旧資料備忘摘録 2020-12-28Up

▼武岡淳彦[ただひこ]『小部隊の戦術』S48-11 (株)田中書店 ¥1600-
 初級幹部・陸曹のために、戦例を挙げて戦術を教える。

 著者は先の大戦でシナ大陸に4年いた。歩兵小隊長~中隊長として。
 集中と奇襲の原則が軸である。

 戦後の自衛隊では、連隊のS-3主任(作戦と訓練担当)、幹部学校教官、師団司令部第3部長(昔で言う作戦参謀)、普通科連隊長、陸幕第5部訓練演習班長を歴任。

 CGSで教わること。戦術には2種類ある。戦理や原則に関するものと、指揮実行の手続きに関するものと。
 実員演習でも、砂盤でも、図上戦術、あるいは地図上の兵棋演習。おしなべて、翼側や側背を衝こうとせず、真正面からぶつかってしまう。戦理の着眼なく、いきなり部署にかかるから。これでは敵に勝てない。

 増強普通科連隊や、師団は、諸職種連合の部隊。

 小部隊が、上からの命令で、当面の敵陣地をどうしても攻撃しなければならないとき。有形無形の自己戦力を最高度に集中発揮したとき、突撃(突破)が成功している。過去の小戦例を研究すると。

 小銃手だけが行くようでは絶対にダメ。
 機関銃、ロケラン、81ミリ迫などは必ず用意するべし。

 海上や空中では、劣勢の側は相手の打撃力が届かないところまで退却するしか防御の方法がない。
 しかし陸上では地皺(凸凹)のおかげで、劣勢の側が退却しないでふんばれる。地形の他、天候・天象を利用してみずからの存在を秘匿し、敵を奇襲できる。

 防御では、戦車の接近を阻む地障に目をつけること。
 ソ連戦車は超堤能力が2.7mもあるから、こっちの61式並(0.8m)だと思わないこと。

 この戦場の緊要地形はどこか。敵はそこを占拠し利用したいと思うはず。ならば、どこから来るか。それを予測する。

 鉄条網があったら、その背後30mに散兵壕がある。なぜなら、そこから手榴弾を投げる必要があるから。
 鉄条網の前には、必ず側防火器が伏せてあるはず。

 敵歩哨の動線パターンから、どこに対人地雷があるか、推知せよ。
 中隊の最後の集結地になりそうなところは? 小松林などだ。

 敵の迫撃砲のOP【前進観測者】はどの台に置かれそうか。だったらそこには地雷を埋設すべし。それとともに、そこに敵が出てきたとき、その丘をすぐ射撃できるこちらのMG射点を、よく考えておく。

 EEI(主情報要素)の例。敵は防御するか?
 橋梁に爆破の準備をしてあるかどうかが、判断要因になる。それを斥候に確認させろ。

 指揮官が死傷したらすぐに次位の者が交代するように日ごろから訓練しておかないと、攻撃は頓挫してしまう。

 私(著者)は昭和16年9月から20年2月までの主要な月日ははっきり覚えている。何時何分までも。小~中隊長として生死をかけて指揮すればそうなる。

 だが個人の体験からいきなり「戦理」を会得できない。だから過去戦例を研究した。

 過去戦例をよく研究してあれば、初めての実戦もうまく行く。その証拠が支那事変だ。S12-7時点で、日本軍の現役将校・下士官の中で、まともに戦闘を体験した人などいやしなかった。日露戦争当時の小隊長でも50歳を超えていたのだから。連隊長以下には、満州事変でちょっとやった経験ぐらいしかなかった。それでも、うまくいった。

 実戦になると、個人の日ごろの勇怯は関係がない。そいつに責任観念があるかどうかだけがモノを言う。
 大きなことを言う奴、要領の良過ぎる奴、与太者みたいな奴は、皆、ダメだ。
 兵隊は、ひごろ、物静かで真面目なタイプが、いちばん働いてくれる。

 ところが小隊長・中隊長は、物静かで真面目なだけではいけなくて、弾丸の中で、勇敢な態度を部下の目の前に示す必要がある。「岩陰小隊長」と異名を奉られたら、もはや統率はできないから。極端に言えば、他のことは無能でもとにかく勇敢な隊長にとっては、統率は容易なことである。

 防御中に部下が浮き足立ったら大喝しなければならない。また、部隊がピンチにさらされているとき、隊長は落ち着いているぞという演出(小芝居)も必要。
 俺だけは絶対にタマは当たらないんだと信じなかったら、敵前で軽快機敏な指揮なんかできるものではない。
 平然としているように見せる態度が重要。運を天に任せて。

 防御は、動かない(動けない)ために、人間を不安にする。攻撃は、動くので、気分の上ではずっと健康的でいられる。

 初陣の小中隊長は、敵陣に近づくと、極度に興奮し切った異常心理になってしまい、部下を置き去りにして一人で斬り込んで犬死にしたりする。敵陣地の敵兵が、まるで悪鬼のように思えるものである。
 だから新人隊長にはベテランの分隊長をして補佐せしめねばならぬ。

 野戦勤務が3年近くなったところで、まるで内地の演習のような感覚で、実戦指揮できるようになった。

 陸自では、敵陣の前には、縦深が50m~150mほどの地雷原があると考える。

 ソ連の機械化大隊は、大型トラック14両、中型トラック9両あり。別に救急車や給水車。浮航のできる装輪APCは22両。

 敵の中戦車大隊には、大型トラックは9両。別に燃料用トラックなど。

 奇襲は防御局面でも可能。要は、正面から火力で拘束しておいて、敵の背後にわが機動班を迂回させる。

 陣前60mで突如喚声を上げると敵は過早に手榴弾を投擲する。その炸裂を待って中隊は突入した。ノモンハンの成功例。

 屋根型鉄条網を長く構成し、そのまんなかだけ、足首の高さのピアノ線障害に変えておく。ここに隙があると思って敵がやってくるので、そこを集中砲火で殲滅。※これはソ連側の戦法ではなかったかと思う。あたかも日本軍がやったように書かれているが。

