旧資料備忘摘録 2020-9-28 Up

▼防研史料  上野繁『旧陸軍における水陸輸送』S30頃か?
 大10に伊勢湾で。大11には四国北岸で。大14にはまた伊勢湾で、陸海軍協同上陸作戦演習。

 大11、機付木舟。
 大12、鉄製平底小発を試作。
 S2~3、大発と小発が完成する。また「研究機」。※船外機のことか。

 S6に、工兵の5個中隊のうち1個を「丁中隊」とし、工兵部隊発動艇操縦教育を始める。
 S17-3-1、七了口に奇襲上陸。碇泊場司令部甲を上海に派遣。

 支那事変では、上海、杭州湾、バイアス湾、欽州湾 に上陸。
 揚子江では溯江作戦。

 S17-10-15、S級×5隻、ガダルカナル島突入。2隻沈没。
 S17-11、ガ島に突入13隻。うち11隻沈没。
 S18-2、ラエ輸送船団7隻全滅。

 武漢作戦時、輸送船150万トン、大小発1000隻、機帆船と漁船3000隻、その他の輸送船80万トン。

 以下、馬渕正之による「旧陸軍船舶部隊 戦史資料 機動艇について」(S30-9)。
 SS艇もSB艇も、機動艇である。
 これら陸軍船舶は、S19-1頃から準備がスタート。
 幹部は抽出しやすい在満部隊から、少尉候補者出身将校が中心で、素養は非常に悪かった。

 SBには揚貨機がない。
 末期の現役将校は素質が低下し、教育も不十分で、むしろ幹部候補生出身の将校の出来が良かった。

 はじめはSSのみ。
 S19-8からは、SB艇を併用した。

 SSは880トン。ディーゼル。7糎半の高射砲×1。5トン揚貨機あり。単、双連のMG×6。
 SBは1250トン。溶接船体だが脆弱。南洋を短距離輸送できればよいという設計。蒸気タービンエンジン。8糎の高角砲×1。3連装、双連、単装のMG×11。爆雷。

 海軍の8糎高角砲より、陸軍の7糎半高射砲の精度が良好であった。※どっちも75mm。

 SBはランプドアなので、風の影響が大。
 SSは観音開きゆえ、メカが複雑となるが、風は流せる。

 25ミリMGは、単装より、2~3連の方を評価。※低速船なので対空戦闘中も甲板が傾かないから旋回が止まることもなく、また先制して威嚇できたからか。

 15トン・デリックは、欲しかった。

▼防研史料 兵站自動車第五十一中隊『第二次ノモンハン事件に於ける兵站自動車第五十一中隊行動詳報』(S14.7.5~14.12.25)

 ハイラルからノモンハンに需品および兵力を輸送すべき任務を受けた。
 ノモンハンでは、北支那方面軍の戦闘序列から、兵站自動車第58中隊と51中隊とが、23D下に入れられた。

 23Dの臨時兵站部は、ハイラルを主地とし、将軍廟(ノモンハン)を末地とする兵站業務に任ぜんとする。その2点間を2日で1往復する。

 兵站自動車隊の長は大佐。その麾下には、自動車第一聯隊の二中隊、自動車第三聯隊、自動車第四聯隊、兵站自動車一中隊。

 7-8の命令。
 兵站自動車第51中隊は、ハイラル駅において、重砲兵の人員15車輛〔これは鉄道貨車のカウント〕および弾薬25車輛を積載し、明9日9時に出発、将軍廟に輸送し、明後10日、ハイラルに帰還すべし。

 7-5の指示。
 臨時兵站自動車第2中隊は、明6日なるべくすみやかに燃料、糧秣および衛生材料を将軍廟に輸送すべし。※ここからも、小火器の弾薬はじゅうぶんに足りていて、重砲弾が不足したというノモンハン戦の実態が読み取れる。

 露営は空襲を予期し、各車20m分散すること。
 先頭車には対空監視哨1を架框上に搭乗せしめること。

 斯而中隊は実動貨車40両で軍需品と兵力の前送、患者の後送に邁進した。
 はじめ、末地は将軍廟であった。が、この頃はノモンハンにまで推進(補給路延伸)していた。

 某中隊が貨車45両で行進中、ソ連機×9がH=4000mから爆弾15発を落とした。無被害。車間150m。
 また某日は9機が飛来し、3機づつ、角度60度で、数回にわたって機銃掃射した。

 ソ連機は夜は照明弾を投下して攻撃した。
 8機編隊が爆弾6発を落としたときは、1人爆死。※2発は不発だったか。

 武漢攻略中、大別山中で部隊がマラリアにやられた。この病気は、あとで疲労すると何度でも再発する。

 ハイラル~アイマーは、時速25kmで走行できる。
 アイマー~洪和爾村は、時速30km。
 洪和爾~将軍廟は、時速25km。
 蒋軍廟~ノモンハンは、時速40km。

