旧資料備忘摘録 2020-10-11 Up

▼防研資料 〔155〕 『九六式十五榴の参考 巻三』
 野重第1聯隊によるS14年度の研究記事。

 92式榴弾。茶褐薬または硝斗薬 直接熔融 7.67kg。88式瞬発信管(榴臼)。全備重量36kg。

 標準腔圧。I号装薬だと2400kg/平方センチで、V号装薬だと490kg/平方センチ。初速は、I号装薬なら496m/sだが、V号装薬なら250.9m/秒。
 弾量が百分の一、減少すると、I号装薬で2.15m/s、初速が増す。V号装薬なら1.00m/s、初速が増す。

 92式尖鋭弾は、茶褐薬または硝斗薬6.15kg、信管同じで、全備重量31.1kg。初速はI号装薬で540.5m/秒。

 尖鋭弾を12000m先に射ち込むと、半数必中界は70mに拡がる。
 条件により、8000mで早くもCEP90mにひろがってしまうこともあり。

 支那軍の特色は、退却に際して、目標を示して解散し、各個バラバラに逃げること。

 対匪戦の知見。
 敵匪賊は、こちらが大砲を有する1個大隊以上の規模ならば、襲っては来ず、逃げる。
 こちらが歩兵1個中隊より小規模だと見ると、襲ってくる。

 匪賊を包囲すると、そこへ15榴を撃ち込んでも降参しない。包囲しない方がよい。むしろ、退路をあけてやって、こちらの準備した火網の中に、潰走の状態で誘い込み、そこをガントレット叩きにしてやる。これに尽きる。

 こっちからコマンドー奇襲を仕掛けるときは、作戦距離は1日行程内。一挙の打撃ですぐ引き揚げること。直援重火器として、山砲1小隊をつけるとよい。2日行程以上の作戦なら、山砲は必須である。

 北支で陽炎の立つ春は、場合によっては2000mの近さでも、もう射弾観測ができなくなる。6000m以上は、全然だめである。よってFOを2000m以上、前へ出せ。

 平地で光学器材による観測が利く距離は、せいぜい4kmから5kmまでだ。観測眼鏡は、地面から5mは持ち上げたい。
 ※迫撃砲のレンジを欲張って7kmも飛ぶ重迫をつくっても、観測ができないだろうという話。重火器のレンジは5km未満に抑制して、むしろ軽量化や砲弾の大威力化を図るほうがいいのではないか?

 行軍中、最も頻繁に故障するのは、各車両のスプリングである。路上でも折損しちまう。特に牽引車。正式な教育を受けた3年兵の運転手だろうと、折れる。※日本の戦前の冶金技術はレベルが低かった。

 雨が降ると、15Hの砲車の車輪は半分埋まってしまう。
 工兵がほんのすこしいてくれれば、真の湿地以外は、どこであろうと、15榴を出せるのだが……。

▼防研史料 〔箱まる45/46〕『試製九九式 八糎高射砲 説明書』S16-7
 同一方向に2回転以上、旋回しない。させてはならない。
 自緊砲身である。身管交換ができる。
 88ミリ×45口径長(=3m959cm)。
 腔綫の深さは1ミリである。

▼防研史料 『九九式八糎高射砲 取扱指導に関する説明書』S19-8
 砲床はべトンだが、ときに木材ブロックにすることもできる。
 他の野砲のように、水準規正装置はついてない。

 AAG陣地は、ちょっと高いところへ造れ。さもないと、水が溜まって仕方ないから。
 同一方向へ2回旋回させるな。壊れる。

 この時点で、砲身は「単肉自緊」。※内管交換はできなくした?
 防盾は廃止す。
  ※おなじ88ミリAAGでも、戦時量産砲は、戦前量産砲とは別物な粗悪品という次第。

 97式電気照準具は、2式電気照準具に改まっている。
 他に、88式高射照準具もついている。

 砲身俯仰角は、マイナス7度からプラス80度まで。

▼防研史料 〔高射170〕『旧陸軍高射砲関係資料』
 戦後まで残った旧軍関係の図書リスト。五十嵐大佐が作った。

 鹵獲品として、ビッカース・ボフォース7.5cm。ビッカース37ミリ。ノッチンガム3インチAAG 。
 マドセン20ミリMG。
 ブレダ20ミリAAMG。
 独AFG製15cmサーチライト。

▼防研史料 長澤重五大佐『防空必中兵器に関する問題解答 其二』S12-1
 ※ながさわちょうご は陸士22期。S15に中将。S20-3に予備。一貫して技術畑。

 37ミリAAMGは適当か? 不適当である。
 曳火信管などどうしようもない。ダイレクトヒットしか頼りにならないとすれば、20ミリと同じだ。
 炸薬は約60グラム。
 最大7400m飛ぶ。
 レートは、120発/分。
 初速は600m/秒。
 射高は5000mまで届く。