 シナ軍の散布地雷。路上に置き、樹枝やガレキをかぶせてある。戦車の前方銃で銃撃したら誘爆した。

 尖兵中隊主力と尖兵のあいだは400m。その距離だと、ギリギリ、後ろから尖兵を援護できるし、また、突然敵が急襲してきても、構えをとれる余裕がある。

 路上斥候は、有効な射撃距離内のすべての敵部隊を射撃する。

 宿営地を割り当てるとき、小銃隊がいちばん外縁。火器部隊は内側。

 S19夏のシナ大陸での作戦。半年も続いたので、どんどん警戒が薄くなっていった。

 前哨抵抗線の陣地を秘匿して、外哨を撤退させ、それを囮にして敵を引き込み、「ラワ戦法」式に至近距離から撃滅する。

 外哨と前哨抵抗線(中隊陣地)との間隔は500m。これは小火器の有効射程なので、外哨を援護しつつ収容しやすい。

 外哨は、その位置で抵抗するのが本務ではなく、敵が攻撃してきたら前哨長の命令で抵抗線まで後退する。それはそうなのだが、外哨は全周からどんな射撃を喰らっても全滅しないような陣地をつくっておかないといたずらに損害を出してしまう。敵の斥候はかえりがけの駄賃に手榴弾を投げてきたりするので。予備陣地や補足陣地も準備しておくべきなのだ。

 外哨は、小銃班1個班(11名)以下。2名コンビで3交代するから最低6人必要。その全員が、24時間で別の班と交代する。

 暗視装置のなかった頃、夜の外哨は、敵を空際に透視できる低い位置がよいとされた。

 「戦闘前哨」は、敵を見かけたら長距離から射撃して行く。これは防御局面ではない。

 支那事変中、斥候を出すときは、中・小隊長がみずから偵察するようにしたものだ。
 というのも、命じて行かせた部下が戦死したり捕虜になった場合、出身地の家族に詫びて回るのは中・小隊長の役目だから、それが厭なのだ。

 斥候は何を見てくればよいか。鉄条網である。鉄条網の一部の位置さえ視認できたら、あとは地形を見たら、敵陣地についてはだいたいの見当がつく。もちろん、戦場では、敵情の不明は、常態である。

 じぶん以外の斥候を派遣しなければならないときは、中隊でピカ一の者を指名せよ。

 小戦例集に記録されている斥候の手柄には驚くべきものが多い。おそらくそのあとで軍司令官(今の方面総監)から感状を授与されたはず。武功抜群の人々だ。

 ※指揮所は「CP」。コマンドポスト。聯隊指揮所はiCP、師団指揮所はDCP。

 一部といえども敵の背後に不意急襲的に迫れば物心両面で敵に与える打撃は大きい。

 斥候を開始する前に、第一回の集合点は決定しておく。高所は通過するな。

 4年間、数十回の戦闘を体験し、さらに戦例研究して得られた結論は2点。小部隊で攻撃するときは、智恵を尽くして敵の翼側を奇襲せよ。敵を逃がさずに撃滅したければ、敵の退路途中の緊要地形をとれ。

 敵が準備できている正面に対しては、こっちからは、射撃だけを加える。こっちの機動は、あくまで敵の側背を目指す。側背は敵の予期外だからである。

 ぎゃくにこっちが防御する場合は、敵が包囲迂回しようがない場所を選ぶ。敵がどうしても真正面からこっちを攻撃するしかないような場所を。

 敵がまさかと思っている方向から翼側攻撃を断行すべし。

 部隊の側背機動が無理なら、1梃のMGでもいいから、敵の側背へ回り込ませろ。

 平素の演習でなぜ皆、真正面攻撃ばかりになるか。それは、主要演練項目が、「指揮実行上の手続的事項」であるため。

 ところが、このように正面からの攻撃ばかりやっていると実戦に臨んでも敵にぶつかった場合には心手期せずしてそれが恰も当然かのように正面から攻撃して何ら疑念を感じないようになるものである。旧軍でもそうであったのだから実戦の経験をもたない自衛隊においては平素からこのことに十分留意して訓練する着意が必要である。
 CPXの両部隊の接触状況を見て赤青両部隊が判で押したようにお互いにどの地区でも正面からべったりくっついているのをみると戦術不在の訓練という気がしてならない(p.66)。

 突入するにあたって、敵手榴弾の乱投に遭った場合、それを意に介さずに突撃を敢行すべし。それしか助かる道はない。
 巾150mのシナ大陸の河川を、戸板に武器装備を乗せて泳ぎ渡った例。

 ノモンハンでソ連軍は、陣前50mの凹地雑草中にピアノ線障害物を構築し、こちらの歩兵が肉薄すると顛倒するようにしていた。これは味方の戦車を呼ぶまでは、有効だった。

 ノロ高地(「N高地」)では火焔戦車×3が陣前を逆襲してきた。
 歩戦分離したら退却して行った。
 自衛隊では陣前逆襲はするなと教えている。

 対機甲の防御戦闘でも、こちらの歩兵の一部を敵の背後に機動させるべきである。それでイニシアチブを奪えるから。

 シナ大陸の戦例。こちらが6.5ミリ軽機を撃っても敵は停止しない。しかし擲弾筒を撃てば停止した。敵は刺突はしなかったが、組み付いてくる者はあった。

 部下の小銃班にこれから攻撃する目標を示すときは、地形か地物のどっちかで示す。全員が目にしている敵部隊そのものを指してもダメ。
 じっさいには「目標はあの敵、俺に続け!」と簡略にやることが多いのだが。

 歩兵と戦車は、異軸から敵に迫ると、よい。

 夜間攻撃プランでは「巧妙」を避ける。シンプルでないと同士討ちが起きるから。
 夜間攻撃プランは、前進しやすい道をよく考えること。前進しにくい道を選定すれば自滅的に失敗する。
 前進しやすい道で、なおかつ敵を奇襲できそうなコースが最善。

 CGSでは、師団長もしくは戦闘団長の立場での方策を考えさせられる。

 実戦では、とうてい無理な広さを、とうてい無理な小部隊で、とうてい無理な準備時間のあと、防御しなければならないものだと覚悟せよ。

 防御の基本中の基本は、敵を思い切り引き付けてから射撃開始すること。
  ※戦国時代にこれがわかっていたのが徳川家康。陣地防御のコツとして、敵をしぜんに引き寄せておいて一斉射撃で楽々と当てられるような障害帯の狭さ・距離感を理想とした。

