

 小発動艇に移乗するとき、海軍の主計兵が食事代の勘定書をもってきたのには驚いた。「釣りは要らぬ」と十円札を出して下船した。
 上陸すると、全島死臭。吐き気を催す。

 椰子の実の中味のコプラを細かくちぎって燃やせば、煙は立たない。聯隊副官みずから模範を典示した。
 牽引車は、軽油がなくなった場合には、航空ガソリンに椰子油を混ぜて代用とし、動かすことができた。

 15榴の発砲煙はジャングルの上縁まで立ち上がるので敵に位置がバレる。
 ブーゲンビルの41式山砲用にまで、「あか」弾が準備されていたが、終戦まで使わず(p.217)。

 発射時の風靡力に無知で、初弾で掩蓋が吹き飛び、砲の射界をふさぐことあり。
 終夜の擾乱射撃は、日豪兵双方ともに眠れないので、お互いにやめた。

 山砲は94式も持ち込んでいた。
 15Hを、2~3発、撃ち込んでおいたところからは、敵の豪州兵は、決して浸透してこなかった。
 これは、もし山砲であったなら、やたらに撃ちまくらないと、得られない効果である。

 敵歩兵は、こちら以上の砲迫をともなわぬときは、前に出てこなかった。
 一般に、射角が大であるほど、陣地秘匿はしやすく、射界準備も楽である。

 ロケは、軽油がなくなれば、舶用重油、航空ガソリン+オイル混合、現地採集の椰子油でもOKだった。パワーは軽油の7割まで落ちるが。

 異砲種、異方向からの同時急襲によって、敵砲兵を圧倒撲滅してやるのが、理想。
 こちらの新陣地に対する敵からの報復射撃は、4~5分で来た。この間に山砲は撃ちまくらなくてはならない。

 S20-4、タリナ~ソラケンにF4Uがあらわれた。
 火砲処理は、砲を横に向けてスペードは打たず最強装薬で発射すれば、片脚は折れる。

 ジャングル島にも矮生草木で開闊〔ママ〕した土地あり。
 拳銃の弾倉は、匍匐中に外れてしまうことがあった。そうなると自決もできない。

 山砲用のタ弾は、〔外装式なので〕50m以上では当たらなかった。50m以内に近づこうと思っても、暴露しているうえに倒木だらけで、どうしようもない。

 樹の幹にかすがいを打てば、観測所となった。
 破壊されたマチルダの写真。於ブーゲンビル。15Hでやったらしい。貴重。

 敵の擲弾銃は手榴弾より少し大きい音。※スピゴットのことか? それとも小銃擲弾か。

 当時から「海[かい]トラ」と呼んでいた。※数百トンの貨物汽船。
 どうもP-47のことは「ランサー」と呼んでいたらしい。

 ラバウルでは、大木に、トンビの大きいようなのがよくとまる。「ボーイング」と呼んでいた。射ち落としては、汁の足しに。

 ナマケモノは、落下までに時間がかかる。肉は柔らかいが、臭いが強い。※ナマケモノは南米固有の動物である。どうして南洋にいたのか? 別の動物との混同か、それとも、ありがちな、兵隊の創作譚か?

 騎銃の負革は、なくなる。
 剣鞘は捨ててしまい、銃剣だけを帯革に差す。そして手榴弾×2個を腰にぶらさげるる

 河を渉るときには、弱い者を中央にして腕を組み、3人1組で。
 紙も重いので捨ててしまう。満州から持参した写真を持っている者は一人もいなくなった。

 馬が体重を落とすとドヤされるので、私費で羊羹を与えた。機械化で別れるときは、辛かった。

 15Hで対戦車射撃するときは、車体そのものが狙いなら、信管をつけない。随伴歩兵を片付けたいときは、信管をつける。