 試製20ミリは、初速850m/s。炸薬6グラム。最大射高3400m。

▼防研史料 『八八式七糎野戦高射砲 取扱法(案)』S11-6-1
 高射照準具として、88式高射照準具。
 電気照準具として、90式電気照準具。

 拉縄を3回引いても不発なら、15秒待って、砲弾を取り出す。
 口径75ミリ。
 砲身長 3.312m。
 ライフルの深さは0.75ミリ。
 砲身と閉鎖機を合わせた重さは454kg。
 俯仰は、0度から85度まで。

 「八八式七糎野戦高射砲 マル特」というのがあって、これはマイナス7度の俯角射撃が可能である。ただし、ベトン砲床。

▼防研史料 『対砲兵戦に於る高射砲兵戦闘』S15-1-29
 ソ連はまずこっちのAAGを撲滅して、空軍部隊の自由を確保しようとする思想が濃厚である。

▼防研史料 『「スピゴット」迫撃砲に就て』S19-12-13
 4脚架を有する「ピアット」が出て、スピゴットは消えた。
 砲身は径177.5ミリ。
 タマは径150ミリで、ロケット式に飛び出す。
 射程は、大型のが457m、小型のは868mである。

 日本の擲弾筒と似ているのだが、筒の底に近い側面に窓が開いていて、そこからロケットのブラストを上方へ逃がす。射手は防盾でこのブラストを避ける。
 弾丸は、木魚の撥のような頭でっかちで、その頭部はホローチャージである。

▼井ノ口松之助ed.『柔術劒棒図解秘録』M26 repr. 原M20
 題字は勝海舟。
 柔術は、受け方を甲者、補り方を乙者とす。

 抜き打ちせんとする相手に対しては、両手でその柄を押さえて、みずからは回りこんで敵のバックへ。そして我が左手で敵の右手を捻り、我が右手は敵の刀のコジリを握り、敵の鞘を梃子に使って、敵をうつぶせに倒して、押さえ込む。

 腕ひしぎ で大事なことは、こっちの片足を相手の腹の上ではなく、できるだけ相手の首の近くへ寄せること。

▼吉田千春・磯又右衛門 共著『天神眞揚流柔術極意教授図解』M26
 こじり返し。
 抜こうとする敵に、反時計廻りで近づき、右手で相手の刀のコジリを、尻の上方へ高々と持ち上げてしまえば、敵は刀を抜きようがなくなる。
 ついで、敵の左手首をこちらの左手で引っ張りつつ、右手に握ったこじりを前へ押すようにすれば、敵はうつぶせに倒れ、しかも、敵の左腕はキマる。

 今の「柔道」は、旧柔術のうちの「乱捕」のみ独立させたものである。すなわち立ち技で、足や腰を使って相手を倒すもの。

▼四宮恭二『戦争・食糧・農業』S16-1
 河田博士が半島で詠んだ。「春寒や 喰はれ残りの犬がなく」。

 ドイツではライ麦はできるが小麦がつくれず、輸入するしかない。
 平時はライ麦は飼料にする。戦時は人の食料となる。
 とうもろこし、大麦(飼料)も、ドイツは輸入する必要があった。
 豚は馬鈴薯とサトウダイコンで養っている。

 満洲は小麦を自給できず、豪州から粉で輸入する。

 ドイツは巨大農場では外国人の季節労働力を頼っていた。
 燕麦も輸入であった。

▼アラン・マクファーレン著、船曳建夫・監訳『イギリスと日本』2001-6、原1997
 大陸国と違い、大略奪の被害が無い。
 ゆえに英国でも日本でも、住民が社会を信頼できるようになる。そこから、資本の蓄積も促進される。
 18世紀後半の欧州の産業の伸張は、遅い結婚や、高い生涯未婚率によって、支えられた。

 英では早くから核家族化が進んだ。そうなると「子供=コスト」と認識されてしまう。

 19世紀以降のネパールがひとつの証拠。人口の爆発が起きるためには、医療などどうでもよい。戦争と飢饉が除かれるだけでよいのである。

 アダム・スミスは、富の増加が死亡率を低下させて人口増を招く、と見た。
 1700年のシナ人口は1億6000万人。1800年には3億3000万人。1850年には4億4000万人。

 ブリテン島の東部にある標高200mの丘陵地。その西向き斜面では、年に降雨が1520ミリもある。日本の平均は1010mmなのに。
 雨量の多いイングランドでは、大麦は育つが、葡萄はダメ。だからビールが産業となり、ワインは産業としては育たなかった。

 豊かになった国は狙われる。オランダはその防衛コストが高かった。英国と日本は、そのコストが低かった。
 英語による本格的な日本史を最初に書いたのが、ジョージ・サンソム。彼いわく。日本の国内戦では誰も水田を破壊しない。占領後に年貢がとれなくなるから。