 こちらが準備した「罠」エリアに敵部隊を誘い込んで袋叩きにすること。

 沖縄では、対戦車地雷を道路に仕掛けた。
 2門の45ミリ速射砲は、自己位置を秘匿し、まず敵戦車(10両)を通過させてしまい、やや斜め後方から、射撃開始。まず、先頭から6両目と7両目を狙って。
 これによってこちらの2門で米戦車5両を仕留めた。
 他の手段もあわせて嘉数村で14両のシャーマンを破壊した。

 ノモンハンの戦訓。簡単な対戦車壕でも、BTのスピードをがっくりと遅くしてやることができるので、これを工事する努力を惜しんではならない。

 ※ノモンハンの8月23日の戦闘。なんと薄暮が迫る時刻が20時30分であった。昼がやたらに長かったのである。緯度的には樺太と同じだったから。

 戦闘開始後も、工事の増強につとめること。有力な敵機甲部隊に攻撃されたとき、これが防御の成否を左右する。

 ノモンハンでは「2瓩梱包爆薬」を使った。

 防御にさいして、小銃班長は、班員を、不規則に前後するように配置すること。
 1個小隊はふつう、巾260m以下の正面を防御する。
 1個班はふつう、巾20m以下の正面を防御する。

 夜間の射撃を便利にするために、昼間のうちに陣前に「標定設備」をすることあり。
 掩蓋陣地をつくるときは、近傍にかならず、露天掩体も掘っておけ。

 無反動砲小隊は、防御陣地をつくったら、陣地進入や陣地変換の予行をしておくこと。
 ※この本が書かれたときにはカールグスタフがなかった。ジープ搭載の無反動砲はあった。

 藪や疎林の射界の清掃にあたっては、下枝を不規則に切り払うことによって、敵が上から観測しても位置が露見しないようにする。

 無反動砲小隊は、中隊長の直轄である。
  ※対戦車隊がUAV化すれば、発見即攻撃でないと逃げられてしまうから、部隊長の直轄ではなくする方向に行くのではないか? 中央統制が基本だった火力運用が、地方分散化すると思う。

 反斜面陣地で防御するときは、障害は、わが方の斜面に構築する。ただし、こちらの陣地の前縁を欺騙したいときには、敢えて敵方斜面に設けることあり。

 著者はS19-5から、約半年、湘桂作戦に、歩兵中隊長として参加した。
 大作戦のスタートにさきだって、3ヶ月間、猛訓練を実施した。
 部下からはもちろん不評だが、これをやったおかげで、実戦で流した血が減ったのである。

 訓練は基礎の基礎からやる。
 距離300mで歩兵銃の5発中2発をF的に当てること。
 完全武装した姿で、夜間、不整地で、銃剣刺突をあぶなげなくできること。
 比高300mの山地を踏破して敵の翼側を衝く要領。

 歩兵部隊は、1人で戦うと死ぬ。かならず、組織的に攻防することが鉄則だ。
 小隊長ひとりの戦闘になることもまた、自滅の道。

 著者は、擲弾筒分隊を集成して、擲弾小隊を編成し、それを中隊長の直轄とした。重火器は集中してすぐに使えるようにしておかないと。
 すなわち擲弾筒×6。これで3斉射(距離400m)させる。計18発だ。その最終弾に膚接して小銃小隊が突入する。

 敵を見たらその側背に迂回することを習性化しておけ。
 夜は、田のあぜ道のような、安易な道を進みたくなる。しかし、そこにこそ敵は対人地雷を仕掛けてあると疑え。
 シナ軍の対人地雷は、数mも肉塊が飛び、手足が四散する威力のあるものであった(p.150)。

 メシのときは車座になるな。そこに迫撃砲弾が落ちてくる。
 迫撃砲で攻撃された直後は、路傍の草木が揺れた音すら、迫撃砲弾が落下する擦過音のように思えて、思わず皆、首をすくめる。

 連隊砲(75ミリ山砲)や速射砲(37ミリ)は、通常、各門で150発くらい携行して行軍する。

 中隊長による、小隊長たちに対する命令は。まず敵情を理解させる。中隊の機動構想を示す。火力支援要領を示す。ついで、各小隊がなすべき任務を下達する。

 本番で、2梃の軽機が、ガチャーンと音を立てて弾が出なかった。故障である。※11年式軽機。
 故障の原因は、前日、雨の中を行軍したのに、手入れをしていなかったからであった。錆びたのだ。

 後方の山砲に対して支援射撃を要求するときは、ハンカチを振る。

 「中隊に1梃配布されていた新式軽機」(p.161)。※おそらく96式だがひょっとすると99式かもしれない。ただしその場合、弾薬が歩兵銃と共通ではなくなる。いずれにしても、シナ大陸では、S19でもそれらは「新式」と認識されていた。

 某小隊は、小隊長が腹部に受傷し、中隊長の許可も得ずに勝手に後退してしまった。このため小隊全部が浮き足立って、遺体3、4を放置したまま退却に移っている。著者は、この小隊は駄目だ、このままにしておいたらパニックに陥り遁走する、と思い、大喝一声「もとの壕に戻れ! 今から中隊長が直接指揮する!」と怒鳴った。

 シナ軍が手榴弾を投げるときは7、8個が一斉に降ってくる。
 こちらは手榴弾が少ないので、土塊を5個投げるごとに手榴弾を1発投げるという苦しさ。
  ※尖閣派遣部隊には、とにかく大量の手榴弾を持たせてやることだ。

 陣地とは面白いもので、攻者がつつけばつつくほど強くなる。

 手榴弾は、戦場では、傾斜地や壕内から投げることが多い。それをよく練習させておかなかったらダメ。
 木銃の銃剣術は無意味なので止めさせた。真銃に真銃剣を着け、不整地で直突させる。必要な訓練はこれに尽きる。

 敵が逃げ出すときどうするだろうかと考え、その退路を高いところから射撃してやれる好位置はどこか、早く見極めておく。そこにMGを先回りさせる。

 南京政府軍の部隊は蒋介石軍と同じ服装をしていたので識別練習の役に立った(p.170)。
 擲弾筒は猛訓練すれば400m先の目標の10m以内に落とせるようになる。これで、突然にあらわれた敵の側防MGを始末させることが可能になった。