 1中隊が、嵯峨航空部隊に専属となり、主として爆弾と燃料を運送した。

 航空機用の集積量。
 於パイエータイ。
 MG実包 徹甲30万発。焼夷15万発。
 15kg爆弾 2000発。
 50kg爆弾 3500発。

 於・採塩所。
 MG実包 徹甲40万発。焼夷20万発。
 15kg爆弾 1500発。
 50kg爆弾 3500発。
 100kg爆弾 80発。

 1個小隊は貨車17両か?
 冬営燃料は、薪と炭と石炭。

 中隊故障車は8月から11月の期間中、878両。
 うち、日産車が520両、フォード製他は358両。

 S14-8-25~10-15 に 中隊が運んだトータル。
 飛行機器材 597トン。
 建築材料 497.5トン。
 燃料 469.5トン。
 弾薬 321トン。
 その他(水など) 171.5トン。
 糧秣 33.5トン。
 高射砲隊器材 39トン。
 人員 725人。

▼防研史料 巽千代蔵大尉(兵站自動車第51中隊長)『ノモンハン事件における情報綴』
 当時ソ連軍が撒いた宣伝ビラの本物、貼付。
 「チタ」に新鋭駆逐機が2個大隊、到着したらしい。

 7-6情報。友軍の速射砲は優秀。2発目は必ず敵AFVに命中し、標的は火を発していた。

 8-1情報。本日、タムスクに自動貨車×1000両、到着した。
 8-2。左翼644方面、火炎放射戦車×4、来襲。

 外蒙騎兵は、タチヤンカ(四頭曳き車載MG)を有す。

 8-28。イ-15、イ-16、イ-19(いずれも小型機)が100機、来た。
 9-6に重爆撃機×1が飛行した。輸送か? ※TB-3かもしれない。とても爆撃には使えない旧式だが。

 情報によれば、「オロフヤンナヤ」「ボルヂヤ」両駅に連日、砲弾を積載した列車が到着。「ボルヂヤ」「アクシヤ」(チタ~サンベースの中間)の両道上には、トラック1万台が往復中。

 ※地図からわかること。鉄道は、……チタ……カルイムスカヤ……オムウヤンナヤ……ブルイカ……ボルジヤ……ダヴア……満洲里……ハイラル……と延びている。
 カルイムスカヤ駅は別な線路のターミナルともなっている。

 このうち砲弾が集積されている駅は、オムウヤンナヤ、ブルイカ、ボルジヤである。
 道路は5本ある。
 1本は、チタを発し、アクシア、サンベースを通り、マタット、タムスクに至る。
 1本は、ボルジヤを発し、サンベースを通り、ウンドルハンに至る。
 1本は、ダヴアを発し、サンベースに至る。
 1本は、ウランバートルからウンドルハンまで通じている。

▼防研史料 『武漢攻略戦に於ける兵站自動車第五十一中隊行動詳報』S13-7-29~13-11-28
 北支から中支への抽出。
 まず徐州から済南→青島へ汽車行。
 青島から船で出帆。揚子江を溯行する。

 海軍の護衛艦と海軍機が警戒してくれる。
 指揮官は、陸軍輜重兵・巽千代造中尉。
 兵力181名。
 車両76両。

 トラックは1.5トン積みだが、中には2トン以上OKのものもあり。
 ぎゃくに1トンにも耐えられぬものも。
 しかるに積載場に幕僚が来て1.5トン積を厳命するため、衰損車の故障を招いた。
 ※日本の歩兵科出身の参謀には現代戦の素養はなかったということ。

 某中隊は、トヨダ(単輪)で車種年式を統一されていたが、出力が弱っていた。そこへ参謀命令で1.5トンを無理やり積まされたので、廬州~六安(時速15kmしか出せない)間で十数両の差動機が破壊し、部品なきため、それから1ヶ月、使用不能に。

 巽の意見。架框覆はやめろ。
 自動車中隊8個で、合計274台くらいだった。隷下は。

 51中の車種は、トラックはほとんど日産かフォードのどちらか。乗用車としてわずかにシボレーとビュイックが混じっていた。

▼防研史料 三水懇話会『戎克輸送に就て』S17-6
 ジャンクのこと。
 動力なく、3ノットから7ノットで動く。
 14万隻もある。トータルで1235000トンか。
 しかしキールが無い構造であるため、重量物の積載に向いていない。
 また艙口・船艙ともに、狭い。だから荷役が不自由。

 そして、艙が住居を兼ねているのである。