 薔薇戦争の惨害はほとんどなかった。

 アダム・スミスは指摘した。大陸では同じような地形が広がるために飢饉が発生するときにその面積も広い。英国では全島を同じ気候が覆ってしまうことがないので、全国的な飢饉は免れる。
 日本列島も同じである。

 鉄道がなかった時代のフランスやロシアでは、穀物を国内で輸送して融通し合うことが難しかった。英国は、河川、運河、内航舟運により、その融通輸送が容易であった。

 貧農には食糧の購入力などなくなる。そこは市場とはならない。これをスミスは誤解した。

 大根おろしの匂いは西欧人には不快である。ちょうど日本人がニンニクおろしの匂いを好まないようなもの。
 子供は脚気には罹らない。
 日本人は冬でも薄着することで、厚着の不潔を避けた。
 ハンセン病と貧困度とは明確に相関する。

▼磯貝一『柔道手引草』大10repr. 原M42
 著者は講道館出身で、この原稿は武徳会の雑誌『武徳』に連載した。
 維新後、柔術と相撲の異種格闘で興行した柔術先生もいた。

 明治の初め、人々は柔術家を「トッタリ」と呼んで馬鹿にした。

 改築した講道館は210畳あるが、1坪に6個、「螺旋の針金」を設けてあるので、その上で倒れても、ゴム蒲団の上で転がるような感触である。
 その改築以前は、根太と地板の間を五分から六分ほど離しておくことで、板の撓みによるクッション効果を考えてあった。

 柔道では、締め技、関節技は、あとにならないと教授しない。エネルギーを使わずに相手を制圧してしまうのでスポーツにならないというのも理由のひとつ。

▼警視庁警務部規画課ed.『警視庁柔道基本 捕手の形』大15
 大13頃に、山下義韶に研究してもらい、各師範に授けてもらった。
 山下いわく。柔道の形と逮捕を直結させる形を大13に考えてみた。
 大13は震災の翌年だ。
 山下はもう30年以上、警視庁の師範。

 容疑者に走って追いついたら、引くのではなく、押せ(p.88)。

 あくまで抵抗する者をひきたてるには「腕十字」で。
 これは、相手の右側に並び立ち、我が左手で相手の左手首を胸元に引き付ける。このとき相手の左手は、相手の右腋の下をくぐる。そして我が右手で相手の右手首を、掌が上を向くように掴み、相手の左腕の上に、相手の右腕の肘関節の少し上が重なるようにして、下方へ圧迫すれば、肘がキマるのである。

▼須川薫雄『日本の火縄銃』1989
 著者はS18生、電通。
 最も古そうな1匁筒。径0.9センチ。バレル86センチ。重さ2kg。
 薩摩筒で、古そうなもの。6匁。径1.6センチ。バレル84.3センチ。重さ3kg。
 肥前の10匁筒。径1.8センチ。バレル69.9センチ。重さ9.2kg。
 十匁の弾丸を計量したら、36グラムだった。
 米沢の10匁筒。径1.8センチ。バレル64センチ。重さ5.8kg。

 百匁玉は、径39.5センチ。
 人間を倒すには、2~3匁でじゅうぶん。馬は7~8匁でまにあう。

 愛媛の3匁5分筒。径1.28センチ。バレル123センチ。これは城内から発射する「狭間筒」で、この長さでは、踏み台に登らないと装填もできかねる。重さ4.9kg。

 一般的な3匁筒で重さ5kg。
 十匁筒は、従者が2名は必要。
 著者いわく。有効射距離は100mだろう。50mで人体には必中する。
 著者は十匁の競技で優勝しているが、それでも満点ではなく84点だという。

 チークストックは、左腕が強くなければ、不安定。
 中に入れる火薬は、大口径銃であるほど、粒を大きく練っていた。粉状だと、逆に遅燃になる。

 国友の七匁五分は、径1.7センチ。バレル78.7センチ。重さ5kg。
 著者いわく、ゲベール銃は十匁の球丸を発射する。
 径1.78センチは9匁。1.8センチで10匁となる。
 三つバンド銃のフルサイズは、日本人には長すぎて、装弾できない。

 足軽用の日野筒。3匁(1.25cm)、バレル99.3センチ、重さ3.3kg。
 家紋のある胸当は、火事装束だ。

▼須川薫雄『日本の火縄銃 2』1991
 堺筒 3匁5分(1.28cm)、バレル104.9センチ、重さ3.5kg。
 国友筒 3匁5分、バレル102.5センチ、重さ4.2kg。
 美濃筒 3匁5分、バレル100.1センチ、重さ3.3kg。

 日本製のゲベール銃。6匁(径1.58センチ)、バレル99.5センチ、重さ3.9kg。
 和製ゲベールには、9匁と6匁の2種類がある。