 S48時点で武岡は、東北方面総監部の幕僚長。自衛隊に入ったのはS27。生まれは大11-8-1。

 ※この本の18ページを読んでいて察した。自衛隊でもこの本が書かれる直前くらいまで、「静粛夜襲」を教えていたのだ。ガダルカナルの戦訓を活かせずにいたのである。米軍式の夜襲のことは「強襲転移攻撃」と呼んでいたようだ。それは次に紹介する亀井の本の中に出てくる、こちらの火力を最初から使って敵の火点をひとつひとつ撲滅しながら前進する攻撃法のことである。

▼亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』S55
 著者はS9生まれ。

 ガ島は四国の三分の一の大きさ。
 米軍の戦死は5000人強。
 日本軍は3万人を投入し、2万人強が戦病死した。ほとんどは広義の餓死。

 S17-5-25、第25航空戦隊の大艇が、飛行場適地を探した。島の北西にあるルンガ川の東方の海岸線から、ほぼ2000mほど南に、適地があった。

 第13設営隊の技術大尉、引き揚げの命令受電までマラリアにかからなかった。
 6月中旬に上陸した。

 6-21、ツラギに航空燃料をおくりとどけようとした『京城丸』が泊地に入港寸前、敵潜の雷撃で沈没。

 台南空(11-1から二五一空に名称変更)は予想以上に兵力を消耗し、全員内地帰還を命ぜられた。

 6月末に飛来したB-17とB-26を撃墜するのは不可能だと零戦乗りは認識した。
 敗戦後、ひと頃、「日本はブルドーザーに負けたのだ」といわれた(p.23)。

 じっさい、ガ島の失敗後になって、日本軍は、ブルドーザー、キャリオール(鋤取車)、ロードローラー、トラクター、トレンチャー(溝掘機)、起重機車を重視し始める。すなわちS18前半。

 海軍が上陸してから1ヶ月半後の8-7に米軍が反撃(艦砲射撃)を加えてきた。その時点で、ツルハシやモッコだけを駆使して、戦闘機用の応急の滑走路だけはできていた。中攻を飛ばせるようにするには、日本軍の場合、2~3ヶ月は必要だった。

 ニミッツは、サモア駐留の海兵大隊を使って、まずツラギをとりたがった。マックが反対して潰す。
 マックはラバウルをいきなり占領しようと思った。これはニミッツが反対して潰す。
 統合参謀本部が仲裁し、ツラギとガダルカナルに指向することに決めた。

 米国は1942年に軍用機4万2000機を、43年には10万機を製造した。

 キング大将の考え。日本はニューカレドニアのニッケルを欲しがっている。この島を与えてはまずい。豪州との連絡線を南へ迂回させなくてはならなくなるから。

 太平洋は海の戦いであるから海軍に仕切らせるのが筋だが、マッカーサーに比べてニミッツが後任すぎたので発言権が弱かった。それでワシントンは、二つの司令部をつくるしかなくなった。

 8-7に第一海兵師団の先発隊がガ島上陸。8-9までに1万900名。海軍は、山砲×2、トラック35台などを遺棄してジャングル内に逃亡。飛行場は、あとすこしで戦闘機が発着できそうなところまでできていた。
 滑走路は800m×巾60m。戦闘機用掩体×6など。
 2冊の暗号書は2mの穴を掘って埋めた(p.40)。

 ルンガ河は、河口の幅が80m。満潮時以外は、浅い。海岸には原住民が椰子を碁盤の目のように植えていた。島の土人は4000人もいた。米軍が事前に知らせたらしく、上陸の少し前から姿を消した。

 海軍設営隊は、人力で動かすロードローラー、人力ミキサー、手押しのトロッコ(土砂運搬車軌条)を装備していた。

 8月のガ島の日の出は、内地時間で4時50分ごろ。
 B-25にも空襲されて、食糧を持たずにジャングルへ逃げ込んだ。
 たちまち飢餓。
 まったく体力が消耗し、川魚を獲るとか、トカゲをつかまえるなどという気力もなくなる。地面に落ちた椰子の実が発芽しているものは、ナマでかじることができ、リンゴの味がする。専ら、それを拾う。

 ミニトカゲを生色する場合は斬首してから喰う。

 当時は、南洋興発という会社の漁船を海軍が徴発していた。
 第11設営隊は、指揮官が大佐。軍人と軍属1593名に小銃は200梃ぐらい。トラックは4、5台。ほぼ、スコップ部隊。

 ガ島には、ワニ以外は猛獣と毒蛇が棲息していない。その点は安心だった(p.47)。
 ナマケモノをつかまえて動物園をつくった(p.48)。鰐の生け捕りは不可能だった。射殺するのみ。

 ※なぜ南米特産のナマケモノが南太平洋にいるのか?

 海岸線一帯の椰子はすべて原住民が植えて育てているものである。そこには馬や牛も放されていた。
 小松菜は20日で収穫できた。

 海軍では「ひのでまえ」とは言わず「にっしゅつまえ」という。
 軍艦内の官品の拳銃は勝手に持ち出すわけにはいかないが、私物のコルト7連発なら随意。

 丹羽文雄は『鳥海』に同乗取材し第一次ソロモン海戦で重症を負った。39歳だった。他の報道班員は士官室から出てこなかった。丹羽だけが艦内を動きまわって戦闘をその目で見た。

 三川司令長官は戦後は取材を避けた。もういっぺん引き返さなかったのは失敗だったと言われていたので。
 先任参謀(大佐)の神重徳の発言力が絶対だった。三川も参謀長も、神の進言に従っただけだろう。しかし、自分の決心は幕僚にしたがっただけだと言うのもみっともないから、取材を避けることになる。

 水雷戦隊は、横一線に展開したとき、各艦のスピードが揃わなければ困るので「回転整合」(スクリューの回転数と速力の対応関係を実測し、調整する)をしておかなければならない。しかし、にわか編成の戦隊だとこれをやっている暇がない。そうなると陣形は「単縦陣」しかありえない。

 夜戦では水偵が、艦隊の攻撃前に、敵の向こう側に吊光弾を落とす。タイミングは旗艦から無線で命ずる。
 夜戦するとわかっているときは、高角砲の信管を対空用から対艦船用に交換する。

