メキシコからアリゾナに密入国しようとしたイラン人男女が一網打尽。

 MATTHEW LEE 記者による2021-2-7記事「George P. Shultz, longtime secretary of state, Marine veteran of WWII, dies at 100」。
   元国務長官のジョージ・シュルツが100歳で長逝。
 スタンフォード大の敷地内に自宅があり、そこで身罷った。シュルツはフーヴァー研究所のフェローであり、また、大学院ビジネス科の名誉教授だった。

 ニクソン政権では労働長官、財務長官、予算管理局長。ついでレーガン政権では6年間、国務長官を張った。
 フーヴァー・研究所にはコンドリーザ・ライスも所属する。

 シュルツは引退後は気候変動に関心が深かった。対処が遅れれば自殺的である、と。

 彼いわく。部屋の中に信頼関係があれば、よい事が起きる。学校でも、スポーツチームのロッカールームでも、官公署でも同じだ。その内部に信頼関係がなければ、よいことは起きない。

 1983年のベイルート海兵隊ホテル爆破倒壊事件のあと、シュルツは数え切れない中東行脚を重ねて、米軍の撤退とイスラエルの安全を確保した。

 危機に際して米国民の運命をたった一人に托さなければならなくなったとしたら、私はシュルツを選ぶ、とキッシンジャーは書いた。分析力があり、いつも落ち着いていて、セルフィッシュではないからだ。

 シュルツは1920年12月にNYCに生れた。プリンストン大で経済、公共政策、国際問題を学ぶ。
 プリンストン大のマスコットの虎。その図柄を、シュルツは尻に刺青していた。

 1942に大学を卒業すると、海兵隊に入隊し、砲兵を指揮する大尉になった。

 太平洋に出征している間に、陸軍の看護婦であったヘレナ・オブライエンと知り合い、結婚。5人の子どもあり。この妻は1995に死去。シュルツは1997に再婚している。※76歳でか。

 1949にMITで経済学博士号を取る。
 MITで教え始め、シカゴ大学のビジネス課程大学院では学長に就任した。

 行政への関わりは、アイク政権の経済委員会アドバイザーになったのが最初である。

 1975年から82年にかけて、土建会社の社長にもおさまっている。ときおりスタンフォード大で講義しながら、だ。
 1982年、レーガン政権はヘイグ国務長官を追い出し、その後釜としてシュルツを迎え入れた。元陸軍大将のヘイグは他の閣僚たちとうまくやって行く能力が足りなかったのである。

 1985年にレーガン大統領は、政府職員数千人を嘘発見器テストにかけよう、と言い始めた。誰かが情報を漏らしているというので。シュルツは、俺の部下を信用しないのなら俺は今日にも辞める、と怒り、この大統領命令を撤回させた。

 イランへ武器を密輸出し、ヒズボラが捕らえているアメリカ人を解放させるとともに、その代金をニカラガの右派ゲリラ「コントラ」に与えるという秘密作戦は、レーガンのお気に入りだったが、シュルツは反対だった。この作戦が世間にバレると、スキャンダルはレーガン行政の汚点になった。

 ※ノース中佐はいま何をやっているのかね?

 シュルツはキューバに対する長期のエンバーゴも正気じゃないと発言してボスのレーガンとの見解の違いを表明している

 レーガン政権が終焉すると、シュルツはまた土建会社に戻った。
 国務長官をこれだけ長く勤められた人は、FDR政権当時のコーデル・ハル以来だと言われた。
 2006年、スタンフォード大&フーヴァー研究所に。