チノは何しにメキシコへ

 David Agren 記者による2021-5-16記事「Mexico faces up to uneasy anniversary of Chinese massacre」。

  1911-5にメキシコで革命騒ぎ。革命軍は騎馬集団だった。まず13日にトリオン市郊外でシナ人の農業従事者が殺された。

 トリオン市は米国国境から500マイルにある鉄道の町で、交易で栄えていた。
 虐殺前、移民の支那人たちが、そこで1軒の銀行を運営し、路面電車を隣町までつなぎ、洗濯屋のほぼすべてを支配していた。郊外では現地民を雇って農場を経営していた。メキシコ人たちより羽振りがよかったようである。

 市を守っていた政府軍は数で劣ったため、闇にまぎれて逃散した。
 続いて叛徒が市内乱入。地元民もシナ人を殺せと叫んで暴動に加わった。

 それから10時間、シナ人大虐殺が続いた。シナ人は辮髪だったのですぐに見分けがついた。暴徒は乗馬でシナ人が死ぬまで踏みつけた。

 ※源頼朝の死の詳細は『吾妻鏡』から削除されているのだが、おそらく単なる落馬ではなくて、馬に蹴られたか踏まれたかして内臓が破裂してしまったのだと、BSの大井競馬場騎手のドキュメントを視ていて察した。こうした貴人の死に方は近代以前にはおそらく珍しくはなかった――たとえばフン族と抗争したローマ皇帝テオドシウス2世も落馬で死んだ――のだろう。が、それを克明に記すと、いかにも聞こえがよくないので、歴史的にどの国でも伏せたのだろうとわたしは想像する。

 トリオン虐殺では303名のシナ人が殺された。これはシナ人住民の半分くらいだという。
 このときのシナ人殺戮には、兵士、住民、そして女たちまでもが加わった。

 死体を荷車に積み上げる前に、人々は、殺したシナ人の死体といっしょに記念撮影した。
 死体は集合墓地に埋められた。

 反支感情は19世紀から20世紀前半にかけて北米を風靡した。

 トリオン事件は清国で人々を怒らせた。メキシコ政府は310万ペソの賠償金を金貨で支払うことに同意したが、この支払いはなされなかった。

 1911トレオン事件の虐殺の下手人はひとりも訴追されていない。

 町には記念碑のたぐいも一切なし。歴史から消しているのだ。
 かつて記念銘鈑が置かれたのだが、誰かがすぐに持ち去った。記念像が2007に公園に建てられたが、誰かが破壊し、やがて撤去されてしまった。これはまた再建されるという話である。

 この虐殺について本を書いた著者も、トリオン市でその出版のプロモーションをすることは不可能であった。
 虐殺を生き残った支那人たちは、町を逃げ出した。現在、同市のシナ系住民は1000人くらいである。