 艦砲から発射する照明弾は「星弾」である。米艦隊はこれを使った。

 『青葉』は魚雷発射管に敵機銃弾が当たり、火災になったが、一等水兵が雑布で抱きついて消した。もし引火爆発していたら魚雷8本と次射用の8本で、船体は折れていただろう。

 砲塔を回す者は旋回手といい、ひきがねを引く者は射手という。それが砲術長の左右にこしかけている。
 神重徳は終戦処理のために飛行機に乗っていて事故死した。

 神は、夜明けまでに300海里離れることを重視した。
 だが魚雷と砲弾は6割もまだ残っていた。だから早川艦長は内心不満で、「鳥海戦闘詳報」を読めば誰もが早川に共感するようにしておいた。

 米潜の魚雷発射気泡が、距離1000m附近に出た。この距離だと巡洋艦でもかわせない。
 米潜の報告によると、1万6000mから聴音のみで襲撃行動に入り、640mから『加古』に発射した。聴音で発射して、深度60mで遁走した。だから誰も潜望鏡は発見できなかったのだ。

 主砲発砲所が部署だと、総員配置で艦底に下りなくてはならず、上の状況は分らない。

 米歩兵師団は固有の戦車をもっていた。日本の師団にはない。それは戦前からわかっていた。大砲も5倍くらいあると。それでも、負ける気がぜんぜんしなかった。WWIの艦戦武官が見た米軍部隊が、パッとしなかったのが遠因である。

 戦前、日本で1個師団をつくるのに1億円必要だった。そして1個師団が弾薬を実戦で消費すると1億円や2億円がすぐ飛んでしまうのだ(p.109)。

 陸軍と海軍は互いのナワバリを犯さないというのが戦前のしきたりになっていた。

 日本の駆逐艦には、余裕がなくて、陸軍の大砲以上のものはぜったいに積めなかった。
 一木支隊は2000人のはずだった。しかし1隻の駆逐艦には1000人しか乗れない。のこり1000人を鈍足の輸送船に乗せたら、それが阻止されてしまい、追いつけなかった。だから1000人だけで上陸した。

 第17軍の司令部は、ミンダナオ島のダバオに置いた。百武軍司令官(中将)。

 陸海軍間では、作戦課の参謀間では敗報も伝える。陸軍では、作戦課員、その上の第一部長・田中新一、参謀次長の田辺盛武、参謀総長の杉山元はMI敗戦を知っていた。第二部長は知らされなかった。陸軍省では、東條大臣だけが知らされたはず。あとは誰も知らされなかった(p.148)。

 井本熊男は、S17-9になって知った。米英情報担当の参謀本部員だったのに。

 当時、1ヶ月の設営期間では爆撃機の発着までこぎつけるのは無理だとされていた(p.185)。
 駆逐艦に大発を搭載して、島の前の上陸点で海面におろすことも技術的に不可能だとされていた(p.199)。

 一木支隊がMIの珊瑚礁をのりこえるために用意していた40隻の折畳舟[おりたたみしゅう]を3隻づつつなぎ、駆逐艦に備えられている内火艇が曳航する方法をトラックで試し、これで行こうとなった(p.199)。

 北満でやるつもりだった攻撃パターン。「二夜三日」。昼間は偵察だけする。夜間に行軍して敵陣に近づき、3日目の黎明期に、歩兵砲、機関銃の一斉射撃下に敵主力陣地に突入する。
 一木はガ島でこれを忠実に再現しようとした。

 前進間はとくに静粛にする。行軍長径を延長させないことが肝要。天明まで、装填はさせない。

 折畳舟は左右の片側櫂をみんなで漕ぐ。1隻に20人。
 上陸後はすぐジャングル内に隠す。

 背嚢一杯のコメでも1週間分にしかならない。

 折畳舟からは、汀から200mのところで全員降り、舟をかついで上陸する。徒歩運搬。
 内火艇で直接ビーチングできない理由は、途中に珊瑚礁があるため。それにスクリューがひっかかる。
 一木支隊の歩兵科の小銃は九九式になっていた(p.211)。

 駆逐艦は、すぐまた動くことを予期するときは「短く投錨」といって錨鎖を通常より短くしておく。

 落ちている腐った椰子の中味を食べても死ぬことはない(p.222)。
 落ちた椰子が芽を出すとき、内部がふやけて黄色い果肉状になる。「椰子リンゴ」という状態で、飢えているときは美味。

 原住民の甘蔗畑あり。8月が収穫期のようだった。
 米側は護衛空母でF4FとSBDを運搬してきた。飛行場周囲には90ミリ高射砲。

 8.5ノットの低速輸送船が作戦全般のネックだった。これでは日露戦争時代のスピードであった。

 草鹿龍之介は「……狷介な性格を匿し持っており、南雲中将ほどには山本聯合艦隊長官の作戦能力に心服していなかったし、宇垣纏聯合艦隊参謀長に対してはあからさまに反発を感じていた」。筆者は生前に草鹿に直接インタビューをしている(p.243)。

 川口は高知出身。自分の失点を予防回避して名誉を求める露骨な性格ゆえ、兵隊からは嫌われていた。兵隊を酷使することをなんとも思っていなかった(p.259)。

 旅団長の川口少将はエリートだが、需品が専門。その下の岡連隊長はたたきあげで陸士は2期先輩。兵隊はとうぜん連隊長の味方である。

 陸大出の連隊長は、連隊にはこしかけだから、兵の教育などには不熱心。かならずベテランの中佐が補佐につき、実質、その中佐が連隊長なのである。

 川口支隊とは実質、岡連隊。それを少将が指揮していた。3個大隊。それぞれ4個歩兵中隊と、1個大隊砲中隊と、1個機関銃中隊。

 軽機と擲弾筒は各歩兵中隊内にある。
 中隊は4個小隊からなる。
 小隊は4~5個分隊からなる。

 ※大発と駆逐艦の中間のサイズの快速の揚陸舟艇が必要だ。
 ※上陸するまでは、小銃や軽機に「浮き」を付けて、海に落としても沈まぬようにしたい。

 南太平洋では、夜が短い。だから夜襲が難しくなる。夜明けまでに、敵陣前まで匍匐でにじり寄れないわけ。まだ数百mもあるのに、夜が明けてしまう。そこでもはや身動きもできなくなる。

 川口が攻撃するときになっても、米軍がマイクを仕掛けていることに日本軍は気づかなかった(p.328)。

 38式野砲のタマも2門で100発しか揚陸させられなかった。そもそも駆逐艦には多量に積めないため。

▼『ガダルカナル戦記 第二巻』S55-3

 川口の手記は『実録太平洋戦争・第二巻』に所収されている。それによると彼の企図は、12日正午までに部隊は攻撃準備の位置に展開し、夕刻まではひそかに前面の敵情や地形を偵察する。そして夜8時に野砲×8門が射撃開始。野砲を護衛していた1個歩兵中隊が牽制陽動攻撃。
 この砲声を合図に各部隊が総攻撃。※おそらく静粛夜襲。
 夜明けまでに北の海岸まで到達する。

 ※海側から歩兵または火力で攻撃ができるような特殊装備・特殊戦法の準備が必要だった。ヘンダーソン飛行場の背後は海なのだから。側背に回り込むには「汀線機動」が絶対に必要であった。

 午後6時には漆黒。内地では想像できない暗さになる(p.12)。
 飲料水は、樹木に捲きついている太い蔓を切って水筒をあてがっておくと、一晩で一杯になる。

 38式野砲は、海軍のカッター2隻に板を渡して門橋をこしらえて2門だけ揚陸できた。海軍が明るくなる前に制空圏外に去りたがったので、4門渡している時間がなく、2門は積んだまま引き返した。

 ※ナルコサブ型の、おちついて作業ができて、捨てても惜しくない、片道輸送用の半没艇が必要だ。

 この砲は壊して遺棄して退却した。

 ガサガサと音を立てると砲弾が集中したので、マイクが隠してあるとわかった。
 野砲弾1発射つと100発くらいお返しがくるので、友軍が、射ってくれるなと頼んできた。

 野砲はロープで人力牽引するつもりだったが、とてもそれどころのジャングルではなかった。分解して人が担いで運ぶ以外、無理な土地だった。

 朽木が燐光を放っていたので、それを味方の目印に、背中に貼り付けた。
 炊煙は夜明けの薄明のときなら見つからない。夜は火でみつかる。

 原生ジャングルに初めて分け入る行軍では、体力があっても、2時間で1kmしか進めない。

 米軍捕虜いわく、飛行機偵察では日本軍の密林内の所在はわからなかったと。

 重火器部隊(重機関銃、大隊砲、迫撃砲)は攻撃時間に間に合わなかった。歩兵のようには進めないので。
 巨樹のあいだには、孟宗竹が密生。

 主計少尉の証言。「天皇陛下万歳」といって死んだ兵隊はじっさいにあった(p.32)。

 墓を掘りたくても木の根が密で掘れない。

 米軍は十榴で1600ヤードの至近距離射撃をやったと記録している。川口支隊に対して(p.45)。

 午前3時から明るくなる。ガ島では。

 武器すべてを捨てても銃剣と飯盒だけは誰も捨てない。銃剣の鞘は重いので捨てる。

 ガダルカナルくらい陸海の協力がうまくいった作戦はない(p.86)。

 S17-9時点でト号といったら、東部ニューギニア要地攻略作戦のこと。

 仙台では、もし辻が生きていたなら殺しただろう(p.97)。※この本の偉業は辻正信のキャラに迫ったこと。
 東北人は、いわれた命令は馬鹿みたいにそのまま奉ずる。その習性を買われて、むずかしい戦場に駆り出される。ガ島を生き残った4連隊は、インパールに送られてほぼ全滅した。

 米軍もシナ軍も1人で何発も手榴弾を投げてくる。集中投擲もする。日本軍にはそれができない。各人にたったの2個しか持たせないので。

 10月25日が満月だったので、総攻撃は15日までにやってくれと海軍から頼んできた。明るいと海軍が逃げ隠れできないので。

 迫撃第三大隊がいた。一中隊欠。
 独立臼砲第一連隊の一部もいた。例の外装砲。
 自動自転車隊もいた。※オートバイ?

 歩兵1個中隊は120人くらいだが、マラリアのためガ島には100人弱で渡った。さいごに転進できたのは10人足らず。

 丸山道をきりひらくとき、下の幹を切るので、樹冠が枯れる。それでバレる。

 最前線はむしろ、艦砲射撃や空爆を食わない。敵味方が錯綜しているから。

 死者は1週間で白骨になった。腐肉をスコールが押し流す。

 飢餓で頭のおかしくなった将校は軍刀を抜いて敵陣の方へ歩いて行く。自殺である。

 山砲=連隊砲は、1個分隊で1門。1小隊は3門か2門。

 海岸付近は珊瑚質で固くて壕が掘れない。

 米軍は威力偵察が得意。この偵察隊を全力で叩き伏せなければ、すぐ総軍が押し出してくる。

 ラバウルはとにかく埃っぽい。
 スマトラの道路はほとんどアスファルトで舗装されていた。

 蟻輸送では、途中まで駆逐艦が大発を曳航する。その先は潜水艦がエスコートする。
 大発には羅針儀がなく、整備員が各島にいなかったのが、成績を悪くした。

 鼠輸送する駆逐艦の立場からは、いちばん危ないのが島に近づく夕刻。ところが零戦のエアカバーは夕刻前で終わってしまう。別基地からの水戦と観測機で護衛してもらうしかなかった。

 ※弾薬と糧食を海岸にすばやく引き上げるメカニズムが必要。

 巡洋艦は木甲板ではなくリノリウムのため、とにかく血で滑った。

 工兵連隊長だった人の戦後談。70歳までは人間もなんとかまあまあだが、80を越すと記憶がさっぱり駄目になる。

 原生林ジャングルの特徴は巨木の倒木が多いこと。そこに道を通すのは機械力なしでは不可能なのである。
 いつ倒れてもおかしくない立ち木もあり、夜もおちおち寝ていられない。

 海軍では「信管調定秒時」という。
 スクリューの回転数を一定速度値にピタリあわせることは「整定」という。これは一航過で正確な対地射撃をするために必要。
 合戦前、艦内の可燃物に水をかけておく。

 米艦からの対地艦砲射撃は頭上炸裂であった(p.209)。
 丸山道は対空遮蔽のために樹木の伐採をしなかった。

 きまったように午後3時にスコールがあった。

 擲弾筒のタマは平常であれば8~12発、腹のところに巻いていくのだが、そんなものは捨ててしまった。

 砲兵は「段列」という。歩兵では「行李」という。師団単位では「輜重」という。

 「野重四」では、牽引車はいすゞの6トンを16台、揚陸していた。自動貨車は少数。火砲は、トータル12門。

 96式十五榴の射点を隠すために「円窓[えんそう]」を切り払った。タマが飛んでいく道のところだけトンネル状に樹木を伐採する。

 第二師団の攻撃。「突撃にさいしては背嚢をおろし、地下足袋をはき、白兵使用に便ならしむること」、と細部の指示があった。

 夜襲は準備が命。弓張嶺のときは1週間準備して1兵卒も地形と敵情を納得していた。

 37粍速射砲は、ソ連戦車のキャタピラを狙えと教育されていた(p.251)。400mなら当てる自信はあった。

 椰子の実は落下して3ヶ月は果汁が入っている。半年くらいすると「椰子リンゴ」状態になる。果汁がゲル化するのである。殻は小銃の台尻で割れる。

 2Dの総攻撃前には、米軍のマイクロフォンの仕掛けのことは皆が承知していた。

 電信隊が樹木にかけわたした黄色い電線は道しるべになった。

 夜中の雨は南方でも寒くてかなわない。

 10月24日夜が総攻撃だが、21日頃、92式十加の大半は自壊していた。
 スペック的に最大2万mなのだが、無理して28000mで撃った。飛行場を。

 独立戦車第一中隊は95式×10両。マタニカウ河口で全滅した。月明あり。

 歩兵は防毒面は最後まで携行した。
 歩兵中隊は軽機も残置した。軽機手は短剣突撃となった。擲弾筒手は、着剣小銃突撃。

 ※誰が考えても大円匙を持たせた方がゴボウ剣よりはマシ。それすら発想できないのはWWIの観戦武官たちがいかに無能な報告者たちだったかということ。

 前回の川口支隊の攻撃のとき、歩4の第2大隊だけは、飛行場に突入できた。その成功因は、目前の敵火点をひとつひとつ覆滅して行った点にあった。この戦訓がまったく共有されていなかった。
 敵火力組織の一角を崩さなくては堅陣を攻略できるものではない。

 米軍の堅陣は、地形に関係なくぐるりと結界の輪を描き、その輪には100mに1箇所、機関銃を据えていく。難地形のところも油断はせず、機関銃配備を怠らない。ガ島では海岸線にもしっかり配置していた。
 野砲/高射砲は飛行場の中央にあり、360度、支援射撃できるようにしていた。

 陣地縁の外側1000mのところには点々と監視哨を置く。その外にはマイクロフォン。
 視発管制地雷もあった。鉄条網の外側に。

 防御機関銃は、一定の間隔で、一斉に鳴り止む。聴音するために。昼は、各個に硝煙が晴れるまで一時的に射撃を中止して前方を見張る。

 夜が明け始めるとき、一瞬、ふたたび暗くなる時がある。暁闇というやつだ。

 誰も、円匙を持たされていなかった。

 この攻撃の夜まで、米軍の鉄条網は、破壊するにはおよばず、乗り越えて行けるものだとは、日本軍の誰も知らなかった。まさに盲点。

 東海林支隊は円匙を剥奪されず、蛸壺を掘ることができた。これで助かった者も。
 東海林の連隊は、第36師団隷下。だから2師団からは冷遇されていた。
 東海林は陸大を出てなかった。

 左翼隊の29連隊が先に丸山道を進んで単独攻撃となった。

 島の中の連絡は有線電話か徒歩伝令のみ。無線がないから友軍部隊の動静がさっぱりわからない。

 ジャングル内ではそもそも、「横隊」に散開できない。内地演習戦術がさいしょから通用しない。併行縦隊しかできない。
 戦前の陸軍には「師団信仰」があった。歩兵師団はパーフェクトで、それを複数動かせばもっとパーフェクトに勝てるという信念のようなものが。ジャングルではそれも通用しない。

 中隊は戦闘単位。大隊は戦術単位。聯隊は独立部隊として一地域の戦闘を遂行できる。師団は一戦略単位。

 歩29連隊は会津若松。16連隊は新発田。230連隊は静岡。

 飛行場の上はひっきりなしの照明弾で、ナイター野球場のように、暗くなる瞬間がなかった。

 コメにこだわっているかぎり、1人で携行できる量は、せいぜい1週間分ていどになってしまう。もちろん、完全武装が前提。

 南方の子供の布袋腹は、肝臓や脾臓がマラリアの巣窟になっている症状。飢餓ではない。

 海軍ではひのでを「にっしゅつ」という。

▼亀井宏『ガダルカナル戦記 第三巻』S55-3初版 光人社  著者はS9うまれ。

 叺(かます)1袋にはコメ4斗が入る。それを1梱と称する。
 ガダルカナルではさすがに人肉食は無かった(p.36)。
 沢蟹は、飯盒の蓋の上で炒ってから食べる。

 通常スコールは30分であがるが、1時間続くこともあり、稀には日没まで続く。

 キングストンバルブの位置を知っている者は、運用科員などごく限られている。

 第三次ソロモン海戦。『朝雲』は、米戦艦×2に対し、反航で魚雷×2を発射し、2分後に、2本とも命中するのを認めた(p.106)。
 ※酸素魚雷が敵戦艦に当たった最初の例?

 『愛宕』は敵の先頭戦艦に対し、調定深度7mで魚雷×8を発射し、7分後、それが後方の敵に命中するのを認めた(p.107)。

 しかし米側の記録では『ワシントン』も『サウスダコタ』も1発も被雷していない。
 ※けっきょく酸素魚雷の対戦艦威力が証明されることは4年間で一度もなかったのである。

 『親潮』が放った魚雷が『ワシントン』のウェークに反応して自爆したことは分っている(p.109)。

 傷病兵1人を人力で担送するには4~8名が必要である。

 陸相兼任の東條首相は、服部卓四郎・参本第二課長の方を向いて「統帥部には重大な責任がありますぞ。三万人を餓死させたらお前とは生きてお目にかからない。お互い地獄でお目にかかろう」と、鋭い語調で言った。

 佐藤賢了の証言。第17軍をガ島から撤退させろと陸軍省から言うのは統帥権の干犯になるから、船の徴発を制限してしまって撤退に追い込めばいいと東條に具申した。

 サトケンいわく、ガダルカナルで力闘したから、米軍も怯んで、ラバウルにやってこなかった。もしガ島をやすやすと進呈していたなら、敵はすぐにラバウルに入ってきて、もっとたいへんなことになったはずだ。

 井本熊雄(参本作戦課=2課)のおどろき。第三次ソロモン海戦で輸送船団の半分以上、7万トンを沈められたという報告。そんなにわが海軍の制海力は希薄だったのかという。

 兵隊も体力消耗が重なると頭髪が抜け始める(p.164)。
 マッチが貴重品だった。

 ガ島の米軍は慎重で、決して弾と人が同時に飛び出してくることはない。見えないところからタマだけが飛んできた。

 ガ島の蝿は巨大だった。たかられると、チクチクと痛い。しかし衰弱した兵はそれを追い払えない。そうなったら翌日には死んでいた。
 「俺は駄目だ」と言った兵隊は例外なく死んだ。

 経理部では、現役の下士官ですら中学卒であった。陸軍の中でいちばん軍隊らしくない所帯だった。
 エレフントグラスという雑草があり、一見、燕麦に見える。
 負傷者以外の病人は、「平病患者」と称した。

 ドラム罐輸送。まずドラム缶内部を苛性ソーダで殺菌。米、麦、医薬品を半分詰める。残り半分は浮力空間。
 各罐をロープでつなぎ、それを駆逐艦の甲板に並べる。
 ロープの端末は、ダビッドに吊るされた小発に繋いでおく。

 ガ島泊地に進入したらまずドラム缶を海中に投げ入れ、ロープの端を握った船舶工兵が小発とともに海面へ降ろされる。
 陸上では懐中電灯を点滅させて場所を示す。
 そのあかりを目印に、小発が岸へ向かう。
 波打ち際で糧秣受領担当者が待ち構えてロープの端を受け取り、数珠繋ぎのドラム缶を引っ張り上げる。

 ドラム缶は200個~240個をつなげた。
 ロープが物資不足なので、困った。

 駆逐艦が夜戦で発砲するときは、予告のブザーが「・・・―」と鳴らされる。その瞬間目をつぶることで、閃光による盲目状態を回避する。

 ガ島戦の後半で「運荷筒」が実用化された。潜水艦で紡錘形のコンテナを曳航してくる。長さ20m、内径1mで大人がかがめば入れるくらい(p.212)。
 ※運貨筒と書くのが正しい?

 30歳だった瀬島龍三少佐が、撤退作戦をプランニングした(p.221)。
 11月下旬、とつぜん服部作戦課長の部屋に呼ばれ、明日から南東方面の作戦主任を命ず、と言われた。

 参本と陸軍省は、同じ建物の中。
 飛行艇に乗るときには、いったんゴムボートに乗る(p.230)。

 潜水艦が一晩では、ラバウルからガ島まで行けなかった。だから制空権が大事。

 ※ガ島戦の戦訓。島嶼間の兵員輸送は、速さがすべて。一晩で用を済ませられない低速運送手段は、途中で邀撃漸減されてしまうため、大消耗戦となり、持続できない。

 瀬島と杉田一次は同期。

 「舟艇降下」の号令で、折畳舟を組み立て、あるいは大発をロープで降ろす。
 「陸兵移乗」の号令で、舷側に垂れている縄梯子をつたいおりる。
 人が乗ったあとから、海軍の水兵が雑嚢をおろしてくれる。兵1人に1個。
 それがいきわたると駆逐艦は後進。ボートは櫂で進む。

 M1ガランドの弾倉替えの音は、確かに敵方に聴こえていたという証言(p.245)。ルンガ渡河点から500mの場所。敵は対岸の木立の中に隠れていてそこから撃ってくる。こっちの姿は丸見えだ。「……ガチャガチャっていう撃鉄の音がきこえてくるんです。それくらい接近してました。それで、そのガチャッという音が聞こえた瞬間をねらって、パッと立って赤松と二人で逃げたわけですけれどね」。
 ※BARのコッキングかもしれないが……。

 栄養失調になると自分の心臓の音が聞こえる。
 しかし、熊笹のようなものを食ったら、元気が回復した。

 米軍は終盤には155ミリ榴弾砲を49門も揃えていた。
 日本軍の組織的戦闘はS18-1-10前後におわっていた。

 火炎放射器は、埋まっている不発の迫撃砲弾を爆発させる(p.272)。

 背負い袋に、飯盒と、抜き身の帯剣をぶらさげる。これが末期の日本兵の姿。

 米軍の弾薬補給にも波があり、前線に蓄積されるまで砲撃が小止みになることあり。

 2個中隊が「後衛尖兵中隊」となって、連隊主力の後退を援護した(p.299)。

 米軍は日本軍の92式重機関銃の射点がわからず、且つ、隙もなかったので、中戦車を派遣してもらった。米第25師団の指揮下には戦車隊はなかったので。
 1月22日に最初の戦車がやってきた。
 歩兵部隊が1ヶ月超えられなかった線を、たった1両の戦車で突破した。

 ※海岸だけ全部おさえて、あとは放置プレイというのが、米軍としては上策だっただろう。魚釣島奪回作戦もそういうパターンになるかもしれない。

 一木大佐は日蓮宗徒だった(p.324)。

 2月1日、エスペランス岬に撤収作戦のためにやってきた駆逐隊。警戒任務にあたった『巻雲』は機雷に触れて航行できなくなり、『夕雲』が曳航したが、浸水がはげしいので、カミンボ沖で魚雷1本で処分した。

 昇汞錠(塩素と水銀の化合物で消毒防腐剤)×2錠が、自決薬として、配られた。これはそもそも内服薬ではない。2錠が致死量だった(p.364)。
 ただし食道に堪えがたい灼熱感を与えるなど、苦悶がひどい。まったく自決薬としては不適なもの。
 撤退まぎわの駆逐艦に積まれてきたと考えられる。

 大発は人員80名を載せられた。小発には長途海上機動は無理だった。

 あとがき。この記録を月刊『丸』に連載しているときに離婚した。捕虜の処置をどうしたかは触れずじまい。最初の飛行場設営に投じられた朝鮮人のことも。